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「癒やし」という言葉を使わずに、自然観察について書いてみる
森を歩いたり鳥の声を聞き分けたりすることで実際に何が変わるのかを、大仰な言葉を使わずに、自分が経験した範囲で書き出してみる。
自然観察について書かれた文章には、たいてい「癒やし」という言葉が出てくる。森林浴は心を癒やし、鳥の声は心を癒やし、星空は心を癒やす。便利な言葉だと思う。何がどう良いのかを説明しなくても、とりあえずそこに置いておけば話がまとまる。
ただ、実際に切り株の前に座ったり、双眼鏡を覗いたりして起きていることは、「癒やし」というより地味な話だ。ここでは、その地味な部分だけを書いてみたい。
止まってみると、見えているものが変わる
歩いているとき、自分の注意は「次にどこへ進むか」に大半を使われている。木がある、道がある、程度の粗い認識で十分なので、脳もそのように処理している。だが同じ場所に三十分ほど座り続けると、その粗い認識では処理しきれない量の情報が入ってくる。苔の湿り方が場所によって違う、光の角度で影の輪郭が動く、羽虫が一定の間隔で同じ経路を飛ぶ。歩いているときには存在しないことになっていたものが、急に存在し始める。
これは神秘的な体験というより、単に処理する情報量を増やしただけの話だと思う。ただ、日常のほとんどの時間を「次にどこへ進むか」の判断だけに使っていることに気づかされる点では、悪くない三十分だった。
鳥の声を覚えると、街の音が分解される
バードウォッチングを続けて変わったのは、視界よりも先に聴覚の方だった。窓の外で鳴いているのがヒヨドリなのかシジュウカラなのか区別がつくようになると、それまで「鳥の声」という一つのまとまりだった音が、複数の音に分かれて聞こえるようになる。
これ自体は当たり前のことかもしれない。聞き分け方を覚えれば、聞き分けられるようになる。ただ、自分が住んでいる街の環境音を、何年も「一つのまとまり」としてしか聞いていなかったことには、少し驚いた。名前を知らないものは、たいてい一つに丸められて処理される。
双眼鏡は高価なものでなくてもいい。倍率よりも、手ぶれしにくい重さと視野の広さの方が、初めのうちは効いてくる。
庭やベランダで起きているのは、ただの分解の過程だ
生ゴミをコンポストに入れて土に還す、という行為も、書き方次第でいくらでも大げさにできる。「循環」「地球との対話」といった言葉を当てはめることもできるが、実際に起きているのは微生物が有機物を分解しているという、それだけの化学的な過程だ。
面白いのはむしろ、その地味な過程を数か月単位で見続けると、「ゴミ」と「土」の境界が自分の中で曖昧になってくることの方だ。捨てる瞬間には終わりに見えたものが、実際には途中でしかなかった。これは発見というより、当たり前のことを時間をかけて確認しただけなのだが、確認する前と後とでは、生ゴミを見る目が少し違う。
実際にやっていて助かっている工夫を挙げると、次のくらいのものだ。
- 観察は特定の一点を決めて、同じ場所を繰り返し見る方が変化に気づきやすい。毎回違う場所を見て回ると、何も覚えていないまま終わる。
- 道具は最初から良いものを揃えようとしない。双眼鏡もコンポスト容器も、続けるかどうか分からない段階で高価なものを買うと、続けること自体が目的化してしまう。
- 写真は撮らない回があってもいい。撮ることに気を取られると、見ることに使う時間がその分減る。
森林浴も、鳥の観察も、コンポストも、突き詰めれば「いつも粗く処理している対象を、しばらく解像度を上げて見てみる」という一つの行為の変奏でしかないのかもしれない。それが心にいいのかどうかは、正直よく分からない。ただ、粗いままで済ませていた時間の方が多かったことには、気づかされる。
