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「かっこいい趣味」を選ぶ前に、本当に惹かれているか
高校生が趣味を選ぶとき「印象がいいか」を先に置いてしまうのは、心理学的には別に異常なことではない。問題はそこではなく、報酬がいつ、どんな形で効いてくるかにある。動機づけの研究を手がかりに、選ぶ前と選んだ後で何が変わるのかを考える。
「趣味、ある?」に詰まる理由
「何か趣味ある?」と聞かれて、返事に一拍置いてしまうことがある。何もしていないわけではない。ただ、それを人に言っていい「趣味」と呼んでいいのか、聞かれた瞬間にわからなくなる。
この迷いの正体は、たぶん趣味そのものの不在ではない。「これは人に話して恥ずかしくないか」という値踏みが、答えるより先に頭の中で走っているせいだ。楽器、写真、ボルダリング、プログラミング――どれも実在する趣味で、実際に人を長く惹きつける。だが同時に、これらは高校生の間で「持っていると印象がいいもの」としてもかなり安定して流通している。ギターケースを背負って電車に乗るのと、意味もなく数独を解いているのとでは、他人の目に映る係数がまるで違う。将棋にしても、対局の内容より先に「将棋をやっている自分」の輪郭のほうが早く伝わってしまう。
この係数の差に気づいてしまった時点で、趣味選びは静かに歪む。「気づいたらやっていた」から「これをやっている自分は、どう見えるか」へと、判断の起点がすり替わる。厄介なのは、この二つの起点が、選んでいる本人の頭の中ではほとんど区別できない手触りをしていることだ。「かっこいいから気になる」のか「単純に気になる」のかは、始める前の段階では言葉にしようとするほど怪しくなる。
この記事はその歪みそのものを断罪する話ではない。むしろ、その歪みが思春期という時期にどう位置づけられていて、どこから先が本当に注意すべき部分なのかを、具体的な実験と数字に沿って腑分けする話である。
印象を気にすること自体は、欠陥ではない
心理学では、他人に与える印象を操作しようとする行動そのものに、すでに名前と理論的な枠組みがある。Leary と Kowalski による自己呈示(self-presentation)の二要因モデルは、人が印象を管理しようとする動機を「社会的・物質的な報酬の獲得」「自尊心の維持・向上」「望ましいアイデンティティの構築と維持」という三つの目的に整理している。つまり、見た目や振る舞いで自分を良く見せようとする働きは、思春期特有の未熟さではなく、人間の対人行動に組み込まれた基本機能の一つとして扱われている。
さらに、Jones と Pittman が整理した自己呈示の戦略の中には「自己宣伝(self-promotion)」――自分の能力や実績を意図的に示す、あるいはその能力を公の場で発揮してみせる行動――が含まれている。ギターを人前で弾く、写真をSNSに上げる、といった行為の多くは、この自己宣伝の型に素直に当てはまる。つまり「人に見せたいからやる」という動機は、心理学的にはごくありふれた分類の中に収まる行動であって、それ自体を恥じる理由はあまりない。
加えて、思春期という時期そのものが、まさにこうした「試し」を必要とする段階として説明されてきた。Marcia のアイデンティティ・ステイタス理論では、青年期のアイデンティティ形成を「探求(exploration)」と「関与(commitment)」という二つの軸で捉える。まだ関与を決めないまま、いくつもの選択肢を能動的に試している状態は「モラトリアム」と呼ばれ、これは停滞ではなく発達上必要な過程として位置づけられている。つまり、部活や趣味をいろいろ手に取っては見せびらかしてみる、という一見浮ついた振る舞いも、理論の上では「まだ何者でもない自分が、何者かになろうとしている」作業そのものである可能性が高い。
逆に注意すべきなのは、探求をまったく経ないまま、周囲――親や友人集団――が期待する像にそのまま関与してしまう状態で、Marcia はこれを「フォークロージャー(foreclosure、早期完了)」と呼んでいる。「かっこいいと言われたから、それをそのまま自分の趣味に決めた」という選び方が危ういのは、印象を意識したこと自体ではなく、そこで試すのをやめてしまい、他の選択肢に手を伸ばす手間を省いてしまう点にある。ここまでを踏まえると、最初の直感――「かっこいいから」で選ぶのは良くない――は、思ったほど単純に成立しない。印象を気にすること自体は病理でも怠慢でもなく、発達の途中にある人間がやるべき仕事の一部に近い。問題になるとすれば、それは動機の入り口ではなく、試す幅を自分から狭めてしまうことのほうだ。
では、印象で選んでも問題はないのか
ここで話が終われば、この記事はただの免罪符になる。だが、動機づけの研究には、この楽観を静かに覆す実験がある。
1973年に Lepper、Greene、Nisbett が行った実験がある。もともとお絵かき遊びが好きな幼児51人を対象に、フェルトペンで絵を描く活動を観察した。子どもたちを三つの群に分け、一方には「描いたらご褒美のリボンをあげる」と事前に約束し、別の一方には約束せず、終わったあとに突然リボンを渡した。もう一方には何も渡さなかった。数週間後、教室の自由時間に同じフェルトペンをどれだけ手に取るかを観察したところ、事前にリボンを約束されていた子どもたちは、他の二群に比べて描画時間がおよそ半分にまで落ち込んだ。もともと好きで始めた行為に、期待できる外的な報酬を後付けしただけで、その行為への食いつきが目に見えて弱くなったのである。これは「過剰正当化効果(overjustification effect)」と呼ばれる現象の、最初の実証の一つとされている。
同じ流れの実験を、Deci は1971年に大学生を対象に行っている。パズル(ソーマキューブ)を解く課題を三回のセッションに分け、一方の群には解けたパズル一つにつき1ドルを支払い、もう一方には何も支払わなかった。実験者が部屋を離れる8分間の「自由選択時間」――雑誌を読んでもパズルを続けてもいい時間――を計測すると、報酬をもらっていた群のほうが、パズルに費やす時間が短くなっていた。もともとパズルへの興味という点では両群に差がなかったにもかかわらず、である。
この二つの実験が示しているのは、「最初の動機が不純だと、後で興味が続かない」という単純な話ではない。むしろ逆に近い。もともと本人が心から楽しんでいた行為であっても、そこに期待できる外的な報酬が乗った瞬間、行為そのものへの興味が目減りする、という話である。これは「かっこいいから始めた趣味は最初からダメ」という説教より、ずっと厄介な話だ。始めた理由が「面白そうだから」だった場合でも、その後に「見せれば褒められる」という回路が固定されてしまえば、同じように興味は摩耗しうる。
ただし、この効果自体も割り引いて読む必要がある
ここでもう一段、疑ってかかる必要がある。過剰正当化効果は教科書に載るほど有名になった一方で、その一般性は後の研究でかなり限定されてきた。Cameron と Pierce が1994年に行ったメタ分析では、報酬を与えられた被験者と与えられなかった被験者を比較した96本の実験結果をまとめたところ、全体として見れば報酬は内発的動機づけを下げない、という結果になっている。負の効果が見られたのは、課題を遂行しさえすれば得られる、事前に期待された「有形の報酬」に限られ、しかもその効果は限定的だった。対照的に、言葉によるほめ言葉は内発的動機づけをむしろ高める方向に働き、成果や達成度に応じて与えられる報酬(performance-contingent、completion-contingent)は、動機づけを損なわない、あるいは高めるという報告もある。
つまり「ご褒美を約束すると興味が失われる」というのは、あらゆる報酬に当てはまる法則ではなく、報酬の種類次第で結果が逆にも転ぶ、という話に近い。趣味に置き換えると、「うまくなったこと」に対する周囲からの評価――上達を認められる、工夫を面白がられる――は必ずしも興味を削らない。危ういのは、上達や工夫とは無関係に「やっているだけ」で得られる反応、つまり投稿しさえすれば返ってくる「いいね」のような、行為の中身と切り離された報酬のほうである。
効くのは「動機」ではなく「報酬の形」
ここまでを踏まえると、見分けの基準を、動機の純粋さから別の場所に移す必要がある。Lepper たちの実験で興味が落ちたのは「約束されたご褒美」を条件に描いた群だけで、後から不意にご褒美を渡された群は、何も渡されなかった群とほぼ同じだけ描き続けた。効いているのは報酬の有無ではなく、報酬が事前に予期され、行為と引き換えの契約として結ばれていたかどうかであり、さらに Cameron と Pierce の整理を重ねれば、その報酬が「行為の中身」に紐づいているか、「行為をしたという事実」だけに紐づいているかが分かれ目になる。
これを趣味に当てはめると、問いは「かっこいいと思って始めたか」ではなく、「今、その行為を続ける理由の中に、期待し監視している外的な指標があり、それが行為の中身と無関係に発生していないか」になる。写真を撮るたびに「いいね」の数を確認しにいく。演奏を録音するたびに再生回数を数える。この「確認しにいく」という行為そのものが、Lepper たちの実験における「約束されたご褒美」に相当する構造を、日常の中に自分で作り出している。しかも、いいねや再生回数は写真や演奏の質の善し悪しよりも、投稿の頻度やタイミングに左右されやすく、行為の中身と切り離された報酬になりがちだ。
実際、SNS上の反応と自尊感情の関係については、早期思春期(11〜12歳)の子どもたちにおいて、投稿への「いいね」が予想より少なかった場合に自尊感情が落ち込む、という研究の紹介がある。著者や実験条件の細部までは特定できないが、複数の関連研究を横断的にまとめた報告として広く引かれている内容で、ここでも効いているのは「いいねの絶対数」というより、「期待していた数」との落差である。期待値を作ってしまった時点で、その期待に届かなかったときの落ち込みまでセットで引き受けることになる。
だとすれば、「見せるために始めたかどうか」を後から悔やんでも、あまり生産的ではない。始めた理由は動機の一部でしかなく、その後に自分がどんな確認行動を習慣化するかのほうが、趣味の寿命に対してよほど強く効いている。
付け加えると、この落差の影響は誰にでも一様に出るわけではないらしい。SNSと自尊感情の関係を追った複数の調査を横断的に見ると、10代前半、特に女子において影響が強く出る傾向が報告されている。これは、印象を気にすること自体の強さというより、反応を確認する頻度や、期待値の作り方に性差や年齢差があることの表れかもしれない。だとすれば、「自分は反応を気にしやすいタイプかどうか」を先に自覚しておくことにも、多少の意味はある。
見せたい気持ちは、どの欲求から来ているか
Deci と Ryan が提唱した自己決定理論では、人間には「自律性(autonomy)」「有能感(competence)」「関係性(relatedness)」という三つの基本的心理欲求があり、これらが満たされるほど動機づけは長続きし、心理的な健康も保たれるとされている。自律性は、その行動を自分の意志で選んでいる感覚を指し、有能感は上達や熟達の実感を、関係性は他者と意味のあるつながりを持てているという感覚を指す。
この枠組みに沿うと、趣味を人に見せたい、共有したいという気持ちは、関係性の欲求から来ている限り、それ自体は否定される筋合いのものではない。写真を撮って誰かに見せ、感想を交換する。バンドを組んで一緒に演奏する。こうした共有には、関係性という基本欲求を満たす機能がある。問題が生じるのは、関係性の欲求が、有能感や自律性を締め出してしまうときだ。人に見せることだけが目的化し、自分がどれだけ上達したかにも、自分がその行為を続けたいかどうかにも関心が向かなくなったとき、三つの欲求のバランスは崩れる。「かっこいいから」で選んだ趣味であっても、続けるうちに上達の手応え(有能感)や、自分のペースでやれている感覚(自律性)が育っていれば、動機はすでに関係性だけのものではなくなっている。
逆に言えば、三つの欲求のうち関係性だけが突出して肥大化している状態は、外から見ても本人の話し方でわかることが多い。上達の話をほとんどせず、誰に見せたか、どんな反応があったかばかりを話す。技術的な壁にぶつかった話より、フォロワーの増減の話のほうが先に出てくる。会話の重心がどちらに寄っているかは、意外と正直な指標になる。
コストのかかる看板と、口だけの看板
もう一つ、印象のために趣味を持ち出す行為を分ける軸がある。進化心理学や経済学で使われる「コストリー・シグナリング(costly signaling)」という考え方では、信号としての信頼性は、その信号を出すのにかかるコストの高さによって担保される、と説明される。偽ろうと思えば誰でも偽れる安いアピールは、信号として割り引いて受け取られる。逆に、時間や努力を積み上げないと出せない信号は、多少不器用でも一定の説得力を持つ。
「ギターやってる」と口で言うのはコストがほぼゼロの信号だが、実際に指の皮が硬くなるまで練習した跡は、簡単には偽装できないコストのかかった信号になる。プロフィール欄に趣味を並べるだけなら誰にでもでき、しかもその手軽さのわりに効果を信じられている割合は不釣り合いに高い。つまり、印象のために趣味を持ち出すこと自体は避けようがないとしても、その印象を支えているのが「言葉」なのか「積み重ねた時間」なのかで、信号としての中身はまったく別物になる。積み重ねの部分にコストを払っている限り、その趣味は結果的に本物の技能として残る。ここは、印象目当てで趣味を選ぶことの救いになっている部分でもある。
逆に言えば、コストを払わずに看板だけ掲げ続けようとすると、いずれ看板と中身の落差そのものがストレスの発生源になる。「やっている」と言った手前、実際にやっている姿を見せなければならない場面がいつか来るからだ。皮肉なのは、この落差を埋めるために結局は練習量を増やすはめになり、最初は見栄で始めたはずの行為に、後からコストを積み増していく人もいるという点である。動機の入り口が不純であっても、結果として本人の中に技能というコストが蓄積されていくなら、それは見栄という言葉で片づけてしまうにはもったいない出来事だ。
誰も見ていない時間に、何が起きているか
ではここまでの理屈をふまえて、実際にどこを見ればいいのか。Csikszentmihalyi が提唱したフロー理論では、没頭している人間の経験に共通する特徴の一つとして「自己目的的(autotelic)」であることが挙げられている。ギリシャ語の auto(自己)と telos(目的)を組み合わせた言葉で、その活動自体が報酬になっている状態、つまり行為の外側に目的を必要としない状態を指す。フロー状態にはこのほかにも、課題の難易度と自分の力量が釣り合っていること、目標が明確であること、行為への即座のフィードバックが得られることなど、複数の条件が挙げられている。将棋の一手を読み切る、弾けなかったフレーズが弾けるようになる、革が使い込むほど色を変えていく――これらはすべて、見せる相手がいなくても成立する報酬であり、条件がなくなっても行為そのものは残りやすい。
だから、見分けるとすれば、始めた後にしか出てこない一つの手がかりがある。誰も見ていない時間に、それをやっているかどうかだ。写真を撮っても投稿しない日が続いても構わず撮り続けているか。プログラムを書いても提出先がなくても、動くかどうかだけを確かめたくて書いているか。将棋アプリを、対戦相手がいないCPU戦で黙々と回しているか。
これは「人に見せない」ことが偉いという話ではない。見せることも、見せたい気持ちも、それ自体は前章までで見た通り不自然でも欠陥でもない。ただ、見せる場がなくなった途端にやめてしまうなら、その趣味を支えていたのは行為そのものではなく、期待していた反応だったということが、後から判明する。始める前に完璧に見分ける方法はなく、しばらく続けてみて初めてわかることのほうが多い。
具体的にどう試すか
ジャンルを絞り込む前に、いくつか手を出してみて、どれが「一人の時間にも戻ってくるか」を観察するという手順は、実際に取りやすい。ここでのポイントは、Lepper たちの実験と Cameron・Pierce のメタ分析が示した通り、始めてすぐに「行為の中身と無関係な反応を確認する回路」を作らないことだ。数値化された反応を毎日チェックする習慣を先に組み込んでしまうと、行為そのものへの興味かどうかを見分ける前に、期待と落差の回路のほうが先に育ってしまう。逆に、上達そのものを自分で記録すること――前より速く弾けた小節、前より綺麗に撮れた一枚――は、内容に紐づいた報酬なので、むしろ動機づけを支える側に働く。
- ギターを一週間触ってみて、人に聴かせる予定がない日にも弦を持つか。録音してもしばらく人に送らずにおき、代わりに「先週より弾けるようになった部分」を自分でメモしてみる
- 写真を毎日一枚撮ってみて、投稿するかどうかは後回しにし、誰にも見せない写真が増えても撮り続けるか
- 簡単なコードを書いてみて、動いた瞬間に満足しているか、それとも見せる相手がいないことに物足りなさを感じるか
- 革小物や鉱石研磨のような手仕事を一つ仕上げてみて、人に見せる前に、完成後もその変化を自分で眺めているか
どれも数千円から始められる範囲のもので、大きな投資は要らない。道具の質より、SNSのアカウントを作る前に、あるいは人に話す前に、しばらく自分だけで続けてみる期間があるかどうかのほうが、何かを教えてくれる気がする。もっとも、これも試してみないと本当のところはわからない。
それでも、印象を気にする自分は残る
ここまで書いておいて、印象を完全に無視しろとは思わない。Leary と Kowalski の整理が示す通り、人からどう見えるかを気にするのは自尊心やアイデンティティの形成と直結した、ごく普通の働きであり、それ自体を悪者にする必要はない。
ただ、気になるのはその優先順位と、その後の運用の仕方だ。「面白いかどうか」より先に「印象がいいかどうか」を判定基準にしてしまうのは、なぜだろう。おそらく、印象は他人の反応というかたちですぐに確認できるのに対して、自分が本当に面白いと感じているかどうかは、時間をかけて確かめるしかないからだ。手っ取り早く確認できるほうに判断が寄るのは、ある意味で自然な近道だが、近道の先で反応を数え続ける習慣まで一緒に持ち帰ると、Lepper たちの実験が示した通り、もともとの興味そのものが目減りしていく可能性がある。
「かっこいいから」という理由を完全に排除する必要はない。ただ、それを最初の判定基準にした瞬間そのものより、その後に「反応を期待し、確認する」回路をどれだけ強く組み込むか、そして探求の幅を早々に閉じてしまわないかのほうが、その趣味が自分のものとして残るかどうかを左右している、という程度には、疑ってみる価値がある。
始めた理由は、後から書き換えられる
趣味を持て、という話ではない。持たなくてもいい。ただ、何かに時間を使うとき、それを選んだ最初の理由が「見せるため」だったとしても、そこで確定するわけではないらしい。始めた理由が何であれ、その後にどんな確認の習慣を自分の中に作るかで、同じ行為が消えるものにも残るものにもなる。
もっと言えば、動機の由来を過去に探しにいくこと自体が、あまり実りのない作業なのかもしれない。始めたときの自分がどう考えていたかは、記憶の中で何度も書き換えられていて、今さら正確に取り出せるものでもない。これを書いている自分にしても、この文章を「面白いと思って書いている」のか「書けることを見せたくて書いている」のか、正直なところ完全には切り分けられていない。だから、続けているものがあるなら、始めた動機を今さら疑うより、今この瞬間、誰も見ていない時間にもそれをやっているかどうかを、確かめてみるほうが早い。
出典
- Leary, M. R., & Kowalski, R. M. (1990). Impression Management: A Literature Review and Two-Component Model. Psychological Bulletin, 107(1), 34–47.
- Jones, E. E., & Pittman, T. S. (1982). Toward a General Theory of Strategic Self-Presentation. In J. Suls (Ed.), Psychological Perspectives on the Self.
- Marcia, J. E. (1966). Development and Validation of Ego-Identity Status. Journal of Personality and Social Psychology, 3(5), 551–558.
- Lepper, M. R., Greene, D., & Nisbett, R. E. (1973). Undermining Children's Intrinsic Interest with Extrinsic Reward: A Test of the "Overjustification" Hypothesis. Journal of Personality and Social Psychology, 28(1), 129–137.
- Deci, E. L. (1971). Effects of Externally Mediated Rewards on Intrinsic Motivation. Journal of Personality and Social Psychology, 18(1), 105–115.
- Cameron, J., & Pierce, W. D. (1994). Reinforcement, Reward, and Intrinsic Motivation: A Meta-Analysis. Review of Educational Research, 64(3), 363–423.
- Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being. American Psychologist, 55(1), 68–78.
- Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
- 早期思春期(11〜12歳)を対象とした、SNSの「いいね」数の予想との落差と自尊感情の関係についての報告(adolescents and social media self-presentation and self-esteem に関する研究の紹介による)。
