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曲がった道の由来を知ると「必然だった」と感じてしまうのはなぜか
運河の跡だとわかった曲がり道を、古地図で確かめる。その満足感の正体を、後知恵バイアスとナラティブ記憶の研究から疑ってみる。
こんな場面を考えてみる。通勤路の途中に、不自然にカーブした道がある。両側にはビルが並んでいて、道だけが妙な弧を描いている。理由を調べてみると、かつてそこを流れていた運河の跡だとわかる。国立国会図書館のデジタル地図と、市の郷土資料館が持つ明治期の地籍図を突き合わせると、確かにその弧の形とまったく同じ線を引いた水路が見つかる。それを知ってから、その道を歩くたびに、見えている風景の下にもう一枚、違う地図が重なっているような感覚が出てくるかもしれない。
休みの日に古地図を持って街を歩く、という趣味がある。その楽しさを人に説明しようとすると、つい「歴史を学ぶと日常の解像度が上がる」と言いたくなる。だが、その言い回し自体を一度疑ってみたい。手元に残る満足感の中身を分解していくと、思っていたよりも危うい仕組みの上に成り立っているらしいことがわかってくる。
賢者は歴史に学ぶ、のような話
歴史好きにはリーダーや経営者が多い、という話をどこかで聞いたことがある人は多いだろう。この話の出典を探しても、根拠と呼べるものにはたどり着きにくい。歴史に詳しい成功者の逸話は探せばいくらでも見つかるし、歴史に興味のない成功者の逸話も同じくらい見つかる。都合のいい例だけを並べて「だから歴史は役に立つ」と言うのは、この趣味が本来疑ってかかりたいはずの、根拠のない自己啓発の話法そのものだ。
「歴史は繰り返す」という言い方も、似たところがある。似た局面を過去に見つけて、今の状況と重ね合わせるのは楽しい作業だが、その楽しさは、パターンを見つけたい欲求が先に立っているだけかもしれない。似ている部分だけを拾い、違う部分を見落とせば、どんな二つの時代でも「似ている」と言えてしまう。歴史を知ることが未来を見通す力になる、というところまで踏み込むのは、たぶん買いかぶりすぎている。
もう一つ、この趣味にはよくある遊びがある。住んでいる街の字名を調べて、その由来を推測することだ。かつての職業や地形に由来する名前だとわかると、見慣れた地名が急に意味を持って見えてくる。ただしこの手の由来には、確定した史料に基づくものと、後世に語呂合わせで作られた俗説とが混在していることが多く、両者の境目は見た目ではまったく区別がつかない。地元の郷土史サイトを三つ開けば、同じ地名に三通りの由来説明が載っていることも珍しくなく、しかもどれも同じくらい自信たっぷりに書かれている。もっともらしい話ほど、実は根拠が薄いということが珍しくない。歴史を趣味にするというのは、こうした「もっともらしさ」と「正しさ」がずれる場面に、繰り返し出くわす営みでもある。
ここで話を「歴史に実用性はない」という、これもまた使い古された結論に着地させて終わりにしてもいい。だが、それではもったいない。もう少し踏み込んで、曲がった道の由来がわかった瞬間、自分の頭の中で実際に何が起きているのかを見ていきたい。あの妙にすっきりした納得感の正体からだ。
運河のあった道は、必然だったのか
心理学者バルーク・フィッシュホフが1975年に行った実験がある。19世紀初頭、ネパールのグルカ勢とイギリス軍が戦った英・グルカ戦争を題材にした150語ほどの文章を被験者に読ませ、起こりうる結末を4通り提示する。イギリスの勝利、グルカ側の勝利、膠着のうえ和平が成った場合、膠着したまま和平に至らなかった場合——このうちどれが実際に起きるかを知らないまま確率を見積もらせた集団と、四つの結末のうち一つを「これが実際に起きた結末だ」と伝えたうえで、文章の情報に照らして同じ確率を見積もらせた集団を比較する、という設計だ。
実験では、グルカ戦争のほかに、1967年のアトランタの暴動寸前の事件や、心理療法の事例など、計4つの題材が使われた。合わせて24通りの比較すべてで、知らされた結末の確率は上がっていた。差は3.6ポイントから23.4ポイント、平均10.8ポイント。結末を知らされた被験者の7割をわずかに超える人が、知らされなかった集団の平均を上回る確率を、その結末に割り振っていた。さらに、結末を知らされなかった被験者の中に「これは100%起きた」と言い切った者は一人もいなかったのに対し、結末を知らされた被験者のうち2.1%は、その結末に100%の確率を与えていた。もっとも、知らされた側の多くは、ほかの結末もまだありえたと考えていた。フィッシュホフはこの現象を「忍び寄る決定論」と呼んだ。起きたことは、起きる前から決まっていたかのように見えてしまう、という意味だ。
これを曲がった道に当てはめると、居心地の悪い話になる。道が運河の跡だと知る前、あの弧を描く道の形は、無数にありえた区画整理の結果の一つにすぎなかったはずだ。埋め立ての工事順序が少し違えば、その後の再開発計画者が少し別の判断をしていれば、道はもっと直線に近い形で残っていたかもしれない。だが「運河だった」と知った瞬間から、その形は唯一の必然的な帰結であるかのように感じられ始める。実際には、埋め立てのやり方も、その後の再区画のやり方も、いくらでも別の道筋がありえた。曲がっているのが当然に見えてくるのは、事実が変わったからではなく、自分の中で説明が一つに収束したからにすぎない。この趣味が繰り返し与えてくれる「腑に落ちた」という感覚の少なくとも一部は、単に情報が増えたことの副産物ではなく、後から知った結末に理由を逆算して当てはめる、この忍び寄る決定論そのものなのかもしれない。
詳しくなっても、消えるとは限らない
ここで期待したくなるのは、経験を積めば——つまりこの趣味を長く続け、その土地の歴史に詳しくなればなるほど——この錯覚から自由になれるのではないか、という筋書きだ。1991年にクリステンセン=サランスキーとウィルハムが122件の関連研究をまとめて分析したところ、課題への習熟度によって後知恵バイアスの効きめが変わりうることが報告されている。詳しくなれば、多少はましになるのかもしれない。
ただし同じ分析は、効果の大きさそのものは小さい(相関係数にして0.17)とも報告していて、著者たちは、このバイアスは言われているほど心配すべきものではないかもしれない、と書いている。それでも、課題や結果の伝え方によっては、判断が変わる人が最大で7〜27パーセントにのぼりうる、という試算も添えている。つまりこれは、条件しだいで現れ、現れても大きくはない現象だ。習熟度で効きめが変わるとしても、「詳しくなれば消える」とは別の話になる。長年古地図を眺めてきた郷土史家なら免れる、と言い切れるほどの材料もない。
これと隣り合う錯覚が、専門の歴史研究にもある、という指摘がある。ハーバード大学のムカルジーとゼックハウザーは、歴史研究そのものを対象に「説明バイアス」という現象を論じている。後知恵バイアスとは別物だと二人は断っているが、専門の歴史家を含む人々が、過去の出来事を因果的に説明するとき、実際の証拠が正当化する以上の確実性を、無自覚に文章へ滲ませてしまう傾向があるという。二人が例に挙げるのは、たとえば2008年の金融危機だ。ほとんど誰にも予見されなかったのに、起きたあとでは多くの人がすらすらと説明してみせた。その説明は、当時の意思決定者にとってどれだけ多くの別の未来がありえたかを、たいてい語らない、と二人は指摘する。なお、この論文は実験ではなく、論理と事例にもとづく理論的な論考である。当時の当事者たちは、今よりずっと不確かな霧の中で判断していた。趣味として古地図を眺めている人がこの罠に落ちても、意外ではない。専門家にも起こりうる癖なら、休日にカメラと古地図を持って歩く人間が無縁でいられる保証はない。
牛が舗装した道、という魅力的すぎる話
この種のわかりやすすぎる説明が、後から覆される例は他の都市にもある。ボストンの旧市街には、京都のような格子状の区画とは対照的な、迷路じみた曲がりくねった街路が広がっている。長らく語られてきたのは「入植者が放牧していた牛の踏み跡が、そのまま道になった」という説明で、思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンが1860年の随筆「富」に「牛がボストンを設計したと言われる。もっと下手な測量士もいる」と書いたほど、広く定着していた逸話だった。牛が地形の起伏や水はけの悪い場所を避けて歩いた跡が、そのまま人間の通り道になった、という筋書きは、確かに一枚の絵として気持ちがいい。
だが、マサチューセッツ歴史協会の館長だった歴史家ウィリアム・ファウラーは、2004年にボストン・グローブ紙の取材に答えて、この話をボストンで最もしぶとい神話の一つと呼んだ。計画などなかった、入植者は住みたい場所に家を建て、道は後から誰かが作った、というのが彼の説明だ。実際には、ショーマット半島という小さな土地の、仕事のある水辺の近くに人々が詰めかけ、思い思いの場所に家を建て、その隙間を縫うように道が後からできた。トライマウンテンと呼ばれた三つの丘の起伏も、道を曲げたとされる。のちに周囲の町を次々に併合したことも、市全体の道の不揃いを増した、という説明もある。牛一頭の物語より、はるかに込み入っていて、はるかに地味な説明だ。それでも「牛が設計した」という話の方が、今なお観光ガイドや雑学記事で繰り返し語られ続けている。わかりやすい主犯が一人いる説明は、大勢の無計画な意思決定が積み重なった説明よりも、圧倒的に流通しやすいということだろう。曲がった道の由来を調べるという趣味は、こうした「魅力的だが検証に耐えない説明」に、放っておけばいくらでも出くわす営みでもある。
先の通勤路の運河跡についても、同じ疑いを持ち続けたほうがいい。地籍図で線が重なったからといって、それが唯一の正解だという保証はどこにもない。同じ時期に別の水路が近くを流れていた可能性、埋め立て後に何度か区画整理が入って現在の形に近づいた可能性は、一枚の地図を突き合わせただけでは排除しきれない。牛の話ほど派手な誤りではないにせよ、自分の手元にある「これで説明はついた」という感覚も、検証の途中経過にすぎないと思っておいたほうが、実態に近いはずだ。
物語になった瞬間に、記憶に残りやすくなる
それでも、この趣味をやめる理由にはならない。なぜなら「腑に落ちた」感覚がある種の錯覚だとしても、それが記憶に残りやすいこと自体は、また別の確かな理由を持っているからだ。マーらの研究チームが2021年に発表したメタ分析は、37本の論文から抽出した150の効果量、3万3千人を超える参加者のデータをまとめている。結論ははっきりしていて、物語形式の文章は、説明文形式の文章に比べて理解も記憶も有意に優れ、その効果量(ヘッジズのg)は全体で0.55、理解で0.48、記憶で0.72だった。中くらいと形容されるが、この種の比較としては軽視できない差だ。もっとも、著者ら自身が、記憶についての研究には出版バイアスの兆候があると認めている。読んでから時間をおいて測った研究はわずか4本で、その差は統計的に確かとは言えない。物語が「長く」居座るかどうかは、まだ確かめられていない。
史跡の看板に書かれた「1932年竣工」という一文と、「かつてここを流れていた運河を埋め立てたら、この曲がり方だけが道路として残った」という説明は、情報量としてはさして変わらないかもしれない。だが後者には始まりと転換と結果があり、前者にはない。記憶に残りやすいのは、おそらく後者の方だろう。物語の骨格を持つ説明は、そうでない説明より頭に入りやすい。これは経験則ではなく、読んだ直後の理解と記憶については、統計的に裏づけられた差として存在する。史跡巡りが単なる年号の暗記より心に残るのだとしたら、その理由の少なくとも一部は、この趣味が自然と物語形式の説明を集めて回っているという、ただそれだけのことかもしれない。
ただ、ここで話は先ほどの忍び寄る決定論と、思わぬところで手を組んでしまう。物語が記憶に残りやすいのは、始まりから結末までが一つの筋として滑らかにつながっているからだ。そしてその滑らかさは、忍び寄る決定論が居着くための足場にもなりうる。腑に落ちる話ほど覚えていられ、覚えていられる話ほど「そうなるしかなかった」ように感じられる。この趣味の心地よさを支えている仕組みと、この趣味を油断させる仕組みは、別々の場所にあるのではなく、同じ一つの認知の癖から生えている、という見方もできる。よくできた説明に出会ったときほど、その出来のよさを疑ってかかる必要がある、ということになる。皮肉なことに、下手な説明——因果関係がすっきりしない、資料同士が食い違ったままの説明——の方が、むしろ実態に近いことも少なくない。
先に外れた予想の方が、よく覚えている
この趣味には、もう一つ地味な癖がある。曲がった道を見つけたとき、由来を調べる前に、まず自分なりの予想を立ててしまうという癖だ。「川の跡だろうか、それとも旧街道の名残だろうか」と見当をつけてから地図を開き、当たっていれば軽い満足、外れていれば意外性が残る。この順番が記憶に効くと直接示した研究は、ここで引くものの中にはない。ただ、推測を外した問題については、好奇心の強さと記憶が結びついていた。
カンらの2009年の研究は、雑学のクイズで、答えを推測させてから好奇心と自信の度合いを答えさせ、その後の記憶との関係を調べている。好奇心がもっとも強くなるのは、答えに自信が五分五分の問題で、まったくわからない問題でも確信のある問題でもなかった。脳画像の実験では、好奇心が強い問題ほど、報酬の予期に関わるとされる尾状核の活動が高かった。別の実験(16人が参加し、12人が追跡に戻った小さな実験)では、11〜16日後に記憶を確かめると、推測を外した問題のうち、最初に好奇心が強かった問題ほど、正解をよく覚えていた。自信を持って外した誤りほど、正解を知らされたあとで直りやすい、という報告もある(バターフィールドとメトカーフ、2001年)。1週間後に測り直した研究では、直りやすさは残ったものの、自信のあった誤りほど元の誤答に戻りやすかった(バトラーら、2011年)。
曲がった道を前にして、答え合わせの前にひとまず仮説を立ててみるという、この趣味にありがちな振る舞いは、単なる遊び心の演出ではなく、推測を外す、という条件に近いものを自分で作り出している行為でもある。古地図で答え合わせをする前に「たぶん川か街道の跡だろう」と見当をつけていた道の由来のほうが、あとまで細部を思い出せる、ということが起こりうる。逆に、最初から看板の説明文を読んで終わった史跡は、場所と名前が結びつかないまま薄れていく、ということもありそうだ。地味な習慣だが、好奇心の強かった外れほど覚えている、という一点に限れば、筋の通った振る舞いである。
ここで注意しておきたいのは、カンらの研究が調べたのは「意外だった答え」の記憶であって、予想が的中したときの満足感の記憶は分析されていない、という点だ。当てずっぽうが当たったときの気分の良さは、その場限りで消えていくのではないか、というのは研究の結果ではなく、私の推測にとどまる。もしそうなら、この趣味が本当に鍛えているのは、勘の鋭さではなく、外れることに慣れる耐性の方であり、当たった日より外れた日の方が結果的に記憶には多くを残している、という逆転も、そこに潜んでいることになる。
その場所である必要は、思ったより薄い
史跡を実際に歩くことにも、それらしい効能があるように語られがちだ。古代から伝わる「場所法」という記憶術は、頭の中に馴染みのある建物や道筋を思い浮かべ、そこに沿って覚えたい事柄を配置していくやり方で、二千年以上前のローマの弁論術の書物にすでに記述がある。歴史散策の効能を語るとき、この場所法の存在はしばしば「土地を歩くことには根拠がある」という主張の後ろ盾に使われる。実際に地面を踏み、坂の傾きや川の位置を体で確かめるからこそ記憶が深まる、という語り方だ。
だが、場所法そのものの仕組みを調べた研究に目を向けると、話は少し複雑になる。レッジらが2012年に行った実験では、参加者を三つの群に分けた。自宅のようによく知っている場所を使う群、直前に最大5分だけ探索した見知らぬ仮想空間を使う群、何も教えない群だ。結果、場所法の二つの群の成績にはほとんど差がなかった。5分の下見でも、住み慣れた場所と変わらなかったことになる。参加者は場所法に不慣れな学生で、場所法そのものの上乗せも大きくはなかった。さらに2019年、同じ研究グループのカプランらは、配置の違う三つの仮想空間(間取りのあるアパート、何もない野原、放射状の迷路)を使わせ、空間の覚えやすさやその空間についての知識、一人称視点のゲーム経験が、場所法の成績をどれだけ左右するかを調べた。空間の見取り図を再現させるとアパートが段違いに正確だったのに、単語の記憶成績の差は小さく、空間の知識と成績の相関も弱かった。
これが意味するのは、場所法の効果を生んでいるのは、その土地への深い馴染みや、空間の覚えやすさそのものではなく、もっと別の仕組みらしいということだ。著者らは、覚えたい事柄を、すでに頭にある手がかりの列に心像で結びつけるだけの「ペグ法」の一変種ではないか、とも述べている。だとすると「本物の史跡を、実際にその足で歩くからこそ記憶に刻まれる」という、この趣味が自分に語りがちな物語も、証拠の少なさという点では、曲がった道を必然だと感じてしまうあの錯覚と、案外近い場所に立っていることになる。史跡を歩く行為そのものが気持ちのよいものであることは疑わない。ただ、その気持ちよさの理由を、実証された仕組みだと思い込むのは、また別の話だ。歩くことが特別なのではなく、単に何かしらの空間的な骨組みに情報を引っかけているだけなら、その骨組みは架空の街でも構わないことになる。
もっとも、これは「歩かなくても同じだ」という話ではない。実際に足を運んだ史跡と、写真だけで済ませた史跡とでは、後から思い出す解像度がまるで違う、という感覚を持つ人は多そうだ。ただしその解像度の高さが、坂の傾斜や川の位置という物理的な情報のおかげなのか、単に移動という手間をかけたことへの思い入れの強さのおかげなのかは、少なくともここまでの研究からは切り分けられない。土地を歩くことの価値を、確かめずに済ませておける根拠として使うのはまだ早い、というくらいの慎重さで留めておきたい。
畳まない古地図
ここまでを一度並べ直してみる。歴史を学べば判断力が磨かれる、という主張には根拠が見当たらなかった。曲がった道の由来を知って覚える納得感は、後から結末に理由を当てはめる、認知の癖の産物である可能性がある。物語形式の説明が記憶に残りやすいのは事実だが、その残りやすさは、同じ癖をさらに強化する方向にも働きうる。予想を立ててから答え合わせをするという振る舞いは、好奇心の強かった外れは覚えている、という一点では、筋の通ったものかもしれない。そして史跡を実際に歩くことの効能は、思われているほど場所そのものに根ざしていないかもしれない。
並べてみると、この趣味を正当化する材料はほとんど残らない。判断力が磨かれるわけでもなく、未来が見通せるようになるわけでもなく、土地を歩くこと自体に特別な魔法があるという確証もない。それでも週末になると、また古地図を鞄に入れる人がいる。何も残らなかったわけではない。曲がった道の由来を確かめる作業を重ねるうちに身につくのは、知識の量ではなく、ある種の反射に近いものかもしれない。すっきりと腑に落ちる説明に出会ったとき、その「すっきりさ」自体を、もう一段疑ってみる反射。地形図を眺めて、今ここにある一つの道筋の裏に、選ばれなかった別の道筋がいくつも埋もれていたはずだと想像する反射。これは歴史から教訓を引き出す作業とは違う。教訓を差し出してくる説明ほど、まず疑ってかかる訓練に近い。
翌朝の判断が鋭くなるわけではないし、次に読む地図で似たような早合点をしないという保証もない。ただ、何も知らずに通り過ぎていた道を、少しだけ立ち止まって見るようになる、ということはありうるし、しかも立ち止まった先で「なるほど、そういうことだったのか」と思った瞬間こそ、もっとも用心すべき瞬間だということも、次第にわかってくる。
ボストンの牛の逸話を最初に聞いたとき、疑いなく面白がった人は多いだろう。あとになって、それが地元の歴史家に「最もしぶとい神話の一つ」と呼ばれていると知ると、単純な落胆ではなく、もう少し据わりの悪い感覚が残るのではないか。騙されていたことへの苛立ちよりも、自分がなぜあの説明をあれほど気持ちよく受け入れていたのかという方に、興味が向く人もいるだろう。答えの手がかりは、今回並べてきた研究の中にある。物語として滑らかな話は、読んだ直後には記憶に残りやすい。厄介なのは、その「残りやすさ」と「正しさ」のあいだに、保証された対応関係が何一つないという事実の方だ。
古地図には、答えを渡してくれる道具ではなく、自分がどれだけ簡単に答えを作り出してしまうかを見せてくれる道具として、手元に残しておく理由がある。
出典
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