ficus.life/趣味
目次
作ることと消費することを分けるのは、心が「今ここ」にあるかどうかだ

作ることと消費することを分けるのは、心が「今ここ」にあるかどうかだ

「作ること」は「消費すること」より偉いのか。手を動かした者だけが幸せになれるわけではないらしい——両者を分けているのは行為の種類そのものではなく、もっと厄介な何かかもしれない。

TOMOAKI··趣味

フィードを指でなぞる。誰かが撮った皿の写真、誰かが編集した15秒の動画、誰かの意見への誰かの反論。指は動いているのに、何も作っていない。気づけば30分が消え、何を見たかもろくに思い出せない。一方で、毛糸を編む、粘土をこねる、文章を書く。指の動きだけを見れば大差ないのに、終わったあとの感覚はまるで違う、とよく言われる。作ることは良く、消費することは怠惰である、という単純な図式である。この図式は半分正しく、半分は雑すぎる。雑なまま受け取ると、「作る趣味さえ始めれば安泰だ」という別の思い込みに横滑りしてしまう。

「手を動かせば幸せになる」という説の弱いところ

編み物についての調査がある。2013年に英国の作業療法学術誌に発表されたもので、3545人の編み手にアンケートを取ったところ、81.5%が編んだあとに「より幸福だ」と回答し、もともと抑うつ傾向があると答えた人ほど、編んだあとの気分改善が大きかったという(Riley, Corkhill, Morrisによる報告)。数字だけ見れば、編み物は安価な抗うつ剤のように見える。陶芸やガーデニング、パン捏ねについても、似た体裁の調査や体験談は探せばいくらでも出てくる。手を動かす行為はどれも、語られるときには効能書きが同じ形をしている。

ただし、この調査には弱点がある。回答者は「すでに編み物をしている人」であって、無作為に選ばれた人々ではない。編み物が嫌いな人、あるいは編んでも気分が晴れなかった人は、そもそもこの調査の母集団に入っていない可能性が高い。因果の向きも定かではない——編み物が人を幸福にしたのか、もともと機嫌のいい人が編み物を続けやすかっただけなのか、この設計では区別がつかない。作ることの効能を語る文章の多くが、こうした自己選択のかかった調査を無批判に引用する。ここでも同じ轍を踏まないために、まずこの限界を認めておく必要がある。

この種の欠落は、統計学ではよく知られた形で繰り返されてきた。第二次世界大戦中、帰還した爆撃機の被弾箇所を調べた米軍は、当初、弾痕が集中していた翼や胴体に装甲を追加しようとした。統計学者のアブラハム・ヴァルドはここで発想を逆転させる。装甲を厚くすべきなのは弾痕が少ない箇所、たとえばエンジン周りの方だ、と指摘したのである。理由は単純で、そこを撃たれた機体は帰ってこられず、調査対象にすら入っていなかったからだ。生き残った機体だけを見て「安全な箇所」を特定しようとすれば、結論は正反対にひっくり返る。編み物の調査における「すでに編んでいる人」は、この帰還機に近い。編んでも気分が晴れなかった人、途中でやめた人は、弾を受けて帰らなかった機体と同じように、そもそも回答欄に現れない。手を動かす趣味の効能を語る言説の多くが、生き残った側の証言だけを集めた、静かな生存者バイアスの上に立っている疑いがある。

幸福を分けているのは、行為の種類ではないかもしれない

もっと厳密な実験がある。ハーバード大学のマシュー・キリングワースとダニエル・ギルバートが2010年に発表した研究で、iPhoneアプリを使い、2250人の被験者にランダムなタイミングで「今何をしているか」「心はそこにあるか、それとも別のことを考えているか」「今どれくらい幸せか」を尋ねた。結果、人は起きている時間の46.9%において、今していることとは別のことを考えていた。ほぼ半分である。そして統計的に見ると、幸福感を左右していたのは「何をしているか」よりも「心がそこにあるかどうか」の方だった——活動の種類が幸福感の分散を説明する割合はわずか4.6%だったのに対し、心が今ここにあるかどうかは10.8%を説明した。時間差を使った分析では、心が別の場所に飛ぶことが不幸の原因であって、逆に不幸だから心が飛ぶわけではないことも示唆されている。

この現象には、もう少し手前の神経科学的な下敷きがある。ハーバード大学のマルコム・メイソンらが2007年に発表した研究では、課題に集中しているときに活動が抑えられ、心が内側に向かって漂い始めると活発になる脳の回路がある、と報告されている。デフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる回路である。課題への没頭には、この回路を静める働きがあるらしい、というのがそこでの示唆だった。反芻的な物思いや将来への漠然とした不安の多くが、まさにこの回路の働きと結びついていると考えられている。もっとも、この分野の研究はまだ発展途上で、瞑想の効果や創造性の効果とそのまま同一視できるほど単純な話ではない。それでも、この研究に「編み物」や「SNS」という項目が個別にあったわけではないという注意書きの上で言えば、含意ははっきりしている。作る行為が消費より優れているように見えるとしたら、それは作ることが本質的に尊いからではなく、単に心をその場に留めやすい構造をしているからにすぎない可能性がある。編み目を一つ落とせば作品全体が崩れる。文章を書いていて別のことを考えれば、書いた文がすぐにおかしくなる。作ることは、心が迷子になりにくいように設計された活動なのだ。裏を返せば、心ここにあらずのまま手を動かしているだけの「作業」——単純作業のライン仕事や、惰性で続ける習い事——は、この効果を持たない。逆に、皿洗いや掃除のように「消費」に分類されない地味な家事であっても、手順に集中していれば同じ効果を持ちうる。作ることそのものに魔法があるわけではない。

フィードはなぜ、特別に居心地が悪いのか

消費が一律に悪いわけでもない。読書や音楽鑑賞まで含めて「受け身だから駄目」と切り捨てるのは、さすがに乱暴だ。フィードだけが特別に消耗を感じさせるのだとすれば、そこには読書にはない何かがあるはずである。手がかりになるのは、社会心理学者のレオン・フェスティンガーが1954年に提示した社会的比較理論だ。人は自分の能力や意見の水準を測る絶対的な物差しを持たないため、周囲の他人と絶えず比べることでそれを推し量ろうとする、という前提から出発する理論である。厄介なのは、この比較が主に「自分に近い」と感じる相手との間で強く働くという点にある。遠い国の資産家と自分を比べても心は動かないのに、似た境遇の知人が投稿する充実げな写真には、なぜか心がざわつく。読書をしていて、著者の人生と自分の人生を秒単位で比較させられることは、普通はない。フィードが特殊なのは、この「近い他人」との比較材料がひっきりなしに更新され続ける点にある。

心理学者のフィリップ・ヴェルダインらは、Facebookの利用を「能動的な利用」(自分から発信する、コメントする、やり取りする)と「受動的な利用」(他人の投稿をただ眺める)に分け、2015年の研究で、受動的な利用が幸福感を下げる経路をたどった。鍵になっていたのは、まさにこの比較から生じる「妬み」である。他人の充実した投稿を眺めて上方比較が起き、その妬みの感情を統計的に取り除くと、受動的利用と幸福感の間の関連はほぼ消えたという。クラスノヴァらが2013年に行った調査はさらに具体的な数字を示している。回答者のおよそ3人に1人が、Facebookを訪れたあとに以前より悪い気分になったと答え、その理由として最も多く名指しされたのが妬みだった。旅行先の写真、仕事の昇進報告、休日らしい休日の記録——投稿する側にとっては何気ない共有でも、眺める側にとっては絶え間ない比較の材料になる。ちなみに、世界的な集計によれば人々は1日あたり平均で140分あまりをSNSに費やしているとの報告もある(Statistaの集計による)。一日の1割近くを、この比較という装置に費やしている計算になる。

ただし、この「能動的なら良い、受動的なら悪い」という図式自体、そこまで頑丈ではないことも付け加えておく必要がある。ゴダードとホルツマンが2024年に発表したメタ分析では、約14万5000人分のデータを含む141件の研究をまとめて検証したところ、能動的な利用と受動的な利用のどちらであるかは、幸福感を含む大半の指標とはほとんど関係していなかった。効果量の多くはごくわずかで、受動的な利用が悪い結果と結びついていたのは、一般的なSNS利用の文脈に限られ、SNS上の特定のグループ内でのやり取りに限ると、その関連は見られなかったという。個別の実験が示す明快な物語と、多数の研究を束ねたときに残る地味な実像との間には、いつも距離がある。フィードの設計や比較の仕組みが害を及ぼしうるという理屈自体は崩れないとしても、「能動的か受動的か」という一本の軸だけで人の幸福感を割り切ろうとするのは、どうやら性急すぎるということだ。

能動的なら何でもいいわけでもない

ここでもう一つ反転が要る。「能動的に発信する側に回れば解決する」という単純化も、また甘い。自分の作った刺繍やクラフトを撮って投稿し、いいねの数を気にし始めた瞬間、それは「作ること」でありながら、同時に他人の評価にすがる消費的な構造を持ち始める。作ることと消費することの境界は、行為の外形では引けない。同じ刺し方をしていても、誰かに見せるために針を動かしているのか、自分の手の感触を確かめるために動かしているのかで、心の中で起きていることはまったく違う。発信という行為自体が救ってくれるわけではなく、発信の動機が評価の獲得に偏った瞬間、フィードを眺めているのと同じ比較構造に自分から戻ってしまう。

報酬が入った瞬間に、作ることも消費のようになる

この点をさらに裏づける、少し意地の悪い実験がある。心理学者のエドワード・デシが1971年に行ったもので、大学生にソーマキューブというパズルを解かせた。パズルは元々、多くの参加者が休憩時間にも自発的に触り続けるほど面白いものだった。ある日だけ、パズルを一つ解くごとに1ドルを支払うという条件を挟んだところ、報酬をもらった日の休憩時間には参加者はそれまでより長くパズルに触れていた。ところが翌日、報酬をやめて元の無報酬に戻すと、参加者がパズルに触れる時間は、報酬を一度も与えられなかった対照群よりも短くなった。外的な報酬を一度知ってしまうと、それがなくなったとたん、同じ行為への興味そのものが目減りする。この「過正当化効果」と呼ばれる現象は、後に多くの追試で確認されている。

これは作ることと消費することの境界に、もう一枚別の層を足す話だ。趣味として始めた創作が、いいねの数字や収益という報酬と結びついた瞬間、行為の性質そのものが静かに変質する。土をこねることが「作品を投稿して評価を得るための手段」に置き換わったとき、それはもう指を動かしてフィードを追いかけているのと、動機の構造としてはさほど遠くない場所に立っている。作ることは、消費の対極にあるのではなく、条件次第で消費側にいくらでも寄っていく、地続きの行為なのだと考えた方がいい。副業として趣味を収益化することそのものが悪いわけではないだろう。ただ、収益や評価という物差しを持ち込んだ瞬間に、それまで無報酬でも続けられていた行為の一部が、静かに別のものへすり替わっているかもしれない、という自覚だけは持っておいた方がいい。

自己決定理論が示す、もう一つの分岐点

ここまでに出てきた話は、デシがライアンと2000年に提唱した自己決定理論という一つの枠組みに集約できる。この理論では、人には「有能感」(自分がうまくやれているという感覚)、「自律性」(自分の意志で選んでいるという感覚)、「関係性」(他者とつながっているという感覚)という三つの心理的欲求があり、これらが満たされるほど動機づけと幸福感が高まるとされる。逆にこれらが満たされないと、人は受動的で無気力になっていくという。

この枠組みに当てはめると、粘土をこねる、文章を書くといった行為が満たしやすいのは主に有能感と自律性である。土は思い通りに動かないから、少しでもうまく扱えたときの手応えがはっきりしている。何を作るか、いつやめるかも基本的に自分次第だ。仕事における作業と趣味における作業がしばしば体感として別物になるのも、この自律性の有無で説明がつく部分が大きい。同じ文章を書くという行為でも、締め切りと発注者の要求に従って書くときと、自分のためだけに書くときとでは、自律性の充足度がまるで違う。

対してアルゴリズムが選んだ動画を延々と眺める行為は、この二つの欲求をほとんど満たさない。次に何が流れてくるかを自分は選んでいないし、うまく眺められたかどうかを測る物差しもない。消費が空虚に感じられるとしたら、行為が「受け身」だからというより、この二つの欲求が素通りされ続けるからだと考えた方が説明がつく。三つ目の「関係性」についても、フィードは友人との近況共有という体裁を取りながら、実際には一方的な閲覧が大半を占める点で、期待されたほどこの欲求を満たしていない場合が多い。そして先ほどのデシの実験は、この三つの欲求のうち自律性が、外的な報酬によっていかにあっさり損なわれるかを示してもいる。

作ることが先か、機嫌がいいことが先か

ではやはり、作る側に回れば幸福になるのか。この問いに正面から答えようとした調査がある。心理学者のタムリン・コナーらが2016年に発表した13日間の日誌調査で、658人の若年成人に、その日どれだけ創造的な活動に時間を使ったか、その日の気分、その日の心理的充実度(フラーリッシング)を毎日記録してもらった。結果、創造的な活動をいつもより多くした日の翌日には、活動的なポジティブ感情と心理的充実度が高くなっていた。重要なのは、逆方向——その日の機嫌が良かったから翌日創造的な活動をした、という向きの関係は支持されなかった点である。つまり、機嫌のいい人がたまたま趣味に手を出しているだけ、という単純な説明では片付かない構造が見えている。

とはいえ、この調査も自己申告に基づく相関の分析であり、13日間という期間も、若年成人という対象も限定的だ。「作れば幸福になる」という因果を完全に証明したとまでは言えない。ただ、機嫌の良さが先に来るという逆方向の説明が退けられた分だけ、少なくとも偶然の一致ではなさそうだ、というところまでは言える。研究者たちはこの関係を「上向きの螺旋」と呼んでいる。創造的な行動が翌日の充実感を高め、その充実感がまた同じ日の創造的な活動を後押しする、という循環である。だとしても、螺旋は下向きにも回りうる。フィードを眺めて妬みを募らせた日の翌日に、また同じフィードを開いてしまう構造も、形としては同じ螺旋なのだ。上向きの螺旋も下向きの螺旋も、最初のきっかけは似たようなものだったかもしれない。手持ち無沙汰な数分、何かで埋めたいという衝動。その数分に何を差し出すかで、翌日以降の流れがわずかに傾いていく——差は劇的ではなく、13日という調査期間の中でようやく統計的に浮かび上がってくる程度の、ささやかな傾きにすぎない。だが螺旋である以上、ささやかな傾きは積み重なる。一日単位で見れば誤差にしか見えないものが、一年単位で見れば別人のような習慣の違いになっていても、驚くことではない。

何を作るかは、実はそれほど重要ではない

ここまでの議論は抽象的に流れがちなので、一度手触りのある場面に戻す。庭の土を掘り返して球根を植えるとき、爪の間に入り込む土の冷たさや湿り気は、フィードのどんな高精細な映像よりも情報量が多い。生の玉ねぎを刻んで炒めれば、匂いと音と焦げ具合の変化を同時に追うことになり、考えごとをする余地は自然と狭まる。ノートにその日あったことを書きつけるだけの日記も、うまい文章を書こうとさえしなければ、誰かに見せる前提のない、区切りのはっきりした行為になる。共通しているのは、どれも「材料が思い通りに動いてくれない」という抵抗を伴う点だ。生地はこねすぎれば固くなるし、球根は深く植えすぎれば芽が出ない。この抵抗こそが、意識をその場に縛りつける仕掛けになっている。

だからといって、道具や技術の水準が結果を決めるわけではない。高価な陶芸窯を買っても、手が思考の外に飛んでいれば効果は薄いし、逆に台所にある鍋一つでも、玉ねぎの色の変化に注意を向け続けられれば、条件は十分に満たされる。何を作るかを選ぶことよりも、選んだ対象にどれだけ抵抗があり、その抵抗にどれだけ意識を向け続けられるかの方が、ここでは重要な変数になる。抵抗のない対象を選んでしまうと、せっかく手を動かしていても、フィードを眺めるのと似た空虚さに着地することがある。出来合いのキットを説明書どおりに組み立てるだけの作業や、結果が最初から見えている単純作業がそれにあたる。「作る」という言葉が指す範囲は広く、その中にも、意識を留めやすいものとそうでないものが、思いのほかはっきり分かれている。同じ理由で、「消費」という言葉が指す範囲も一枚岩ではない。フィードのスクロールと、時間をかけて選んだ一冊を読む行為とを、同じ「消費」という言葉で束ねてしまうこと自体が、そもそも粗すぎる分類なのだろう。言葉のカテゴリーが、体験の質の違いを覆い隠してしまっている場面は、この話に限らず案外多い。

それでも残る、単純な事実

ここまでの話を並べると、当初の「作ることは尊く、消費することは怠惰」という図式は、かなり崩れる。効いているのは行為の物理的な形ではなく、心がそこに留まっているか、選んでいる感覚があるか、比較や予測不能な報酬にさらされていないかという、もっと目に見えにくい条件の方だ。刺繍をしながら別のことばかり考えていれば、その刺繍はフィードをぼんやり眺めるのとそう変わらない体験になりうる。逆に、丁寧に文章を読み、著者の論の運びを追いながら自分の考えと照らし合わせる読書は、指を動かしていなくても十分に「作る」側の条件を満たしうる。

丁寧に作られた映画を集中して観る、複雑な構成の音楽を聴きながらその構造を追う、といった鑑賞も同じだ。こうした鑑賞は外形としては受け身だが、対象の作りを理解しようとする分だけ有能感を刺激し、鑑賞のペースや対象を自分で選ぶ分だけ自律性も保たれる。フィードの消費と対をなしているのは「作ること」というより「注意を向ける対象を誰が選んでいるか」という、もう一段抽象的な軸なのかもしれない。

それでも一つ、単純な事実は残る。土をこねる、針を刺す、文字を書くという行為には、フィードのスクロールにはない区切りがあるということだ。粘土は乾けばそこで一区切りがつき、原稿は書き終えれば手が止まる。次から次へと供給され続ける消費と違って、作る行為の多くには「ここで終わり」という輪郭がある。この輪郭のなさこそが、フィードという消費行為から人を離れにくくしている一番の理由なのかもしれない。心理学者のミハイ・チクセントミハイが没入状態を指して呼んだ「フロー」という言葉が念頭に置くのも、本来は素材の種類ではなく、挑戦と技能が釣り合った状態そのものである。

だが、この輪郭の正体を、フローという一語だけで片付けてしまうのはもったいない。自己決定理論の言葉に置き換えれば、区切りが果たしている役割は二つある。一つは、区切りがあることで「うまくやれた」という有能感の判定が下せる点だ。編み目の数が合っていれば作品は完成し、合っていなければやり直しになる。判定基準が自分の手元にあるという構造そのものが、有能感を具体的な形にする。もう一つは、いつ始めていつ終えるかを自分で決められるという自律性の確認だ。フィードには、この二つの判定を下す機会そのものが存在しない。動画は次から次へと流れ、区切りをつけるかどうかの判断は視聴者ではなくアルゴリズムの側に握られている。輪郭のなさが問題なのではなく、輪郭を引く権限がどちらの手にあるかが問題なのだ、と言い換えた方が正確かもしれない。

だとすれば、問うべきは「作っているか消費しているか」ではなく、今自分がしていることに、選んでいる感覚と、うまくやれている手応えと、比較や予測不能な報酬から離れた静けさがあるかどうか、ということになる。これは処方箋にはならない問いだが、少なくとも、フィードを閉じる理由の説明にはなる。

指の動きより先に見るべきもの

朝、無意識にフィードを開いていた自分に気づく瞬間がある。そこで「作る趣味を始めよう」と決意するのも一つの答えだが、もっと手前で確かめられることがある。今しているこの行為に、自分は選んでいる感覚を持っているか。今この瞬間、心はどこか別の場所に飛んでいないか。次に何が来るか分からない報酬を待っているだけではないか。誰かと自分を比べる装置に、また無自覚に乗ってしまっていないか。答えのどれかが「いいえ」に傾くなら、その行為が編み物であってもフィードであっても、体験としての差はそう大きくないのだと思う。

逆に言えば、フィードを開くこと自体を敵視する必要もない。友人の近況を確かめて安心するために数分だけ開き、それで満足して閉じられるなら、それは十分に自律的な選択だ。問題になるのは、開いた覚えのないまま気づけば30分が過ぎている、あの感覚の方である。何分開いていたかという時間の長さそのものより、開いた瞬間に自分がそれを選んだという自覚があったかどうかの方が、あとから振り返ったときの後味を左右するように思う。作ることと消費することの間にある溝は、思っていたより浅く、そして別のところに、もっと深い溝が走っている。

出典

  • Riley, J., Corkhill, B., & Morris, C. (2013). The Benefits of Knitting for Personal and Social Wellbeing in Adulthood: Findings from an International Survey. British Journal of Occupational Therapy, 76(2).
  • Killingsworth, M. A., & Gilbert, D. T. (2010). A Wandering Mind Is an Unhappy Mind. Science, 330(6006), 932.
  • Mason, M. F., Norton, M. I., Van Horn, J. D., Wegner, D. M., Grafton, S. T., & Macrae, C. N. (2007). Wandering Minds: The Default Network and Stimulus-Independent Thought. Science, 315(5810).
  • Festinger, L. (1954). A Theory of Social Comparison Processes. Human Relations, 7(2).
  • Verduyn, P., Lee, D. S., Park, J., Shablack, H., Orvell, A., Bayer, J., Ybarra, O., Jonides, J., & Kross, E. (2015). Passive Facebook Usage Undermines Affective Well-Being: Experimental and Longitudinal Evidence. Journal of Experimental Psychology: General, 144(2).
  • Krasnova, H., Wenninger, H., Widjaja, T., & Buxmann, P. (2013). Envy on Facebook: A Hidden Threat to Users' Life Satisfaction? Wirtschaftsinformatik Proceedings.
  • Mangel, M., & Samaniego, F. J. (1984). Abraham Wald's Work on Aircraft Survivability. Journal of the American Statistical Association, 79(386).
  • Godard, R., & Holtzman, S. (2024). Are Active and Passive Social Media Use Related to Mental Health, Wellbeing, and Social Support Outcomes? A Meta-Analysis of 141 Studies. Journal of Computer-Mediated Communication, 29(1).
  • Deci, E. L. (1971). Effects of Externally Mediated Rewards on Intrinsic Motivation. Journal of Personality and Social Psychology, 18(1).
  • Deci, E. L., & Ryan, R. M. (2000). Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being. American Psychologist, 55(1).
  • Conner, T. S., DeYoung, C. G., & Silvia, P. J. (2016). Everyday Creative Activity as a Path to Flourishing. The Journal of Positive Psychology, 13(2).
  • Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
  • Statista (2025). Daily time spent on social media worldwide.