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陶芸や編み物が「効く」のは、脳ではなく両手がふさがるからかもしれない
陶芸や編み物のような「アナログな趣味」が画面疲れを癒すという話を、デジタルデトックス研究や注意残余の実証データに照らして検証する。答えは「半分正しく、半分は違う理由による」だった。
一日の大半を画面の前で過ごしたあと、紙を折ったり土をいじったりするだけで、妙にほっとすることがある。この体感自体は疑っていない。疑わしいのは、それをどう説明するかのほうだ。「デジタル疲れをアナログな体験が癒す」という筋書きは、あまりに手早く受け入れられすぎてはいないか。効いている理由を確かめずに、効いているらしい現象に名前だけ与えて済ませていないか。
この種の説明には、決まった型がある。まず画面を見続けることの害を挙げ、次に脳の部位や神経回路の名前を持ち出し、最後に「だから手を動かす趣味がいい」と結ぶ。型自体は説得力があるように見えるが、型の説得力と、中身の実証性はまったく別の軸である。以下では、この型をいったん分解し、各段の主張がどこまで裏付けられているかを、個別に確かめていく。
「デジタル疲れ」は本当に起きているのか
そもそも、画面を見続けることが明確な形で人を消耗させ、それをデトックスすれば回復する、という因果は、思われているほど確立していない。ドイツの心理学者らのグループが2022年に発表した系統的レビューでは、デジタルデトックスに関する介入研究21件、参加者総数3625人分(うちランダム化比較試験12件)を精査している。その結果、デトックス直後は総スクリーンタイムが減り、先延ばし傾向が弱まるという一貫した効果が見られた一方、幸福感や社会的関係、自己統制、作業パフォーマンスへの効果は研究によってばらばらだった。ポジティブな効果を報告する研究もあれば、効果なし、あるいは幸福感がむしろ下がったとする研究まである。レビューの著者らが指摘しているのは、そもそも一つの結果指標につき検証している研究の本数自体が少なく、まだ「傾向」と呼べる段階に達していない領域が大半だという点だ。話題として広く流通している割に、土台になる研究の蓄積は薄い。
つまり「画面を断つと調子が戻る」という説明は、半分は本当で、半分は研究者自身がまだ答えを持っていない。この不確かさを抱えたまま、「アナログな趣味が画面疲れを癒す」という話に脳科学用語を接ぎ木すると、実際にはまだ検証途中の主張が、確定した事実のように見えてしまう。デフォルト・モード・ネットワークだの島皮質だのという言葉は、それ自体は実在する脳の機能単位ではあるが、「土に触れると気分が落ち着く」という素朴な体感に、それ以上の証明力を貸してくれるわけではない。もっともらしい語彙が、検証の手間を肩代わりしてくれるわけではないのだ。
両手がふさがっていること自体に意味がある
では、脳科学の飛躍を差し引いたとき、何が残るのか。ひとつ有力な説明は、驚くほど単純である。手を動かす趣味の間は、物理的にスマホを操作できない、というだけの理由だ。
この「ただの制約」を軽く見てはいけない理由が、組織行動論の研究にある。経営学者のソフィー・ルロワは2009年の論文で、人があるタスクから別のタスクへ移るとき、注意の一部が前のタスクに残留し続ける現象を報告し、これを「注意残余」と呼んだ。前のタスクが未完了だったり、時間に追われていたり、感情的に関わりの強いものだったりするほど、この残留は強く、次のタスクに使える認知資源が目減りする。ルロワの一連の実験は、課題を完了させてから次に移った場合と、区切りのつかないまま次に移った場合とを比べる形で組まれており、後者のほうが次の作業への集中の質が落ちるという結果を繰り返し示している。スマホを机の上に置いたまま何か別の作業をしても、通知の可能性そのものが「いつでも中断されうる区切りのつかない予定」として注意の一部を握ったままになる、という理屈はこの研究と整合する。
もう一つ、カリフォルニア大学アーバイン校のグロリア・マークが情報工学の分野で続けてきた調査も参考になる。2004年に彼女が計測を始めたとき、人が一つの画面を見続ける時間は平均2分半だった。それが継続的な追跡調査の中で短くなり続け、近年は平均47秒(中央値40秒)にまで落ちている。さらに、一度注意をそらされた作業に集中し直すまでには、平均で約25分かかるという報告もある。つまり画面の前にいる時間そのものが、細切れの注意の切り替えでできている。手を動かす趣味の価値は、指先の感触が特別だからというより、「次の47秒でどこかに切り替える」という選択肢を、物理的に封じてしまえる点にあるのかもしれない。編み針を持つ手も、ろくろを回す手も、スマホには使えない。
この見立てが正しければ、効いているのはあくまで「選択肢を物理的に封じること」であって、趣味の種類そのものではないことになる。極端な話、スマホを別の部屋に置いてから読書をしても、似た効果は得られるはずだ。実際、手を動かす趣味が特に選ばれやすいのは、両手がふさがるという制約が、意志の力に頼らずに自然と生まれるからだろう。「見ない」と決意する必要がなく、そもそも手が離せないから見ようがない。意志力に頼る対策は長続きしにくいとされることが多いが、環境や道具の側で選択肢そのものを削ってしまう対策は、その弱点を最初から回避できる。手を動かす趣味の効能を語るなら、まずこの「意志力を使わずに済む」という地味な仕組みのほうを主役に据えるべきかもしれない。
「アナログ」という括り自体が、便宜的な発明かもしれない
ここまで陶芸、編み物、折り紙、フィルムカメラ、キャンプをひとまとめに「アナログな趣味」と呼んできたが、この括り方自体を一度疑ってみたい。ここまで引いてきた研究は、どれも「アナログ趣味」という総称を研究対象にしているわけではない。ルロワの注意残余研究は特定の作業への切り替えを扱い、カルステンの実験は単調な線引き作業を扱い、編み物とかぎ針編みの調査はそれぞれの手芸を個別に扱っている。「アナログ」という一語で束ねているのは、あくまで記事を書く側の都合であって、研究者たちが共通の原因として設定した括りではない。
実際、これらの活動が共有しているものは一様ではない。陶芸とキャンプに共通するのは「結果が思い通りにならない」という不確実性への耐性であって、画面を見ないことそのものではない。編み物と折り紙に共通するのは反復動作の単調さであって、屋外にいるかどうかとは関係がない。フィルムカメラに至っては、現像をデジタルスキャンに出す人も多く、体験の後半は普通にディスプレイの前で完結する。「画面を使わない度合い」で並べれば、これらの活動は実はかなりばらついている。にもかかわらず一括して語られるのは、「アナログ」という言葉が、検証すべき共通変数の名前としてではなく、心地よい対比の記号として機能しているからだろう。デジタルの対義語という立ち位置さえ確保できれば、活動の中身がどれだけ違っていても、同じ効能の下に並べられてしまう。
この括り方の便利さは、書く側にとっても読む側にとっても、否定しづらい魅力を持っている。書く側は、個々の活動ごとに別々の理屈を立てる手間を省ける。読む側は、自分の趣味がどれであっても「アナログだから効く」という一枚岩の説明に自分を当てはめられる。だが便利さと正確さは別の軸にある。ここから先の議論では、「アナログ」という括りをいったん脇に置き、個々の研究がそれぞれ何を対象にし、何を明らかにしたかを、もう少し丁寧に見ていく。
単調さは、それ自体では休息を保証しない
ここで話を単純な安心に着地させたくなるが、もう一段、疑いをかけておく必要がある。「単調な手作業に没頭すると心が休まる」という説明も、無条件には成り立たない。
クルト・レヴィンのもとで学んだアニトラ・カルステンは、1928年の実験で、被験者に紙へ単調に線を引き続けさせるという課題を課した。作業を続けさせると、やがて元の単純な動作が崩れて別の動きに変わり出し(ゲシュタルトの崩壊)、最終的には被験者自身が「もう続けられない」と作業を拒むようになる。カルステンはこれを「心的飽和」と呼んだ。この実験で興味深いのは、飽和が訪れるまでの時間や、崩壊の現れ方が人によってまちまちだった点である。同じ単調作業でも、ある人は淡々と長く続けられ、別の人は早々に動作が乱れ始める。「単調な手作業は誰にでも同じように効く」という前提そのものが、この実験一つを見ただけでも怪しい。単調さは最初のうちこそ心を落ち着けるが、続けすぎると意味を失い、かえって苛立ちや倦怠を呼び込む、という逆向きの効果がここにはある。編み物や折り紙が「休息になる」時間には、実は暗黙の適量があり、その量も人によって違い、それを超えた途端に同じ動作が苦痛の源に反転する。
単調な作業中に心が漂う、いわゆるマインドワンダリングについても、単純な善悪では語れない。心理学者のベンジャミン・ムーニーハムとジョナサン・スクーラーが2013年にまとめたレビューによれば、マインドワンダリングは読書や運転のような集中を要する場面では成績を落とす一方、退屈な単調作業の最中には創造的な問題解決や将来の計画立てを助ける機能も持つ、という両面が確認されている。つまり手を動かしながら頭の中で別のことを考えている状態は、「集中できていない失敗」ではなく、その作業がちょうどよく退屈だからこそ起きている、むしろ有用な副産物である可能性がある。手作業の効能を「無心になれること」に一本化してしまうと、この副産物の存在が見えなくなる。
かぎ針編みの調査が示すもの、示していないもの
個別の趣味に絞った調査もある。公衆衛生研究者のピッパ・バーンズとロズマリー・ヴァン・デア・メーアが2020年に発表した国際調査は、かぎ針編みをする人8391人から回答を集めた、この分野としては異例の規模を持つオンライン調査である。回答者の多くが、編むことで「より穏やかになった」「より幸せになった」「より役に立っていると感じた」と答え、グリーフケアや慢性疾患・慢性痛のセルフマネジメントの手段として日常的に使っている人が少なくないことも分かっている。とりわけ目を引くのは、不安や抑うつの傾向を自己申告していた回答者ほど、かぎ針編みによる気分の変化を強く感じ取っていたという結果で、症状の重さに応じて効能の実感の度合いが変わるらしいという点は、単なる気晴らし以上の含みを持つ。
数字だけを見れば申し分ない話だが、調査方法にはあらかじめ限界がある。回答者はかぎ針編みの専門団体やオンラインコミュニティを通じて募集された、もともとかぎ針編みを続けている人たちである。かぎ針編みが合わなかった人、道具を買ったきり手をつけなくなった人は、この種の調査にはまず現れない。「かぎ針編みをする人は編んだあと調子がいいと答える」ことは分かっても、「かぎ針編みという行為に一般的な休息効果がある」ことまでは、この設計では証明できない。加えて、この調査では気分の向上にオンラインのかぎ針編みコミュニティでの交流や、作品の共有が寄与しているという結果も出ている。だとすれば、効いているのは指先の動作そのものというより、その動作を介して人とつながる経路の存在かもしれず、「アナログであること」の手柄にすべて帰すのは早計だ。
この種の調査に共通する弱点は、もう一つある。すでに続けている人にしか話を聞いていない、という点だ。かぎ針を買ったものの数回でやめた人、陶芸教室に一度行って合わないと感じた人は、そもそも「かぎ針編みをする人」「陶芸をする人」を対象にした調査の枠の外にいる。続けられた理由を持つ人だけが回答し、続けられなかった理由を持つ人は声を残さない。結果として、こうした調査はどうしても「うまくいった場合の効能」を厚めに描き、「合わなかった場合に何が起きたか」を薄く描く構造になる。アナログな趣味の記事が軒並み前向きな体験談で埋まっているのは、効能が普遍的だからというより、合わなかった人の声が単純に集まりにくいからかもしれない。声が集まらないことは、存在しないことの証明にはならない。むしろ、続かなかった人の割合がどれくらいなのかを誰も測っていない、という事実のほうを直視すべきだろう。
もっともらしい由来が、由来のまま検証されずに広まる
ここで、脳科学的な説明への疑いをもう一段掘り下げておきたい。「単純作業に没頭すると気分が乗ってくる」という現象は、日本語の自己啓発的な文章では「作業興奮」と呼ばれ、しばしばドイツの精神科医エミール・クレペリンの発見だとされる。ところが、この記事を書くために出典をたどってみても、クレペリンの著作の中でこの現象を「作業興奮」に相当する形で定義した一次資料には行き当たらなかった。むしろ、内田勇三郎(内田クレペリン検査で知られる心理学者)の名がその由来として挙げられている記述もあり、誰がいつ何を根拠に言い始めたのか、はっきりしない。
この一件は、実は本稿の主題そのものの縮図になっている。「権威ある名前」と「もっともらしい現象名」がセットで示されると、それだけで検証済みの知見のように感じてしまう。デフォルト・モード・ネットワークが疲れるという話も、島皮質が活性化するという話も、作業興奮とクレペリンの話も、構造は同じだ。もっともらしさが検証の代わりを務めてしまっている。アナログな趣味について書かれる文章の多くが陥っている癖を批判するなら、その批判を書いている自分自身の文章も、同じ癖に陥っていないか、疑ってかかる必要がある。
厄介なのは、こうした由来不明の言い伝えが、間違っているとも言い切れない点だ。単純作業に取り組み始めると気分が乗ってくるという現象自体は、多くの人が経験的に頷ける話であり、カルステンの実験やムーニーハムとスクーラーのレビューとも、大枠では矛盾しない。問題は現象の存在ではなく、その現象に「クレペリンが発見した」という由来を貼り付けることで、確かめようのない実証性を後付けしてしまう手つきのほうにある。現象そのものへの信頼と、由来の説明への信頼は、切り分けて扱わなければならない。多くの文章はこの二つを一緒くたにして、由来がもっともらしければ現象も確かだと思わせてしまう。皮肉なのは、由来を疑わずに引用し続けるという行為自体が、まさに「単調な作業を無批判に繰り返す」振る舞いだという点だ。文章を書く手のほうも、案外、単調さに飲み込まれやすい。
始め方に手順を持ち込みすぎない
ここまでの検証を踏まえると、「最初の5分で何をすべきか」を細かく指示するような書き方には、あまり意味がないことになる。注意残余の研究が示すのは、前のタスクを引きずったまま新しい作業に入ると集中が薄まるということであって、正しい手順を踏めば効果が保証されるということではない。折り紙なら紙を一枚折ってみる、編み物なら毛糸玉を触ってみる、その程度で十分だ。手順を丁寧に示されるほど、かえって「正しくやらなければ」という新しい緊張が生まれ、両手がふさがることで得られていたはずの単純な効能を、自ら打ち消してしまう。
陶芸のように「思い通りにならない」種類の作業には、また別の理由が働いていると考えたほうが筋が通る。土はすぐには望んだ形にならず、乾燥や焼成の間に予期しない変化も起きる。この「コントロールできなさ」を受け入れる時間が、日常生活で常に求められる「思い通りにする」姿勢の裏返しになっている、という説明は、少なくとも注意残余や心的飽和の研究と矛盾しない。ただし、これもまた確立した実証というより、複数の知見のあいだに筋の通った橋を架けているだけの推測に留まる。橋が架かったからといって、それが実際に人の心の中で起きていることの証明にはならない。
キャンプもよく似た位置にある。天候も、火のつき方も、テントの中の温度も、思い通りにはならない要素の塊であり、それを受け入れて過ごす数日間が、都市生活の「思い通りにする」姿勢からの一時的な解放として機能する、という説明は十分にありうる。だがこれも、注意残余や心的飽和とは別の理屈であって、「アナログだから」ではなく「不確実性を受け入れる訓練になるから」効いているという話になる。もしそうなら、同じ不確実性の受け入れは、必ずしも自然の中や土をいじる作業でなくても、ボードゲームの目の出方に振り回される時間や、天候に左右されるスポーツでも代替できるはずだ。「アナログな趣味」という括りに、実はそこまでの独自性はないのかもしれない。「アナログでなければ得られない」という主張と、「たまたまアナログな活動に多く見られる」という主張のあいだには、埋めがたい距離がある。多くの文章は、この距離を確かめずに前者へ飛び移ってしまう。
効いているのは「デジタルを手放すこと」ではないかもしれない
アナログな趣味を「デジタルへの静かな抵抗」のように位置づけたくなる気持ちも分かる。だが、ここまでの材料を並べ直すと、その位置づけ自体が言い過ぎだと分かる。デジタルデトックス研究が示すのは効果の一貫性のなさであり、注意残余とスクリーンタイムの研究が示すのは「両手がふさがることの機能的な意味」であり、心的飽和とマインドワンダリングの研究が示すのは「単調さには適量があり、退屈の副産物にも使い道がある」ということであり、かぎ針編みの調査が示すのは「社会的なつながりが効果の一部を担っている可能性」である。これらを足し合わせても、「デジタルを手放すことそのもの」に固有の価値があるという結論には、まだ届かない。
むしろ浮かび上がるのは、手を動かしている間はスマホを見ないで済む、という程度の、地味で機能的な効能である。それ以上の意味――抵抗、癒し、脳の修復――を持たせようとするほど、検証されていない部分に頼る割合が増え、説明としての強度はかえって下がっていく。地味な理由のほうが、実は壊れにくい。
これは意外と重要な違いを生む。「デジタルへの抵抗」という大きな物語を背負わせると、趣味を続けること自体が一種の思想的な態度表明になってしまい、うまくいかない日や飽きてしまった時期が、単なる気分の波ではなく「抵抗に失敗した」ことのように感じられてしまう。反対に「両手がふさがっている間はスマホを見ずに済む」程度の小さな効能として扱えば、続かなかった時期があっても、それはただ両手が空いていた時間が減っただけの話で済む。効能を大きく語るほど、続けられなかったときの落胆も大きくなる。効能を小さく見積もっておくことは、趣味を長く続けるうえでの防御にもなる。派手な効能書きは始めるときの後押しにはなっても、続ける段になると重荷に変わることのほうが多い。
手を動かしながら、説明のほうも疑い続ける
陶芸教室に行ってみる、キャンプに出かけてみる、フィルムカメラで一枚撮ってみる。これらに共通するのは、始めるための儀式めいた準備をあまり必要としないことだ。思い立ったときに手近なものから始められることのほうが、大仰な効能書きよりも続けやすさに直結している。
そしてその時間の中で、もし「これは脳にいいらしい」という考えがふと浮かんだら、その考え自体を一度、ろくろを回す手の動きと同じくらいの慎重さで扱ってみるといい。都合のよい説明ほど、検証をすり抜けやすくできている。デジタルデトックスの効果が研究によってばらつくのも、注意残余が起きるのも、単調作業が飽和に転じるのも、編み物の調査が続けている人の声しか拾えないのも、クレペリンの由来が怪しいのも、根っこにある構図は一つだ。人は、体感として気持ちよく、語り口として整った説明に出会うと、それ以上その説明を疑わなくなる。土をこねる手や、針を動かす手は嘘をつかないが、その手の動きに乗せる言葉のほうは、放っておくといくらでも都合よく整えられてしまう。手を動かす時間を大切にするのと同じくらいの注意を、その時間について語る言葉にも向けておいたほうがいい。
出典
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