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趣味探しを「意思決定」と呼びたくなるときに、疑っておきたいこと
趣味を選ぶ行為を意思決定フレームワークで語る記事は多い。だが意思決定疲れの理論的基盤は揺らいでおり、内発的動機づけという趣味の本質と、外部の最適化装置はそもそも相性が悪い。
趣味探しの記事を検索すると、ある種の語彙に必ず行き当たる。自分の価値観を言語化する、判断基準を立てる、選択肢を洗い出して比較検討する、最終的に意思決定マトリクスで絞り込む。診断ツールに答えを打ち込めば向いている趣味が並ぶ、という体裁のものも珍しくない。もっともらしい手順だが、この語彙自体がどこから来ているのかを一度立ち止まって考えてみると、妙な感触が残る。これはもともと、企業が設備投資先を選んだり、就職活動で複数の内定を比較したりするために磨かれてきた語彙である。趣味を選ぶという、本来もっと軽い行為に、なぜこれほど重装備な思考の道具が持ち込まれるようになったのか。
もう少し丁寧に言い直すと、疑わしいのは個々の助言の正しさではない。価値観を言語化すること自体は無害だし、選択肢を比較すること自体も、場合によっては役に立つ。疑わしいのは、趣味を選ぶという行為に「意思決定」という枠組みを当てはめること自体が、はたして妥当な比喩なのかという、もう一段手前の問いのほうだ。この問いを避けたまま手順の精緻さだけを競っても、土台が傾いていれば上に積んだものごと傾く。
この違和感を掘り下げると、少なくとも二つの独立した理論的な柱が見えてくる。ひとつは「選ぶこと自体が人を消耗させる」という意思決定疲れの発想であり、もうひとつは「趣味という活動は、そもそも外部からの動機づけとは相性が悪いはずだ」という内発的動機づけの理論である。どちらも心理学の中で長く議論されてきたテーマだが、趣味探しという文脈で並べてみると、互いに補い合うというより、むしろ相手の足場を崩し合う関係にあることに気づく。片方は「決める前に選択肢を絞っておかないと、決める力そのものが尽きる」と説き、もう片方は「その絞り込みの手続き自体が、趣味を趣味たらしめている性質を損ないかねない」と警告する。両方を同時に信じたまま趣味探しの記事を読むと、読者はどちらの忠告にも従いようがなくなるはずだが、実際にはそのような矛盾を意識させる書き方をしている記事にはほとんど出会わない。
疲れるという直感には、根拠があった
「選択肢が多いと疲れる」という感覚を、単なる比喩ではなく資源の消費として説明しようとした研究がある。2008年、ヴォースらの研究チームは、消費財や大学の履修科目について実際に選択させた被験者と、同じ選択肢について検討するだけで選ばせなかった被験者を比較する実験を四つ行った。結果、実際に選択を行った群のほうが、その後の自制心を要する課題——身体的な持久力を測る作業や、失敗しやすい課題への粘り強さ、算数の計算課題の質と量など——で軒並み成績が落ちた。選ぶという行為そのものが、選んだ後に残る自制の余力を先に食いつぶしていたことになる。
この研究が土台にしていたのが、バウマイスターらが1998年に示した「自我消耗」という考え方だった。空腹の被験者を前にチョコレートとラディッシュを並べ、一方の群にはラディッシュだけを食べるよう指示し、もう一方には好きな方を食べさせる。その後、解けないパズルにどれだけ粘れるかを測ると、ラディッシュを我慢して食べた群のほうが早々に投げ出した。誘惑に耐えるという自制の行使が、その後の粘りという別の自制を奪う。自制心は使うたびに目減りする、有限の筋肉のようなものだという発想は、直感にもよく馴染む。
ヴォースらの実験は、この発想を「選択」という営みにまで拡張したものだった。四つの実験室実験に加えて、実際の買い物客を対象にした調査も行われている。買い物客に、その日それまでにどれだけ能動的な選択をしてきたかを自己申告させたところ、選択を多く重ねてきたと答えた客ほど、その後の単純な暗算課題での粘りが弱かった。実験室の外でも同じパターンが確認されたことで、この理論はより説得力を持って受け取られるようになった。趣味を探すという行為が、比較検討という名の小さな選択を何度も積み重ねる作業である以上、この理論に従えば、選択肢を並べれば並べるほど、決める力そのものが目減りしていくはずである。
その資源は、あとになって見つからなくなった
ところがこの「自我消耗」という理論、その後の検証で足元がかなり揺らいでいる。2010年、ハガーらの研究チームが83本の研究・198の検定結果をまとめてメタ分析にかけたところ、自我消耗の効果量は中程度、d=0.62という値が算出された。当時としては、理論を裏づける十分な蓄積があるように見えた数字である。
ところが2016年、同じハガーを中心としたグループが、今度は世界23の研究室が参加する事前登録制の追試を実施した。参加者はあわせて2141人。実験の手順、測定方法、分析計画のすべてを事前に公開したうえで、複数の独立した研究室が同時に同じ実験を繰り返すという、心理学の再現性問題への回答として組まれた大規模な検証だった。結果として得られた効果量はd=0.04、95%信頼区間はマイナス0.07からプラス0.15で、ゼロをまたいでいた。6年前に中程度とされていた効果が、大規模かつ厳密な条件のもとではほとんど検出できないところまで縮んでいたことになる。この落差の大きさは、自我消耗という現象そのものの存在を完全に否定するものではないにせよ、少なくとも「選択は有限の資源を確実に消費する」と言い切るには、十分すぎるほどの留保を要求している。
この経緯を知ったうえで意思決定疲れという言葉に戻ると、話はやや厄介になる。趣味探しの記事が読者に「選択肢を絞りなさい、そうしないと決める力が尽きてしまう」と説くとき、その説得力の一部は、確立された心理学の知見という体裁を借りている。だがその知見の土台そのものが、心理学の内部から疑いを向けられている最中にある。効果があるとする研究と、ほとんど検出できないとする研究が並存している状況で、どちらか一方だけを都合よく採用して断定するのは、科学的な誠実さからは遠い。
付け加えておくと、この揺らぎは自我消耗という理論だけの問題ではない。2010年のメタ分析自体、後年になって出版バイアスの影響が強く疑われるようになった。効果を検出できた小規模な研究ほど公表されやすく、効果を検出できなかった研究は引き出しの中に留まりやすいという、心理学一般が抱える構造的な偏りである。つまり中程度とされていた効果量そのものが、最初から実態より大きく見積もられていた可能性がある。ならばなぜ、意思決定疲れという物語はこれほど広く流通し続けているのか。答えの一つは単純で、それが正しいと決着がついたからではなく、選ぶことに疲れるという体感に寄り添う、心地よい説明の形をしているからだろう。売れる物語であることと、正しい物語であることは、残念ながら別の基準で動いている。
趣味とは、そもそも何によって動くものか
もう一つの柱に移る前に、一点だけ補っておく。意思決定疲れの理論が仮に完全に正しかったとしても、それは「選択肢を絞ればよい」という単純な処方箋を裏づけるものではない。ヴォースらの研究が測定していたのは、選択そのものの回数であって、その選択が趣味という長期的な対象に向けられたものか、日用品を買うという一回限りの行為かは区別されていない。趣味探しという、何年も続くかもしれない対象を選ぶ場面に、日用品選びで観測された消耗のパターンをそのまま当てはめてよいという保証は、実はどこにもない。
心理学者デシとライアンが体系化した自己決定理論は、人間の動機づけを大きく二つに分ける。ひとつは、報酬や評価、義務といった外部の要因によって行動が引き出される外発的動機づけ。もうひとつは、その活動自体が面白い、あるいは満足だという理由だけで行動が続く内発的動機づけである。そして自律性——自分の行動を自分自身のものとして引き受けている感覚——、有能感、他者との関係性という三つの基本的心理欲求が満たされるほど、内発的な動機づけは強まるとされる。
趣味という営みは、この理論の中でも典型的に内発的動機づけの側に位置づけられる活動である。給料のために働くのとは違い、誰かに評価されるためでも、履歴書に書くためでもなく、ただそれをしている時間そのものが目的になっているのが趣味の定義に近い。だとすれば、ここで一つの奇妙な組み合わせが生まれる。内発的動機づけによって支えられているはずの営みを選ぶために、外部の基準や評価軸を組み上げる装置——意思決定フレームワーク——を持ち込むという組み合わせである。フレームワークとは本質的に、選択肢を外部の基準に照らして採点し、比較可能な形に変換する道具だ。趣味を選ぶ場面にそれを持ち込むことは、内発的であるべき対象を、外発的な評価の対象として扱い直すことに等しい。
もちろん、内発的動機づけと外発的動機づけは白か黒かの二択ではなく、自己決定理論のその後の展開では、外部から始まった動機がしだいに自分のものとして取り込まれていく、いくつかの中間段階も想定されている。義務だから始めた行為が、続けているうちに自分の価値観と結びつき、最終的にはほぼ内発的な動機と見分けがつかなくなることもある。だから、外部の基準を経由して趣味に出会うこと自体が、常に有害だと決めつけるのは早計だ。問題になるのは、外部の基準が「入口」として機能する場合と、選んだあとも「この選択が正しかったかどうかを測る物差し」として居座り続ける場合との違いのほうだろう。意思決定フレームワークの厄介さは、多くの場合、後者の形で残り続ける点にある。
報酬が動機を奪うという、直感に反する実験
この組み合わせの危うさを裏づけるのが、報酬が内発的動機づけを損なうことを示した一連の実験である。デシは1971年、学生にソーマキューブというパズルを解かせる実験を行った。最初は誰もが自発的に取り組んでいたパズルに対し、二回目のセッションでは一方の群にだけ「解けたら報酬を払う」と伝えた。三回目、実験者が席を外している間に自由時間を設けて行動を観察すると、報酬を受け取った群は、それを受け取っていない群よりもパズルに費やす時間が短くなっていた。金銭という外部の理由が持ち込まれた途端、同じパズルであるにもかかわらず、それに向かう動機の質が変わってしまったことになる。興味深いのは、同じ論文の別の実験で言葉による肯定的なフィードバックを与えた群では、逆に内発的動機づけがむしろ高まったという結果も得られている点だ。外部からの働きかけがすべて動機を損なうわけではなく、金銭のように行動を統制する性格の強い報酬が、とりわけ損ないやすいということになる。
1973年のレッパー、グリーン、ニスベットによる実験は、この現象をさらに具体的な場面で確かめている。スタンフォード大学附属の幼稚園で、もともとお絵かき用のフェルトペンで遊ぶのが好きだった51人の園児を、あらかじめ選び出した。金色のシールと赤いリボンがついた「よいプレイヤー賞」という賞状を見せ、絵を描けばこの賞がもらえると事前に約束した群、同じ賞状を絵を描き終えたあとに予告なく渡した群、何ももらわない群の三つに分けて観察する。二週間後、教室の自由時間における各群の描画時間を測定すると、事前に報酬を約束されていた群だけが、他の二群に比べて明らかに絵を描く時間が減っていた。もともと好きだった行為に「賞をもらうために描く」という理由が上書きされた結果、賞という理由が取り除かれたあとに、行為そのものへの関心まで一緒に目減りしてしまったと解釈されている。
これらはいずれも、パズルや園児の遊びという限定された場面での実験であり、大人が趣味を選ぶという、もっと複雑で長期にわたる意思決定にそのまま当てはめられる保証はない。それでも、外部から持ち込まれた理由づけが、もともと自発的だった行為の性質を変えてしまうという構造そのものは、示唆に富む。趣味探しにおける意思決定フレームワークは、金銭のような直接的な報酬ではない。しかし「この趣味を選べば、あなたの価値観に合致し、投資対効果も高い」という形で選択に理由を与える点では、報酬と似た機能を果たしている可能性がある。選ぶ前から「これは合理的な選択である」という理由づけを与えられた趣味は、その理由づけがなければ純粋に楽しかったはずの活動を、証明済みの正解として扱う対象に変えてしまうかもしれない。
ここで注意しておきたいのは、レッパーらの実験における「報酬」が、もともと園児が好きだった行為の外側から降ってきたものだという点だ。趣味探しのフレームワークにおける理由づけも、これと同じ位置にある。趣味そのものを好きになる前に、なぜその趣味を選ぶべきかという理屈のほうが先に与えられてしまう。順序が逆転しているのである。本来なら、続けているうちに好きになり、好きになった理由を後から言葉にする、という順番のほうが自然な場合も多いはずだ。ところが意思決定フレームワークは、この順番をひっくり返し、好きになる前に「なぜ好きになるべきか」という理由を先に手渡してしまう。理由が先に来ることの弊害を、実験室の外で正確に測るのは難しいが、少なくとも構造としては、園児の描画実験と同じ形をしている。
自律性を最適化しようとすると起きること
自己決定理論が重視する三つの欲求のうち、ここで特に問題になるのは自律性である。自律性とは、自分の行動を誰か他者や外部の基準に強制されたものとしてではなく、自分自身が選び取ったものとして経験できることを指す。ところが意思決定フレームワークというもの自体が、選択の手順をあらかじめ規定する外部の構造である。価値観を先に言語化しろ、判断基準を明文化しろ、比較検討の手順を踏め——これらはすべて、フレームワークという外部の枠組みが、選ぶ人間の内側に向かって課してくる要求だ。自律性を確保するために選んだはずの手段が、手段であるという理由だけで、すでに何らかの外部からの規定を含んでしまっている。
この矛盾は、フレームワークの精度を上げても解消されない。むしろ精緻なフレームワークほど、選ぶ手順そのものへの拘束は強くなる。六つの質問に答えるだけの簡易な診断と、二十項目にわたる自己分析シートとでは、後者のほうがより「正しく」選べそうに見えるが、同時に、選ぶという経験そのものを、あらかじめ用意された手順に従う作業へと変えてしまう度合いも大きい。自律性という欲求を満たすために選んだ道具が、道具として機能すればするほど自律性の感覚を痩せさせていくという逆説が、ここには潜んでいる。
似たような逆説は、有能感という欲求のほうにも顔を出す。フレームワークはしばしば、選んだ結果を後から評価するための指標もセットで用意する。継続日数、上達の速度、費やした金額に対する満足度。これらの指標は、有能感を確認するための足場のように見えて、実際には「うまくいっているかどうか」という外部の視線を、趣味の時間の中にまで持ち込む働きをする。指標に照らして「まだ下手だ」と判定された瞬間、その活動は評価にさらされる対象になり、評価にさらされた瞬間、内発的動機づけが置かれている土俵そのものが変わってしまう。趣味において上達が嬉しいのは事実だとしても、上達の速度を測る指標があらかじめ用意されていることと、結果として上達を実感することとは、似ているようで別の話である。
語彙が流れてきた場所について
ここまで見てきた話を、個人の心の弱さの問題として片づけるのは筋違いだろう。問題があるとすれば、それは意思決定という語彙、あるいはその語彙とともに輸入されてくる思考の型そのものにある。判断基準、評価軸、投資対効果、機会費用——これらはもともと、限られた資源をどこに配分するかという、企業経営や個人のキャリア形成の文脈で磨かれてきた道具立てである。そこでは選択の正しさを事後的に検証できることが前提になっている。売上が伸びたか、昇進できたか、という具合に。趣味には、そもそもこの種の外部基準による事後検証がなじまない。続けているうちに好きになった、あるいは続けているうちに飽きた、という結果でしか良し悪しを測れない対象に、投資判断のための語彙をそのまま流用しようとすることのほうに無理がある。
この無理を指摘することは、意思決定という営み全般をからかうことにはならない。仕事や資産運用のように、外部の基準で結果を検証できる領域では、判断基準を明文化し、選択肢を比較する作業には十分な意味がある。からかうべきなのは、その語彙と手順を、性質のまったく異なる領域にまで無反省に持ち込む姿勢のほうだ。ビジネス書の語彙で人生を語りたがる傾向は、趣味探しの記事に限った話ではなく、もっと広く見られる現象でもある。
この流用がとりわけ都合よく機能してしまうのは、意思決定という語彙が、選んだ結果に対する責任の所在をわかりやすくしてくれるからでもある。手順を踏んで選んだのに合わなかったのなら、それは手順の精度が足りなかっただけであり、次はもっと良い診断ツールを使えばよい、という説明が立つ。逆に、これといった手順を踏まずに何となく始めた趣味が合わなかった場合、そこには手順という言い訳が存在しない。合わなかった理由を「手順の不備」として処理できることは、選ぶという行為に伴う漠然とした不安を和らげてくれる。フレームワークが売れる理由の一部は、選択の精度そのものよりも、この種の心理的な保険としての機能にあるのかもしれない。
この違和感をどこに置いておくか
ここまでの議論は、では趣味はどう選べばよいのかという問いに、直接の答えを用意しているわけではない。意思決定疲れの理論的な基盤が揺らいでいるからといって、選択肢が多いことが常に無害だと言えるわけでもないし、内発的動機づけの理論が正しいからといって、あらゆる自己分析が有害だと結論づけられるわけでもない。むしろここで確認できたのは、趣味探しを語る際に借りてきている二つの理論的な柱——選ぶことは資源を消耗するという発想と、外部からの理由づけは内発的な動機を損ないうるという発想——が、互いに矛盾を含んだまま同居しているという事実そのものである。片方は「疲れないように選択の手順を整えよ」と説き、もう片方は「手順そのものが動機を損ないうる」と警告する。両方を同時に真に受けることは、原理的にできない。
だとすれば、趣味探しの記事に出てくる意思決定という言葉に触れたとき、まず疑ってよいのは、その言葉が指し示している手続きの正しさそのものよりも、その言葉を使うことで何が暗黙のうちに前提とされているか、という点かもしれない。自分の余暇の時間に対して、経営判断や進路選択と同じ種類の厳密さを要求してよいのか。その厳密さを求める前提そのものが、すでに趣味という営みの性質と噛み合っていないのではないか。
この噛み合わなさは、おそらく完全には解消できない。趣味を選ぶ場面で自己分析や比較検討を一切やめてしまえば済む、という単純な話でもないからだ。人はどのみち何かを考え、何かを比べながら物事を選んでいく生き物であり、その営みから理屈を完全に取り除くことはできない。できるとすれば、理屈を使っている最中に、いま自分がどちらの語彙を借りているのかに気づいておくことくらいだろう。この趣味は好きだから続けているのか、それとも選んだ手順が正しかったことを証明するために続けているのか。この二つの問いは、外から見ればほとんど同じ行動として現れる。違いが表に出るのは、たいていもっとあとになってから、その趣味を続ける理由が本人の中で静かに入れ替わっていることに気づく瞬間である。答えを急いで出す必要はないのかもしれない。性急な結論に飛びつくより、この噛み合わなさをしばらく手元に置いたまま考え続けるという選択肢もあるのかもしれない。
出典
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