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日記が三日で終わる理由は、たぶん「義務」よりも根が深い
自己表現のはずの日記が、なぜ長続きしないのか。表現的筆記の効果量、報酬が意欲を削る実験、自伝的記憶の書き換え――三つの異なる研究群をたどると、「義務感さえなくせば続く」という単純な話ではないことが見えてくる。
日記を始めては、三日で止まる。これを何度か繰り返した経験があるなら、理由を聞かれたときの答えはだいたい決まっている。「今日あったことを漏れなく書かなければ」という気負いが先に立ち、書くことそのものより、書き損ねることへの後ろめたさの方が大きくなっていった、というものだ。義務として始めたものは、義務として飽きる。もっともらしい説明だが、これで片づけてしまうには少し都合が良すぎる気もする。義務にさえしなければ本当に続くのか。そもそも日記が「本来は書いていて楽しいはずのもの」だという前提自体、誰が保証したのか。
この前提を検証してきた研究の系譜がある。感情を書くという行為が心身にどう作用するかを調べてきた、表現的筆記(expressive writing)と呼ばれる分野だ。日記そのものを対象にした研究ではない。実験参加者に数日間だけ集中して書かせる、期間の区切られた介入研究がほとんどで、毎晩机に向かうという習慣の問題には触れていない。それでも「書くこと」の効き目と、その効き目が生まれる条件を調べてきたという点で、なぜ日記が長続きしにくいのかという問いに、遠回りながら案外近いところから光を当ててくれる。
自分の場合、続いていた時期の共通点を思い返すと、机に向かうこと自体に負担を感じていなかった。逆に止まった時期は、決まって「今日は書くことがない」という言い訳から始まっている。書くことがない日などないはずなのに、そう感じてしまうのは、日記に「その日の意味を確定させる」という重い仕事を割り当てていたからではないか、と今は思う。意味づけを義務にした瞬間、意味づけできそうにない平凡な一日は、書く価値のない一日に格下げされる。書けなかった日の後ろめたさは、書かなかったことそのものより、書けたはずなのに書けなかったという採点から来ていた。
効いた最初の実験と、薄まっていった効果
始まりは1983年11月、サザン・メソジスト大学の心理学者ペネベーカーが、共同研究者ビールとともに行った小規模な実験だった。46人の学生を四つの群に無作為に割り付け、一日15分、4日間にわたって書かせている。ただし各群への指示は同じではない。対照群は自室の間取りや、その日履いていた靴といった、あらかじめ決められた表面的な話題を客観的に描写するよう求められた。残る三つの群はいずれも人生でつらかった経験を扱うが、指示が微妙に違う。ある群は経験について抱いた感情だけを書き、何が起きたかには触れないよう求められた。別の群は逆に、起きた出来事の事実だけを綴り、感情には触れないよう求められた。そして三つ目の群だけが、出来事の事実とそれについての感情の両方を書くよう指示された。半年後に追跡すると、学生健康センターへの来訪回数(研究後の半年間)は、対照群が平均1.33回、感情だけを書いた群が1.58回、事実だけを書いた群が1.45回だったのに対し、事実と感情の両方を書いた群だけが0.54回――他の群のおよそ3分の1から4割にとどまっていた。もっとも、四群を比較した統計的な検定は慣例的な有意水準にわずかに届いていない(p=.055)。当時の心理学の常識からすれば、たった4日間、合計1時間の作文でこれだけの差が出ること自体が異例だったが、効いていたのはただ書くことそのものではなく、何を書くよう指示されたかの方だったらしい――出来事の事実と、それにまつわる感情の両方を書いた群でしか、はっきりした効果は出ていない。この一本の論文が、その後30年以上続く研究分野の起点になる。
効果が本物なら、追試を重ねるほど確信は強まっていくはずだ。実際にはやや違う経過をたどった。1998年、心理学者スマイスが健康な大学生や地域住民を対象にした13本の研究をまとめたところ、効果量はd=0.47というかなりまとまった数値になった。感情語を書くことは、心身の健康指標に一貫した改善をもたらすように見えた。男性の方が女性より効果が大きく、実験期間が長い研究ほど効果も大きいという、いかにも追加の研究で確かめたくなる傾向まで報告されている。ところが2006年、フラッタロリが146本の研究を対象に行ったより大規模なメタ分析では、効果量はr=.075、dに換算しておよそ0.15前後にまで縮んだ。臨床群と健常群、成功した追試と失敗した追試、あらゆる条件を飲み込んだ結果として、当初の劇的な数字は希釈されていったことになる。提唱者であるペネベーカー自身、2018年に発表した回顧的な論文の中で、100本を超える研究群を通して見た表現的筆記の健康への効果量はおよそd=0.16に落ち着くと、隠さずに書いている。効くことは効く。ただし、最初の実験が語っていたほど劇的にではない、という留保付きで。
これは表現的筆記に限った話ではないのかもしれない。ある行為が「効く」という発見は、追試という篩にかけられるたびに規模を失っていく。それでも数字がゼロにならず、しかも提唱者自身がその縮小ぶりを自分の論文で報告している。ここには、最初の劇的な数字に居直らなかった分野特有の律儀さがある。日記についても同じ構えでいた方がいい。「毎日書けば人生が変わる」式の話は、たいてい最初の一件の劇的な体験談に支えられていて、規模の大きな検証には耐えない。
スマイスのメタ分析には、もう一つ見落とせない但し書きがある。効果が確認されたのは、自己申告による体調の良さ、心理的な安定感、血圧や心拍のような生理指標、日常生活での機能の四つの領域であって、運動や食事といった健康にまつわる行動そのものには変化が見られなかったという。感情を書くことは気分や体の反応を変えはしても、翌日から早起きして走り出すような行動変容までは保証しない。この線引きは日記にもそのまま当てはまりそうだ。日記は生活を作り替える道具というより、すでに起きたことの受け止め方を作り替える道具に近い。
効いているのは、書くことそのものではない
ならば何が効いているのか。ペネベーカーは同僚のシーガルと1999年に発表した論文で、興味深い補助線を引いている。トラウマについて書いた学生たちの文章をコンピューターによる言語分析にかけると、健康状態が改善した人ほど、4日間書き進めるうちに肯定的な感情を表す語彙を多く使い、否定的な感情を表す語彙はほどほどに保ちながら、「理解する」「気づく」「なぜなら」といった認知的な処理を示す語彙を増やしていく傾向が見られた。逆に、出来事の事実関係だけを淡々と記述し、そこに一貫した筋書きを与えられなかった書き手には、目立った改善が見られなかったという。つまり効いているのは「感情を吐き出す」こと自体ではなく、バラバラだった経験に因果関係や意味を与え、一つの物語として組み立て直す作業の方らしい。感情を書くことは入り口であって、目的地は経験の再構成の方にある。
この分析に使われたのは、ペネベーカー自身が開発に関わった言語分析ソフトLIWCだった。人間の判定者が読んで印象を採点するのではなく、文章中の単語を機械的に数え上げ、感情語や認知語がどれだけの割合で使われているかを算出する。主観の入り込む余地を減らした分、この結果は単なる読後感の一致以上の意味を持つ。書き手の意識としては「思ったことをそのまま書いた」だけのつもりでも、健康状態の改善と結びついていたのは、語彙の使い方という、本人にはほとんど自覚できない水準の変化だったことになる。書いている最中の実感と、後から測定される効果の在り処が、必ずしも一致しないというのは、この分野に共通する居心地の悪さでもある。
この知見は、日記の書き方について具体的な処方を与えてくれるわけではない。物語化を意識して書けと号令をかけた瞬間、それはまた別種の宿題になる。ただ、少なくとも一つのことは分かる。感覚の断片を書き留める行為と、経験に筋道を与える行為は、似ているようで別の作業だということだ。前者は始めやすく、後者は時間と気力を要する。三日坊主で終わる日記の多くは、後者を毎晩の義務として自分に課しながら、実際には前者程度の労力しかかけられずにいて、両方とも中途半端に終わっているのではないか。「今日の出来事」という見出しの下に事実を並べただけの記述が退屈に感じられるのは、書き手の筆力の問題ではなく、そもそもそこに研究が示すような効き目の仕組みが働いていないからかもしれない。
続ける仕組みが、続ける気力を奪うことがある
義務感の話に戻ろう。日記を続けるための工夫として、記録アプリの連続日数表示や、達成感を演出するチェックリスト、あるいは一日の終わりに「良かったことを三つ」書き出す形式を使う人は多い。この種の外的な仕組みが、そもそもの動機づけにどう作用するかについては、心理学にもう一つ別の実験群がある。
1973年、心理学者レッパー、グリーン、ニスベットが行った古典的な実験がある。マーカーで絵を描くことにあらかじめ強い興味を示していた3〜5歳の子どもたちを選び、三つの群に分けた。一つは、絵を描けば「よくできましたで賞」がもらえると事前に予告された群。もう一つは予告なしに、描き終えた後で同じ賞を偶然のように渡された群。最後は賞そのものがなく、絵を描くこと自体が目的の群だ。数週間後、自由時間に子どもたちがどれだけ自発的に絵を描くかを改めて観察すると、事前に賞を予告されていた子どもたちだけが、賞のない子どもたちに比べておよそ半分の時間しか絵を描かなくなっていた。事前に約束もされず、後から思いがけず賞をもらった子どもたちの興味は、目立って落ちていない。もともと好きでやっていた行為が「賞のためにやる仕事」として事前に再定義された場合に限って、行為そのものの魅力が目減りする、という結果だった。
この「過剰正当化効果」と呼ばれる現象は、その後の検証で一枚岩ではないことが分かってくる。1994年、キャメロンとピアースが96本の実験を統合したメタ分析では、報酬は総じて内発的な興味を損なわず、言葉による称賛はむしろ興味を高めると結論づけた。ところがその5年後、デシ、コスナー、ライアンは128本の実験を対象にした別のメタ分析でこれに反論し、事前に約束された有形の報酬に限れば、内発的動機は確かに、しかも相当程度損なわれると主張し直した。この論争に決着はついていない。ただ両者が一致して認めているのは、もともと本人が価値を感じていた行為を、達成の印――バッジ、賞状、連続記録――によって評価される成果へと組み替えたときに、何かが失われるという方向性そのものだ。日記における連続記録の表示や「今日は何文字書いた」という自己採点は、規模こそ違え、あの子どもたちに予告された賞状と同じ構造を持っている。書く前から「続けられた自分」という成果を約束してしまえば、書くこと自体はその成果の手段に格下げされる。
ただし、この構図をそのまま日記に当てはめる前に、一つ確かめておくべき違いがある。レッパーらの実験で選ばれた子どもたちは、実験が始まる前から絵を描くことに強い興味を示していた。もともと乏しい興味を、外的な報酬がむしろ底上げする場合があることは、キャメロンとピアースの分析でも指摘されている。だとすれば、日記を書くことに最初から強い興味がある人にとっては、連続記録や達成バッジは害になりやすく、逆に「書くこと自体にまだ大した思い入れがない」人にとっては、多少の仕掛けが助走になる可能性も残る。義務にすれば必ず失敗する、という単純な話ではなく、もともとの興味の有無によって、同じ仕掛けが逆の方向に効きうるということだ。
記録は、書いた瞬間からすでに編集されている
視点を変えよう。日記が果たすべき役割の一つは、後から見返したときに「あの日、本当は何を感じていたか」を正確に思い出すための足がかりになることだ。この期待には、記憶の性質に関するもう一つの研究群が水を差してくる。
心理学者バートレットは1932年、記憶を「正確な複製」ではなく「その都度作り直される再構成」だとする説を、物語を人から人へ伝言していく実験を通じて示した。話は伝わるたびに、細部が省かれ、都合よくつなぎ直され、語り手にとって腑に落ちる形へと作り変えられていく。ナイサーもこの立場を引き継ぎ、記憶を「不変の痕跡が保存される場所」とみなす見方を退けた。この見方を劇的に裏づけたのが、ナイサーとハーシュによる1992年の研究だ。1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故の翌朝、106人の学生に、そのニュースをどこでどう知ったかを書かせた。2年半後、そのうち44人に同じ質問をもう一度書いてもらい、さらに自分の記憶にどれだけ自信があるかを5段階で答えてもらった。結果、当初の記述と2年半後の記述がどれだけ一致していたかを示す正確さの平均点は7点満点中2.95点まで下がっていたにもかかわらず、記憶への自信の平均は5点満点中4.17点と高いままだった。鮮明さや自信の強さは、正確さとはほとんど関係がなかったことになる。
この結果が不気味なのは、記憶が薄れること自体ではなく、薄れたことに本人がまったく気づかない点にある。日記は、こうした無自覚な書き換えを食い止める防波堤として期待されがちだ。だが日記そのものも、書かれる瞬間からすでに編集の対象になっている。誰にも見せるつもりのない日記であっても、書き手は無意識に「後で読み返す自分」を読者として想定し、その日の出来事に一定の脈絡を与えてから紙に置いている。記憶が数年かけて行う再構成を、日記は数時間の遅れで先取りしてやっているだけかもしれない。記録は再構成の外側に立つ審判ではなく、再構成の最初の一手にすぎない。
バートレットが行った伝言実験も、これと同じことを別の角度から示している。ある物語を一人に読ませ、記憶だけを頼りに次の人へ語らせ、それをまた次の人へと連鎖させていくと、内容は代を追うごとに、聞き手にとって馴染みのある筋書きへと寄せられていく。異質な部分から削られ、辻褄の合わない細部から失われ、最後には元の話とはかなり違う、しかし語りやすい一つの物語だけが残る。日記も、これに似た圧力から自由ではない。一日の出来事を書き留めるという行為は、無数にあった細部のうち、後から読んで筋が通る部分だけを選び取る作業でもある。選ばれなかった細部は、記録される前に消えていく。
消えていく方の記憶に、日記は追いつけるか
もう一つ、記憶には都合の良い癖がある。1997年、ウォーカー、フォーグル、トンプソンが個人的な出来事の記憶を3か月後、1年後、4年半後という三つの間隔で追跡調査したところ、時間が経つほど出来事に結びついた感情の強さは薄れていくが、その薄れ方は不快な出来事の方が快い出来事より大きいことが分かった。嫌な記憶ほど早く角が取れ、良い記憶は相対的に鮮やかさを保つ。後の研究者たちはこれを「感情の褪色バイアス」と呼び、人が自分の過去を実際より少し明るい物語として抱え続けるための、自己防衛的な仕組みではないかと推測している。生きていく上ではおそらく都合の良い偏りだが、日記の役割とは真っ向から矛盾する。日記は本来、「あの時どれだけ嫌だったか」を後から確認するための記録であるはずなのに、記憶そのものがその不快さを率先して薄めていく方向に働くからだ。
「気持ちが落ち着いてから書こう」「意味のある形に整理できてから書こう」という姿勢は、一見誠実に見えて、実はこの偏りに加担している。感情がまだ生々しいうちに書き留めず、ある程度収まってから振り返って書けば、その時点で不快な感情はすでに角が取れ始めている。日記に残るのは、記憶が自主的に編集を済ませた後の、いくらか穏当になったバージョンだ。日記が対抗しようとしていたはずの偏りを、日記自身が助長する結果になる。皮肉なのは、これがまさに「良い日記の書き方」として推奨されがちな態度だという点だ。落ち着いてから、整理してから、意味を見出してから書く――その手順を踏むたびに、記録すべき生の材料は少しずつ蒸発していく。
もっとも、この偏り自体を悪者にする必要もない。ウォーカーらの研究を引き継いだ研究者たちは、感情の褪色バイアスが強い人ほど、全体として人生を前向きに捉える傾向があることも報告している。嫌な記憶ばかりが色褪せずに残り続ける生き方は、それはそれで消耗する。日記に何を求めるかによって、この偏りは敵にも味方にもなる。過去の苦しさを正確に保存したいなら、日記は記憶より先回りして書かれる必要があるし、過去とある程度折り合いをつけて前に進みたいなら、記憶に多少の編集を委ねてしまう方が理にかなっている。どちらが正しいかを研究が決めてくれるわけではない。
誰にも見せない文章、という条件
ここまでの三つの研究群は、互いに関係のない分野から来ている。感情を書くことの効果を測る研究、報酬が意欲に与える影響を調べる研究、記憶がどう書き換わるかを追う研究だ。研究者同士が互いを引用し合っているわけでもなければ、共通の理論を掲げているわけでもない。それでも並べてみると、共通した形が浮かぶ。書く効果を生むのは経験を筋道立てて捉え直す地道な作業であり、その作業の価値は本人がその作業自体に意味を感じている間しか働かない。そこに達成度を測る外的な指標――文字数、連続記録、後から読む誰かの視線――が入り込むと、行為の意味は「その日を処理すること」から「評価に値する成果を残すこと」へとすり替わる。しかもこのすり替えは、賞状や記録アプリのような分かりやすい形を取らなくても起こる。未来の自分に読ませるという前提そのものが、その日の出来事をあらかじめ整えられた形に仕立て直す圧力になり、記憶が自然に行う編集を先回りしてしまう。
三日坊主を義務感のせいにするのは、間違ってはいないが説明として浅い。義務感が生まれる前に、書く理由がすでに「その日を処理すること」から「読める記録を残すこと」へと移っていることの方が根深い。書いたものが誰にどう読まれるかを一切気にしなくていい文章というのは、思っているより作りにくい。読者が未来の自分一人だけだとしても、その未来の自分にどう見られたいかという配慮は、書いている最中にもう働き始めている。
だからといって、記録という行為そのものを疑ってかかる必要もない。ここまで並べた研究のどれも、「書いても無駄だ」とは言っていない。効果は小さくとも確かにあり、報酬は場合によっては助けにもなり、記憶の書き換えは日記があってもなくても起きる。動いているように見えるのは、日記に何を期待するかという前提の方かもしれない。その日を正確に保存する装置としてでも、続けたという実績を積み上げる装置としてでもなく、ただその日に起きたことを、書いている間だけ多少なりとも自分に馴染む形にする、その場限りの作業として見る――そういう捉え方もできる、というだけの話だ。翌日また書けるかどうかは、その作業がどれだけ効率よく続いたかとは、あまり関係がないように思える。
三日で止まった日記帳を見返すと、書かれている内容自体は特に恥ずかしいものでも失敗でもない。むしろ止まる直前まで、その三日分にはそれなりに率直な言葉が並んでいることが多い。おかしいのは中断そのものより、中断を「継続の失敗」として数えてしまう発想の方だ。三日書けたなら、三日分の処理は終わっている。四日目に何も書かなかったからといって、その三日分の意味が遡って消えるわけではない。続けることを評価の単位にしなければ、そもそも三日坊主という言葉自体が成立しない。「何日続いたか」という数え方は、日記を始める前から書き手の外にあった物差しであって、日記そのものが要求してきたものではないのだと思う。
日記が続かないとすれば、それは意志の弱さの証明ではなく、書くという行為から評価の視線を完全に取り除くことがどれほど難しいかという証明の方に近い。続けることを目標に据えた瞬間、書くことはその目標のための手段に変わり、手段になった途端、経験を組み立て直すという地味な作業に耐える理由が一つ減る。それだけの話なのだと思う。
これらの研究を全部足し合わせても、「日記を続けるコツ」という形にはまとまらない。効果量は小さく、報酬の効き方は人によって逆を向き、記憶は書く前も後も勝手に編集を続ける。むしろ分かるのは、続けること自体を目的にした瞬間に、この分野が積み重ねてきた条件の大半から外れてしまうということだ。効いていたのは、続いたかどうかではなく、その都度どれだけ経験を捉え直せたかの方だった。三日で止まったノートを責める前に、疑うべきはそこの方だろう。
出典
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