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七歳で消える記憶のために、なぜベビー服を残すのか
ベビー服が捨てられないのは子どもの思い出のためだと思っていた。だが子ども自身はその時期をほぼ記憶しない。移行しているのは誰で、証拠として残されているのは何の記録なのか——発達心理学と消費者研究の知見から、この矛盾を辿る。
引き出しの一段が、ロンパースとカバーオールで埋まっている。もう何年も袖を通していない。サイズアウトという言葉が使われるが、正確には少し違う。服が古びたのでも、好みが変わったのでもない。中身の体そのものが、その服にもう入らなくなっただけだ。ワイシャツやセーターが「着る理由を失う」のとは、起きている出来事の種類が違う。あちらは職業や気分が変われば、理屈のうえでは着る理由が戻ってくる余地がある。こちらにはその余地がない。同じ体が同じサイズに戻ることは、成長という現象の定義からして起こらない。不可逆という言葉を、これほど字義通りに使える衣類は他にあまりない。
だから、これを他の「もう着ない服」の作り替えと同列に語るのは、最初から少し無理がある。捨てるに忍びない気持ちの中身が、そもそも別の種類のものだからだ。忍びなさの正体を先に確かめておかないと、手を動かす作業の意味も見誤る。
何着分の「もう着ない」を、一年で通過するのか
成長の速さを、まず数字で確認しておきたい。乳児は生後一年でおよそ25センチ伸び、体重は出生時のおよそ三倍に達するとされる。衣料業界の目安では、この一年だけでサイズ表示にして三から六段階、着る服のサイズが変わっていく。大人が三十年かけて経験する体型の変化を、乳児はわずか十二か月で駆け抜けている計算になる。しかも本人にその自覚はない。伸びたと感じているのは、伸ばされる体の持ち主ではなく、その服を脱がせ、次のサイズを買い足す側の大人の方だけだ。
足先まで一体になったカバーオールや、股のあたりにだけスナップボタンが並ぶロンパースは、成長よりむしろ着脱の頻度と速さを想定して設計されている。一枚を数週間しか着ないという前提のもとで、縫製そのものは案外簡素にできている場合が多い。長く着られるようにという配慮より、短い期間を乗り切ることの方が優先されている構造だ。この構造自体が、すでに「いずれ着られなくなる」ことを織り込んで作られている、という事実にはあとで戻ってくることになる。
この非対称——変化しているのは子どもの体で、変化を記録しているのは親の記憶と手元の布だけ、という構造——が、この記事全体を貫く軸になる。ベビー服の作り替えを、子どもの記念のためだと素朴に語ることに、あとで一つ留保をつけることになるのは、この非対称のせいだ。
記念品という分類のなかで
着られなくなった子どもの持ち物を、親たちが実際にどう扱っているかを調べた研究がある。消費者行動研究者トリナ・シーゴが2010年に発表した調査は、母親への深層インタビューを通じて、子どもの衣類や道具の処分行動を四つに分類した。壊れて価値を失った「ゴミ」、他の家庭にも役立つ「物資」として譲渡や寄付に回されるもの、将来子や孫に譲る前提で保管される「意図的な家宝」、そして最後に、他人には価値の説明がつかないのに手放せない「記念品」である。記念品はしばしば子ども自身のアイデンティティの延長として扱われ、特定の記憶に紐づけられたまま、将来の譲渡先を決めないまま保管され続けるという。引き出しの中のロンパースは、この四分類でいえば疑いなく記念品の側に属する。誰かに譲る計画はなく、他人に見せても価値は伝わらず、それでも処分の対象にはならない。
この分類がよくできているのは、記念品と家宝を分けている点にある。家宝は次の世代に渡すという未来の計画を伴うのに対し、記念品にはその計画がない。つまり記念品を保管する行為は、誰かのためという体裁を最初から持っていない。持ち主本人のためだけに存在する保管、と言い換えてもいい。もう一つ見逃せないのは、シーゴが記念品の性質として挙げている「特定の記憶に紐づく」という一点だ。同じ量産品として売られていた一着でも、記念品になった瞬間、それは他の同型品とは交換できない一点物として扱われる。汚れたことも、繰り返し洗濯されたことも、価値を下げる要因にはならない。むしろ着られ、汚れ、洗われたという痕跡そのものが、記念品としての資格を裏づけている。ここに、後で触れる矛盾の芽がすでに埋め込まれている。
覚えていない本人のための保管、という組み立て
この記念品を語るとき、たいてい「子どもの成長の記録」という言葉が添えられる。だが、ここで一度立ち止まる必要がある。発達心理学者パトリシア・バウアーとマリーナ・ラルキーナが2014年に発表した研究は、三歳の時点で親子が一緒に体験した出来事について、その後五歳から九歳にかけて子ども本人がどれだけ思い出せるかを追跡した。結果、七歳を境に想起できる割合が急激に落ち込み、いわゆる「幼児期健忘」が実際にいつ、どのように起きるかを初めて実証的に示す結果になったという。三歳より前、つまりロンパースやカバーオールを着ていた時期の出来事にいたっては、本人が大人になってからそれを一つの経験として思い出せる見込みは、ほぼないと考えてよい。
だとすると、妙なことになる。取ってあるロンパースは、しばしば「大きくなったときに見せてあげたい」という言葉とともに保管される。しかし見せられた本人は、それを着ていた時期の記憶を最初から持っていない。差し出されるのは、本人にとっての追体験ではなく、他人から渡される他人の記録でしかない。子どものための記念だと思っていたものが、実は子ども自身の記憶とはほとんど接続していない。記念品という言葉が指しているのは、子どもの思い出ではなく、親の側にだけ存在する記憶の証拠だった、ということになる。これは責めるべき欺瞞ではない。ただ、最初に立てていた説明——子どものために残している——が、事実とは違う場所を指していたというだけの話だ。
子どもが持つ布と、親が持つ布
ここで、似て非なるもう一つの布の話を挟んでおきたい。小児科医で精神分析家のドナルド・ウィニコットが1953年の論文で提示した「移行対象」の概念は、乳幼児が肌身離さず持ち歩く毛布やぬいぐるみを、母親という他者から自立していく過程を支える橋渡しの道具として説明した。移行対象は、母子が分離しつつあるという不安な現実を、子ども自身が自分のペースで受け止め直すための、子ども側の装置である。
取ってあるロンパースを、この移行対象の親版として単純に重ねるのは早計だろう。だが構造だけを取り出せば、奇妙な対称性が見えてくる。子どもは自分の自立を受け止めるために布を必要とし、親は自分自身の役割の変化を受け止めるために別の布を必要としている。片方は成長という現実に追いつくための道具であり、もう片方は成長という現実に追いつけない自分をなだめるための道具だ。同じ「布を手放せない」という現象でありながら、向いている時間の方向が正反対になっている。子どもの移行対象は未来に向けた自立の練習であり、親が抱え込む記念品は過去に向けた確認の作業である。
移行しているのは、子どもではなく自分の方だった
では、この保管は誰の何のためだったのか。手がかりになるのが、医療人類学者ダナ・ラファエルが1973年の著書で提示した「マトレセンス」という概念である。ラファエルは、出産と育児を通じて女性が経験する身体的・心理的・社会的な変化の総体を、思春期に匹敵する一つの発達的な移行期として位置づけた。この概念は長らく忘れられていたが、臨床心理学者オーレリー・アタンが2024年の論文で再び取り上げ、周産期の精神医療において、母親側に起きているこの発達的な移行そのものを見落とすべきではないと論じている。育児にまつわる情緒の揺れを、母親個人の弱さや適応の失敗として片づけるのではなく、思春期と同じように、誰もが通過しうる正常な発達段階として扱うべきだという主張だ。
父親の側にも対応する変化がないわけではない。「パトレセンス」という語で、父になる過程の心理的・神経生物学的な変化を捉え直そうとする試みが近年出てきており、看護学の分野では2026年に、職業上の移行になぞらえてこの概念を整理する論文も発表されている。ただし、この父親側の枠組みはまだ体系立った検証の蓄積が薄く、母親側の「マトレセンス」がすでに半世紀近い議論の積み重ねを持つのとは、研究としての厚みがまるで違う。育児による発達的な移行という現象そのものは性別を問わず起こりうるはずなのに、それを言語化し検証する側の関心は、これまで著しく母親に偏って配分されてきたということでもある。取ってあるロンパースが誰の手で保管され続けているかを見渡すと、この研究の偏りと、家庭内の実際の役割分担が、驚くほど同じ輪郭を描いていることに気づく。
この枠組みに照らすと、ロンパースを手放せない理由が、少し違って見えてくる。子どもが誕生から乳児期を経て幼児になっていく過程は、確かに子ども自身の発達である。だがその同じ期間、親の側もまた、子を持つ前の自分から「親である自分」へと、後戻りのできない移行を経験している。子どもの体がロンパースに入らなくなる速度と、親自身の自己認識が変わっていく速度は、別々の時計で進んでいるようでいて、実は同じ十二か月の中で並走している。取ってあるのがベビー服であって、たとえば親自身のマタニティウェアではないのは、目に見える形で成長を記録しやすいのが子どもの服の方だから、という単純な理由にすぎない。記録されているのは子どもの軌跡だが、記録したがっているのは、自分自身がどこから来てどこまで移行したかを確かめたい親の側の欲求でもある。
誰がその記録を担ってきたか
この記録を実際に管理し続けているのが誰かという問いにも、先行する研究がある。社会学者キャロリン・ローゼンタールが1985年に発表した調査は、親戚間の連絡や記念行事の準備、家族の歴史をめぐる情報の維持といった「キンキーピング」と呼ばれる労働が、家庭内でほぼ女性側に偏って配分されている実態を示した。誕生日を覚えている、写真を整理する、思い出の品を保管する——こうした地味な維持労働の多くが、家事労働の統計にはほとんど計上されないまま、特定の家族成員の担当になっている。
ベビー服の記念品を誰が保管し、誰がいずれ作り替えの手を動かすかという問いも、このキンキーピングの延長線上にある。育児という行為そのものは共同で担われていても、その行為の物理的な証拠を管理し続ける役割だけは、依然として偏って配分されている場合が多い。取ってあるロンパースを前にしたときの感慨を、家族の全員が同じ強さで共有しているとは限らない。感慨の非対称は、感情の豊かさの差ではなく、誰がこの維持労働を日常的に担ってきたかという、もう少し即物的な事情を反映しているだけなのかもしれない。
世話をした証拠、という発想
ここにもう一つ別の理論的な補助線を重ねておきたい。精神分析家エリク・エリクソンが1950年の著書で示した発達段階の枠組みでは、中年期の課題として「世代性」対「停滞」という対立が置かれている。世代性とは、次の世代を育て、導くことに対する関心と実践を指す。育児は世代性を満たす最も分かりやすい経路の一つとされるが、この理論の含みとして見落とされがちなのは、世代性が満たされているかどうかを、本人はどこかで確認したがる、という点だ。育てたという行為は、行為そのものが終わった瞬間に消えてしまう。子どもは日々変化し、昨日までの子育ての結果は、今日にはもう別の姿に上書きされている。行為の痕跡が残らないという、育児という営みに特有の性質がここにある。
ロンパースは、この消えていく行為の中で、数少ない物理的な証拠として機能する。あの子はこんなに小さかった、これだけの世話が必要だった、そして自分はそれをやり遂げた——服の小ささそのものが、世代性という抽象的な達成を、手で触れられる形にして示している。捨てるということは、この証拠物件を手放すことに等しい。世代性を満たしたという実感自体は消えないはずだが、それを裏づける物理的な支えを失うことへの抵抗は、理屈とは別のところで働く。
しまうことと、縫うことの違い
ここまでの話だけなら、答えは単純に「しまっておけばいい」で済むはずだ。実際、多くの家庭では真空パックや衣装ケースに詰めたまま、それで終わっている。だが地理学者ジェニー・オーウェンとキルスティー・ボイヤーが2019年に発表した調査は、この「しまう」という行為自体が、思ったより重い作業であることを示している。イギリスの親八人への聞き取りから、子どもの持ち物を屋根裏やトランクルームに保管し続ける行為は、単なる収納の問題ではなく、子どもが親元を離れていく過程で生じる喪失感を、親自身が物を通じて処理し続けるプロセスだと論じた。子ども部屋がなくなっても、物置には子ども時代の痕跡が居座り続ける。しまうという行為は、片づけの完了ではなく、感情の処理を先送りにする形で続いている、という指摘だ。
これをふまえると、しまっておくことと、形を変えて日常の中に戻すことの違いが見えてくる。真空パックの中の記念品は、時間が止まったまま、ただ場所を占有し続ける。心理学者コンスタンティン・セディキデスとティム・ウィルドシュートらが2016年に発表した実験群は、ノスタルジアが「過去の自分と今の自分がひと続きである」という感覚——自己の連続性——を強めるうえで、社会的なつながりの感覚を介するという経路を示している。ただ過去の物を眺めるだけでも、この連続性の感覚はある程度働くのだろう。しかし手を動かして服を縫い直し、日常の中で実際に使う場面をつくるという行為は、眺めるだけの保管よりも接触の頻度と関わりの深さを増やす。記念品を年に一度だけ引き出しの奥から取り出す関係と、毎朝カバンの持ち手として手に触れる関係とでは、同じ布でも自己の連続性に働きかける機会の数がまるで違う。しまうことが記憶を凍結する行為だとすれば、縫い直すことは、その記憶を生活の時間の中に再び流し込む作業だと言える。
見せるための保管、という別の顔
ここで一つ、都合の悪い面にも触れておく必要がある。子どもの服を写真に撮って並べ、成長記録として発信する習慣は、いまや珍しくない。この習慣自体を否定するつもりはないが、そこで起きているのは、必ずしも記念品の私的な保管だけではないという点は、はっきりさせておいたほうがいい。他人に向けて「これだけ手をかけて育てている」という姿を見せる動機が、世代性の実感の確認と、いつのまにか混ざり合っている場合がある。世代性という発達課題は、本来は自分自身の内側で満たされるべきものであって、他人からの評価によって満たされるものではない。ロンパースの作り替えを誰かに見せる前提で語り始めた瞬間、これは記念品ではなく、もう少し別の種類の行為——他人の視線を経由した自己確認——に近づいていく。作り替えそのものが悪いわけではない。ただ、誰のためにそれをしているのかを、自分の中でだけは取り違えないでおきたい。
伸びる生地と、動かせない構造
手を動かす段になると、理屈とは別の現実的な制約が出てくる。ベビー服の多くは、乳児の激しい動きと頻繁な着脱に耐えるよう、伸縮性の高いニット生地で作られている。普通のミシン針と糸のまま縫うと、生地が伸びて縫い目が波打つ。ニット用の針と、伸びに追随するステッチを選ぶだけで、この失敗はほとんど防げる。もっとかっちりした形——ブックカバーやポーチのような、輪郭を保ちたい小物——に仕立てる場合は、裏側にアイロン接着芯を貼って生地を安定させる工程が要る。伸びる生地をあえて伸びない状態に変えるという、素材の性質に逆らう工程を挟むことになる。
失敗もした。股のスナップボタンの列をそのままポーチの開閉部に転用しようとしたとき、ボタン同士の間隔が広すぎて、閉じても隙間から中身がのぞく仕上がりになった。乳児の頻繁な着脱に合わせて間隔が大きく取られていたボタン列は、成人が使う小物の留め具としてはそもそも設計密度が違う。用途を変えるということは、部品の完成度だけでなく、その部品がどんな身体を想定して設計されていたかまで引き継いでしまうということでもある。結局、スナップは装飾として残し、開閉には別のファスナーを縫い足した。既製品の構造をそのまま流用できる場面と、できない場面の見極めは、何度か手を動かしてみないとつかない。
もう一つ、迷いどころになるのがボタンやブランドタグ、サイズ表記の扱いだ。これらを隠さずあえて見える位置に残すと、「もとはベビー服だった」という由来が作品の一部として機能する。ここまで書いてきた文脈に照らせば、この由来の可視化は単なる装飾の選択ではない。バウアーの研究が示すように、着ていた本人にはこの由来を思い出す手立てがない。だとすれば、タグやサイズ表記という物理的な痕跡だけが、由来を証言できる唯一の手がかりになる。本人の記憶が担保しない事実を、布に縫い付けられた文字が代わりに担保している、と考えると、この選択の重みが少し変わって見える。
形にする、いくつかの道筋
実際に何に仕立てるかは、この由来をどう扱いたいかによって変わってくる。柄をそのまま活かせる面積が広ければ、足の裏に生年月日を刺繍したぬいぐるみになる。技術的には最も難しく時間もかかるが、当時の柄をいちばん多く保持できる形でもある。もう少し軽い工程で済ませたいなら、背中やお腹の広い面を切り出してブックカバーやコースターにする道がある。複数の服の生地を組み合わせるパッチワークのクッションカバーは、一枚の由来だけでなく、時期の異なる複数の由来を一枚の面に同居させる形になる。数年分の服をすべてつなぎ合わせるブランケットは、数か月がかりの大きな仕事になるが、由来を最も多く、最も長く語り続ける形でもある。自分で縫う自信がなければ、専門のクリエイターに依頼する道もある。どの部分を使ってほしいかを伝える作業そのものが、自分の中で由来を言葉にし直す機会になる。
どの形を選んでも、完成したものを既製品と同じ基準で採点する必要はない。針目が多少曲がっていても、それは手が動いた痕跡であって欠陥ではない。大切なのは仕上がりの精度ではなく、記念品を凍結したまま引き出しに置くのをやめて、一度は自分の手でその由来に触れ直したという事実の方だ。
証拠は減っても、移行は残る
ロンパースを切って何かに仕立て直しても、子ども本人がその時期を思い出せるようになるわけではない。幼児期健忘という現象は、布の形を変えたところで動かない。取り戻せるのは子どもの記憶ではなく、親の側にある、あの数か月の手触りだけだ。それでも、この保管が最初から誰かのための証拠ではなく、自分自身の移行を確かめるための手がかりだったと分かれば、話の座りは少しよくなる。子どものために取ってあると自分に説明していたものが、実は自分のために取ってあったと分かったところで、そこに罪はない。ただ、説明の宛先を書き換えておくだけでいい。
引き出しの中でこれ以上時間を止めておくか、形を変えて日常の中に戻すか。どちらを選んでも、あの十二か月に自分の身に起きた変化そのものは、もう動かしようがない。布はその変化の証拠ではあっても、変化そのものではなかった。証拠の扱い方を決めるくらいの自由は、まだこちらの手元に残っている。
いずれ、いま縫っている自分の手つきの方も、忘れられていく側に回る。子どもが幼児期健忘の向こう側にこの数か月を置き去りにするのと同じように、作り替えに費やした平日の夜のことも、そのうち自分自身の記憶からすら薄れていくだろう。記念品を残すという行為は、だから最終的には、自分の記憶力さえ信用しきっていないという前提のうえに成り立っている。信用していないからこそ、布という記憶の代わりを外に置いておく。これは弱さの証明というより、記憶というものがそもそも当てにならないという、ごく実務的な判断に近い。ロンパースの生地を切りながら考えているのは、亡くしたくない過去のことではなく、放っておけば確実に薄れていく自分自身の記憶力の限界の方だったのかもしれない。
出典
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