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40代で「楽しみがない」と感じたら、まず疑いたい「趣味のROI」という発想

40代で「楽しみがない」と感じたら、まず疑いたい「趣味のROI」という発想

趣味を投資として語り、リターンを計算する発想そのものが、機会費用や快楽適応をめぐる研究から見ると裏目に出やすい。40代特有の時間感覚まで含めて、その発想の限界を辿る。

TOMOAKI··趣味

職場では判断を迫られる立場にあり、家庭では親として、あるいは子や親の世話をする側として役割を果たす。手帳を開けば、そこに並ぶ予定のほとんどが自分以外の誰かのためのものだと気づく瞬間がある。「40代 楽しみがない」という検索が絶えないのは、この空白が特定の誰かの怠慢の結果ではなく、この年代に構造的に起きやすい現象だからだろう。責任の量が増えるのと反比例するように、自分のためだけに使える時間の絶対量が減っていく。減っていく資源をどう配分するかという発想が生まれるのは、むしろ自然なことですらある。

その空白を埋めるために、近ごろよく見かける処方がある。趣味を「自己投資」と位置づけ、期待できるリターンをあらかじめ整理してから始めるという語り口だ。知的探求型の趣味なら判断力の向上、身体表現型の趣味ならストレス耐性の獲得、というように、始める前に効能を言語化する。一見すると理にかなっている。限られた時間を無駄にしないための、大人らしい慎重さのようにも映る。効率と成果に慣れた人間が、慣れた語彙で新しい領域に足を踏み入れようとしているだけのようにも見える。だが、この発想そのものを、始める前に一度疑ってみる価値がある。

「投資」という言葉がなぜここまで浸透したのか

そもそも、なぜ趣味を語るのに「投資」という金融の語彙がここまで自然に使われるようになったのか。自己啓発書や研修資料の世界では、休暇も人脈も学習も、すべて「自己投資」という一語でまとめて語られる。四十代の多くは、部下の育成計画や予算配分の会議で、この語彙を日常的に使っている側でもある。仕事で使い慣れた道具をそのまま私生活に持ち込むのは、ごく自然な流用に見える。だが、道具には向き不向きがある。予算配分の会議で機会費用を検討するのは正しい態度だが、同じ態度を余暇にまで拡張してよいかどうかは、また別の問題として検討する必要がある。

厄介なのは、「投資」という語彙そのものが、リターンの計測を前提にした思考の型を一緒に運んでくることだ。投資という言葉を使った瞬間、頭の中には自動的に「回収」「利回り」「損切り」といった一連の付属語彙が呼び出される。趣味に「投資」という看板を掲げることは、自分でも気づかないうちに、この付属語彙一式を持ち込む契約を結んでいるようなものだ。看板だけを変えて中身は変えない、というわけにはいかない。

機会費用を意識させられると、人は始めるのをやめる

「趣味のROI」という発想が魅力的に映るのは、それが機会費用――何かを選ぶことで失われる、選ばなかった選択肢の価値――を可視化してくれるように感じられるからだ。この一時間を趣味に使わなければ、代わりに何ができたか。副業の勉強、家族との時間、単純な休息。それらと天秤にかけたうえで、割に合う趣味だけを選び取ろうとする。合理的な態度に見えるし、実際、経済学の教科書はそう教えている。あらゆる選択には機会費用が伴い、それを無視した意思決定は非合理だ、と。

ところが消費者心理を扱った研究の蓄積は、この直感とは逆の事実を示している。機会費用を意識することそのものが、人を「やめる」方向に押しやりやすいのだ。イェール大学のシェーン・フレデリックらが2009年に発表した研究では、14.99ドルのDVDを買うかどうかを尋ねる実験が行われた。何も言わずに尋ねた条件では75%が購入すると答えたのに対し、「そのお金は他の買い物にも使える」という一文を添えて機会費用を意識させた条件では、購入意向が55%まで下がった。人は放っておけば機会費用をほとんど考えずに決断しているが、いったん意識させられると、その決断に急にブレーキがかかる。この研究チームは、他の実験群でも同様の傾向――機会費用への言及が、支出そのものを控えさせる方向に働くこと――を確認している。

これは趣味にとって都合の悪い話だ。趣味を「投資」として語ることは、その行為自体が機会費用を絶えず前景化する仕掛けにほかならない。リターンを計算しようとする姿勢は、裏を返せば「この時間を他に使えたのではないか」という発想を、趣味をやっている最中も常に併走させることになる。始める前から、いつでも撤退できる理由を用意しているようなものだ。もっとも、この効果の大きさについては留保が必要でもある。後年に行われた追試の集積では、フレデリックらの元の実験ほど大きな差は再現されておらず、効果量そのものはかなり小さいという指摘もある。機会費用を意識させれば必ず人が及び腰になる、と単純に言い切るには材料が足りない。それでも、意識させることが行動の後押しにはならず、せいぜい中立か、多くの場合はブレーキとして働くという方向性自体は、複数の追試を経てもなお崩れていない。ROIという言葉を趣味に持ち込むことは、少なくとも背中を押す方向には作用しないと考えたほうがよさそうだ。

百歩譲って「当たり」を引けたとしても

仮に機会費用の壁を乗り越え、リターンの最大化に成功する趣味を選び当てられたとしよう。効果は長続きするだろうか。ここで参照したいのは、心理学者フィリップ・ブリックマンらが1978年に発表した、宝くじ当選者を対象にした調査である。高額当選者22人、性別や年齢を揃えた対照群22人、事故で下半身麻痺を負った22人という三つの群を比較したところ、当選者の幸福度は対照群と有意な差がなかった。それどころか、友人と話す、朝食を食べる、褒められるといった日常のささやかな出来事から得られる喜びの度合いは、対照群よりむしろ低かった。0から5の尺度で採点すると、当選者の平均は4.00、対照群は3.82とわずかに上回ってさえいる。麻痺を負った群は平均2.96とやや低かったが、事故という破局的な出来事の重さを思えば、その落差は驚くほど小さい。

この研究が示したのは、幸福には個人ごとの基準点があり、良いことも悪いことも、時間とともにその基準点へと引き戻されていくという構図だった。俗に「快楽の踏み車」と呼ばれる現象である。趣味選びに置き換えれば、どれだけ吟味してリターンの高い趣味を選び当てたとしても、それに慣れてしまえば、選ぶ前とさほど変わらない地点に戻ってくるということになる。つまり「正しい趣味」を選ぶという発想そのものが、そもそも狙っている的を外している可能性がある。的が動くのではない。的に近づいた瞬間、自分の感じ方の基準のほうが動いてしまうのだ。ROIを最大化するという発想は、リターンを生む対象を固定して考えがちだが、実際に変動しているのは対象ではなく、それを受け取る側の感度のほうだということになる。

「何もしなくていい」への逃げ道ではない

ここまでの話を聞いて、「どうせ慣れてしまうなら、無理に何かを始める必要もない」と結論づけたくなるかもしれない。快楽適応の研究を都合よく読めば、そういう開き直りにも見える。だが、これは急ぎすぎた着地だ。ここでもう一つの研究を挟む必要がある。

心理学者トーマス・ギロビッチとヴィクトリア・メドヴェックが1994年に発表した後悔の研究によれば、後悔には時間的なパターンがある。何かをして失敗したことへの後悔は短期的には強いが、時間が経つにつれて薄れていく。逆に、やらなかったことへの後悔は、当初はそれほど強くなくても、時間の経過とともにじわじわと重くなり、長期的には行動した後悔よりも大きくなる。電話調査や書面によるアンケート、面接調査を組み合わせて確認されたこの傾向は、後年に行われた大規模な追試でも、効果の強さにばらつきはあるものの、いくつかの実験設計でおおむね支持されている。人生を振り返ったときに重くのしかかるのは、失敗した記憶よりも、機会があったのに動かなかった記憶のほうだということだ。

この知見を踏まえると、「慣れてしまうから始めなくていい」という結論は危うい。快楽適応が教えているのは、選んだ趣味に永遠には安住できないということであって、選ばなかったことが安全だということではまったくない。むしろ後悔研究が示すのは逆の力学だ。何を選んでも慣れて色褪せるという事実と、選ばなかったことは後になるほど重く効いてくるという事実は、矛盾せずに両立する。どちらも「趣味のROI」という枠組みが見落としている部分であり、二つを合わせると、リターンを計算して見送るという選択そのものが、長い目で見ればもっとも分の悪い選択肢だということになる。

なぜ新しい一歩だけが重く見えるのか

それでも、新しい趣味に手を伸ばすことには独特の重さがつきまとう。この重さの正体を説明するのが、心理学者ダニエル・カーネマンとデール・ミラーが1986年に提示した「規範理論」である。彼らの理論によれば、人は現実をそのまま受け止めるのではなく、頭の中で「もしこうだったら」という代替の筋書きを自動的に組み立てながら受け止めている。そして、ありふれた行動から外れた選択――普段しないことをした、いつもと違う道を通った――は、それだけで代替の筋書きを思い浮かべやすくなり、結果が悪かったときの後悔や、結果が良かったときの高揚感を、通常よりも強く引き起こす。これは「例外性効果」と呼ばれる現象で、その後の反実仮想思考の研究でも繰り返し確認されている。

四十代になって新しい趣味を始めることは、まさにこの「ありふれた行動から外れた選択」にあたる。すでに慣れ親しんだ過ごし方――帰宅して動画を見る、休日に家事を片付ける――から外れて、まったく知らない教室の扉を開けることは、失敗したときの後悔をことさら大きく感じさせる構造になっている。だから足がすくむ。これは意志の弱さではなく、代替の筋書きを想像しやすい状況にあえて自分を置いているという、認知の仕組みの結果に近い。裏を返せば、選択肢が「例外」に見えなくなるまで小さく始めれば、この重さそのものを軽くできるということでもある。週末を丸ごと使う教室に申し込むよりも、通勤経路をひとつ変えてみる程度の小さな逸脱のほうが「例外」として認識されにくく、後悔の増幅も起こりにくいというのが、規範理論から読み取れる構図である。

この理論が併せて示しているのは、後悔の大きさが、結果そのものの重大さよりも、代替の筋書きの想像しやすさに左右されるという、やや不合理にも思える性質だ。大きな決断であっても、代替案が思い浮かびにくい状況であれば後悔は小さく、逆にささいな選択であっても、簡単に「あのときこうしていれば」と思い描けてしまう状況では後悔が膨らむ。四十代が新しい趣味を前に足踏みするのは、選択の重大さそのものというより、いつもと違う一歩の代替案があまりにも鮮明に想像できてしまうからだ、と考えたほうが実情に近いのかもしれない。

四十代でこの葛藤が先鋭化する理由

ここまでの話は年齢を問わず成り立つはずなのに、なぜ四十代でとりわけ切実に感じられるのか。手がかりの一つは、時間の体感速度に関する研究にある。心理学者マルク・ヴィットマンとザンドラ・レーンホフが2005年に14歳から94歳までの499人を対象に行った調査では、直近一週間や一か月といった短い期間の体感速度は年齢とはあまり関係しなかった一方、直近十年という長いスパンの体感速度は、年齢が上がるほど明確に速く感じられるという結果が出ている。四十代は、ちょうど「この十年、何をしていただろう」と振り返って愕然としやすい年齢に差しかかっている。二十代の十年と四十代の十年では、体感される密度そのものが違って感じられるということだ。

体感時間が加速していると感じるからこそ、残り時間を無駄にしたくないという焦りが生まれ、その焦りが「趣味にもリターンを求める」という発想を後押ししてしまう。皮肉なのは、その焦り自体が機会費用への過敏さを呼び込み、結果として何も始めないという選択に流れやすくなることだ。時間を惜しむ気持ちが、時間の使い道そのものを狭めてしまう。これが、この年代でこの手の悩みが集中して噴き出す理由の一つではないかと思う。時間が足りないと感じる年代ほど、時間の使い方を厳密に計算しようとして、かえって何にも手を出せなくなるという逆説がここにある。

動詞に立ち返るという迂回路

自分で変えられるという実感

では、リターンを計算せず、機会費用にも押し流されず、それでいて規範理論が説明する「例外」に見えるほど大きな一歩でもない始め方はあるのか。一つの迂回路は、趣味の名前ではなく、そこにあった行為そのものに立ち返ることだ。子供の頃、秘密基地を作るのが好きだったなら、そこにあったのは「組み立てる」という動詞であり、図鑑を眺めるのが好きだったなら「分類する」という動詞である。一人で近所を走り回るのが好きだったなら「探索する」という動詞かもしれない。

これは検証済みの理論というより素朴な自己観察の道具にすぎないが、「今どのジャンルが流行っているか」を探すより、「自分が繰り返し惹かれてきた動作は何か」を辿るほうが、選択肢を絞りやすいことがある。動詞は、始める前から結果を計算させる名詞よりも、規範理論のいう「例外」に見えにくいという利点もある。すでに何度もやったことのある動きの延長にすぎないからだ。「陶芸を始める」という名詞は例外に見えるが、「土を捏ねて形を作る」という動詞まで分解すれば、子供の頃の砂遊びの延長として、ずっと敷居が低く感じられる。

状況によって必要なものは違う

誰にも見せないノートに、その日の感情を記す

常に数字と論理に縛られて働いている人には、言葉を介さない身体的な活動が息抜きになりやすい。一方、家族のケアに追われて「中断されない時間」に飢えている人には、誰にも邪魔されない十五分の読書や日記のほうが効くかもしれない。育児と介護が重なる時期には、通勤中に耳だけを使う音声コンテンツのように、物理的な制約の中でも成立する選択肢のほうが現実的だ。逆に、対人的な調整業務に一日中追われている人にとっては、誰とも言葉を交わさずに済む一人時間そのものが最大の希少資源になる。

万人に効く「戦略的趣味ランキング」というものは、そもそも成立しにくい。今の自分が何に飢えているかによって、必要なものは変わる。この「今の自分」という変数を無視して一般解を探すこと自体が、趣味を投資案件のように扱う発想の延長線上にある。投資理論は、対象を固定して比較検討することを前提にしているが、飢えの中身が半年後には別のものに変わっているとすれば、固定した比較そのものが的外れになる。むしろ、半年ごとに「今、何が足りないか」を問い直すほうが、一度きりの最適解を探すより現実的だろう。

ここで留意したいのは、この「今の自分の飢え」を把握する作業自体を、また新たな自己分析プロジェクトに仕立て上げないことだ。飢えの正体を厳密に言語化しようとすればするほど、それはまた計測と評価の対象になっていく。むしろ大まかな見当をつけたら、そのまま試してみて、合わなければやめる。合わなさの理由を深く分析しない。この軽さを許容できるかどうかが、投資的な発想から抜け出せるかどうかの分かれ目になる。

趣味を仕事化してしまう、よくある罠

道具を買い揃えることで満足してしまう。SNSでの反応を気にして内容を調整してしまう。「何もしない時間」に罪悪感を覚えて、つい実用的な勉強に逃げてしまう。どれも四十代にありがちな罠だが、共通しているのは、趣味を「評価されるもの」に変えてしまっている点だ。評価される対象になった瞬間、それはもう機会費用の計算から逃れられない――評価されなかった場合の損失が、また新たな機会費用として立ち上がってくるからだ。上手くなることを目標に据えた時点で、「上手くならなかったこの時間は無駄だったのではないか」という問いが、いつでも呼び戻せる状態のまま待ち構えている。

評価の視線が届きにくい環境ほど、この罠から遠ざかりやすいという傾向は、ここまで見てきた研究群の延長線上に位置づけられる。道具を最小限にとどめている人、鍵アカウントや紙のノートのように誰にも見せない場所で続けている人、うまくいかなかった日を「今日は進まなかったね」で済ませられる余白を持っている人ほど、評価から切り離された状態を保ちやすいように見える。これは処方箋というより、罠を避けられている人に共通して観察される条件に近い。上達を目的にした瞬間、趣味は仕事の別名になる。そしてそれは、リターンを計算する発想が最初から抱えていた欠陥に、姿を変えて戻ってきただけということになる。評価から切り離すというのは、努力を放棄することではない。計算の対象から外すという、もう少し狭い操作にすぎない。

興味深いのは、この罠が四十代特有のものというより、むしろこの年代が過去に何度も潜り抜けてきた成功体験の裏返しだという点だ。仕事で成果を出すためには、道具を整え、評価の目を意識し、実用性を優先することが有効だった。だからこそ、その同じ手順を趣味に適用したくなる。手順そのものは間違っていない。間違っているのは適用先だ。評価によって伸びる領域と、評価から切り離すことで初めて成立する領域があるという、当たり前でありながら見落としやすい区別を、四十代になって改めて引き直す必要がある。

比較そのものをやめるという選択肢

ここまでの議論を裏返すと、一つの共通点が見えてくる。機会費用も、快楽適応も、後悔の非対称も、規範理論も、すべて「何かと何かを比較する」という操作を土台にして成り立っている。機会費用は選んだ道と選ばなかった道の比較であり、快楽適応は基準点との比較であり、後悔は現実と代替の筋書きとの比較である。趣味を巡る悩みの多くは、実のところ趣味そのものの選択の失敗ではなく、比較という操作を趣味の領域にまで持ち込んでしまったことの副作用なのではないか。

仕事の場では、比較なしに意思決定をすることは許されない。限られた予算を配分するとき、比較を怠ることは職務怠慢に近い。だが、その習慣がそのまま余暇にまで持ち越されると、比較の対象がない場所にまで比較の物差しを持ち込むことになる。趣味の時間に求められているのは、優劣をつけることではなく、比較を一時的に停止できる場所を確保することなのかもしれない。比較を停止するということは、思考停止とは違う。むしろ、いつでも作動している評価の回路を、意図的に一時停止させるという、それ自体ひとつの技術に近い。

計算の外に置いておくものについて

機会費用を意識すれば人は撤退し、良い選択を引き当てても慣れれば元に戻り、それでいて選ばなかったことは後になるほど重く効いてきて、規範から外れた一歩ほど後悔は増幅される。おまけに四十代という年齢そのものが、直近十年の体感速度を加速させ、その焦りが計算への依存をさらに強める。ここまで並べてみると、「趣味のROI」という発想は、ほとんどどの角度から検討しても分が悪い。都合の良い理屈を探して始まったはずの発想が、検討すればするほど自分の首を締めていく構図になっている。

それでも、この発想が繰り返し登場するのは、計算できないものを手元に置いておくことへの居心地の悪さが、多くの人に共通しているからだろう。口座の残高のように増減を確認できない時間の使い方は、たしかに不安を誘う。だが、その不安を解消する方法が「計算すること」だという前提そのものが、ここまで見てきた研究群によって静かに疑われている。計算をどれだけ精緻にしても、機会費用は消えず、慣れは訪れ、後悔の重心は行動しなかった側に傾き、時間は加速し続ける。計算の精度を上げる方向に努力を注ぐこと自体が、そもそも見当違いだったのかもしれない。

不安を解消できないまま何かを始めるのは、たしかに落ち着かない。だが、落ち着かなさを消してから始めようとする限り、機会費用への過敏さと、快楽適応と、後悔の非対称と、体感時間の加速が、代わる代わる始めることを先送りにする理由を差し出してくる。落ち着かなさを消すのではなく、落ち着かないまま抱えて始めるという選択のほうが、ここまでの研究群を踏まえるなら、むしろ理にかなっている。回収できるかどうかを確かめずに始めた時間を、どれだけ自分の意志で持てたか。四十代からの日々を支えるのは、たぶんその実感のほうだ。

出典

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