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本棚を外すと、机は机に戻る

本棚を外すと、机は机に戻る

心理学者Dunckerが1945年に示した「機能的固着」は、ロウソクと画鋲の箱の実験に由来する。学習机を大人の机に作り替えるとき、本当に外す価値があるのは天板の傷ではなく、この固着の方かもしれない。

TOMOAKI··趣味

実家の物置に、学習机が一台、埃をかぶって立っている。天板にはコンパスの針が残した無数の点があり、側面にはがしきれなかったシールの跡が白く浮いている。処分するにも運び出す手間を考えると気が重く、かといって使う予定もない。そういう状態のまま、もう何年も同じ場所に置かれている机を持つ人は、たぶん自分だけではないだろう。

この机を見るたびに考えるのは、思い出をどう扱うかという話ではない。もっと即物的な問いだ。目の前にあるのは、脚が四本ついた、天板のある、引き出しの下がった木の塊にすぎない。定義だけを見れば、これは今すぐにでも机として機能できる状態にある。それなのに、なぜ自分はこれを「使える机」として認識できず、「片付けるべき遺物」としてしか見ていないのか。答えは木材の劣化でも、デザインの古さでもない。おそらく、自分の頭の中で、この物体に貼られたラベルがまだ「学習机」のままだから、というだけの話だ。

固着という言葉の由来

この種のラベルの張り付き方には、心理学の中ですでに名前がついている。ドイツの心理学者カール・ドゥンカーが1945年に発表した論文「On Problem-Solving」で報告した実験は、いまでも「ロウソク問題」として紹介される定番の課題だ。被験者に、ロウソク、マッチ、画鋲の入った箱を渡し、壁にロウソクを固定して火をつけても蝋が机に垂れないようにしてほしい、と依頼する。正解は、箱から画鋲を全部出し、その空の箱を画鋲で壁に留め、その上にロウソクを立てるというものだ。単純に思えるが、ドゥンカーの実験ではこの箱を画鋲入りの状態で提示した場合、正解にたどり着いた被験者は43パーセントにとどまった。空の箱を最初から画鋲とは別に置いておいた場合には、正解率は100パーセントに跳ね上がっている。

この差を生んでいるのが「機能的固着」と呼ばれる現象だ。箱は本来、画鋲を入れるための容器としても、ロウソクを立てるための台としても使える、ただの直方体の木片にすぎない。ところが人は、その箱が画鋲の容器として提示された瞬間、その用途以外の可能性を見えにくくしてしまう。物の形そのものは何も変わっていないのに、最初に与えられた役割の情報だけで、その物が持つ選択肢の幅が主観的に狭まってしまうわけだ。学習机を前にしたときの手詰まり感は、この箱と画鋲の関係に驚くほど近い。机はただの天板と脚の組み合わせであり、大人の作業台としても、子供の勉強道具としても使える形をしている。ただ、最初に与えられた役割の情報の方が、いまも頭の中で強く効いている。

数分の刷り込みでも効くのなら

この固着がどれほど簡単に、そしてどれほど根深く生まれるのかを確かめたのが、心理学者ロバート・アダムソンが1952年に発表した追試研究だ。アダムソンはドゥンカーの実験の材料をわずかに変え、画鋲をあらかじめ箱から出して机の上に並べたうえで空の箱だけを渡す条件と、画鋲が入ったままの箱を渡す条件を比較している。結果、空の箱を渡された被験者は、画鋲入りの箱を渡された被験者のおよそ二倍の確率で、箱を蝋受けとして使う解決策にたどり着いた。箱の中に画鋲が見えている、ただそれだけの視覚情報が、箱を「容器」という役割に縛りつけていたことになる。

同様の効果は、物を実際に触らせなくても得られるらしい。言語学者のマイケル・フランクとマイケル・ラムスカーが2003年に発表した実験では、ロウソク問題の説明文の中で、道具の名詞をどう強調するかという、文章上の操作だけを変えている。標準的な指示文をそのまま読ませた群の正答率はわずか23パーセントにとどまったが、「画鋲の入った箱」という名詞句全体を下線で強調した群では55パーセントまで、名詞そのものだけを強調した群でも47パーセントまで正答率が上がった。箱そのものは指一本触れられていない。変わったのは、その箱がどう言語的に切り出されて提示されたかという一点だけだ。

ここで確認しておきたいのは、この二つの実験がどちらも、ごくわずかな操作だけで、これほどの差を生んでいるという点だ。箱を容器として一度目にしただけで、あるいは説明文の中の一語をどう強調するかだけで、その後の判断は大きく縛られる。だとすれば、学習机のように、六年、あるいは十年以上にわたって「勉強のための机」として毎日使われ続けてきた物体に対して、同種の固着がどれほど強固に築かれているかは、実験結果からの単純な延長で断定できる話ではないにせよ、少なくとも実験室で測定された効果の方向性からは、かなり分の悪い相手だろうと見当がつく。数分の視覚情報や一語の強調でここまで正答率が動くのなら、十年単位の刷り込みを覆すのに、天板を磨くだけでは足りないと考えておいた方が筋が通る。

五歳児にできて、大人にできないこと

この固着が生まれつきの性質ではなく、育つ過程で獲得されるものだという証拠もある。心理学者ティム・ジャーマンとマーガレット・デフェイターが2000年に発表した研究は、ドゥンカーの箱問題に似た課題を、五歳児、六歳から七歳の子供、そして大人に解かせている。結果は直感に反するものだった。五歳児は、箱が画鋲の容器として提示されていても、いなくても、同じくらい速く箱を台として使う解決策にたどり着いた。ところが六歳から七歳の子供と大人は、箱が容器として提示された場合に明らかに時間がかかった。年齢が上がるほど賢くなるはずなのに、この課題に関しては、幼いほど固着から自由だったことになる。

研究チームはこの結果を、物の機能に関する知識の蓄積が、かえって選択肢を狭めているためだと解釈している。まだ「箱とはこういうものだ」という知識が固まりきっていない五歳児には、箱を容器以外の何かとして見ることに、そもそも障壁がない。知識が増えるということは、同時に、物の見方の幅を狭めるということでもあるらしい。この構図を学習机に当てはめると、いくぶん皮肉な事実に行き当たる。目の前の机に「これは子供の勉強道具だ」という固い分類を刻み込んだのは、まさに自分がまだ幼く、この種の固着からいちばん自由だったはずの年齢の自分自身だったということだ。皮肉なことに、固着から最も遠い時期の自分が、後の自分をいちばん強く縛る分類を、その机に貼り付けてしまっていたことになる。

文化の外側でも机は机のままだった

この固着が、先進国の教育環境や消費文化が生んだ特殊な現象なのか、それとももっと根の深いものなのかを確かめた研究もある。心理学者ティム・ジャーマンとクラーク・バレットが2005年に発表した調査は、エクアドル領アマゾンに暮らすシュアール族の思春期の若者を対象に、機能的固着が見られるかどうかを検証している。工業製品にほとんど囲まれずに育つこの集団に対して、川に隔てられた二匹の動物を助けるために、スプーンなど手元の道具の中から橋として使えるものを選ばせるという課題を与えた。結果、スプーンがその本来の用途、つまり食事の道具として提示された場合、被験者はそれを橋として選ぶまでに、そうでない場合よりも長い時間を要した。大量生産品にほとんど触れずに育った集団でも、同じ固着が確認されたことになる。

この結果が示しているのは、機能的固着が特定の文化や教育制度の産物ではなく、人間が物の概念を記憶する仕組みそのものに組み込まれた、かなり普遍的な性質だという可能性だ。だとすれば、学習机を前にしたときの「これは子供のものだ」という感覚も、個人的な思い出の重さというより、もっと一般的な認知の癖として説明できる部分が大きいのかもしれない。厄介なのは、この固着が個人の性格や思い入れの強さとは無関係に働くという点だ。思い出に執着しない人でも、机を見れば同じように手が止まる。相手にしているのは感傷ではなく、もっと機械的な分類の仕組みの方だ。

使われていない机の方が多い、という調査

もっとも、この固着が生まれる前の段階、つまり机が現役で使われていた期間についても、実態を確かめておく価値がある。不動産関連会社の株式会社AlbaLinkが2024年8月に実施した、小学生以上の子供を持つ258人を対象にした調査によれば、学習机の購入後に後悔した点として「あまり使っていない」と回答した人が37人、「大きすぎた」と回答した人が40人にのぼったという。回答者数258人に対するこの数字は、決して少数派の声とは言えない。就学時にまとめて購入される学習机は、そもそも実際の使用頻度と、購入時に想定された使用頻度との間に、最初からずれを抱えている場合が少なくないということになる。この種のウェブアンケートは、母集団の代表性という点で学術的な調査ほどの厳密さは持たないが、少なくとも多くの家庭に共有されている実感を、数字として裏づける材料にはなる。

固着が強固に築かれるほど長く使われた机ばかりではなく、そもそも数年で本棚の隅に追いやられ、ろくに使われないまま「子供の机」というラベルだけを貼られて放置された机も相当数あるらしい、という話だ。使用実績の乏しさと、分類の強固さは、必ずしも比例しない。むしろ使われなかった時間が長いぶん、「これは何だったか」を検証し直す機会そのものが与えられないまま、ラベルだけが独り歩きしている場合もあるだろう。

本棚を外すという操作

ここまでの実験に共通する処方箋めいた要素を一つだけ取り出すなら、それは「対象を、それに付随する周辺情報から切り離して提示すると、固着が緩む」という一点になる。アダムソンの実験で正答率が回復したのは、箱という部品を、画鋲という周辺情報から意識的に切り離して見せたときだった。この操作を、机という物体に対して物理的にそのまま行う方法が一つある。学習机を野暮ったく、子供っぽく見せている最大の要因は、たいてい正面にそびえる本棚部分だ。この上棚を取り外し、天板と脚だけの平机にしてしまうと、机の輪郭そのものが変わる。本棚という、いかにも「勉強机の付属品」という周辺情報を取り除いた状態で天板と向き合うと、それが子供用に設計されたことを示す物理的な手がかりの多くが、視界から消える。

次の工程として、電動サンダーで古いニスの膜を削っていく人が多いようだ。番手を80番程度の粗いものから始め、120番、240番と徐々に細かくしていくと作業がしやすいという声もあるが、この順番や刻み方に唯一の正解があるわけではなく、木の状態を見ながら加減する部分が大きい。ステッカーの跡や落書きが消え、白い木肌が現れたとき、机は一度、素材としてのまっさらな状態に戻る。深いコンパスの跡や凹みは無理に消す必要はない。むしろオイルを塗ったときに陰影を生む、その机だけの手触りとして残しておいていい。最後に取っ手を交換する。プラスチック製の安価なパーツを真鍮やアイアン、陶器のものに替えるだけで、周辺情報としての「子供部屋らしさ」がもう一段抜け落ちる。どの工程も、本質的には同じことをしている。机という物体そのものは何も足していないのに、それを子供の道具だと判断させていた周辺の記号だけを、一つずつ外していく作業だ。

外した上棚も、それ単体では乾燥した良質の木材の塊にすぎない。捨てる前に、この部材についても同じ問いを立ててみる価値がある。棚板を横に倒してキャスターを取り付ければ、デスク下のファイルワゴンになる。背板を抜いて壁に固定する金具を付ければ、壁面に浮いた飾り棚にもなる。本体と同じ経年変化を経た素材なので、部屋の中で見た目が浮きにくい。これも、いったん切り離した部材を、また別のラベルの下に置き直しているだけの作業だ。「勉強机の付属品」という一つの分類に縛られていた部材が、外れた瞬間にもう一度、複数の可能性を持つ木片に戻る。

作業の途中でつまずくことも珍しくない。塗装がムラになった場合は、木材が呼吸している証拠でもあるらしく、乾燥後に400番程度の細かいヤスリで整えて塗り重ねれば、たいてい落ち着く。賃貸だと大がかりな作業は難しいと感じる場面もあるだろうが、ベランダに新聞紙を敷いて養生するなど、工夫の余地は案外残っている。粉塵が気になるなら、塗装の代わりに天然の蜜蝋ワックスを使う手もある。処分費用も、ヤスリやオイル、取っ手といった材料費も、決してゼロでは済まない金額になることが多く、作業時間も解体から塗装の乾燥待ちまで含めれば相応にかかる。金額や時間だけを見れば、処分して新しい机を買う選択との差は、思うほど大きくないかもしれない。差が出るとすれば、それは金額ではなく、その机が背負っているラベルの方だ。

素性を見極める

ただし、すべての学習机がこの作り替えに値するわけではない。手を動かす前に、机の素性を確かめておくと、その先の判断がしやすくなる。まず見るべきは天板の側面、いわゆる小口だ。年輪のような積層ではなく、木目を印刷しただけの薄いテープが貼られているなら、それはMDF合板で、研磨してもやり直しはきかない。厚みのある木そのものが覗いているなら、それは削り出す価値のある無垢材か厚突き板だ。引き出しの横板が桐や杉で作られているものも侮れない。日本の気候に合わせて調湿機能を持たせた作りで、接合部が蟻組みのような複雑な噛み合わせになっていれば、職人の技が宿った一台と見ていい。机全体を軽く揺すってみて、ネジを締め直すだけでガタつきが収まるなら、そのフレームには作り替えに耐える強度が残っている。逆に言えば、この見極めで見切りをつける勇気も要る。合板製の量産品まで無理に固着を外そうとする必要はない。

仕立ての方向

周辺情報を外し終えたあと、どう仕上げるかには複数の方向がある。厚いウレタン塗装を完全に剥がし、ワトコオイルのエボニーやダークウォルナットで浸透着色すれば、木の導管にオイルが染み込み、使い込むほどに艶が増していく落ち着いた仕上がりになる。既存の木製脚をマットブラックのアイアン脚に換装すれば、冷たい金属と数十年生きてきた木という対極の質感が組み合わさり、フラットな天板はケーブルマネジメントやモニターアームの設置も楽にしてくれる。ミルクペイントをラフに塗り重ね、乾燥後に角や縁をサンドペーパーで削って下地の木目を覗かせる仕上げもある。子供の頃につけた傷や凹みはパテで埋めず、そのテクスチャを活かしながら塗装を剥がしていく。どの方向を選ぶかに優劣はない。すでに「机」というラベルに戻った天板の上で、次に何をするつもりかによって決めればいい話だ。

誰が机の意味を書き換えるのか

本棚を外し、塗装を剥がし、取っ手を替える。この一連の作業は、固着を緩めるという意味では効果的だが、それだけでは「これは大人の机だ」という積極的な感覚までは生まれない。単に固着が外れて、机が中立な物体に戻っただけの状態だ。ここから先、その中立な物体を自分の机として引き受けるには、また別の作業が要る。

経営学者のジョン・ピアース、タチアナ・コストヴァ、カート・ダークスが2003年にまとめた心理的所有感の理論は、人がある対象を「自分のものだ」と感じるようになる経路を三つに整理している。一つ目は対象を統制する経路で、形や配置を自分の意思で変えられるほど、所有の感覚は強まる。二つ目は対象を深く知る経路で、素材や構造、来歴を詳しく知るほど、対象は自己と結びついて感じられる。三つ目は対象に自己を投じる経路で、時間や労力、注意を注ぎ込むほど、その対象は自分の一部のように感じられていく。この理論は本来、企業組織の中で従業員が仕事や道具に抱く所有意識を説明するために組み立てられたものであり、家具のリメイクにそのまま当てはめるのは厳密には拡大解釈になる。ただ、構造としての対応関係は見て取りやすい。

子供の頃、この机に対して自分が持っていたのは、法律上の意味での所有権に近いものであって、この三つの経路のどれとも縁がなかった。形は親が選び、配置は部屋の間取りが決め、素材や構造を意識することもなく、ただ与えられた場所に座っていただけだ。統制もしていなければ、深く知ってもおらず、労力を投じてもいない。今回、机を分解し、素性を確かめ、脚を選び、塗料を選び、何時間もかけて磨き上げる過程は、この三つの経路をまとめて踏み直す作業になっている。皮肉なのは、この机を最初に「自分の机」として受け取ったのは何年も前のはずなのに、心理的な意味でこの机を本当に自分のものにするのは、実はこれが初めてだという点だ。所有権と所有感は、思っている以上に別のものらしい。

三つの経路は、それぞれ別の場面で効いてくる。統制の経路は、脚をアイアンにするか木製のまま残すか、取っ手を真鍮にするか陶器にするかという、一つひとつの選択の場面で働く。知識の経路は、天板の小口を確かめ、引き出しの接合が蟻組みかどうかを調べ、この机がどんな作りで組まれていたのかを知っていく過程で働く。投資の経路は、サンダーをかけ、オイルを塗り重ね、乾燥を待つという、単純に時間のかかる作業の積み重ねそのものが担っている。三つのうちどれか一つだけでも、所有感はある程度は育つとピアースらは述べているが、三つが揃ったときの結びつきの強さは、どれか一つだけの場合とは質が違うという。学習机の作り替えという作業が、たまたまこの三つを一度にまとめて満たす構造になっているのは、偶然にしては都合が良すぎるほどだ。

心理的な所有と、物理的な体には別勘定がある

ただし、この所有感の理論を過信するのも危うい。統制し、知り、労力を投じたところで、机の物理的な寸法までは変わらない。学習机の多くは、天板の高さや奥行きが、成長期の子供の体格を基準に設計されている。心理的にどれだけ「自分の机だ」と感じられるようになっても、大人の体には低すぎる天板高や、ノートパソコンを開くには浅すぎる奥行きは、そのままでは残ってしまう。所有感の三つの経路は、あくまで対象への心理的な結びつきを説明する理論であって、人間工学的な適合を保証する理論ではない。塗装と取っ手だけを整えて満足し、椅子との高さの差を測り直さないまま長時間作業を続ければ、心理的な満足感とは裏腹に、肩や腰に負担が蓄積していく。固着を外し、所有感を育てたうえで、最後に必要になるのはやや無粋な採寸の作業だ。天板の高さが合わなければ、脚を継ぎ足すか、椅子の座面を上げるかして帳尻を合わせる。ロマンの話をしたすぐ後で申し訳ないが、この帳尻合わせを飛ばした机は、結局また使われなくなる。一つの目安として、椅子に座って肘を九十度に曲げたときの高さと、天板の上面がどれくらいずれているかを確かめてみるという方法がある。学習机の天板高は七十センチ前後に設定されていることが多く、身長百七十センチ台の成人がそのまま使うと、肘の位置よりわずかに低くなりがちだ。数センチの差は大したことがないように思えるが、毎日何時間も向き合う場所での数センチは、体感としては案外大きい。脚にコースターほどの厚みの木片をかませるだけでも解消できることが多いようで、この数センチのずれは、作り替えの過程で見落とされがちな点の一つだ。

もう一つ、見落としやすい点がある。統制と知識と投資の三つの経路をどれだけ丁寧に踏んでも、それによって生まれるのはあくまで「この机への」愛着であって、机に向かう時間の質そのものを保証するものではない。愛着のある机の前で、相変わらず仕事がはかどらない日はいくらでもある。所有感の理論は机との関係を説明してくれるが、机の前で自分が何をするかについては、何も教えてくれない。この区別を曖昧にしたまま作り替えに期待をかけすぎると、机が変わっても自分は変わらなかった、という当たり前の失望を後から味わうことになる。

ラベルを貼り直す

実家の物置に立っていたあの机を思い出す。あれは今も、脚が四本ついた、天板のある、引き出しの下がった木の塊のままだ。変わったのは物ではなく、それを見る自分の側の分類の方だった。本棚という周辺情報を外し、塗装を剥がして素材としてのまっさらな状態に戻し、そこに自分の手で統制と知識と労力を注ぎ込む。この一連の作業がやっていることは、突き詰めれば、幼い自分がまだ固着というものに縛られていなかった時期に貼ってしまったラベルを、大人になった今、もう一度、自分の手で貼り直すことだけだ。感傷を否定するつもりはないが、ここで起きている出来事の大部分は、もっと機械的で、もっと地味な、分類の書き換えの話だったのだと思う。机は最初から机だった。そのことに気づくのに、思いのほか手間がかかった、というだけのことだ。

出典

  • Duncker, K. (1945). On Problem-Solving. Psychological Monographs, 58(5), i-113.
  • Adamson, R. E. (1952). Functional Fixedness as Related to Problem Solving: A Repetition of Three Experiments. Journal of Experimental Psychology, 44(4), 288-291.
  • German, T. P., & Defeyter, M. A. (2000). Immunity to Functional Fixedness in Young Children. Psychonomic Bulletin & Review, 7(4), 707-712.
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  • Frank, M. C., & Ramscar, M. (2003). How do Presentation and Context Influence Representation for Functional Fixedness Tasks? Proceedings of the 25th Annual Meeting of the Cognitive Science Society.
  • Pierce, J. L., Kostova, T., & Dirks, K. T. (2003). The State of Psychological Ownership: Integrating and Extending a Century of Research. Review of General Psychology, 7(1), 84-107.
  • 株式会社AlbaLink「訳あり物件買取プロ」による学習机に関するアンケート調査(2024年8月4日~19日実施、小学生以上の子供を持つ258人対象)。