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タンスに眠る着物になぜ鋏が入れられないのか

タンスに眠る着物になぜ鋏が入れられないのか

譲り受けた着物を前に手が止まるのは優柔不断のせいではない。拡張自己、保有効果、イケア効果、贈与論、そして縮小した着物市場のデータから、その迷いの正体を分解する。

TOMOAKI··趣味

タンスの奥に、着物が数着ある。祖母から譲られたもの、成人式で仕立てたもの、親がどこかの節目に買ってくれたもの。どれも十年以上袖を通していない。処分しようと何度か思ったが、そのたびに手が止まる。同じように古びた洋服なら、迷わず資源ごみの袋に入れられる。トレーナーやシャツを整理するときには生じない迷いが、着物にだけ発生する。

この「手が止まる」という感覚を、ただの感傷として片付ける前に、少し立ち止まって考えてみたい。同じ布であり、同じ「もう着ない衣類」であるにもかかわらず、着物に対してだけ処分の判断がこれほど重くなるのはなぜなのか。答えを急がず、その重さがどんな部品でできているのかを分解してみる。

あらかじめ断っておくと、この文章はリメイクの手順を紹介するものではない。鋏の入れ方や仕立ての工夫はいくらでも他で調べられる。ここで扱いたいのは、その手前で止まる指先の動きのほうだ。なぜ止まるのか、その止まり方には何種類あるのか、という問いに、消費者研究や心理学がどこまで答えを用意しているかを見ていく。

モノは「もの」で終わらない

消費者行動論には、この重さを説明しようとした研究がいくつかある。もっともよく引用されるものの一つが、消費者研究者ベルクが1988年に発表した「所有と拡張自己」という論文だ。ベルクの主張は単純で、人は所有物を通じて自己の一部を外部に置いている、というものである。所有物は単なる道具ではなく、自己という境界が漏れ出した先だ、というのがその見立てである。衣類や住居、写真のような身近な品も、その例になる。この論文はJournal of Consumer Researchという学術誌でもっともよく引用される論文の一つで、以後の消費者心理学の議論の基礎になっている。

着物が厄介なのは、この「拡張された自己」が一人分では済まないところだ。祖母から譲られた着物には、祖母自身の記憶と、譲り渡すという行為に込められた意図の両方が織り込まれている。捨てるという判断は、自分の持ち物を処分する話であると同時に、他人の意図を扱う話にもなる。だから迷いが二重になる。買った本人が飽きて処分するTシャツとは、迷いの成分がそもそも違う。自分ひとりの自己が染み込んだ持ち物を手放すのと、祖母の自己まで染み込んだ持ち物を手放すのとでは、剥がさなければならない層の数がそもそも違う、と言い換えてもいい。

「聖なるもの」に値札はつけにくい

ベルクは1989年、ウォレンドルフ、シェリーと共同で、もう一つの重要な論文を発表している。「消費者行動における聖と俗」と題されたこの研究は、研究者のチームが米国各地を回り、消費の現場で観察と聞き取りを重ねたと紹介されている、いわゆる「消費者行動オデッセイ」というプロジェクトの成果である。宗教的な意味での「聖性」が、現代の消費行動の中にも姿を変えて生き残っている、というのがその結論だった。冠婚葬祭の品、家族の形見、儀礼の場でだけ使う道具——これらは市場で交換される「俗なる」商品とは別の論理で扱われる。聖なるものは、価格をつけることそのものになじまない。

着物、とりわけ成人式や婚礼のために誂えたものは、この「聖なるもの」の典型に近い。フリマアプリで値段をつけて出品しようとした瞬間に感じる居心地の悪さは、単なる面倒くささではなく、本来別の論理で扱うべきものを市場の論理に無理やり接続しようとしていることへの違和感なのかもしれない。もっとも、この説明を持ち出したところで、実際に出品するかどうかの答えが出るわけではない。聖俗の区分は、なぜ迷うのかを説明する枠組みであって、迷いを解消する処方箋ではないからだ。

着物の市場は、いまどのくらいか

ここで一つ、数字を確認しておきたい。呉服(着物関連)の小売市場は、1980年前後に1兆8000億円規模あったとされる。業界の推計として広く引かれている数字だが、一次資料は確認できなかったので、ここでは目安にとどめる。矢野経済研究所の推計では、2025年の呉服小売市場は2030億円で、前年比95.8%と2年続けて減った(2020年の落ち込みのあと、2023年までは3年続けて前年を上回り、2023年は2240億円だった)。単純計算なら、ピークのおよそ9分の1にあたる。チャネル別の動きが公表されている2023年の調査では、百貨店と催事・訪問販売が前年を下回り、一般呉服店、チェーン専門店、通信販売、リサイクルなどは前年を上回った。着物のリユースが伸びているという話は業者の販促でもよく聞くが、2023年にリサイクルが前年を上回った項目の一つだったこと以上は、確かめられなかった。

皮肉なのは、この縮小と並行して、成人式のためだけに着物を「借りる」というレンタル業態がすっかり定着したことである。レンタル業者自身の販促サイトでは、振袖の準備方法の主流はすでにレンタルであり、母親の世代までは購入が当たり前だったという体験談も添えられている——という趣旨の宣伝文句をよく見かける。ただし、これがどの調査に基づく数字なのか、業者の外側にある独立した一次資料までは確認できなかった。そういう宣伝文句がある、という程度に留めておくのが誠実だろう。とはいえ、誂えて所有するものから、その日だけ身にまとって返すものへ、という変化の方向性自体は、市場縮小のデータとも矛盾しない。だとすれば、タンスの中に「所有された」着物が残っている家庭は、以前ほど当たり前の存在ではなくなりつつあるのかもしれない。

多くの家庭にとって、着物は「買うもの」というより「すでにあるもの」になりつつある。裏を返せば、タンスの中の着物に迷いを感じている人は、縮んだ市場の周縁ではなく、中古の着物の売り買い——リサイクルと呼ばれる販路——のすぐそばに立っている、とも言える。ただし、その販路に実際に出すかどうかはまた別の話だ。

手放す痛みは「持っている」だけで生まれる

行動経済学の分野では、こうした「持っているものを手放したくない」という傾向に、もう少し即物的な説明が用意されている。心理学者カーネマンと経済学者ネッチ、セイラーが1990年に報告した有名な実験がある。コーネル大学の学生の席を一つおきに分け、一方には大学のロゴ入りマグカップを無償で配り、もう一方には何も渡さない。マグカップをもらった学生には「いくらなら手放すか」を、もらわなかった学生には「いくらなら買うか」を尋ねた。マグカップは大学の売店で6ドルで売られていたが、売り手が求めた額の中央値は5.25ドル、買い手が出すと答えた額の中央値は2.25〜2.75ドルにとどまった。理論上は11件ほど成立するはずの取引は、1〜4件しか成立しなかった。同じ論文の別の実験(カナダの大学の学生77人を3組に分けたもの)では、売り手の中央値が7.12ドル、買い手が2.87ドルだった。

この「保有効果」は、対象への思い入れの有無にかかわらず、ただ「手元にある」というだけで発生する。マグカップですらそうなのだから、譲り受けた着物であればなおさら強く働くだろうと想像するのは自然だ。だが注意すべきなのは、ここでの保有効果が対象の意味とは無関係に生じる、機械的な心理現象だという点である。着物を手放しにくいのは、それが着物だからというより先に、単に「すでに自分のものである」からでもある。感傷を差し引いても、この効果だけで説明のつく部分は案外大きい。

手を入れると、なぜか愛着が増える

ここまでは「手放せない理由」の話だったが、逆方向の現象も知られている。経営学者ノートン、モション、行動経済学者アリエリーが2012年に発表した研究は、家具の組み立てキットや折り紙、レゴのセットを自分の手で完成させた場合、他人が作った同等の完成品よりも高く評価する傾向があることを、複数の実験を通じて示した。いわゆる「イケア効果」である。興味深いのは、この効果が労働そのものではなく、労働の末に「完成させた」という経験に依存する点だ。同じ論文に収められた別の実験では、自分で組み立てたレゴを自分の手で分解させた場合には、自分の作品への上乗せが統計的には見られなくなり、組み立てを最後の手前で止めさせた場合には、完成させた人がつけた値の半分以下にとどまった。完成させることに、それだけ大きな重みがあるらしい。もっとも、分解の実験は1組40人ほど、途中で止めた実験は2組を合わせて39人で、どちらも大きな実験ではない。

着物に鋏を入れて何か別のものに作り替える行為は、この効果と地続きに見える。手を動かした分だけ、対象への評価が上がる。ただしこれは、作り替えれば愛着が「正しく」深まるということではない。むしろ厄介なのは、この上乗せされた評価が、対象の実用的な価値や、そもそも自分がそれを必要としているかどうかとは無関係に発生することだ。労力を投じたという事実だけで評価が底上げされるのなら、その評価は判断材料としてはやや当てにならない。手を動かした満足感と、実際にそれが生活に必要かどうかは、分けて考えたほうがいい。

心理的所有感という三つの経路

経営学者ピアース、コストヴァ、ダークスは2003年、それまで断片的だった「心理的所有感」に関する研究を整理し、人が対象を「自分のものだ」と感じるようになる経路を大きく三つに分類した、と後続の研究で紹介されている。対象を統制できているという感覚、対象について深く知っているという感覚、そして対象に自分自身を注ぎ込んできたという感覚である。三つ目の「自己を注ぎ込む」という経路は、まさに前述のイケア効果と同じ土台の上にある。

着物の場合が興味深いのは、この三経路のどれもが、本人の行為を経由せずに満たされてしまう点だ。統制しているわけでも、詳しく知っているわけでも、自分で作ったわけでもないのに、譲り受けたというだけで強い所有感が発生する。三つの経路は本来、本人の経験を通じたものとして整理されているので、これは理論の外へ一歩踏み出した読みになる。おそらく、譲り渡すという儀礼的な行為そのものが、贈り主から受け手へと、統制感や自己投入の感覚を代理で移転させているのだろう。自分では何もしていないのに、なぜか重い荷物だけを引き継いでしまう構造とも言える。

「もったいない」は言い訳としても優秀すぎる

日本語には「もったいない」という便利な言葉がある。この言葉の効能は、処分をためらう心理に、倫理的な体裁を与えてくれるところにある。捨てられないのは単に踏ん切りがつかないからだ、と認めるのは気恥ずかしいが、「もったいないから」と言えば、同じ行動が美徳めいて聞こえる。もったいなさは行動を正当化する語彙としては優秀だが、実際に何かをするための動機としては、驚くほど頼りにならない。もったいないから取っておく、という判断を積み重ねた結果が、開かずのタンスそのものであることは珍しくない。取っておくことを正当化する言葉と、実際に手を動かす理由とは、別物として扱ったほうが混乱が少ない。

もう一つ厄介なのは、「もったいない」が対象になり得る範囲の広さである。布そのものがもったいないのか、それを仕立てた職人の手間がもったいないのか、贈ってくれた人の気持ちがもったいないのか、あるいは過去に自分がその着物を大切にしてきた時間がもったいないのか。どれも「もったいない」の一語で表現できてしまうがゆえに、実際には性質の異なる複数の惜しさが、一つの感情のように錯覚されている。この一語をほどいてみるだけでも、迷いの正体は多少なりとも輪郭を持つ。

「本来の用途」を離れたモノをどう扱うか

着物を鋏で分解し、スカーフや小物に作り替えるという行為は、消費者行動論でいうところの「意味の再構築」に相当する。対象が本来担っていた用途——晴れの日に着るための衣服——を離れ、別の用途、別の文脈に置き直されることで、対象の意味そのものが更新される。この作業には、対象への敬意と、対象を単なる素材として扱うという、一見矛盾した二つの態度が同居する。糸をほどいている最中に「当時の職人がどれだけ手間をかけたか」に気づいてしまう瞬間があるとすれば、それはまさにこの二つの態度がせめぎ合っている証拠だろう。

この作業を、単純な「エコで良いことをしている」という物語に回収するのは早計である。作り替える行為そのものは中立で、そこに乗せられる意味づけのほうが可変だ。ある人にとっては供養に近い行為であり、別の人にとってはただの裁縫の練習であり、また別の人にとっては処分の先延ばしに過ぎない。三つのどれが「正しい」動機かを決める必要はないし、決められるものでもない。実際、寺社によっては人形や針といった特定の道具を対象にした供養の行事が今も続いており、モノを「解体」ではなく「見送る」ものとして扱う発想は、なにも作り替えに限った話ではない。

鋏を入れるという動作自体が持つ物理的な性質も、無視できない要素だろう。ほどく、たたむ、しまう、といった動作とは違い、裁つという行為は不可逆である。一度切った布は元の反物には戻らない。この不可逆性が、判断の重さを実際以上に膨らませている面はある。だが、不可逆であることと、間違っていることは、本来まったく別の話だ。人生の選択の大半は不可逆であり、それでも人は日々何かを決めている。着物についてだけ「不可逆だから慎重に」という理屈が過剰に効いてしまうのだとすれば、それは布の問題というより、判断そのものへの構え方の問題かもしれない。

手放し方にも種類がある

「捨てる」という一語でひとくくりにされがちだが、消費者行動論では、モノを手放す方法はもっと細かく分類されてきた。マーケティング研究者のヤングとウォレンドルフは、1989年の学会発表で、消費者が所有物を手放す過程を理論的に整理しようとした。手放し方には、廃棄のほか、譲渡や売却、交換といった経路を分けて考える見方がある。手放す手前で、対象からいったん個人的な意味を取り除く儀礼的な作業が挟まるという指摘もあり、人類学者マクラッケンが1986年に「剥奪の儀礼」と呼んだものとして知られている。誰かに渡す前に洗って手入れをするのも、その一つと読めるだろう。マクラッケン自身は、自分の古いコートを他人が着ていると落ち着かない、という感覚を手がかりに挙げている。一見迷信めいたこうした手間が、手放す側の心理的な負担を軽くしているのかもしれない。反対に、写真を撮っておく、一部だけ切り取って残すのは、意味を消すより残すための手間だろう。

手放し方を経路に分けて見ると、着物を裁って別の形に作り替えるという行為は、廃棄とも譲渡・売却とも違う経路に当たる。対象は物理的には残り続けるが、着物としての用途と意味だけが取り除かれる。これは対象を完全に手放す決断を先送りしながら、それでいて何もしないでいる状態からは抜け出す、という中間的な選択でもある。中間的であることを、優柔不断だと責める理由はどこにもない。

所有者ではなく、番人である

祖母から着物を受け継いだとき、人は本当に「所有者」になっているのだろうか。消費者研究者キュラシ、プライス、アーノルドが2004年に発表した、北米の家族を対象にした研究は、この問いに輪郭を与えている。三人は、個人が大切にしているだけの持ち物と、世代を超えて家族の中で受け継がれることを前提とした持ち物とを区別し、後者を「譲渡不能な富(inalienable wealth)」と呼んだ。この種の持ち物を受け継いだ人は、それを自由に処分できる所有者というよりは、次の世代に引き渡すまでの一時的な管理を任された番人に近い、という読み方ができる。

この区別を当てはめると、着物にまつわる迷いの一部は説明がつく。同じタンスの中にある服でも、自分で買ったコートは「所有物」として扱われ、祖母から譲られた着物は「譲渡不能な富」として扱われているのだとすれば、両者に対して同じ処分基準を適用しようとすること自体に無理がある。番人としての役割を引き受けた自覚があるかどうかにかかわらず、周囲の家族や、贈り主自身の意向が、その役割を暗黙のうちに押しつけていることも珍しくない。鋏を入れるという行為が、ただの裁縫作業以上の重みを帯びるのは、この「番人」という立場を、良くも悪くも自分の判断で降りることになるからでもある。キュラシらの研究は、この管理を担う人物の役割を、単なる保管者ではなく「守護者(guardian)」としての振る舞いだと位置づけている。物理的に保管するだけの所有物と、家族の中で世代を超えて受け継がれることを前提にした持ち物とでは、そこに関わる人間の行動そのものが違う種類になる、という指摘である。着物を手放すというのは、布を手放すだけでなく、この守護者としての役目から自分の意思で降りることも意味する。

贈られたモノをどう扱うかは、贈った人の問題でもある

もう一つ見落とされがちなのは、着物の多くが贈り物として渡された経緯を持つことである。人類学者モースが20世紀前半にまとめた贈与論の伝統では、贈り物には「返礼の義務」や「贈り主とのつながりを保つ義務」が内在するとされてきた。モースが分析の材料にしたのは太平洋やアメリカ北西海岸の伝統社会における贈答儀礼だが、この構造は必ずしも遠い異文化の話にとどまらない。着物を処分することへの抵抗感には、対象そのものへの愛着だけでなく、贈った人との関係を象徴的に断ち切ることへの抵抗が混じっている可能性が高い。だとすれば、鋏を入れる、入れないという判断は、モノの問題であると同時に、贈り主との関係をどう扱うかという、もう一段別の問題でもある。この二つを混同したまま「着物をどうするか」だけを考えても、堂々巡りになりやすい。

「ときめくか」という基準の限界

近年、片づけの文脈でよく使われるようになった基準に、「手に取ってときめくかどうか」というものがある。この基準の魅力は、判断を一瞬で下せる単純さにある。迷う暇を与えず、感覚だけを頼りに要不要を仕分ける——大量の日用品を効率よく処理する場面では、これは十分に実用的な発明だろう。だが、ここまで見てきた研究を踏まえると、この基準がなぜ着物の前でだけうまく機能しないのかも、輪郭を持って見えてくる。

「ときめき」という一語は、由来のまったく異なる複数の信号を、区別せずに一つの感覚へ束ねてしまう。拡張された自己が発する信号、保有効果という機械的な執着、番人としての義務感、贈り主との関係を断ち切ることへの抵抗——これらは起源も性質も別々なのに、体感としてはどれも同じ「なんとなく手放せない」という手触りで立ち現れる。だから、感覚だけを頼りに仕分けようとすると、自分が実際にはどの理由に一番強く引っ張られているのかが分からないまま、結論だけを出すことになる。ときめきを感じないからといって迷いなく手放せるわけではないし、逆にときめきを感じたとして、それが対象そのものへの愛着なのか、番人としての役目を降りることへの罪悪感が形を変えたものなのかは、その場の感覚だけでは区別がつかない。

これは片づけの方法論そのものを退ける話ではない。単純な基準が向いている対象と、向いていない対象があるというだけのことだ。複数の力学が同時に働き、しかも互いに引っ張り合う方向を向いているような対象に対しては、単一の感覚的判断に決定を委ねること自体が、そもそも設計として不向きなのだと考えたほうがいい。着物の前で手が止まるのは、判断力が鈍っているからではなく、その判断力が同時に処理すべき変数の数が、単純な基準の許容量を超えているからだ、と言い換えてもいい。

それでも残る違和感

ここまで並べてきた研究は、どれも「なぜ手が止まるのか」を説明する道具にはなるが、「だからどうすべきか」を教えてはくれない。当然のことで、これらの研究者たちの誰一人として、読者のタンスの中身を見たことがない。理論は迷いの構造を照らすことはできても、迷いそのものを消してはくれない。それどころか、複数の理論を並べてみると、互いに引っ張り合う方向を向いていることに気づく。保有効果は「持っているだけで手放しがたくなる」と言い、イケア効果は「手を加えるほど余計に手放しがたくなる」と言う。番人としての立場は「そもそも自分の判断で処分してよい対象ではない」とささやく。三つとも正しいのだとすれば、一番身軽な選択肢は、実は何もしないことだ、という身も蓋もない結論すら成り立ってしまう。

それでも、この文章が伝えたいことが一つあるとすれば、こうした力学を知った上でなお迷い続けることと、知らないまま漠然と気が重いこととは、同じ「動けない」でも中身が違う、ということだ。前者には少なくとも、自分がどの力学に一番強く引っ張られているかを見分ける手がかりがある。後者にはそれすらない。強いて言えば、これらの研究から引き出せる態度は一つだけある。着物を前にして感じる重さを、単なる優柔不断だと片付けなくてもよい、ということだ。そこには拡張された自己の問題があり、聖俗の区分の問題があり、保有効果という機械的な心理があり、贈与と番人という二重の義務の感覚がある。いくつもの力学が同時に、しかも互いに矛盾したまま働いているのだから、判断が一瞬で下らないのはむしろ自然だろう。

布は布のまま、そこにある

着物という形を離れても、布そのものが消えるわけではない。形を変えるにせよ、そのままタンスに戻すにせよ、あるいは手放すにせよ、どれもモノに対する一つの態度の表明である。どれか一つが唯一の正解だと決めつける必要はどこにもない。市場が縮んだからといって、手元の一着の値がそれで決まるわけではない。ただ、売ればいくらになるかを確かめたところで、ここまで見てきた迷い——拡張された自己、聖俗、保有効果、番人の役目——のどれにも答えたことにはならない。だとすれば、この問題はそもそも経済合理性の土俵だけで考える話ではなかったのかもしれない。最初から、値段のつけようがない場所に置かれていたモノを、値段だけで量ろうとしていた、とも言える。

ただ、迷いの正体が何であるかを分解しておくことは、迷ったままでいる自由と、動く自由の両方を、より軽く手にするための下ごしらえにはなるはずだ。答えを出す義務は、誰にもない。

出典

  • Belk, R. W. (1988). Possessions and the Extended Self. Journal of Consumer Research, 15(2), 139-168.(抄録で確認)
  • Belk, R. W., Wallendorf, M., & Sherry, J. F. Jr. (1989). The Sacred and the Profane in Consumer Behavior: Theodicy on the Odyssey. Journal of Consumer Research, 16(1), 1-38.(抄録で確認。オデッセイの調査の形は紹介記事など二次情報による)
  • Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1990). Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem. Journal of Political Economy, 98(6), 1325-1348.(全文で確認)
  • Norton, M. I., Mochon, D., & Ariely, D. (2012). The IKEA Effect: When Labor Leads to Love. Journal of Consumer Psychology, 22(3), 453-460.(著者公開版の全文で確認)
  • Pierce, J. L., Kostova, T., & Dirks, K. T. (2003). The State of Psychological Ownership: Integrating and Extending a Century of Research. Review of General Psychology, 7(1), 84-107.(抄録と後続研究の紹介で確認)
  • Mauss, M. (1925). Essai sur le don. L'Année Sociologique.
  • Young, M. M., & Wallendorf, M. (1989). Ashes to Ashes, Dust to Dust: Conceptualizing Consumer Disposition of Possessions. In Proceedings of the 1989 AMA Winter Educators' Conference.(予稿は未取得。手放しの過程を整理した発表として挙げる)
  • McCracken, G. (1986). Culture and Consumption: A Theoretical Account of the Structure and Movement of the Cultural Meaning of Consumer Goods. Journal of Consumer Research, 13(1), 71-84.(「剥奪の儀礼」の箇所は、著者の許可を得たポルトガル語訳〔RAE-Revista de Administração de Empresas, 2007年1-3月号, 99-115〕で確認)
  • Curasi, C. F., Price, L. L., & Arnould, E. J. (2004). How Individuals' Cherished Possessions Become Families' Inalienable Wealth. Journal of Consumer Research, 31(3), 609-622.(抄録で確認。北米の家族の質的研究)
  • 矢野経済研究所「呉服市場に関する調査を実施(2024年)」プレスリリース、2024年4月25日。(2023年の市場規模とチャネル別の増減を確認。1980年前後のピークの数字はこのリリースにない)
  • 矢野経済研究所「呉服市場に関する調査を実施(2026年)」プレスリリース、2026年4月7日。(2025年の市場規模を確認)
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