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かっこいい特技を選ぶ前に、高校生の趣味と特技の分かれ目

かっこいい特技を選ぶ前に、高校生の趣味と特技の分かれ目

かっこよさを調べた研究から、かっこいい特技を選ぶときの三つの型を考える。そのあと、ご褒美が興味を削いだ幼児の実験と、「趣味」の語がない履歴書の様式例をたどって、趣味と特技の分かれ目まで。

TOMOAKI··趣味

「趣味、ある?」に詰まる理由

「何か趣味ある?」と聞かれて、返事に一拍置いてしまうことがある。何もしていないわけではない。ただ、それを人に言っていい「趣味」と呼んでいいのか、聞かれた瞬間にわからなくなる。

この迷いの正体は、たぶん趣味そのものの不在ではない。「これは人に話して恥ずかしくないか」という値踏みが、答えるより先に頭の中で走っているせいだ。楽器、写真、ボルダリング、プログラミング――どれも実在する趣味で、実際に人を長く惹きつける。だが同時に、これらは高校生の間で「持っていると印象がいいもの」としてもかなり安定して流通している。ギターケースを背負って電車に乗るのと、意味もなく数独を解いているのとでは、他人の目に映る係数がまるで違う。将棋にしても、対局の内容より先に「将棋をやっている自分」の輪郭のほうが早く伝わってしまう。

この係数の差に気づいてしまった時点で、趣味選びは静かに歪む。「気づいたらやっていた」から「これをやっている自分は、どう見えるか」へと、判断の起点がすり替わる。厄介なのは、この二つの起点が、選んでいる本人の頭の中ではほとんど区別できない手触りをしていることだ。「かっこいいから気になる」のか「単純に気になる」のかは、始める前の段階では言葉にしようとするほど怪しくなる。

この記事はその歪みそのものを断罪する話ではない。むしろ、その歪みが思春期という時期にどう位置づけられていて、どこから先が本当に注意すべき部分なのかを、具体的な実験と数字に沿って腑分けする話である。先に一つだけ予告しておくと、お絵かきの好きな幼児51人のうち、ご褒美を事前に約束された子は、後日の自由時間にフェルトペンを手に取る時間が、他の二群より少なかった。

かっこよさを調べた研究と、特技の三つの型

「かっこいい特技」と考えるとき、先に浮かぶのは技の一覧だと思う。暗算、手品、楽器、写真——名前の挙がるものはいくらでもある。ただ、この記事に、順位をつけた一覧は置かない。一覧にすると、同じ技が置かれた場面ごとに違って見えるという、いちばん大事なところが落ちてしまうからだ。なお、この記事で特技と呼ぶのは、人前でやってみせることまで引き受けられる得意のことで、そう呼ぶ理由と、「特技がない」と感じる理由は、後の節で書く。

代わりに、かっこよさを調べた研究を二つ見ておく。Warren と Campbell が2014年に発表した論文は、消費者がブランドをかっこいいと感じる要因を調べたもので、六つの研究から、自律的に見える振る舞いは「かっこいい」と受け取られやすい、ただしそれは、その自律が適切に見えるときに限る、という結果をまとめている。最後の実験では、かっこよさは好み(liking)とは別のものだ、という結果も報告されている。適切に見える条件として挙がっているのは、不要あるいは不当と見なされている規範から外れること、外れ方が小さいか、たまにであること、そして見る側が社会の規範を過度に抑圧的だと見ていること。条件だけでは掴みにくいので、校則にたとえてみる。誰もが理不尽だと思っている校則を一度だけ破る生徒と、どの校則も毎日破る生徒とでは、かっこよく映るのは前者だ、という具合になる。これは私のたとえで、実験の場面ではない。

もう一つの Dar-Nimrod らの研究(2012年)は、北米の人々を対象にした三つの研究、合計918人の調査である。最初の研究では、かっこよさは主に、「社交的」「人気がある」「才能がある」といった、社会的に望ましい属性で語られた。後の二つの研究の因子分析では、主に「活動的で、地位を高め、社会的に望ましい」という像(Cachet)が出て、それと直交する第二の因子として、「反抗的で、粗く、感情をコントロールしている」という像(Contrarian)が出た。かっこいいの中身は、一つではなさそうだ。

どちらも英語の cool を調べたもので、日本語の「かっこいい」と同じ範囲を指すとは限らない。前者はブランドの話で、どちらも高校生の特技を調べたものではない。そのうえで、ここから先は私の読み替えになる。Dar-Nimrod らの主な因子は、外からの評価を向いた像だった。私が拠るのは、反抗的な側の像と、Warren らの言う自律のほうである。特技のかっこよさは、技の難しさから直接出てくるのではなく、見る側が「この人は、決まりや期待に縛られず、自分でやっている」と受け取れるかどうかを経由するのかもしれない。同じ暗算でも、頼まれて披露するのと、自分から見せに行くのとでは、周りに伝わる像が違う。

ここで言う自律は見る側の受け取り方のことで、後の節に出てくる、本人が感じる自律とは別物である。

この読み替えを土台に、特技を三つの型に分けてみる。順位はつけない。どれも得と損を持っている。

実演が短く済む型。暗算、手品、早口言葉、けん玉のように、その場の数十秒でできるものは、披露の機会を作りやすい。反面、「見せるために覚えた」と読まれやすく、先に見た自律の読み取りが起きにくいかもしれない。

楽器や絵、ジャグリングのように、仕上がるまでに時間のかかる型はどうか。続けてきた事実そのものが検証になる。その代わり、披露できる水準に届くまでの長い間、特技とは名乗れない。

もう一つは、ひとりで磨いて、見せる場を後から決められる型だ。文章、写真、プログラミングのように、提出先がなくても進められるなら、始める動機を自分で確かめやすい。見せる場を作らないかぎり、この記事の言う意味での特技にならないのが損になる。見られていない時間に続くかどうかは、特技ではなく、趣味のほうの話になる。

三つの型は、一つを選ぶ話ではないし、きれいに分かれるものでもない。ひとりで磨く文章は、時間のかかるものでもある。短い実演を入口にして、時間のかかるものへ移る人もいれば、ひとりで続けたものを数年後に初めて見せる人もいる。見せるために始めたものが、見せるためだけのものになるのかどうか。この記事の残りは、そこを確かめにいく。

印象を気にすること自体は、欠陥ではない

心理学では、他人に与える印象を操作しようとする行動そのものに、すでに名前と理論的な枠組みがある。Leary と Kowalski による印象管理(impression management)の二要因モデルは、人がどれだけ印象を管理したいかという動機づけと、どんな印象を作るかという構成の、二つの過程で整理している。つまり、見た目や振る舞いで自分を良く見せようとする働きは、思春期特有の未熟さではなく、人間の対人行動に組み込まれた基本機能の一つとして扱われている。

さらに、Jones と Pittman が整理した自己呈示の戦略の中には「自己宣伝(self-promotion)」――大まかに言えば、自分の能力を相手に認めてもらおうとする振る舞い――が含まれている。原典の章には当たれておらず、この言い方は、他の文献での紹介をもとにした私の要約だ。ギターを人前で弾く、写真をSNSに上げる、といった行為の多くは、私の読みでは、この自己宣伝の型に当てはまる。そう読めば、「人に見せたいからやる」という動機は、ありふれた分類の中に置ける行動であって、それ自体を恥じる理由はあまりない。

加えて、思春期という時期そのものが、まさにこうした「試し」を必要とする段階として説明されてきた。Marcia のアイデンティティ・ステイタス理論では、青年期のアイデンティティ形成を「危機(のちに探求(exploration)と言い換えられた)」と「関与(commitment)」という二つの軸で捉える。まだ関与を決めないまま、いくつもの選択肢を能動的に試している状態は「モラトリアム」と呼ばれ、これは停滞ではなく発達上必要な過程として位置づけられることが多い。つまり、部活や趣味をいろいろ手に取っては見せびらかしてみる、という一見浮ついた振る舞いも、理論の上では「まだ何者でもない自分が、何者かになろうとしている」作業そのものである可能性が高い。

逆に注意すべきなのは、探求をまったく経ないまま、周囲、とくに親が期待する像にそのまま関与してしまう状態で、Marcia はこれを「フォークロージャー(foreclosure、早期完了)」と呼んでいる。「かっこいいと言われたから、それをそのまま自分の趣味に決めた」という選び方が危ういのは、印象を意識したこと自体ではなく、そこで試すのをやめてしまい、他の選択肢に手を伸ばす手間を省いてしまう点にある。ここまでを踏まえると、最初の直感――「かっこいいから」で選ぶのは良くない――は、思ったほど単純に成立しない。印象を気にすること自体は病理でも怠慢でもなく、発達の途中にある人間がやるべき仕事の一部に近い。問題になるとすれば、それは動機の入り口ではなく、試す幅を自分から狭めてしまうことのほうだ。

では、印象で選んでも問題はないのか

ここで話が終われば、この記事はただの免罪符になる。だが、動機づけの研究には、この楽観を静かに覆す実験がある。

1973年に Lepper、Greene、Nisbett が行った実験がある。二次的な紹介によれば、もともとお絵かき遊びが好きな幼児51人を対象に、フェルトペンで絵を描く活動を観察した。子どもたちを三つの群に分け、一方には「描いたらご褒美の賞状をあげる」と事前に約束し、別の一方には約束せず、終わったあとに突然賞状を渡した。もう一方には何も渡さなかった。しばらく後、教室の自由時間に同じフェルトペンをどれだけ手に取るかを観察したところ、事前に賞状を約束されていた子どもたちは、他の二群に比べて描画時間が少なくなった。もともと好きで始めた行為に、期待できる外的な報酬を後付けしただけで、その行為への食いつきが目に見えて弱くなったのである。これは「過剰正当化効果(overjustification effect)」と呼ばれる現象の、最初の実証の一つとされている。

同じ流れの実験を、Deci は1971年に大学生を対象に行っている。パズル(ソーマキューブ)を解く課題を三回のセッションで行い、二回目だけ、一方の群には解けたパズル一つにつき1ドルを支払った。もう一方には何も支払わなかった。実験者が部屋を離れる8分間の「自由選択時間」――雑誌を読んでもパズルを続けてもいい時間――を計測すると、報酬を払っていた二回目には、パズルに費やす時間はむしろ延びていた。支払いをやめた三回目には、払われなかった群より短くなっていた。ただし、各群12人の小さな実験で、一回目からの変化の群間の差は、統計的には「傾向」にとどまる。

この二つの実験が示しているのは、「最初の動機が不純だと、後で興味が続かない」という単純な話ではない。むしろ逆に近い。もともと本人が心から楽しんでいた行為であっても、そこに期待できる外的な報酬が乗り、それがなくなった場面で、行為そのものへの興味が目減りしうる、という話である。これは「かっこいいから始めた趣味は最初からダメ」という説教より、ずっと厄介な話だ。始めた理由が「面白そうだから」だった場合でも、その後に「見せれば褒められる」という回路が固定されてしまえば、同じように興味は摩耗しうる。

ただし、この効果自体も割り引いて読む必要がある

ここでもう一段、疑ってかかる必要がある。過剰正当化効果は教科書に載るほど有名になった一方で、その一般性は後の研究で争われてきた。Cameron と Pierce が1994年に行ったメタ分析では、報酬を与えられた被験者と与えられなかった被験者を比較した96本の実験結果をまとめたところ、全体として見れば報酬は内発的動機づけを下げない、という結果になっている。負の効果が最もはっきり見られたのは、課題を遂行しさえすれば得られる、事前に期待された「有形の報酬」で、しかもその効果は限定的だった。対照的に、言葉によるほめ言葉は内発的動機づけをむしろ高める方向に働き、同じ集計の中で、課題の完了や成果の質を条件にした報酬を見ると、自由時間の取り組みにも本人の態度にも目立った差は出なかった、とも二人は報告している。もっとも、1994年の論文そのものは全文を確かめられておらず、この細部は、反論する側の論文での要約に拠っている。その反論が、Deci、Koestner、Ryan が1999年に128本の研究をまとめ直したメタ分析で、そこでは課題を終えたら出る報酬も、成果の水準に応じた報酬も、自由時間の取り組みを下げていた。二つの集計は、結論が分かれている。

つまり「ご褒美を約束すると興味が失われる」というのは、あらゆる報酬に当てはまる法則ではなく、報酬の種類次第で結果が逆にも転ぶ、という話に近い。趣味に置き換えると、「うまくなったこと」に対する周囲からの評価――上達を認められる、工夫を面白がられる――は必ずしも興味を削らない。危ういのは、上達や工夫とは無関係に「やっているだけ」で得られる反応、つまり投稿しさえすれば返ってくる「いいね」のような、行為の中身と切り離された報酬のほうである。

効くのは「動機」ではなく「報酬の形」

ここまでを踏まえると、見分けの基準を、動機の純粋さから別の場所に移す必要がある。Lepper たちの実験で興味が落ちたのは「約束されたご褒美」を条件に描いた群だけで、後から不意にご褒美を渡された群は、何も渡されなかった群とほぼ同じだけ描き続けた。効いているのは報酬の有無ではなく、報酬が事前に予期され、行為と引き換えの契約として結ばれていたかどうかであり、さらに Cameron と Pierce の整理を重ねれば、その報酬が「行為の中身」に紐づいているか、「行為をしたという事実」だけに紐づいているかが分かれ目になる、という見方もできる。

これを趣味に当てはめると、問いは「かっこいいと思って始めたか」ではなく、「今、その行為を続ける理由の中に、期待し監視している外的な指標があり、それが行為の中身と無関係に発生していないか」になる。写真を撮るたびに「いいね」の数を確認しにいく。演奏を録音するたびに再生回数を数える。この「確認しにいく」という行為そのものが、Lepper たちの実験における「約束されたご褒美」に相当する構造を、日常の中に自分で作り出している。しかも、いいねや再生回数は、写真や演奏の質とは別の要因にも左右されやすく、行為の中身と切り離された報酬になりやすいように見える。

ここで効いてくるのは、「いいねの絶対数」というより、「期待していた数」との落差ではないか、と私は考えている。これは研究で確かめた話ではなく、私の見立てだ。期待値を作ってしまった時点で、その期待に届かなかったときの落ち込みまでセットで引き受けることになる。

だとすれば、「見せるために始めたかどうか」を後から悔やんでも、あまり生産的ではない。始めた理由は動機の一部でしかなく、その後に自分がどんな確認行動を習慣化するかのほうが、趣味の寿命に対してよほど強く効いている。

見せたい気持ちは、どの欲求から来ているか

Deci と Ryan が提唱した自己決定理論では、人間には「自律性(autonomy)」「有能感(competence)」「関係性(relatedness)」という三つの基本的心理欲求があり、これらが満たされるほど動機づけは長続きし、心理的な健康も保たれるとされている。自律性は、その行動を自分の意志で選んでいる感覚を指し、有能感は上達や熟達の実感を、関係性は他者と意味のあるつながりを持てているという感覚を指す。

この枠組みに沿うと、趣味を人に見せたい、共有したいという気持ちは、関係性の欲求から来ている限り、それ自体は否定される筋合いのものではない。写真を撮って誰かに見せ、感想を交換する。バンドを組んで一緒に演奏する。こうした共有には、関係性という基本欲求を満たす機能がある。問題が生じるのは、関係性の欲求が、有能感や自律性を締め出してしまうときだ。人に見せることだけが目的化し、自分がどれだけ上達したかにも、自分がその行為を続けたいかどうかにも関心が向かなくなったとき、三つの欲求のバランスは崩れる。「かっこいいから」で選んだ趣味であっても、続けるうちに上達の手応え(有能感)や、自分のペースでやれている感覚(自律性)が育っていれば、動機はすでに関係性だけのものではなくなっている。

これは研究の裏付けがある話ではないが、三つの欲求のうち関係性だけが大きくなりすぎている状態は、本人の話し方に出ることがあるように思う。上達の話をほとんどせず、誰に見せたか、どんな反応があったかばかりを話す。技術的な壁にぶつかった話より、フォロワーの増減の話のほうが先に出てくる。会話の重心がどちらに寄っているかは、一つの目安くらいにはなりそうだ。

コストのかかる看板と、口だけの看板

もう一つ、印象のために趣味を持ち出す行為を分ける軸がある。進化心理学や経済学で使われる「コストリー・シグナリング(costly signaling)」という考え方では、信号としての信頼性は、その信号を出すのにかかるコストの高さによって担保される、と説明される。偽ろうと思えば誰でも偽れる安いアピールは、信号として割り引いて受け取られる。逆に、時間や努力を積み上げないと出せない信号は、多少不器用でも一定の説得力を持つ。

「ギターやってる」と口で言うのはコストがほぼゼロの信号だが、実際に指の皮が硬くなるまで練習した跡は、簡単には偽装できないコストのかかった信号になる。プロフィール欄に趣味を並べるだけなら誰にでもでき、しかもその手軽さのわりに、効くと信じられているように見える。つまり、印象のために趣味を持ち出すこと自体は避けようがないとしても、その印象を支えているのが「言葉」なのか「積み重ねた時間」なのかで、信号としての中身はまったく別物になる。積み重ねの部分にコストを払っている限り、その趣味は結果的に本物の技能として残る。ここは、印象目当てで趣味を選ぶことの救いになっている部分でもある。

逆に言えば、コストを払わずに看板だけ掲げ続けようとすると、いずれ看板と中身の落差そのものがストレスの発生源になる。「やっている」と言った手前、実際にやっている姿を見せなければならない場面がいつか来るからだ。皮肉なのは、この落差を埋めるために結局は練習量を増やすはめになり、最初は見栄で始めたはずの行為に、後からコストを積み増していく人もいるという点である。動機の入り口が不純であっても、結果として本人の中に技能というコストが蓄積されていくなら、それは見栄という言葉で片づけてしまうにはもったいない出来事だ。

「特技」を書く欄はあるが、「趣味」の欄はない

「趣味は?」と並んで、というよりそれ以上に答えにくいのが「特技は?」の方だと思う。趣味なら、続いていなくても、下手でも、好きだと言えばそれで通る。特技はそうもいかない。口にした時点で、見せられることが前提に入ってしまう。

この重さがどこから来ているのかを辿ると、案外に散文的なところへ行き着く。履歴書である。長らく下敷きにされてきたJIS規格の解説の様式例は、日本規格協会が二〇二〇年七月に削除した。厚生労働省がその後に作った様式例で、該当する欄の名前はこうなっている——「志望の動機、特技、好きな学科、アピールポイントなど」。

気づくことが二つある。ひとつ、「趣味」という語がどこにも出てこない。ふたつ、「特技」は独立した欄ですらなく、志望動機や好きな学科と同じ一つの箱に同居している。四つのうちどれで埋めてもいい、という作りなのだ。

つまり「特技を書きなさい」と命じている様式は、厳密には存在しない。あるのは「この箱を何かで埋めなさい」という指示だけで、特技はその選択肢の一つにすぎない。それでも多くの人がそこを特技の欄だと感じてきたのは、四つの中で特技がいちばん、持っていないと落ち着かない響きを持っているからだろう。

前の節の言い方を借りれば、こう整理できる。趣味は口だけの看板でも成立するが、特技は最初から検証を織り込んだ看板である。「ギターが趣味です」と「ギターが特技です」は、事実としてはまったく同じ状態を指していることがある。違うのは、後者だけが「じゃあ弾いてみて」を引き受けているという一点だ。

だとすると、「特技がない」という悩みの中身は、技能の不足ではないことになる。人前で実演する場面まで含めて引き受けられるものが、手元にない。それだけの話だ。

ここで、四つのうち実演を求めてこない三つを選べばいい、と言ってしまえば楽になる。ただ、その助言は箱の外側を見ていない。二〇二一年に厚生労働省が様式例を作ったとき、JIS の様式例から変わったのは、性別欄が「男・女」の選択から任意の記載になったことと、通勤時間・扶養家族数・配偶者・配偶者の扶養義務の四つの欄がなくなったことだった。四つの欄は、プライバシーに深く関わる、という理由である。「特技」は誰も問題にしなかった。人に何ができるかを尋ねることは、立ち入った質問だとは見なされていない。

だからこの問いは、様式が改まっても残る。残っている以上、答えられないことを自分の欠落として受け取ってしまうのも、たぶん自然なことだ。ただ、詰まっているのが自分なのか、それとも四つを同じ箱に入れた欄の作りの方なのかは、分けて眺めておいていい。

誰も見ていない時間に、何が起きているか

ではここまでの理屈をふまえて、実際にどこを見ればいいのか。Csikszentmihalyi が提唱したフロー理論では、没頭している人間の経験に共通する特徴の一つとして「自己目的的(autotelic)」であることが挙げられている。ギリシャ語の auto(自己)と telos(目的)を組み合わせた言葉で、その活動自体が報酬になっている状態、つまり行為の外側に目的を必要としない状態を指す。フロー状態にはこのほかにも、課題の難易度と自分の力量が釣り合っていること、目標が明確であること、行為への即座のフィードバックが得られることなど、複数の条件が挙げられている。将棋の一手を読み切る、弾けなかったフレーズが弾けるようになる、革が使い込むほど色を変えていく――これらはすべて、見せる相手がいなくても成立する報酬であり、条件がなくなっても行為そのものは残りやすい。

だから、見分けるとすれば、始めた後にしか出てこない一つの手がかりがある。誰も見ていない時間に、それをやっているかどうかだ。写真を撮っても投稿しない日が続いても構わず撮り続けているか。プログラムを書いても提出先がなくても、動くかどうかだけを確かめたくて書いているか。将棋アプリを、対戦相手がいないCPU戦で黙々と回しているか。

これは「人に見せない」ことが偉いという話ではない。見せることも、見せたい気持ちも、それ自体は前章までで見た通り不自然でも欠陥でもない。ただ、見せる場がなくなった途端にやめてしまうなら、その趣味を支えていたのは行為そのものではなく、期待していた反応だったということが、後から判明する。始める前に完璧に見分ける方法はなく、しばらく続けてみて初めてわかることのほうが多い。

具体的にどう試すか

ジャンルを絞り込む前に、いくつか手を出してみて、どれが「一人の時間にも戻ってくるか」を観察するという手順は、実際に取りやすい。ここでのポイントは、Lepper たちの実験が示した方向に沿って、始めてすぐに「行為の中身と無関係な反応を確認する回路」を作らないことだ。数値化された反応を毎日チェックする習慣を先に組み込んでしまうと、行為そのものへの興味かどうかを見分ける前に、期待と落差の回路のほうが先に育ってしまう。逆に、上達そのものを自分で記録すること――前より速く弾けた小節、前より綺麗に撮れた一枚――は、内容に紐づいた報酬なので、動機づけを支える側に働くかもしれない。

  • ギターを一週間触ってみて、人に聴かせる予定がない日にも弦を持つか。録音してもしばらく人に送らずにおき、代わりに「先週より弾けるようになった部分」を自分でメモしてみる
  • 写真を毎日一枚撮ってみて、投稿するかどうかは後回しにし、誰にも見せない写真が増えても撮り続けるか
  • 簡単なコードを書いてみて、動いた瞬間に満足しているか、それとも見せる相手がいないことに物足りなさを感じるか
  • 革小物や鉱石研磨のような手仕事を一つ仕上げてみて、人に見せる前に、完成後もその変化を自分で眺めているか

どれも、借りたり手持ちの道具で試したりして、最初から一式をそろえずに確かめる道はありそうだ。道具の質より、SNSのアカウントを作る前に、あるいは人に話す前に、しばらく自分だけで続けてみる期間があるかどうかのほうが、何かを教えてくれる気がする。もっとも、これも試してみないと本当のところはわからない。

それでも、印象を気にする自分は残る

ここまで書いておいて、印象を完全に無視しろとは思わない。Leary と Kowalski の整理を踏まえれば、人からどう見えるかを気にするのは、人の対人行動に組み込まれた、ごく普通の働きであり、それ自体を悪者にする必要はない。

ただ、気になるのはその優先順位と、その後の運用の仕方だ。「面白いかどうか」より先に「印象がいいかどうか」を判定基準にしてしまうのは、なぜだろう。おそらく、印象は他人の反応というかたちですぐに確認できるのに対して、自分が本当に面白いと感じているかどうかは、時間をかけて確かめるしかないからだ。手っ取り早く確認できるほうに判断が寄るのは、ある意味で自然な近道だが、近道の先で反応を数え続ける習慣まで一緒に持ち帰ると、Lepper たちの実験が示した通り、もともとの興味そのものが目減りしていく可能性がある。

「かっこいいから」という理由を完全に排除する必要はない。ただ、それを最初の判定基準にした瞬間そのものより、その後に「反応を期待し、確認する」回路をどれだけ強く組み込むか、そして探求の幅を早々に閉じてしまわないかのほうが、その趣味が自分のものとして残るかどうかを左右している、という程度には、疑ってみる価値がある。

始めた理由は、後から書き換えられる

趣味を持て、という話ではない。持たなくてもいい。ただ、何かに時間を使うとき、それを選んだ最初の理由が「見せるため」だったとしても、そこで確定するわけではないらしい。始めた理由が何であれ、その後にどんな確認の習慣を自分の中に作るかで、同じ行為が消えるものにも残るものにもなる。

もっと言えば、動機の由来を過去に探しにいくこと自体が、あまり実りのない作業なのかもしれない。始めたときの自分がどう考えていたかは、記憶の中で何度も書き換えられていて、今さら正確に取り出せるものでもない。これを書いている自分にしても、この文章を「面白いと思って書いている」のか「書けることを見せたくて書いている」のか、正直なところ完全には切り分けられていない。だから、続けているものがあるなら、始めた動機を今さら疑うより、今この瞬間、誰も見ていない時間にもそれをやっているかどうかを、確かめてみるほうが早い。

出典

  • 厚生労働省 (2021). 新たな履歴書の様式例の作成について(厚生労働省履歴書様式例). リーフレット LL030419就01. 日本規格協会によるJIS規格の解説からの履歴書様式例の削除は二〇二〇年七月。
  • Warren, C., & Campbell, M. C. (2014). What Makes Things Cool? How Autonomy Influences Perceived Coolness. Journal of Consumer Research, 41(2), 543–563. 要旨で確認。
  • Dar-Nimrod, I., Hansen, I. G., Proulx, T., Lehman, D. R., Chapman, B. P., & Duberstein, P. R. (2012). Coolness: An Empirical Investigation. Journal of Individual Differences, 33(3), 175–185. 要旨で確認。
  • Leary, M. R., & Kowalski, R. M. (1990). Impression Management: A Literature Review and Two-Component Model. Psychological Bulletin, 107(1), 34–47.
  • Jones, E. E., & Pittman, T. S. (1982). Toward a General Theory of Strategic Self-Presentation. In J. Suls (Ed.), Psychological Perspectives on the Self (Vol. 1, pp. 231–262). Erlbaum.(章の本文は未確認。巻・頁と自己宣伝の分類は、他の文献での引用による)
  • Marcia, J. E. (1966). Development and Validation of Ego-Identity Status. Journal of Personality and Social Psychology, 3(5), 551–558.
  • Lepper, M. R., Greene, D., & Nisbett, R. E. (1973). Undermining Children's Intrinsic Interest with Extrinsic Reward: A Test of the "Overjustification" Hypothesis. Journal of Personality and Social Psychology, 28(1), 129–137.(51人・賞状・群別の結果は、二次的な紹介による。原典の表は未確認)
  • Deci, E. L. (1971). Effects of Externally Mediated Rewards on Intrinsic Motivation. Journal of Personality and Social Psychology, 18(1), 105–115.
  • Deci, E. L., Koestner, R., & Ryan, R. M. (1999). A Meta-Analytic Review of Experiments Examining the Effects of Extrinsic Rewards on Intrinsic Motivation. Psychological Bulletin, 125(6), 627–668.
  • Cameron, J., & Pierce, W. D. (1994). Reinforcement, Reward, and Intrinsic Motivation: A Meta-Analysis. Review of Educational Research, 64(3), 363–423.(全文は未確認。報酬の種類ごとの結果は、Deci, Koestner, & Ryan, 1999 の要約による)
  • Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being. American Psychologist, 55(1), 68–78.
  • Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
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