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十七歳と六十代のあいだ、学ぶ脳に何が起きているか

十七歳と六十代のあいだ、学ぶ脳に何が起きているか

文法を学ぶ力は十七歳まで保たれ、その後も緩やかにしか衰えない。六十代の脳もジャグリングで灰白質を増やす。データは「もう遅い」を否定する一方で、もっと居心地の悪い条件を突きつけてくる。

TOMOAKI··趣味

大人になってから、誰に強制されるでもなく本を開くことがある。心理学だったり、天文学だったり、経済学だったり、対象は毎回違う。単位のためでも、資格のためでもない。それなのに、なぜわざわざ時間を割くのか、自分でもうまく説明できたことがない。

よく言われる説明はこうだ。学校の勉強には正解と評価がつきまとうが、大人の学びにはそれがない。だから自由に、純粋な好奇心だけで知識に向き合える、と。もっともらしい話だが、聞くたびにどこか出来すぎている気もする。「自由に学んでいる」という自己像そのものが、少し心地よすぎるのではないか。この疑いを脇に置いたまま、もう一つ別の疑いも浮かぶ。そもそも大人の脳は、子どもの脳と同じようには学べないのではないか、という疑いだ。もし後者が本当なら、前者の話は最初から成立しない。だから、まずこちらから確かめておく必要がある。

語学学習は十七歳で本当に手遅れになるのか

「語学は子どものうちにやらないと手遅れになる」という話を、一度も聞かずに育った大人はおそらく少ない。臨界期仮説と呼ばれるこの通説は、幼少期にしか開いていない学習の窓があり、それが閉じた後はどれだけ努力しても母語話者のようにはなれない、という主張だ。窓が閉じる時期については研究者の間でも意見が割れていて、二歳から十三歳までとする説もあれば、思春期前後とする説、二十代前半までとする説もある。この幅の広さ自体が、この仮説がまだ決着のついた話ではないことを物語っている。

そもそもこの話の出どころをたどると、1967年に言語学者のレネバーグが唱えた仮説にたどり着く。もともとは母語の習得についての主張で、思春期ごろに脳の左右の分化が固まり、それ以降は言語をゼロから覚える生得的な能力そのものが働かなくなる、という内容だった。これが後になって、外国語としての第二言語学習にもそのまま当てはまるかのように広まっていった。だが第一言語の習得と、すでに一つの言語を持った大人が新しい言語を学ぶ第二言語習得とでは、脳が置かれている条件がそもそも違う。半世紀前に子どもの母語獲得について立てられた仮説が、いつの間にか大人の語学学習全般を諦めさせる根拠として流用されてきた、という経緯自体を疑っておく価値がある。

2018年、心理学者のハートショーンらは、この曖昧さに正面から挑む研究を発表した。669,498人という桁違いの人数の英語話者――母語話者と非母語話者の両方――を対象に、現在の年齢、学習を始めた年齢、学習に費やした年数という三つの要因を切り分ける計算モデルを組み、文法を学ぶ能力そのものが年齢によってどう変化するかを直接推定した。結果は、多くの人が漠然と抱いている「幼いころから少しずつ衰える」という像とは違っていた。文法学習能力は17.4歳までほぼ無傷のまま保たれ、そこから緩やかに低下していく、という形が見えたのだ。しかも、この形は本来子どもが早い段階で身につける「易しい」文法規則についても、大人になってようやく習得できるような「難しい」規則についても、同じように当てはまっていた。

この数字だけを取り出すと、意外と大人にとって都合のいい話に聞こえる。高校を出るころまでは何も損なわれていないというのだから、少なくとも「子どものうちにやらないと手遅れ」という脅し文句の一部は誇張だったことになる。ただし、ここで安心して終わるのは早い。この研究が測っているのは、あくまで文法という、言語の中でも特に規則性の高い領域の学習速度であって、語学力全体でも、まして学習全般でもない。発音のように、もっと早い時期に感受性を失うとされる領域もある。一つの研究が「大人の脳はまだ大丈夫だ」という総括を裏づけてくれるわけではない。

さらに厄介なのは、この17.4歳という区切りそのものにも、後から異論が出ていることだ。2022年に発表された再分析では、同じデータに別の統計モデルを当てはめると、思春期に明確な区切りがあるようには見えず、学習能力は生まれてからずっと連続的に下がり続けているという解釈も十分成り立つことが示されている。加えて、学習者ごとのばらつきが非常に大きく、平均的な曲線がどの個人にもそのまま当てはまるわけではないとも指摘されている。つまり「十七歳までは無傷」という安心材料は、それ自体が確定した事実というより、複数の統計的な読み方のうちの一つにすぎない。通説を覆したはずのデータが、さらにもう一段疑われている。大人の学習能力について何か一つの数字を信じ切るのは、この時点でもう危うい。

可塑性は残っている、ただし条件つきで

言語という特殊な領域を離れて、もっと素朴な問いに戻る。歳を取った脳は、そもそも新しい技能を覚えて物理的に変化する力そのものを失っているのか。この問いに答えるための実験としてよく引用されるのが、2008年にボイケらが発表したジャグリングの研究だ。平均六十歳前後の被験者に、三つのボールを使うカスケードジャグリングを三か月かけて練習してもらい、練習前、三か月後、さらに三か月練習を休んだ後の三回、脳をスキャンした。

結果、高齢の被験者たちはジャグリングを習得できた。二十歳前後の若者と比べれば習熟度は劣ったが、それでも身につけることはできた。そして脳の変化も、単なる主観的な上達の実感にとどまらなかった。若い被験者で見られるのと同じ、視覚の動き処理にかかわる領域――側頭葉のhMT/V5と呼ばれる部位――に灰白質の増加が見られ、それに加えて高齢の被験者では海馬の左側と側坐核の両側にも一時的な増加が確認された。歳を取っても、新しいことを覚えると脳の構造そのものが変わる。この一点だけを見れば、「もう歳だから」という言い訳の少なくとも一部は科学的な裏づけを欠いている。

ただし、この話には続きがある。練習を三か月休んだ後、増えていた灰白質はほぼ元の水準に戻っていた。可塑性は残っているが、それは一度きりの変化として脳に刻まれるのではなく、練習を続けている間だけ維持される、いわば貸与された変化だということになる。「歳を取っても脳は変えられる」という一文だけを取り出すと希望的に響くが、正確には「歳を取っても脳は変えられる、ただし変え続けるにはやめないことが条件になる」という、もう少し重たい話になる。これは大人にとって都合の悪いニュースでもない代わりに、都合のいいニュースでもない。ただの条件だ。

この「維持しなければ消える」という条件は、なにも高齢者に限った話ではない。実はボイケらの実験は、同じ研究グループが2004年に二十代の若者を対象に行った先行研究の追試にあたる。ドラガンスキーらによるこの先行研究でも、三か月のジャグリング練習で同じ側頭葉の領域に灰白質が増え、練習をやめれば数か月でその増加は縮んでいくことが確認されていた。つまり歳を取った脳に特別に厳しい条件が新しく課されているわけではなく、可塑性という現象そのものが、そもそも使い続けることを前提に設計されている。ここで年齢差として表れるのは、むしろ習熟の速さと到達点の方だ。若い被験者は高齢の被験者より速く、より高度な技まで習得できた。可塑性の有無という点では大人も子どもも変わらないが、同じ時間で登れる高さには、確かに差がある。この差を「もう歳だから無理」と読むか、「歳を取っても同じ坂を登れる」と読むかは、どちらも同じデータの中に見えている。

脳が反応するのは、努力にではなく結果に対してらしい

可塑性が「維持し続けなければ消える」ものだとすれば、次に気になるのは、そもそもどんな学び方をすれば脳の変化として残るのか、という点だ。ここで参考になるのが、神経科学者のマグワイアらが続けてきたロンドンのタクシー運転手の研究になる。ロンドンで営業免許を取るには「ナレッジ」と呼ばれる試験に合格しなければならず、これはチャリング・クロス駅を中心とした半径十キロ圏内、二万五千を超える通りとそこにある施設の位置関係を頭に叩き込む訓練で、平均して三、四年かかる。マグワイアのチームは当初、すでに免許を持つ現役のタクシー運転手と、決まった路線しか走らないバスの運転手を比べ、タクシー運転手の側に空間記憶を担う海馬後部の灰白質が多いことを示した。ただしこの比較だけでは、もともと海馬が大きい人がタクシー運転手に向いて職業を選んだだけという可能性を排除できない。

この弱点を埋めたのが、2011年にウーレットとマグワイアが発表した追跡調査だ。ナレッジの訓練を始めたばかりの見習い運転手七十九人と、訓練を受けていない対照群三十一人の脳を最初にスキャンし、三、四年後にもう一度スキャンした。結果、この七十九人のうち試験に合格して免許を取れたのは三十九人、半数がここで脱落した。そして脳の変化に現れた違いは鮮やかだった。合格して現役の運転手になった人たちの海馬後部は、訓練前と比べて明確に灰白質が増えていたのに対し、同じだけ訓練に時間を費やしながら試験に落ちた人たちには、その増加が見られなかった。対照群にも変化はなかった。つまり「学ぼうとした」という点では三十九人も、脱落した残りの人たちも変わらない。分かれ道になったのは、実際に頭の中の地図を完成させられたかどうかの方だった。

これは静かに居心地の悪い話でもある。大人の学び直しを語るとき、私たちはしばしば「取り組む姿勢」や「学ぼうとする意欲」そのものを称える。だが脳のレベルで見る限り、そこで評価されているのは意欲の強さではなく、実際に習得というところまで到達したかどうからしい。手を動かし続けたことそのものに免罪符を与えたくなる気持ちはよくわかるが、少なくともこの研究が示しているのは、可塑性という現象が「頑張ったこと」ではなく「できるようになったこと」に対して律儀に反応するという、あまり慰めにならない事実の方だ。

本を読むという学び方は、実は年齢に強い

ここまで見てきた臨界期の話も、ジャグリングやタクシー運転の話も、いずれも新しい技能をゼロから素早く組み立てる能力についての研究だった。だが、大人が本を開いて何かを学ぶという行為は、これとは少し違う種類の頭の使い方をしている。心理学者のキャッテルとホーンが1960年代に整理した知能の二分法が、ここで手がかりになる。彼らは知能を、初めて出会う問題を速く正確に処理する流動性知能と、これまでに蓄積してきた知識や語彙を使う結晶性知能とに分けた。前者は二十代でピークを迎え、その後はゆるやかに、六十代以降はやや速く低下していくことが、複数の追跡調査で確認されている。ジャグリングの上達速度や、初めて聞く外国語の文法をとっさに処理する力は、主にこちらに属する。

ところが結晶性知能の方は、まったく違う曲線を描く。語彙や一般知識といった、結晶性知能を測る指標は、若年期に伸び続けるだけでなく、中年期を過ぎても衰えず、六十代、七十代になってもなお緩やかに伸びるか、少なくとも高い水準を保つことが分かっている。目立った低下が現れるのは八十代以降とされることが多い。心理学の本を読んで新しい概念を知る、経済学の本を読んで見慣れた値札の裏側を知る、といった学び方は、まさにこの結晶性知能の領域に属する。真新しい運動技能をとっさに組み立てる速さでは若者に劣っても、新しい知識を既存の知識の網に接ぎ木していく作業では、大人の方がむしろ有利にすらなり得る。土台になる知識の量そのものが、若いころより厚みを増しているからだ。

これは、ここまでの臨界期や可塑性の話が突きつけてきた重たさに対する、数少ない素直な朗報になる。ただし手放しで喜べる話でもない。結晶性知能が有利に働くのは、あくまで新しい情報を既存の知識と結びつける作業であって、まったく土台のない領域にゼロから飛び込む場合には、この利点は働きにくい。大人になってから始める学びが、まったくの初心者向けの技能習得なのか、それとも自分がすでに持っている知識を組み替えたり広げたりする作業なのかによって、有利不利は入れ替わる。同じ「学び直し」という言葉でくくられていても、中身はまるで別の勝負をしていることになる。

「大人はこう学びたがる」という理論の足元

ここまでは、大人の脳がどこまで学習に向いているかという、いわば能力の話だった。もう一つ、大人の学びを語るときに必ずと言っていいほど参照される理論がある。教育学者のノールズが1980年代にまとめたアンドラゴジーという考え方だ。子どもの学び(ペダゴジー)と対比する形で、大人の学習者には五つの特徴があるとされる。自己概念が依存から自律へと移っていくこと、これまでの経験の蓄積そのものが学習資源になること、学ぶ動機が社会的な役割の必要性と結びついていること、学んだ知識をすぐに応用したいという時間感覚を持つこと、そして外部からの評価ではなく内発的な動機によって動くこと。並べてみると、多くの人が「大人の学びとはこういうものだ」と直感的に思っている像そのものだ。

ところが、この理論を提唱したノールズ自身が、後年になって重要な留保をつけている。アンドラゴジーは厳密な意味での学習理論というより、学習についての一連の想定、あるいは今後の理論の土台となる枠組みにすぎない、と自ら位置づけを下げたのだ。批判はそれだけにとどまらない。教育学者のブルックフィールドは、この理論が特定の文化を前提にしていると指摘している。教師を対等な促進者として扱い、学習者の自己主導性を尊ぶという発想自体が、教師を知の絶対的な権威として敬う文化圏には当てはまらない、という趣旨の批判だ。加えて、アンドラゴジーに基づく教え方が、そうでない教え方より実際に高い学習効果を生むという実証データも、十分には積み上がっていない。

つまり「大人は自主性を尊重されると学ぶ」という、この記事の冒頭で扱った直感そのものが、実は学術的にも根拠が薄いまま広く流通してきた話だったことになる。これは皮肉な巡り合わせだ。「自由に学んでいるという自己像が心地よすぎるのではないか」という疑いを最初に持ち出したのは、根拠のない自己満足への警戒からだったが、その自己像を理論として支えていたはずのものが、同じ種類の脆さを抱えていたということになる。

もう一つ、アンドラゴジーの五つの想定を眺め直すと、単位にも資格にもならない趣味の学びには、そもそも当てはまりにくい前提が混じっていることに気づく。学ぶ動機が社会的な役割の必要性と結びついているという想定も、学んだ知識をすぐに応用したいという時間感覚も、仕事や資格のための学習には合うが、天文学や経済学を趣味として学ぶ行為には噛み合わない。応用する予定もなければ、果たすべき社会的役割との接続もない。この理論が実は職業訓練や成人教育の文脈から立ち上がったものだと考えれば当然のことだが、大人の学び全般を説明する理論として無自覚に引用されるとき、この食い違いはたいてい見過ごされる。だとすれば、単位のためでも資格のためでもない学びを理解するには、アンドラゴジーそのものを補助線にするより、それが説明しきれずに残す部分の方を見た方がいい。

「自主的に選んでいる」という感覚自体が、後づけかもしれない

この疑いをさらに一段深く押し進めた研究がある。教育学者のスピアとモッカーが、実際に自己主導的に学んでいるとされる大人たちの学習過程を追跡したところ、意外な実態が見えてきた。多くの人は事前に綿密な計画を立てて学習内容を選んでいるわけではなく、たまたま身の回りにあった限られた選択肢の中から、その場その場で学ぶ対象を選び取っていたというのだ。彼らはこれを「組織化する環境」と呼んだ。自己主導的な学習者というと、明確な目標を掲げて計画的に知識を積み上げていく人物像を思い浮かべがちだが、実際の学びはそれよりずっと行き当たりばったりで、環境が用意した選択肢に流されている部分が大きい。

この「自主性」をどう測るかという問題にも、別の角度から疑問符がついている。教育学者のグリエルミーノが1977年の学位論文で発表し、自己主導学習への準備度を測る尺度として広く使われてきたこの尺度は、独立心や課題への意欲、目標志向性といった八つの要素から成り立っているとされてきた。ところが1989年にフィールドがこの尺度を検証し直したところ、提唱時に主張されていた八つの要素構造は、追試のたびに再現に失敗してきたことが分かった。もっとも、これには開発者であるグリエルミーノ自身が同じ誌上で反論しており、決着のついた話というより、双方の言い分が並んで残っている状態に近い。さらに踏み込んだ分析では、この尺度が実際に測っているのは「自己主導で学ぶ姿勢」という特定の性質ではなく、もっと大雑把な「学ぶこと全般への好き嫌い」に近いという結論が導かれている。つまり、この尺度で高い点を取る人は、自主的に学べる特別な資質を持っているのではなく、単に勉強や新しいことへの抵抗感が薄いだけかもしれない。学習契約という、学習者に自分で目標や評価方法を決めさせる手法についても、それによって自主性そのものが育つという効果はほとんど確認されていない。

並べてみると、大人の学びを彩ってきた語彙――自主的に選んでいる、内発的に動機づけられている、自由に計画している――のかなりの部分が、測ろうとするたびに輪郭がぼやける。これは「大人は本当は自主的に学んでいない」という結論に飛びつくための材料ではない。そうではなく、自分が今、自由に何かを学んでいると感じているとき、その自由さの感覚自体を、額面どおりには信用しないほうがいいという話だ。

それでも残るものは何か

ここまでの話を並べ直すと、奇妙な形の地図ができあがる。文法を学ぶ力は十七歳ごろまでほぼ無傷で、そこから先も緩やかにしか衰えない――ただしその区切り自体、統計の読み方次第で輪郭が変わる。六十代の脳もジャグリングを覚えれば物理的に変化する――ただしその変化は練習をやめれば消える、期限つきの貸与にすぎない。タクシー運転手の海馬が育つのは、学ぼうとしたからではなく、実際に試験を突破したからだ。本を読んで知識を積み重ねるという学び方に限っては、年齢はむしろ味方になり得る――ただしそれは、ゼロから何かを組み立てる場面ではなく、すでにある土台の上に接ぎ木する場面に限られる。大人の学びを支えてきたはずの理論は、提唱者自身が理論と呼ぶのをやめており、その理論が前提にしている「自主的に選んでいる」という感覚自体、後から振り返って作られた物語である可能性がある。

こうして並べると、大人の学びを美化してきた言葉のほとんどから、確からしさが少しずつ剥がれ落ちていく。それでも、剥がし切れずに残るものが一つある。可塑性の研究が繰り返し示しているのは、脳が変化を止める年齢というものが存在しない、という事実だ。変化の速度は落ちるかもしれない、変化を維持する条件は厳しくなるかもしれない、それでも変化そのものは、少なくとも生きている限り閉じない。臨界期という言葉が本当に指しているのは「もう学べない年齢」ではなく、「若いころほど楽には学べない年齢」でしかない。この違いは、思っている以上に大きい。

そして、タクシー運転手の研究が示したもう一つの事実――脳が応えるのは努力の量ではなく到達した結果だという事実は、大人の学びに都合の悪い話であると同時に、一つの目安にもなる。自分が今どれだけ「学んでいる自分」を心地よく感じているかは、あまり当てにならない指標だということだ。海馬が育つかどうかを決めたのは、免許を取れたかどうかという一点であって、試験に向けてどれだけ意欲を燃やしたかではなかった。だとすれば、大人になってからの学びについて自分に問うべき質問も、結局は一つに絞られる。今取り組んでいることを、実際どこまで自分のものにできているか。それだけだ。スーパーの値札を見て、その野菜の名前を初めて知ったとき、そこで起きているのは世界の解像度が上がったという感慨でも、自由な自己像への満足でもない。名前と実物がようやく結びついたという、ただそれだけの出来事が、脳のどこかに痕跡を一つ残しているにすぎない。

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