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友人になるには50時間、親しい友人には200時間かかるという研究がある
異業種交流会が疲れるのに、ボルダリングジムの帰り道はなぜか軽い。自己開示の心理学、弱い紐帯の研究、活動をともにすることの効果を並べて、その違いの正体を探る。
学生時代の友人とは自然に疎遠になり、職場の人間関係は利害でできている。予定のない週末に、自由というより空白を感じる時期があった。異業種交流会やマッチングアプリに何度か顔を出してみたこともあるが、そこで交わされるのは名刺の交換と当たり障りのない相槌がほとんどで、帰り道にはむしろ疲れが増えていた。一方で、ボルダリングのジムや古本市、読書会の帰り道は、同じくらい人と話しているはずなのに、なぜか軽い。この差が何によるものか、ずっと気になっていた。
内閣官房が2023年に公表した全国調査によれば、「孤独感がある」と答えた人の割合は2022年時点で40.3%にのぼり、前年の36.4%からさらに増えている。しかも孤独を「しばしば・常にある」と答えた比率がもっとも高かったのは30代で、高齢者ではなく働き盛りの世代だった。孤独は年を取ってから直面する問題だという前提自体が、すでに古いのかもしれない。友人を作る場としての異業種交流会が量産される一方で、当の孤独感は年々増えている——このねじれをどう説明すればいいのか、というのがこの記事の出発点になる。
自己紹介から始まる場が、なぜ重く感じるのか
親密さがどう生まれるかを実験的に確かめた研究がある。心理学者のアーサー・アロンらは、初対面の二人に段階的に踏み込んでいく36の質問を交互に尋ね合わせる手続きを設計した。「電話をかける前に、何を話すか練習することがあるか」のような軽い質問から始まり、次第に「あなたの家族について、最も温かい記憶は何か」のような踏み込んだ内容に進んでいく。対照群には雑談をしてもらうだけにした。結果、質問を交互に交換したペアは、対照群よりも有意に強い親密さを、その場の評定で報告した。ここで効いていたのは自己開示そのものではなく、それが段階的で、かつ双方向だったという点だ。
異業種交流会がうまくいきにくい理由は、たぶんここにある。あの場は「自己紹介」という、本来なら何十分もかけて少しずつ進めるべき工程を、名刺交換という数十秒の儀式に圧縮してしまっている。段階を踏まずに深さだけを求められても、話す側は何を差し出せばいいか分からず、結局は肩書きと業種という、最も安全で最も浅い情報の交換で終わる。趣味の場が機能するのは、話す内容そのものではなく、共通の対象について話すという迂回路がある分、開示の段階を強制せずに済むからだろう。
興味深いのは、アロンの実験がもともと恋愛関係の研究として設計されたものではなく、見知らぬ他人同士のあいだにでも親密さは人工的に作り出せるのか、という一般的な問いから出発している点だ。友情も恋愛も、この意味では同じ心理的な部品でできている。ただし部品が同じだからといって、組み立てる手順を飛ばしていいことにはならない。交流会の主催者が「今日は自己開示のワークをやりましょう」と号令をかけたところで、段階を踏まない自己開示はやはり機能しない。段階というのは、外から強制する形式ではなく、当人同士のペースでしか進められないものだからだ。趣味の場が優れているのは、その段階の進み方そのものを、参加者自身の会話量に委ねられる点にある。
ただ近くにいるだけで好意が生まれる、という研究の限界
物理的な近さそのものが好意を生むという現象は、社会心理学ではかなり古くから確認されている。1950年、レオン・フェスティンガーらはMIT近郊の学生寮ウェストゲート・ウェストで、誰と誰が友人になったかを調べた。結果、同じ建物に住む学生同士は、離れた建物の学生同士に比べて十倍以上の頻度で友人関係を築いており、なかでも階段や郵便受けの近く、つまり人と行き違う頻度が高い部屋に住む学生ほど、他のフロアの住人とも友人になりやすかった。単に同じ空間を共有しているだけで、接触の回数が友情の芽を用意してしまう。心理学者ロバート・ザイアンスが示した単純接触効果——繰り返し触れた対象を、それだけの理由で好ましく感じてしまう傾向——も、この現象の一部を説明している。
ここで一つ留保をつけたい。近さや繰り返しの接触は、好意の土台を作るが、それだけで十分ではないという反証もある。マイケル・ノートンらが2007年に発表した研究では、相手についての情報が増えるほど好感度が下がっていく現象が確認されている。ある実験では、複数の特徴を並べて紹介された架空の人物のほうが、一つか二つの特徴しか紹介されなかった人物よりも好感度が低くなった。オンラインデートの利用者を対象にした調査でも、実際に会う前より会った後のほうが、相手への好感も類似性の認識も下がっていた——情報が増えるほど、似ている点よりも異なる点のほうが目につくようになり、それが積み重なって「思っていたのと違う」という印象に転じてしまうのだという。つまり近さや接触回数は好意の必要条件ではあっても十分条件ではなく、その接触の中身が「その人らしさ」を心地よく開示するものでなければ、むしろ逆効果になりうる。
この観点から見直すと、趣味の場が有利なのは、対象への集中が会話の比重を下げ、相手の「地」の部分がゆっくりとしか見えてこない構造になっているからかもしれない。壁を登っている間、相手の政治的な意見や年収や結婚の有無は話題に上らない。上るための身体の使い方や、次のホールドをどう取るかという、当たり障りのない——しかしその人らしさが確かに滲む——情報だけが少しずつ交換されていく。情報の開示速度が抑えられている分、ノートンらが指摘した「情報過多による幻滅」が起きるより先に、好意の土台のほうが先に育ってしまう。これは意図された設計というより、対象に集中する趣味の場に、たまたま備わっている副産物だと考えたほうが正確だろう。
友情には、思ったより多くの時間がかかる
では、実際にどれくらいの接触があれば友情と呼べる関係になるのか。カンザス大学のジェフリー・ホールが2018年に発表した研究は、この問いに具体的な数字を出している。見知らぬ相手が「カジュアルな友人」と感じられるまでにはおよそ50時間、そこから「友人」と呼べる段階まで進むにはさらに90時間、「親しい友人」と呼べるまでには200時間以上が必要になるという。しかも、この時間はどんな種類でもいいわけではない。一緒に過ごした時間のうち、雑談や冗談を言い合う時間が友情の進展を最も強く予測しており、義務的な共同作業の時間はそれほど効いていなかった。
この数字を自分の生活に当てはめてみると、少し気が遠くなる。月に一度、二時間だけ集まる趣味のサークルなら、年間でも二十数時間にしかならない。カジュアルな友人の域にすら、一年では届かない計算だ。週末ごとに数時間通うボルダリングのジムなら、年間で百時間を超えることも珍しくなく、一年でカジュアルな友人の域を超え、「友人」と呼べる段階に届く可能性が出てくる。同じ「趣味の場」でも、頻度と一回あたりの滞在時間によって、たどり着ける関係の深さには最初から天井が決まっているのだ。異業種交流会が短命に終わりやすいのは、そもそも開催頻度が月一回や四半期に一回程度で、接触時間の絶対量がまったく足りないからでもある。年に数回顔を合わせただけで「人脈」と呼べる関係ができると期待するほうが、そもそも無理な話だったのかもしれない。逆に言えば、趣味の場に長く通い続けることそのものが、友情という結果を生む唯一の現実的な手段だということでもある。近道はない。
すべてが「親しい友人」にならなくていい
ここまでの話は「深い友情」を前提にしているが、そもそもすべての関係がそこを目指す必要はない。社会学者マーク・グラノヴェターが1973年に発表した論文は、転職に成功した人々を調べたところ、決定的な情報をもたらしたのは家族や親友のような強い紐帯ではなく、たまに顔を合わせる程度の弱い紐帯だったと報告している。強い紐帯どうしは似た情報しか持っていないが、弱い紐帯は自分の生活圏の外にある情報を運んでくる。友情を「強さ」でしか測らない発想は、この弱い紐帯そのものの価値を見落とす。
心理学者ジリアン・サンドストロームとエリザベス・ダンによる2014年の研究は、この弱い紐帯が幸福感にも直接効いていることを示した。行きつけのカフェの店員に、効率重視の事務的な会話ではなく、目を合わせて短い雑談を交わした日の利用者は、そうでない日よりも高い幸福感と所属感を報告している。趣味のサークルで顔を覚える程度の相手が何十人もいる状態は、それ自体がすでに一つの資産であり、全員を「親しい友人」に格上げする必要はない。むしろ、そこを急ぐ発想のほうが、200時間分の親密さを名刺交換の30秒に圧縮しようとする異業種交流会の発想に近づいてしまう。
そもそも人間が維持できる関係の総数には、はっきりとした上限があるという議論もある。人類学者ロビン・ダンバーが提唱した社会的ネットワークの構造では、人が安定して関係を保てる相手はおよそ150人が上限とされ、そのなかでも週に一度は連絡を取り合うような親しい層はおよそ15人、さらにそのうち最も濃い付き合いをする層はわずか5人にまで絞り込まれるという。人づき合いに割ける時間や認知的な資源そのものが有限である以上、趣味のサークルで出会った全員を「親しい友人」の5人枠に押し込もうとするのは、そもそも構造として無理がある。大半の関係は、月に一度顔を合わせる程度の外側の層にとどまり続けてよく、それは失敗ではなく、資源配分として自然な帰結だということになる。
会話より、並んで何かをすることが効く場合がある
元の話に戻ると、趣味の場が優れているのは「同じ対象を並んで眺める」という構造そのものにも理由がある。ロビン・ダンバーの研究室に所属するサム・ロバーツとダンバー自身が2015年に発表した18か月の追跡調査では、人間関係が生活の変化を経てどう変わるかを調べたところ、性別による違いが見つかっている。女性の友情関係は、会話の頻度を保つことで衰えを防げていたのに対し、男性の友情関係は、会話よりも一緒に何らかの活動をする頻度によって衰えが防がれていた。男性にとっては「話すこと」よりも「並んで何かをすること」のほうが、関係を保つ実効性が高いらしい。これは趣味の場が異業種交流会よりも機能しやすい、もう一つの構造的な理由を示唆している。
この研究結果は、男女の友情観をめぐる俗説――男性は表面的な付き合いしかできない、女性のほうが深い友情を築けるといった類の話――を裏付けるものとして紹介されがちだが、それはやや飛躍がある。データが示しているのは、関係を維持する「経路」が異なるという事実だけであり、到達する関係の深さそのものに優劣があるという話ではない。異業種交流会という場が、参加者に「会話を通じて自己開示する」という単一の経路しか用意していないのだとすれば、それは女性的とされる経路に最適化された場であり、活動を共有するという経路をそもそも選択肢に入れていないことになる。趣味の場が性別を問わず機能しやすいのは、会話という経路と活動を共有するという経路の両方を、同時に提供できる構造だからなのかもしれない。
さらに、共同で体を動かすこと自体に協力関係を強める効果があるという実験もある。スコット・ウィルターマスとチップ・ヒースが2009年に発表した研究では、他人と歩調を合わせて歩いた参加者は、バラバラに歩いた参加者よりも、その後の経済ゲームで協力的にふるまう傾向が強かった。歩調を合わせるだけで、明確な好意の高まりがなくても協力行動が増えたという点が興味深い。ただし、これは実験室での一回限りの操作による短期的な効果であり、長期の友情形成にそのまま当てはめられるかは別の問題だ。同じ動きを繰り返す趣味——ボルダリングでも合唱でもランニングでも——が続けやすい理由の一端ではあっても、それだけで関係が育つと考えるのは、さすがに実験の射程を超えた期待だろう。
この話が個人の悩みで済まなくなっている背景
ここまでは個人の体験と実験室の話だが、背景にはもう少し大きな変化がある。アメリカン・サーベイ・センター・オン・アメリカン・ライフが2021年に発表した調査によれば、「親しい友人が6人以上いる」と答えたアメリカ人男性の割合は、1990年の55%から2021年には27%まで半減し、逆に「親しい友人が一人もいない」と答えた男性の割合は3%から15%へと五倍に増えている。女性でも同様の縮小が見られるが、大きな友人ネットワークの減少幅は男性のほうが顕著だという。趣味を通じた出会いというテーマが最近になって語られるようになったのは、単なる流行ではなく、この三十年の間に大人の交友関係を支えていた土台そのものが痩せてきたからでもあるのだろう。
日本国内の状況を、まったく同じ物差しで比較できる調査はまだ見当たらないが、先に触れた内閣官房の全国調査が示す傾向は、方向としては重なる。孤独感を「常にある」「しばしばある」と答えた層は、単身世帯や、社会的な活動への参加頻度が低い層に偏っていた。裏を返せば、何らかの活動に定期的に参加していること自体が、孤独感を和らげる要因として機能している可能性がある、ということでもある。趣味のサークルという場が果たしている役割は、そこで生まれる個々の友情の総和というより、参加し続けているという事実そのものにあるのかもしれない。
続く場と続かない場を分けているもの
社会学者レイ・オルデンバーグは、家庭でも職場でもない「第三の場所」という概念を提唱した。そこでは肩書きや収入が意味を持たず、常連という緩い立場だけがものを言う。政治学者ロバート・パットナムはこれをさらに、内向きに固まる「結束型」の社会関係資本と、異なる背景の人同士をつなぐ「橋渡し型」の社会関係資本に分けて論じている。異業種交流会は、参加者の属性を意図的に混ぜているという点では橋渡し型を狙っているはずなのに、実際には機能しにくい。おそらく、オルデンバーグのいう第三の場所に必要な「会話そのものが目的ではなく副産物である」という条件を満たしていないからだ。名刺交換の場では会話が主役に据えられてしまい、そこに耐えられる関係の厚みがまだ存在しない。
ここで、冒頭に書いた「会話の余白があるかどうか」という自分なりの見分け方に戻る。プログラムが分刻みで、主宰者が喋り続ける場には、そもそも人と知り合う隙間がない。逆に、雑談や沈黙のための時間が意図的に残されている場は、続けて通いたくなる。ここまで見てきた研究を踏まえると、この直感には一応の裏付けがあるように思う。余白のある場は、自己開示を段階的に進める時間的な余地を残し、義務的でない雑談の蓄積を許し、常連という緩い立場を許容する。逆に効率化された場は、時間を圧縮した分だけ、そのすべての条件を切り詰めてしまっている。
ただし、余白さえあればどんな場でも機能するわけでもない。読書会でも、課題図書についての感想を順番に述べるだけの回が続くと、そこにあるのは会話の余白ではなく、単なる発言順の割り当てにすぎない。逆に古本市のように、目的そのものが「本を探す」という個人的な作業でありながら、隣の棚にいる人と偶然言葉を交わす余地が残されている場のほうが、皮肉にも人との距離は縮まりやすい。余白とは、時間割の空白のことではなく、その場にいる全員が同じ対象に多少の集中を向けながら、なお視線をそらして誰かと目を合わせられる、という二重の状態のことを指しているのだと思う。プログラムを空けるだけでは作れない。対象への集中度と、対人的な余白の量は、思っているよりも繊細なバランスの上に成り立っている。
離れていく人と、その後に交わす一言
趣味の場でなぜか人が離れていく人には、いくつか共通点があるように見える。過去の肩書きを話題にする。頼まれていないアドバイスをする。損得の匂いが見え隠れする。これは断定できるほどの調査に基づくものではなく、あくまで自分の観察の範囲の話にすぎない。強いて理屈をつけるなら、こうした振る舞いはいずれも「弱い紐帯としての心地よさ」を壊し、関係を望まない形で強い紐帯の力学——序列や評価——に引き戻してしまう、ということかもしれない。
連絡先を交換した後も、それだけでは何も始まらないようだ。教えてもらったことを調べてみた感想を後日一言だけ送るような、押しつけがましくないやり取りをしている人がいる一方で、すぐにまた会おうと畳みかける人もいる。両者のその後の続き方は、自分が見てきた範囲では違って見える。ホールの研究が示した通り、友情には時間の絶対量が必要だが、その時間を焦って前倒しにしようとする行為は、アロンの実験が前提としていた「段階を踏む」という条件そのものを壊しかねない。
維持にもコストがかかるという当たり前の事実
もう一つ、見落としがちな点がある。友情は一度できあがれば自動的に持続するものではない。ダンバーらの調査では、親しい友人であっても半年間まったく連絡を取らないと、心理的な近さの評価は「一般的な知人」の水準にまで落ちてしまうことが確認されている。ダンバーの社会的ネットワークの構造に従うなら、内側の15人ほどの層を保つにはおおむね月一回、さらに内側の5人ほどの層を保つには週一回に近い頻度の接触が必要だという。趣味のサークルに月一回通うだけでは、その場にいる間は心地よくても、関係を「友人」の水準まで押し上げ、かつ維持し続けるには、実は思っているより高い頻度が必要になる。
ここで少し意地の悪い計算をしてみる。月一回、二時間の頻度で通う趣味のサークルは、ダンバーのいう「月一回の接触」という条件だけは満たすものの、それは内側15人の層を維持するのに必要な最低限の頻度にすぎない。実際にはサークル内の全員と均等に会話するわけではなく、たまたま隣り合った数人との接触に時間が偏る。つまり同じ場に月一回通い続けても、そこから実際に「友人」の水準まで育つ相手は、せいぜい一人か二人にとどまるのが自然な帰結だということになる。趣味のサークルに通って何年も経つのに、友人と呼べる相手がそう多くない、という状態は、失敗の結果ではなく、この頻度と人数の掛け算からくる当然の帰結なのだろう。逆に言えば、同じ場に通い続けること自体が、接触の頻度を自動的に確保してくれる仕組みでもある。友達を作るために趣味のサークルに通うのではなく、趣味のサークルに通い続けることが、結果として友情の維持コストを勝手に支払ってくれている、という順番のほうが実態に近い。
偶然に条件を与えるということ
友達を作るために趣味を選んでいるわけではない。自分がより深く関わりたいと思えることに時間を使い、その過程でたまたま隣にいた人と目が合う。ここまで並べてきた研究は、その「たまたま」がなぜ趣味の場で起きやすく、異業種交流会では起きにくいのかを、それぞれ別の角度から裏付けているように見える。段階を踏んだ自己開示、繰り返しの接触、時間の絶対量、弱い紐帯そのものの価値、会話ではなく活動によって保たれる関係、そして会話が主役でない場だからこそ許される余白。どれか一つが決め手というより、これらの条件が同時に揃う場所として、たまたま趣味の場が機能しやすい、という言い方のほうが正確なのだろう。
だとすれば、結果を分けているのは「出会いを目的にした場」を探したかどうかではなく、自分が長く通い続けられる対象があったかどうか、時間の蓄積を許せたかどうかのほうらしい。友情は狙って作るものというより、条件さえ揃えば、あとは時間が代わりに仕事をしてくれるものに見える。
もっとも、これは処方箋にはならない。ホールの研究が示した200時間も、ダンバーが示した15人という枠も、狙って達成する類の目標には向いていない。目標として意識した瞬間、それはまた「出会いを目的にした場」の発想に逆戻りしてしまう。むしろこの数字群が役に立つのは、うまくいかなかった場を振り返るときのほうだろう。異業種交流会が疲れて終わった夜、自分の人付き合いの能力が足りなかったのだと結論づける必要はない。あの場の設計そのものが、そもそも接触時間も、段階を踏んだ開示も、活動を共有する経路も用意していなかった、というだけの話だ。壁を登りながら交わした数秒の会話のほうが、結果として遠くまで届くことがある。理由は、こちらのほうが人間らしいからではなく、こちらのほうが条件を多く満たしていたから、ということになる。
出典
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