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「ポストゲーム・デプレッション」という名の、エンドロール後の虚無感
ゲームのエンドロールの後に訪れる名前をつけにくい虚無感は、独立した心理学的現象として測定され始めている。百時間かけて積み上げた物語の評価が、数分間の演出に委ねられてしまう構造を、いくつかの研究から辿る。
深夜、エンドロールが流れ始める。画面の下から上へ、開発チームの名前が数分かけて流れていくあいだ、指はまだコントローラーの上に乗ったままだが、動かす理由はもうない。数十時間、長いものなら百時間以上をかけて積み上げてきた選択や戦闘や会話の記憶が、この数分間に集約されて終わっていく。ラスボスを倒した直後の高揚感はすでに引いていて、代わりに残っているのは、達成感でも疲労でもない、名前をつけにくい静けさだ。電源を切ったあとの部屋は、始める前とまったく同じ部屋のはずなのに、どこか物足りない。
この感覚を、意志の弱さや現実逃避の後ろめたさに結びつけるのは簡単だ。ゲームに時間を使いすぎた報いだ、と片づければ話は早い。だが、この空白の正体を辿っていくと、話はもう少し込み入っている。達成した直後に訪れる虚無感は、ゲームというジャンルに固有の欠陥ではなく、「終わる」という出来事そのものが持っている、もっと一般的な性質かもしれないからだ。
興味深いのは、この虚無感を避けるために、多くのプレイヤーがすでに独自の対処をしていることだ。ゲーム機のライブラリには、購入したのに序盤で止まったままの「バックログ」が積み上がっている、という話をよく聞く。積みゲーという言葉が定着しているのは怠慢の証というより、終わらせないことでこの空白を先送りにする、無自覚な回避行動なのかもしれない。だとすれば、エンドロールを見ずに済ませる人と、あえて最後まで見届ける人の違いは、意志の強さの差ではなく、この後にくるものへの勘の差だという見方もできる。
これは怠惰でも中毒でもなく、名前のある現象らしい
この感覚を体系的に測ろうとした研究がある。SWPS大学のカミル・ヤノヴィッチとステファン・バトリー応用科学アカデミーのピョトル・クリムチクが2026年に学術誌Current Psychologyで発表した研究で、二段階の調査を通じて計373人のプレイヤー(第一段階210人、第二段階163人、平均年齢はおよそ28歳から30歳)を対象に、「ポストゲーム・デプレッション尺度」という17項目の測定尺度を新たに作成した。この尺度は四つの下位要素から成る。ゲームの筋書きについて繰り返し考えてしまう「ゲーム関連の反芻思考」、物語が終わることそのものへの寂しさや喪失感を指す「体験終了の困難さ」、もう一度最初からプレイし直したいという衝動である「再プレイの必要性」、そしてそのゲームを終えたあと、他のゲームや映像作品を以前ほど楽しめなくなる「メディア無快感」である。
調査の結果、四つの要素のうち反芻思考が最も強く出て、メディア無快感が最も弱かったという。そして、ロールプレイングゲームを好んで多くプレイする層ほど、この症状の強度が高い傾向も確認された。ポストゲーム・デプレッションの強さは、抑うつ傾向や反芻思考のしやすさ、主観的な幸福感の低さとも相関していたが、研究者たち自身が断っているとおり、これは横断調査であり、どちらが原因でどちらが結果かは判断できない。もともと反芻しやすい気質の人が長時間没入型のゲームを好むのか、長時間の没入がその後の反芻を招くのか、この設計では区別がつかない。それでも、この空虚感がSNS上の個人的な感想にとどまらず、独立した心理測定の対象になり得るほど輪郭のはっきりした現象だという点は、少なくとも確からしい。
ロールプレイングゲームで強く出やすいという結果も、考えてみれば筋が通っている。アクション性の強いゲームが瞬間ごとの反射や快感で成り立っているのに対し、ロールプレイングゲームの多くは、数十時間かけて一人の登場人物の人生に寄り添い、その終着点を見届けるという構造を取る。物語の比重が大きいジャンルほど、終わりが「喪失」に近い形をとりやすいのは、自然な帰結だろう。逆に言えば、対戦型やスコアアタック型のゲームでこの現象があまり報告されないのは、そもそもそこに「終わり」という概念自体が希薄だからでもある。次の対戦、次のシーズンが続く限り、エンドロールに相当する瞬間は訪れない。皮肉なことに、終わりのないゲームは虚無感を招かない代わりに、いつまでも区切りをつけられないという、また別の悩みを生むことになる。
「登り切った先に何もない」という感覚は、ゲームの外側にもある
この虚無感をゲームというメディアの特殊性だけで説明しようとすると、また別の粗さが残る。似た感覚は、ゲームとは縁遠い場面でも報告されているからだ。ポジティブ心理学の研究者タル・ベン・シャハーは、2007年の著書『Happier』の中で、目標を達成しさえすれば持続的な満足が得られるはずだという思い込みを「到達の誤謬」と名づけた。学位を取る、資格に受かる、長年のプロジェクトを完了させる——そのどれもが、達成した瞬間の高揚はあっても、その高揚が長く続くとは限らない。
この見立てを裏づける、もっと具体的な数字がある。心理学者フィリップ・ブリックマン、ダン・コーツ、ロニー・ジャノフ=ブルマンが1978年にJournal of Personality and Social Psychology誌で発表した研究では、直近1年間に5万ドルから100万ドルを受け取った宝くじの高額当選者22人と、当選していない対照群22人、さらに事故で下半身麻痺を負った29人を比較している。結果は直感に反するものだった。当選者の「現在の幸福感」は5点満点中4.00で、対照群の3.82とほとんど変わらなかった。「将来の幸福感」も4.20対4.14で、ほぼ差がない。さらに興味深いのは、当選者のほうが「日常のささやかな出来事から得られる楽しみ」を対照群より低く見積もっていた点だ。3.33対3.82。宝くじという桁違いの達成が、皮肉にも、それ以外の平凡な喜びを色あせて見せていたことになる。研究者たちはこれを、大きな当たりを基準点にしてしまうと、それ以外のすべてが相対的に見劣りしてしまう「対比効果」と、新しい快楽にもいずれ慣れてしまう「順応」の組み合わせで説明している。ゲームのクリアという達成も、規模はまるで違うが、構造としては同じ罠にはまりやすい。百時間の物語を駆け抜けた直後には、それ以外のたいていのことが色あせて見えてしまう。
もっとも、この研究を鵜呑みにするのも危うい。対象者はわずか22人ずつで、しかも1970年代のイリノイ州で募集された当選者に限られる。当選額の使い道や当選からの経過期間もまちまちで、その後の追試も乏しい。それでも、この研究が半世紀近く経ったいまも繰り返し引用され続けているのは、桁違いの外的成功が内的な満足を保証しないという直感に反する構図を、これほど具体的な数字で示した例が他に少ないからだろう。宝くじの当選という、誰の目にも分かりやすい「頂点」でさえ幸福を底上げしないのなら、百時間のゲームをクリアするという、もっとささやかな達成が、持続的な満足を約束してくれないのも、驚くには当たらない。
目標理論が雄弁に語らないこと
では、なぜ達成は色あせを招くのか。ここでもう一段掘り下げる価値があるのは、目標そのものが人の行動をどう組織しているか、という理論だ。心理学者エドウィン・ロックとゲイリー・レイサムが数十年にわたる実証研究を積み上げて体系化した目標設定理論では、明確で困難な目標は、注意の方向づけ、努力の強度、粘り強さの持続、そして課題に取り組むための工夫の発見という、四つの経路を通じて行動を動かすとされる。この理論を支える研究は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス、ドイツ、イスラエル、日本などにまたがり、対象者は延べ4万人近くにのぼるという、行動科学の中でも指折りの再現性を誇る枠組みだ。
ただし、この理論が主に光を当ててきたのは、目標に向かって進んでいる最中の話であって、目標が達成された「その後」の話ではない。四つの経路はどれも、目標が存在し続けることを前提にした仕組みだ。注意を方向づける対象がなくなり、努力を注ぐ先がなくなり、持続する必要のある粘り強さそのものが役目を終えたとき、その人の一日を組み立てていた骨組みが、丸ごと外れる。ゲームのエンドロールが流れる瞬間に起きているのは、まさにこれだ。数週間にわたって、帰宅後の時間の使い方や、次に何をするかの判断を静かに支配していた目標が、突然消える。虚無感の正体を感情の問題としてだけ見ると見えにくいが、注意の向け先を失うという、もっと機能的な空白として見ると、輪郭がはっきりしてくる。理論そのものが達成後の空白について多くを語らないのは、理論の欠陥というより、その先が単純に研究され尽くしていないという、素朴な手薄さの表れなのだろう。
ロックとレイサム自身も、この理論の要点を「明確で困難な目標を持つほうが、漠然と最善を尽くそうとするより高い成果につながる」という、努力の入口に関する主張として整理している。裏を返せば、この理論がもっとも雄弁なのは、目標に向かって走っている最中の説明であって、ゴールテープを切った後の説明ではない。ビジネスの現場でこの理論が好まれるのは、達成後の心理状態よりも、達成に至るまでの生産性のほうが、企業にとって関心の対象だったからでもあるだろう。研究の関心がどこに向けられてきたかという事情そのものが、ゲームのエンドロールの後に何が起きるかという問いへの答えを、手薄なままにしてきた面もある。
オリンピック選手にも同じ空白が訪れる、ただし話を盛りすぎないほうがいい
目標に向けて費やす時間の規模を極端に大きくすると、この空白はどう見えるか。手がかりになりそうな研究がある。心理学者のカレン・ハウエルズとメイヤー・ルカッセンが2018年にPsychology of Sport and Exercise誌で発表した調査で、2016年リオデジャネイロ・オリンピックに出場したイギリスの女子選手4人に詳細な聞き取りを行い、大会後に訪れる「ポスト・オリンピック・ブルー」と呼ばれる状態を分析している。数年がかりで積み上げてきた単一の目標が終わった直後、選手たちは目標だけでなく、それに紐づいていた自分自身のアイデンティティや周囲からの注目までもが同時に失われる感覚を報告しており、研究者たちはこれを「感情の真空状態」と表現した。
ただし、この研究をそのまま一般化するのは慎重であるべきだ。対象はわずか4人で、しかもイギリスの女子選手という限られた属性に偏っている。面接内容を解釈的に読み解く質的研究であり、統計的な一般化を目的とした設計でもない。この数字の小ささを差し引いてもなお興味深いのは、規模も文脈もまるで異なる「ゲームのクリア」と「オリンピックでの競技」という二つの出来事が、独立した研究の中でよく似た輪郭——長期間の目標構造が終わった直後に訪れる、感情と機能の両面にわたる空白——を描いている点だ。一致が偶然である可能性は残るが、少なくとも、この空白がゲームというメディア固有の現象ではなさそうだという傍証にはなる。
もう一つ興味深いのは、オリンピック選手たちが失っているものの中身だ。選手たちにとって、目標そのものだけでなく、その目標に向かって努力する姿を見てくれていた周囲の視線や、日々の生活リズムを規定していたトレーニングの予定表までもが、大会の終了とともに一斉に消える。ゲームのクリアで失われるものは、これに比べればずっと小規模だ。周囲の視線が向いていたわけでもなければ、生活全体がその一本の目標に支配されていたわけでもない。それでも、規模の大小を問わず「目標が担っていた複数の役割が、達成と同時にまとめて消える」という構造だけは共通している。虚無感の大きさは、目標そのものの規模というより、その目標が日常の中でどれだけ多くの役割を肩代わりしていたかに比例するのかもしれない。
「未完のものが気にかかる」という通説は本当なのか
ここで、もう一つ別の角度から光を当ててみたい。心理学の入門書によく登場する話に、未完のタスクは完了したタスクより記憶に残りやすい、という「ツァイガルニク効果」がある。1927年に心理学者ブルーマ・ツァイガルニクが報告したもので、ウェイターが会計前の注文はよく覚えているのに、会計を終えた注文はすぐに忘れてしまう、という観察から出発した話だ。もしこれが正しいなら、話は分かりやすくなる。プレイ中のゲームは「未完了」として頭の片隅に居座り続け、クリアした瞬間にその負荷から解放される。だとすれば、エンドロールのあとに訪れるのは、虚無感ではなく安堵のはずだ。
ところが、この効果自体の土台が近年ぐらついている。心理学者のロマン・ギベリーニとベアト・マイヤーが2025年にHumanities and Social Sciences Communications誌で発表したメタ分析は、ツァイガルニクとオフシアンキナという二つの近縁の効果に関するこれまでの研究を統合的に検証した。その結果、ツァイガルニク本人が報告した元データを除外すると、未完了のタスクが完了したタスクより記憶に残りやすいという傾向は、ほとんど確認できなかったという。一方で、中断した作業を再開したくなるという「オフシアンキナ効果」——記憶の良し悪しではなく、再開への欲求そのもの——のほうは、比較的頑健に確認されたとしている。つまり、未完了のものが「よく覚えられる」という話は怪しいが、未完了のものに「また触れたくなる」という傾向は、どうやら本物らしい。
この整理を踏まえると、先の見立てはそのままでは成立しない。ゲームが未完了だったから記憶に負荷をかけていた、という説明は根拠が薄い。むしろ起きていたのは、まだ続きがあるという状態そのものへの、漠然とした「また戻りたい」という欲求だったのだろう。クリアによってその欲求の対象が消えたとき、人はほっとするのではなく、戻る先を失う。安堵ではなく空白が残るのは、そもそも解放されるべき記憶の重荷など、最初から大して存在していなかったからだと考えたほうが、実情に近いのかもしれない。
ここで少し立ち止まっておきたい。ツァイガルニク効果は、ビジネス書やライフハック系の記事で「タスクをあえて途中で切り上げると集中力が続く」といった具体的な助言の根拠として、いまも頻繁に持ち出される。その根拠となる実験自体の再現性が、原著者本人のデータを除くとほとんど消えてしまうという事実は、あまり広くは知られていない。長年信じられてきた説明が、検証のたびに少しずつ痩せていくというのは、心理学ではめずらしい話ではないが、この分野については後から答え合わせをする機会がとりわけ少ない。エンドロールの後の空白について語るとき、手近な通説にすぐ飛びつかず、その通説自体の土台を疑ってみる価値は、この一件を見る限り十分にありそうだ。
虚無感の重みは、終わり方の設計に偏って乗っている
最後に、なぜ他でもなく「エンドロール」という数分間が、これほど大きな感情を背負うことになるのかを考えてみたい。手がかりになるのは、心理学者ダニエル・カーネマン、バーバラ・フレドリクソン、チャールズ・シュライバー、ドナルド・レデルマイヤーが1993年にPsychological Science誌で発表した、いわゆる冷水実験だ。被験者は片手を14度の冷水に60秒間浸す試行と、同じ14度の水に60秒間浸したあと、水温をわずかに15度まで上げた状態でさらに30秒間浸し続ける試行の両方を経験する。後者のほうが冷水にさらされる合計時間は長く、苦痛の総量としては明らかに多い。ところが、もう一度どちらかを繰り返すよう求められると、被験者の多くは、苦痛の総量が多いはずの後者を選んだ。研究者たちはこれを、経験の評価が苦痛の合計ではなく、ピーク時の強さと終わり方の二点でほぼ決まってしまう「ピーク・エンドの法則」として説明している。
この法則をゲームの体験に当てはめると、見え方が変わってくる。百時間かけて積み上げてきた戦闘や会話の記憶の総量は、実のところ、その体験全体の評価にはさほど反映されない。評価を左右しているのは、道中で最も感情が揺さぶられた場面と、最後の数分間、つまりエンドロール直前の展開の二点にほぼ集約される。制作者側がクライマックスと結末の演出に力を注ぐのは、単なる様式美ではなく、この法則に照らせば理にかなった選択でもある。だが、そのぶん代償も大きい。何十時間もの体験の重みが、たった数分間の演出に不釣り合いなほど集中して背負わされることになるからだ。エンドロールという数分間があれほど濃密な感情を伴うのは、それが物語の終わりだからというより、体験全体の評価を一手に引き受ける、構造上とても重い数分間だからなのだろう。そして、その数分間が終わった瞬間、評価を支えていた最後の材料そのものが尽きる。虚無感が「エンドロールの後」に、他のどの場面よりも色濃く訪れるのは、偶然の巡り合わせではなく、評価の仕組みそのものに埋め込まれた必然に近い。
この法則は、ゲームに限った話でもない。長編小説の最終ページ、連続ドラマの最終話、何年も続いた連載漫画の最終回。どれも「エンドロール」に相当する数分間、あるいは数ページを持っていて、そこでの読後感が作品全体の評価をほぼ決めてしまう。途中の展開がどれほど丁寧に積み上げられていても、終わり方一つで作品全体の印象がひっくり返ることがあるのは、この法則に照らせば当然の帰結だ。近年、長編ゲームの多くが本編クリア後にも遊べる「エンドコンテンツ」や「ニューゲームプラス」を用意するようになったのは、この不釣り合いな重みを和らげるための、業界側のささやかな工夫とも読める。物語としての終わりは迎えても、遊びとしての終わりを少し先延ばしにすることで、評価の材料が尽きる瞬間を意図的に遅らせているわけだ。
空白は、埋めるべき忘れ物ではない
ここまでの話を並べると、達成直後の虚無感は、一つの原因に還元できるような単純な現象ではないことが分かる。目標という骨組みが外れる機能的な空白があり、達成そのものが日常の他の喜びを相対的に色あせさせる対比効果があり、そこに、終わり方だけが体験全体の評価を背負ってしまうという、評価の仕組みの偏りが重なる。未完了のタスクが記憶に居座るという、分かりやすい説明のほうはどうやら怪しい。空白の理由は、思っていたよりいくつも積み重なっていて、そのぶん、たった一つの対策で埋められるようなものでもなさそうだ。
だからといって、この空白を急いで次の目標で埋める必要があるとも思わない。宝くじの当選者が日常の喜びを見失ったように、次の大作を探して即座に飛びつけば、また同じ対比効果の中に自分を置き直すだけかもしれない。エンドロールが流れ終わったあとの部屋の静けさは、埋めるべき忘れ物ではなく、しばらくそのままにしておいてもいい類いの静けさなのだろう。数週間かけて積み上げてきたものが、数分間の演出に評価を委ねられて終わる。その不釣り合いさに気づけたことのほうが、次に何を始めるかを急いで決めることよりも、案外長く残る収穫なのかもしれない。
エンドロールが流れているあいだ、名前の羅列を最後まで目で追う人と、途中でコントローラーを置いて席を立つ人がいる。その違いも、几帳面さの差というより、この数分間が持つ重みへの向き合い方の差なのだろう。最後まで見届ける人は、対比効果と評価の偏りをまとめて一身に引き受けているし、途中で離れる人は、その重みを分割して受け取ることで、虚無感の総量をわずかに減らしているのかもしれない。どちらが正しい過ごし方だという話ではない。ただ、次にエンドロールに出くわしたとき、この数分間がなぜこれほどの重みを持つのかを知っているかどうかだけは、その後の数日間の過ごし方をわずかに変える気がする。
出典
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- Ben-Shahar, T. (2007). Happier: Learn the Secrets to Daily Joy and Lasting Fulfillment. McGraw-Hill.(「到達の誤謬」について)
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