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エンドロール後の虚無感には、名前がついている
楽しいことが終わったあとの虚無感には、ゲームの研究者が「ポストゲーム・デプレッション」という名前をつけ、測り始めている。オリンピック選手や宝くじ当選者の研究も並べて、その空白がどこから来るのかを辿る。
深夜、エンドロールが流れ始める。画面の下から上へ、開発チームの名前が数分かけて流れていくあいだ、指はまだコントローラーの上に乗ったままだが、動かす理由はもうない。数十時間、長いものなら百時間以上をかけて積み上げてきた選択や戦闘や会話の記憶が、この数分間に集約されて終わっていく。ラスボスを倒した直後の高揚感はすでに引いていて、代わりに残っているのは、達成感でも疲労でもない、名前をつけにくい静けさだ。電源を切ったあとの部屋は、始める前とまったく同じ部屋のはずなのに、どこか物足りない。
この感覚を、意志の弱さや現実逃避の後ろめたさに結びつけるのは簡単だ。ゲームに時間を使いすぎた報いだ、と片づければ話は早い。だが、この空白の正体を辿っていくと、話はもう少し込み入っている。達成した直後に訪れる虚無感は、ゲームというジャンルに固有の欠陥ではなく、「終わる」という出来事そのものが持っている、もっと一般的な性質かもしれないからだ。
見方を変えると、この虚無感を避けるための独自の対処を、多くのプレイヤーがすでにしているのかもしれない。ゲーム機のライブラリには、購入したのに序盤で止まったままの「バックログ」が積み上がっている、という話をよく聞く。積みゲーという言葉が定着しているのは怠慢の証というより、終わらせないことでこの空白を先送りにする、無自覚な回避行動なのかもしれない。だとすれば、エンドロールを見ずに済ませる人と、あえて最後まで見届ける人の違いは、意志の強さの差ではなく、この後にくるものへの勘の差だという見方もできる。
これは怠惰でも中毒でもなく、名前のある現象らしい
この感覚を体系的に測ろうとした研究がある。カミル・ヤノヴィッチとピョトル・クリムチクが2026年に学術誌Current Psychologyで発表した研究で、二段階の調査を通じて計373人のプレイヤー(紹介記事によれば第一段階210人、第二段階163人、平均年齢はおよそ28歳から30歳)を対象に、「ポストゲーム・デプレッション尺度」という17項目の測定尺度を新たに作成した。この尺度は四つの下位要素から成る。ゲームの筋書きについて繰り返し考えてしまう「ゲーム関連の反芻思考」、物語が終わることそのものへの寂しさや喪失感を指す「体験終了の困難さ」、もう一度最初からプレイし直したいという衝動である「再プレイの必要性」、そしてそのゲームを終えたあと、他のゲームや映像作品を以前ほど楽しめなくなる「メディア無快感」である。
同じ紹介によれば、第二段階の調査では、四つの要素のうち反芻思考が最も強く出て、メディア無快感が最も弱かったという。そして、ロールプレイングゲームは、他のジャンルのゲームに比べて強いポストゲーム・デプレッションと結びついていると報告されている。ポストゲーム・デプレッションの強さは、抑うつ傾向や反芻思考のしやすさ、主観的な幸福感の低さとも相関していたが、紹介記事によれば研究者たち自身も断っているとおり、これは横断調査であり、どちらが原因でどちらが結果かは判断できない。もともと反芻しやすい気質の人が長時間没入型のゲームを好むのか、長時間の没入がその後の反芻を招くのか、この設計では区別がつかない。それでも、この空虚感がSNS上の個人的な感想にとどまらず、独立した心理測定の対象になり得るほど輪郭のはっきりした現象だという点は、少なくとも確からしい。
ロールプレイングゲームで強く出やすいという結果は、考えてみれば、筋が通っているようにも思える。アクション性の強いゲームが瞬間ごとの反射や快感で成り立っているのに対し、ロールプレイングゲームの多くは、数十時間かけて一人の登場人物の人生に寄り添い、その終着点を見届けるという構造を取る。物語の比重が大きいジャンルほど、終わりが「喪失」に近い形をとりやすいのは、自然なことにも思える。逆に、対戦型やスコアアタック型のゲームには、そもそも「終わり」という概念自体が希薄だ、と考えることもできる。次の対戦、次のシーズンが続く限り、エンドロールに相当する瞬間は訪れない。終わりのないゲームが虚無感を招かないのだとすれば、その代わりに、いつまでも区切りをつけられないという、また別の悩みを生むのかもしれない。ただ、この研究は対戦型のゲームを分けて調べてはいないので、そちらで虚無感が弱いのかどうかは分からない。
「登り切った先に何もない」という感覚は、ゲームの外側にもある
この虚無感をゲームというメディアの特殊性だけで説明しようとすると、また別の粗さが残る。似た感覚は、ゲームとは縁遠い場面でも報告されているからだ。ポジティブ心理学の講義で知られるタル・ベン・シャハーは、2007年の著書『Happier』の中で、目標を達成しさえすれば持続的な満足が得られるはずだという思い込みを「到達の誤謬」と名づけたと紹介されている。学位を取る、資格に受かる、長年のプロジェクトを完了させる——そのどれもが、達成した瞬間の高揚はあっても、その高揚が長く続くとは限らない。
目標の達成とは違うが、大きな良い出来事のあとに何が起きるかを調べた、もっと具体的な数字がある。心理学者フィリップ・ブリックマン、ダン・コーツ、ロニー・ジャノフ=ブルマンが1978年にJournal of Personality and Social Psychology誌で発表した研究では、5万ドル以上を受け取った宝くじの高額当選者22人と、当選していない対照群22人、さらに事故で下半身または四肢が麻痺した29人を比較している(金額や、以下の数値は、論文の要約を集めたデータベースなどによる)。結果は直感に反するものだった。当選者の「現在の幸福感」は0から5の尺度で4.00で、対照群の3.82とほとんど変わらなかった。「将来の幸福感」の見通しにも、目立った差はなかった。さらに興味深いのは、当選者のほうが「日常のささやかな出来事から得られる楽しみ」を対照群より低く見積もっていた点だ。3.33対3.82。宝くじという桁違いの幸運のあとで、皮肉にも、それ以外の平凡な喜びが色あせて見えていた可能性がある。研究者たちはこれを、大きな当たりを基準点にしてしまうと、それ以外のすべてが相対的に見劣りしてしまう「対比効果」と、新しい快楽にもいずれ慣れてしまう「順応」の組み合わせで説明している。ゲームのクリアは偶然の当たりではなく、規模もまるで違うが、同じ構図が当てはまる余地はある。百時間の物語を駆け抜けた直後に、それ以外のたいていのことが色あせて見えても、不思議はない。
もっとも、この研究を鵜呑みにするのも危うい。1970年代のイリノイ州で募集された当選者に限られ、人数も22人ずつにとどまる。当選額の使い道や当選からの経過期間もまちまちで、当選前の幸福度も、当選前に測ったものではなく、当選後に振り返って答えてもらったものしかない。一度きりの比較から、当選が楽しみを目減りさせたとまでは言えない。
そして、後の研究は、この話のよくある読み方をもう一段ひっくり返している。エリック・リンドクヴィスト、ロベルト・エストリング、デイヴィッド・チェザリーニが2020年にReview of Economic Studies誌で発表した研究は、スウェーデンの宝くじの当選者(額の小さい人から大きい人まで)と、一部の高額当選者に性別や生まれ年などの条件をそろえて付けた当選していない比較相手、計3,362人から、当選から5〜22年たった時点で回答を得て、事前に登録した手順で分析した。当選額が大きい人ほど、人生全体への満足度が上がっていた。税引き後10万ドルあたりで見ればわずかな差だが、その上昇は十年以上たっても薄れる気配がなかった。ところが、幸福感(「全体として、どのくらい幸せか」という問い)や、過去2週間の気分を尋ねる心の健康の指標への効果は、その半分にも届かず、統計的にはゼロと区別できなかった。著者らは、ブリックマンらの幸福感の結果を自分たちの物差しに換算し直すと、自分たちの幸福感の推定とほぼ同じ大きさになる、とも書いている。ただ、国も時代も当選からの年数も違い、ブリックマンらの22人の当選額は後の研究よりずっと大きい。効果が当選額に比例するという仮定が崩れたとき、比べた研究の中でこの換算がいちばん影響を受けやすい、と著者らは注意を促している。人生全体に点をつけるときには当選が効き、日々の気分はさほど持ち上がらない。ブリックマンらは間違っていたというより、人生の満足度のほうは測っていなかったのかもしれない。ひっくり返ったのは、「当たっても幸せにはならない」というよく語られる読み方のうち、人生の満足度にかかわる半分で、ブリックマンらの数字そのものではない。
それでもブリックマンらの研究が半世紀近く経ったいまも繰り返し引用され続けているのは、桁違いの幸運が日々の気分までは保証しないという直感に反する構図を、これほど具体的な数字で示した例が他に少ないからだろう。宝くじの当選という、誰の目にも分かりやすい「頂点」でさえ、日々の気分までは大して持ち上げないのなら、百時間のゲームをクリアするという、もっとささやかな出来事が、その後の気分を長く支えてくれないのも、驚くには当たらない。同じブリックマンらの調査を、趣味を「投資」として吟味し、当たりを選び当てようとする発想に照らすとどう見えるかは、四十代の「趣味のROI」を疑った記事で考えた。
目標理論が雄弁に語らないこと
では、目標を達成したあとには何が起きるのか。ここでもう一段掘り下げる価値があるのは、目標そのものが人の行動をどう組織しているか、という理論だ。心理学者エドウィン・ロックとゲイリー・レイサムが数十年にわたる実証研究を積み上げて体系化した目標設定理論では、明確で困難な目標は、注意の方向づけ、努力の強度、粘り強さの持続、そして課題に取り組むための工夫の発見という、四つの経路を通じて行動を動かすとされる。この理論は、少なくとも8か国、100を超える課題で、延べ4万人を超える対象者を相手に検証されてきたという(ロックとレイサム自身のまとめによる)、再現性の高さを誇る枠組みだ。
この理論は、達成のあとについても一応の予測を持っている。ロックとレイサムは、目標を満足の基準点とみなす。目標を超えるほど満足は増し、届かないほど不満が増す。つまり、達成すれば満足が来る、というのがこの理論の予測だ。困難な目標を持つ人ほど多くを成し遂げるのに満足しにくい、という逆説も著者ら自身が論じていて、基準を高く置いた人は少々の成果では満たされないから、もっと先へ進む、と説明している。さらに、達成したあと、人はふつう次のもっと高い目標を立てる、とも書いている。理論の中では、達成のあとに来るのは空白ではなく、次の目標だ。達成した直後に満足でも次の目標でもなく空白が来る、という場面は、この予測とは逆向きで、2002年のまとめの中では正面から扱われていない。四つの経路はどれも、目標が存在し続けることを前提にした仕組みだ。注意を方向づける対象がなくなり、努力を注ぐ先がなくなり、持続する必要のある粘り強さそのものが役目を終えたとき、次の目標がすぐには来なければ、その人の一日を組み立てていた骨組みが、丸ごと外れる。ゲームのエンドロールが流れる瞬間に起きているのも、これに近いことではないか。数週間にわたって、帰宅後の時間の使い方や、次に何をするかの判断を静かに支配していた目標が、突然消える。虚無感の正体を感情の問題としてだけ見ると見えにくいが、注意の向け先を失うという、もっと機能的な空白として見ると、輪郭がはっきりしてくる。
ロックとレイサム自身も、この理論の要点を「明確で困難な目標を持つほうが、漠然と最善を尽くそうとするより高い成果につながる」という、努力の入口に関する主張として整理している。裏を返せば、この理論がもっとも雄弁なのは、目標に向かって走っている最中の説明であって、ゴールテープを切った後の説明ではない。ビジネスの現場でこの理論が好まれるのは、達成後の心理状態よりも、達成に至るまでの生産性のほうが、企業にとって関心の対象だったからでもあるだろう。研究の関心がどこに向けられてきたかという事情そのものが、ゲームのエンドロールの後に何が起きるかという問いへの答えを、手薄なままにしてきた面もある。
オリンピック選手にも同じ空白が訪れる、ただし話を盛りすぎないほうがいい
目標に向けて費やす時間の規模を極端に大きくすると、この空白はどう見えるか。手がかりになりそうな研究がある。心理学者のカレン・ハウエルズとマタイス・ルカッセンが2018年にPsychology of Sport and Exercise誌で発表した調査で、2016年リオデジャネイロ・オリンピックに出場したイギリスの女子選手4人に詳細な聞き取りを行い、大会後に訪れる「ポスト・オリンピック・ブルー」と呼ばれる状態を分析している。数年がかりで積み上げてきた目標が終わった直後、選手たちは、それに紐づいていた周囲からの注目が失われる感覚を語っており、研究者たちは、帰国後の落ち込みを正常な反応と解釈した。
ただし、この研究をそのまま一般化するのは慎重であるべきだ。面接内容を解釈的に読み解く質的研究であり、そもそも統計的な一般化を目的とした設計ではない。対象も、イギリスの女子選手4人という限られた属性に偏っている。それでも、規模も文脈もまるで異なる「ゲームのクリア」と「オリンピックでの競技」という二つの出来事は、筆者の目には、長く続いた目標が終わった直後の空白という、よく似た輪郭を持って見える。もっとも、二つの研究が測ったものは同じではない。一方が測ったのは物語の終わりへの反芻や寂しさで、もう一方が聞き取ったのは、注目を得て失うことと帰国後の落ち込みだ。二つを重ねているのは筆者であって、研究ではない。とはいえ、この空白がゲームというメディア固有の現象ではなさそうだと考える、ささやかな手がかりにはなる。
もう一つ目を留めておきたいのは、オリンピック選手たちが失っているものの中身だ。聞き取りの中心にあったのは、目標に向かって努力する姿に向けられていた周囲の注目が、大会の終了とともに失われる感覚だった。多くの競技者にとっては、日々の生活リズムを決めていたトレーニングの予定表もまた、大会の終わりとともに役目を終えるはずだ。ゲームのクリアで失われるものは、これに比べればずっと小規模だ。周囲の視線が向いていたわけでもなければ、生活全体がその一本の目標に支配されていたわけでもない。それでも、規模の大小を問わず「目標が担っていた複数の役割が、達成と同時にまとめて消える」という構造だけは共通している。虚無感の大きさは、目標そのものの規模というより、その目標が日常の中でどれだけ多くの役割を肩代わりしていたかに比例するのかもしれない。
「未完のものが気にかかる」という通説は本当なのか
ここで、もう一つ別の角度から光を当ててみたい。心理学の入門書によく登場する話に、未完のタスクは完了したタスクより記憶に残りやすい、という「ツァイガルニク効果」がある。1927年に心理学者ブルーマ・ツァイガルニクが報告したもので、レヴィンがベルリンの飲食店で見たというウェイターの逸話——会計前の注文はよく覚えているのに、会計を終えた注文は、しばらくすると覚えていない——とともに語られることが多い話だ。もしこれが正しいなら、話は分かりやすくなる。プレイ中のゲームは「未完了」として頭の片隅に居座り続け、クリアした瞬間にその負荷から解放される。だとすれば、エンドロールのあとに訪れるのは、虚無感ではなく安堵のはずだ。
ところが、この効果自体の土台は、ずっと前からぐらついていた。心理学者のロマン・ギベリーニとベアト・マイヤーが2025年にHumanities and Social Sciences Communications誌で発表したメタ分析は、ツァイガルニクとオフシアンキナという二つの近縁の効果に関するこれまでの研究を統合的に検証した。その結果、後続の研究を統合すると、未完了のタスクが完了したタスクより記憶に残りやすいという傾向は、ほとんど確認できなかったという。本人の元データを含めても結果は変わらず、本人が使った計算方法そのものが効果を大きく見せやすかった、と著者らは指摘している。一方で、中断した作業を再開したくなるという「オフシアンキナ効果」——記憶の良し悪しではなく、再開への欲求そのもの——のほうは、比較的頑健に確認されたとしている。つまり、未完了のものが「よく覚えられる」という話は怪しいが、未完了のものに「また触れたくなる」という傾向は、どうやら本物らしい。
この整理を踏まえると、先の見立てはそのままでは成立しない。ゲームが未完了だったから記憶に負荷をかけていた、という説明は根拠が薄い。むしろ起きていたのは、まだ続きがあるという状態そのものへの、漠然とした「また戻りたい」という欲求だったのだろう。クリアによってその欲求の対象が消えたとき、人はほっとするのではなく、戻る先を失う。安堵ではなく空白が残るのは、そもそも解放されるべき記憶の重荷など、最初から大して存在していなかったからだと考えたほうが、実情に近いのかもしれない。
ここで少し立ち止まっておきたい。ツァイガルニク効果は、ビジネス書やライフハック系の記事で「タスクをあえて途中で切り上げると集中力が続く」といった具体的な助言の根拠として、いまも頻繁に持ち出される。その根拠となる実験自体の効果が、後続の研究を集めるとほとんど見えなくなるという事実は、あまり広くは知られていない。長年信じられてきた説明が、検証のたびに少しずつ痩せていくというのは、心理学ではめずらしい話ではない。マクラウドの紹介によれば、この効果については、1960年代の末に、追試にあたる論文44本を検討した整理がすでにあり、マクラウドが数え直すと、効果を報告していたのは3分の1に満たなかった。疑いは半世紀以上前に一度、はっきり出されていたのに、通説のほうは生き延びてきたことになる。エンドロールの後の空白について語るとき、手近な通説にすぐ飛びつかず、その通説自体の土台を疑ってみる価値は、この一件を見る限り十分にありそうだ。
エンドロールの数分間は、評価を背負わされているのか
最後に、なぜ他でもなく「エンドロール」という数分間が、これほど大きな感情を背負うことになるのかを考えてみたい。手がかりになるのは、心理学者ダニエル・カーネマン、バーバラ・フレドリクソン、チャールズ・シュライバー、ドナルド・レデルマイヤーが1993年にPsychological Science誌で発表した、いわゆる冷水実験だ。被験者は片手を14度の冷水に60秒間浸す試行と、もう一方の手を同じ14度の水に60秒間浸したあと、さらに30秒間、水温を15度までゆっくり上げながら浸し続ける試行の両方を経験する。後者のほうが冷水にさらされる合計時間は長く、苦痛の総量としては明らかに多い。ところが、もう一度どちらかを繰り返すよう求められると、被験者の多くは、苦痛の総量が多いはずの後者を選んだ。研究者たちはこれを、経験の評価が苦痛の合計ではなく、ピーク時の強さと終わり方に大きく左右される「ピーク・エンドの法則」として説明している。著者らは、ピークと終わりだけが振り返りの評価を決めると言っているわけではない、とも明記している。
この法則をゲームの体験に当てはめると、見え方が変わってくる。百時間かけて積み上げてきた戦闘や会話の記憶の総量は、その体験全体の評価にはさほど反映されないのかもしれない。冷水の実験が扱ったのは90秒ほどの体験で、何十時間もの物語にそのまま当てはまるかは分からない。それでも当てはめて考えるなら、評価を左右するのは、道中で最も感情が揺さぶられた場面と、最後の数分間、つまりエンドロール直前の展開の二点だということになる。制作者側がクライマックスと結末の演出に力を注ぐのは、単なる様式美ではなく、この法則に照らせば理にかなった選択でもある。そうだとすれば、代償もある。何十時間もの体験の重みが、たった数分間の演出に不釣り合いなほど集中して背負わされうるからだ。この見方を借りれば、エンドロールの数分間は、振り返ったときの評価を不釣り合いに背負っている可能性がある。ただし法則が言うのは、終わりが振り返りの評価を左右する、ということであって、評価を背負うから終わりの場面で感情が濃くなる、という向きの話ではない。その数分間が終わった直後に虚無感が色濃く訪れることまで、この法則で説明できるかといえば、そこはまだ筆者の想像の域を出ない。
この見方は、ゲームに限った話でもないのかもしれない。長編小説の最終ページ、連続ドラマの最終話、何年も続いた連載漫画の最終回。どれも「エンドロール」に相当する数分間、あるいは数ページを持っていて、そこでの読後感が作品全体の評価に大きく響くことがある。途中の展開がどれほど丁寧に積み上げられていても、終わり方一つで作品全体の印象がひっくり返ることがあるのは、この見方と矛盾しない。近年、長編ゲームの多くが本編クリア後にも遊べる「エンドコンテンツ」や「ニューゲームプラス」を用意するようになったのは、この不釣り合いな重みを和らげるための、業界側のささやかな工夫とも読める。物語としての終わりは迎えても、遊びとしての終わりを少し先延ばしにすることで、評価の材料が尽きる瞬間を遅らせている、と読むこともできる。冷水の実験を手がかりの一つにして、趣味のアプリがセッションの終わりに出す数字が何を映しているのかを考えたのが、「没頭度」の表示を疑った記事だ。
空白は、埋めるべき忘れ物ではない
ここまでの話を並べると、達成直後の虚無感は、一つの原因に還元できるような単純な現象ではないことが分かる。目標という骨組みが外れる機能的な空白として見ることもでき、大きな出来事のあとで日常の他の喜びが相対的に色あせて見える対比効果として見ることもできる。そこに、終わり方が体験全体の評価を背負ってしまうことがあるという、評価の仕組みの偏りが重なっているのかもしれない。どれも、ゲームのクリアそのものを調べた研究から出てきた見方ではない。未完了のタスクが記憶に居座るという、分かりやすい説明のほうはどうやら怪しい。空白の理由は、思っていたよりいくつも積み重なっていて、そのぶん、たった一つの対策で埋められるようなものでもなさそうだ。
だからといって、この空白を急いで次の目標で埋める必要があるとも思わない。大きな幸運のあとの人が日常の楽しみを低く見積もっていた、という一度きりの比較もある。エンドロールが流れ終わったあとの部屋の静けさは、埋めるべき忘れ物ではなく、しばらくそのままにしておいてもいい類いの静けさだと、筆者は思っている。数週間かけて積み上げてきたものが、数分間の演出に評価を委ねられて終わることもある。その不釣り合いさに気づけたことのほうが、次に何を始めるかを急いで決めることよりも、案外長く残る収穫なのかもしれない。
エンドロールが流れているあいだ、名前の羅列を最後まで目で追う人と、途中でコントローラーを置いて席を立つ人がいる。その違いも、几帳面さの差というより、この数分間が持つ重みへの向き合い方の差だと考えることもできる。もっとも、最後まで見届けることと途中で離れることが、その後の虚無感にどう違って響くのかは、ここで見た研究からは分からない。物語が終わったあとのスタッフロールで席を立っても、ピークと終わりの場面は、すでに過ぎている。どちらが正しい過ごし方だという話ではない。ただ、次にエンドロールに出くわしたとき、この数分間に重みが偏っている、という見方を一つ知っているかどうかだけは、その後の数日間の過ごし方をわずかに変える気がする。
出典
- Janowicz, K., & Klimczyk, P. (2026). Post-game depression scale — a new measure to capture players' experiences after finishing video games. Current Psychology, 45(3). https://doi.org/10.1007/s12144-025-08515-2(抄録で確認。人数の内訳・年齢・要素ごとの強さ、横断調査で因果は分からないという著者の断りは PsyPost と Science in Poland の紹介記事による二次情報。対戦型を分けて分析していないことは Science in Poland の紹介による)
- Ben-Shahar, T. (2007). Happier: Learn the Secrets to Daily Joy and Lasting Fulfillment. McGraw-Hill.(「到達の誤謬」について。書籍は未確認で、命名は紹介記事による)
- Brickman, P., Coates, D., & Janoff-Bulman, R. (1978). Lottery winners and accident victims: Is happiness relative? Journal of Personality and Social Psychology, 36(8), 917-927.(全文は未確認。数値は抄録と World Database of Happiness の要約、紹介記事による二次情報)
- Lindqvist, E., Östling, R., & Cesarini, D. (2020). Long-run effects of lottery wealth on psychological well-being. The Review of Economic Studies, 87(6), 2703-2726. https://doi.org/10.1093/restud/rdaa006(NBER Working Paper 24667(2018)の全文で確認。掲載版は抄録のみ確認)
- Locke, E. A., & Latham, G. P. (1990). A Theory of Goal Setting and Task Performance. Prentice-Hall.(書籍は未確認。本文の記述は2002年の論文による)
- Locke, E. A., & Latham, G. P. (2002). Building a practically useful theory of goal setting and task motivation: A 35-year odyssey. American Psychologist, 57(9), 705-717.(全文で確認)
- Howells, K., & Lucassen, M. (2018). 'Post-Olympic blues' – The diminution of celebrity in Olympic athletes. Psychology of Sport and Exercise, 37, 67-78.(抄録で確認)
- Zeigarnik, B. (1927). Das Behalten erledigter und unerledigter Handlungen. Psychologische Forschung, 9, 1-85.(原典は未確認。内容は Ghibellini & Meier (2025) と MacLeod (2020) による)
- Ghibellini, R., & Meier, B. (2025). Interruption, recall and resumption: a meta-analysis of the Zeigarnik and Ovsiankina effects. Humanities and Social Sciences Communications, 12, 962. https://doi.org/10.1057/s41599-025-05000-w(全文で確認)
- Ovsiankina, M. (1928). Die Wiederaufnahme unterbrochener Handlungen. Psychologische Forschung, 11, 302-379.(Ghibellini & Meier (2025)による言及。原典は未確認)
- MacLeod, C. M. (2020). Zeigarnik and von Restorff: The memory effects and the stories behind them. Memory & Cognition, 48(6), 1073-1088.(著者が公開している全文で確認。ウェイターの逸話には、勘定の合計を覚えていたという Boring (1957) の版と、各人の注文を覚えていたという MacKinnon の版(Marrow, 1969 所収)があり、本文の「注文」は後者による)
- Kahneman, D., Fredrickson, B. L., Schreiber, C. A., & Redelmeier, D. A. (1993). When more pain is preferred to less: Adding a better end. Psychological Science, 4(6), 401-405.(全文で確認)
