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四十年続く趣味には、何が共通しているのか

四十年続く趣味には、何が共通しているのか

四十年続く趣味は、始め方が良かった結果ではないらしい。継続性理論、退職後のアイデンティティ研究、生きがい研究、認知症をめぐる論争、老いに伴う選択性理論を手がかりに、趣味が人生の断絶をまたいで生き延びる仕組みを考える。

TOMOAKI··趣味

一年続くことと、四十年続くことは、別の問いである

趣味が続くかどうかという話は、たいてい最初の一年をどう乗り切るかという話に矮小化される。道具を買いすぎない、仲間を見つける、上達を実感できる工夫をする——そうした助言は正しいのだろうが、そこで語られているのは「三日坊主にならない方法」であって、「四十年後も続いている理由」ではない。この二つは似ているようでいて、扱っている時間の長さが二桁ほど違う。

四十年という時間には、たいてい複数の断絶が挟まる。就職して自由に使える時間が減る。結婚して家計と予定を誰かと共有するようになる。子どもが生まれて、可処分時間そのものが再配分される。転勤や転職で環境が変わる。親の介護が始まる。定年を迎えて、今度は逆に時間が余る。体力や視力、聴力が少しずつ後退していく。伴侶や友人を見送ることもある。趣味を長く続けている人というのは、これらの断絶を運よく避けてきた人ではない。むしろ、そのすべてに一度はぶつかりながら、そのつど形を変えて生き延びさせてきた人である。だとすれば問うべきは「どうすれば飽きずに続けられるか」ではなく、「一つの趣味が、これほど性質の違う複数の人生の場面をまたいで、なお同一のものとして存在し続けられるのはなぜか」ということになる。これは継続の技術というより、自分という存在の連続性そのものに関わる、もう一段深い問いだ。

「変わらない自分」を守るための変化——継続性理論

老年学者ロバート・アチュリーが1989年に発表した継続性理論は、まさにこの問いを正面から扱っている。アチュリーの整理では、人が歳を重ねながら適応していくとき、拠り所にするのは真新しい方針ではなく、自分がこれまで培ってきた内的構造と外的構造の連続性だという。内的連続性とは気質や価値観、物事への構え方といった、本人の内側にある一貫性を指す。外的連続性とは、社会的な役割や人間関係、活動、環境といった、外から観察できる一貫性を指す。趣味というのは、この外的連続性のわかりやすい器の一つである——同じ楽器を弾き続けること、同じ山に通い続けることは、外から見える行動としての連続性を作る。

ここで誤解しやすいのは、継続性理論が「変わらないことが良い」と主張しているわけではない、という点だ。アチュリーが強調しているのは、変化そのものを避けることではなく、変化への対応の仕方が、その人の過去の経験と地続きになっているかどうかである。体力が落ちて以前と同じペースで山に登れなくなったとき、山をやめるのではなくコースタイムの緩い山に切り替える、あるいは登る側から地図を読む係や後輩を先導する側に回る——これは外形としては大きな変化だが、「山との関わり方を通じて自分を確認する」という内的な一貫性は保たれている。継続性理論が説明しようとしているのは、この種の、変化を伴いながらも本人にとっては地続きに感じられる適応の仕組みである。逆に言えば、表面上まったく同じ行動を繰り返しているだけでは、この理論が想定する意味での継続性にはならない。惰性で続けている習慣と、内的な一貫性を保つために形を変え続けている趣味は、外から見ると区別がつきにくいが、本人の内側では違う出来事として経験されているはずだ。

定年が自分を壊すという通説と、それに反する調査

この継続性理論を素直に敷衍すると、「定年退職はそれまでの社会的役割を根こそぎ奪うので、自分を保てなくなる人が出る」という、よく聞く話にたどり着きそうになる。実際、退職後のアイデンティティ喪失を扱った通俗的な言説の多くは、この筋書きに沿っている。ところが、スイスの58歳から70歳までの792人を対象にした心理学者ウルジーナ・トイシャー(Ursina Teuscher)の2010年の調査は、この筋書きをそのまま裏づけてはいない。すでに退職した人と、まだ退職していない人を比較したこの調査では、職業、家族の役割、価値観といった自己紹介の領域をあらかじめ示されて、それぞれの重要度をつけたとき、退職後の人のほうが「重要だ」とした領域——ここでは「自分らしさの領域」と呼んでおく——の数がむしろ多く、しかもこの領域の多様性が高い人ほど、生活の各領域への満足度も高いという関係が見られた。加えて興味深いのは、退職した人であっても、職業上のアイデンティティは今も重要だと回答している点である。つまりこの比較から読み取れるのは、仕事という一つの役割を手放した代わりに、他のすべてを失ったという単純な引き算ではなく、職業というかつての軸をある程度保持したまま、そこに新しい軸を足し算していく、という動きがありうるということだ。ただし、同じ人を追ったのではなく、退職した人とまだの人を比べた調査なので、個人の中で実際にそう変わったと言い切ることはできない。

これは継続性理論への反証というより、理論の粒度を一段細かくする材料として読むべきだろう。継続性理論が説明するのは「本人にとって一貫性を感じられる形で変化する」ということであって、「領域の数を減らして守りに入る」ということではない。トイシャーの調査から読み取れるのは、領域の多様性が高い人ほど満足度が高く、そうした人は、一つの趣味にすべてを賭けて他を切り捨てるのではなく、複数の自分らしさの領域を同時に持っている、という像であり、退職した人のほうが領域が多かったという比較も、その延長で読める。長く続く趣味というのは、その人にとって唯一の心の拠り所であることは少なく、むしろ複数ある拠り所のうち、たまたま最も外部からの制約を受けずに済んだ一つであることのほうが多いのかもしれない。

外から見れば、まったく新しく始める人

ただし、継続性理論の像からはみ出して見える退職者もいる。老年学者ガリット・ニムロッドと、余暇研究者ダグラス・クライバーが2007年に発表した研究は、退職者20人への聞き取りをもとに、晩年に新しく始めた活動を「イノベーション」と呼んで整理した。語られた活動には、自分らしさを保つ方向のものも、まったく新しい方向へ踏み出すものも含まれていて、著者らは、イノベーションが晩年でも成長や解放をもたらしうると論じている。同時に、内的な連続性は概して保たれていた、というのが論文の結論で、継続性理論と真っ向から対立するわけではない。ここで取り出したいのは、過去とほとんど接点のない対象への飛躍も、退職後の生き方として現れる、という点だ。もっとも、話はここで終わらない。ニムロッド自身が2016年に発表した、60歳以上の退職者545人への電話調査——自己を保つ型と、自己を作り直す型の二つを正面から比べたもの——では、自己を保つ型のイノベーションをした人のほうが、他の回答者より生活満足度が有意に高く、作り直す型では差が見られなかった。ただし抄録によれば、満足度を予測していたのは型そのものではなく、結果として増えた余暇の種類の多さだった。まったく畑違いの対象への転換は、それ自体が優れた老い方だと決めつけられるほど単純ではないらしい。退職を機に、外から見ればこれまでと接点のない対象へ踏み出す人がいること自体は確かだ。それでも内側の連続性は保たれていることが多い、というのが2007年の論文の見立てだった。継続と刷新は、優劣のある二つの道というより、どちらも成立しうる別々の道なのだろう。この記事はこのあと継続する趣味の側を掘り下げていくが、それは刷新する生き方が劣っているという意味ではない。

「生きがい」研究が趣味と接続する場所

継続性理論が扱っているのは自己の一貫性という、やや抽象度の高い話だった。もう少し具体的な健康指標に踏み込んだ研究もある。東北大学の曽根稔雅らが2008年に発表した大崎コホート研究は、宮城県内の40歳から79歳の住民およそ4万3千人を対象に、「あなたは生きがいやはりをもって生活していますか」という一問への回答と、その後の死亡リスクとの関係を追跡した。結果、生きがいがないと答えた人は、あると答えた人に比べて、その後の全死因死亡リスクが有意に高く、その差は主に心血管疾患と外因死によるもので、がんによる死亡には差が見られなかったという。生きがいの有無という、一見きわめて主観的な一問が、七年間の追跡で実際の死亡率と関連していたという結果は、それ自体としては興味深い。

ただし、この結果を趣味の話に直結させるには、いくつかの留保が要る。まず、この調査が測定しているのは「生きがい」という広い概念であって、「趣味を持っているかどうか」ではない。生きがいの源泉は仕事や家族、信仰などにもありうるし、実際の回答者の多くはそうした複数の源泉を漠然と念頭に置いて答えていたはずだ。趣味はその生きがいを構成しうる要素の一つにすぎない。もう一つ、これはこの種の観察研究につきまとう根本的な限界だが、「生きがいがある」と答えられること自体が、すでに心身の健康に恵まれている結果である可能性は残る。著者らの所属する東北大学の論文紹介によれば、著者らは主観的な健康度や身体機能、身体の痛みなどをそろえたうえで比べ、がんや心筋梗塞、脳血管疾患の既往がある人をあらかじめ除き、追跡の最初の二年以内に亡くなった人を除いた解析でも結果を確かめている。それでも、そろえた指標が健康状態のすべてを捉えきれるわけではなく、この可能性を完全に消すことはできない。持病を抱え、体力が衰え、社会的なつながりを失いつつある人ほど、生きがいの有無を問われて言葉に詰まりやすいだろう。つまり生きがいが健康を守っているのか、健康な人ほど生きがいを持てているのか、この一つの調査だけでは向きを決められない。趣味を持てば生きがいが生まれ、生きがいがあれば長生きする、という一直線の物語は、耳あたりは良いが、この研究が実際に示している以上のことを語ってしまっている。

続けることが頭を守るのか、衰えが先に趣味をやめさせるのか

生きがいより、もう少し的を絞った問いとして「趣味を続けることは認知機能の維持につながるのか」という研究群がある。2003年にニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに発表された神経内科医ジョー・ヴァーギーズらの調査は、75歳を超える地域住民469人を中央値で5年余り追跡し、余暇活動の頻度を、認知活動と身体活動の二つのスコアにした。結果、認知活動のスコアが1点上がるごとに、その後の認知症発症リスクは統計的に有意に下がっていた(ハザード比0.93)。一方で、同じ調査で身体活動のスコアについては、1点上がってもリスクにはほとんど変化がなかった(ハザード比1.00)。運動が体に良いという話と、運動が認知症リスクを下げるという話は、少なくともこの調査に関する限り、同じではなかったことになる。認知症のリスクと結びついていたのは、体を動かす量よりも、頭を使う活動の頻度のほうだった。逆説めいた結果だが、著者ら自身はこれを関連として報告し、保護する効果があるかどうかを確かめるには対照試験が要ると結論している。ただし個々の活動で見ると、読書、ボードゲーム、楽器演奏に加えてダンスもリスクの低下と関連していて、体を動かす活動が一律に無関係だったわけではない。

日本国内でも近い知見がある。松村らが多目的コホート研究(JPHC Study)のデータを用いた2023年の研究は、40歳から69歳のおよそ2万2千人に趣味の有無を一問で尋ね、それから12年たった時点以降の発症を、介護保険のデータで中央値11年ほど追って、要介護状態を伴う認知症を数えた。趣味がないと答えた人と比べて、趣味があると答えた人の発症リスクはハザード比0.82、趣味が多いと答えた人ではハザード比0.78まで下がっており、この関連は40歳から64歳でも、65歳から69歳でも同様に見られたという。さらに細かく見ると、この関連は脳卒中の既往がない——おそらく非血管性の——認知症についてのみ有意で、脳卒中後の血管性認知症には見られなかった。趣味が効くとしても、あらゆる種類の認知症に等しく効くわけではないらしい。

ここまでは「趣味を続けている人ほど、その後の認知機能を保ちやすい」という向きの話として読める。だが、この解釈には見過ごせない対抗仮説がある。2020年にホワイトホールII研究——英国の公務員を対象にした大規模長期追跡調査——のデータを用いて発表されたソマーラッドらの分析は、18年間の追跡の中で、余暇活動への参加が減っていく人ほど、その後の認知症発症リスクが高かったことを確認した。なお、平均55.8歳の時点の参加は認知症と関連せず、65.7歳の時点で関連が見られたと報告している。一見するとこれも「活動をやめると衰える」という話に見える。ところが同じ論文は、余暇活動全般への参加の低下が診断のおよそ10年も前から始まっている可能性を合わせて示しており、活動量の低下は認知症の原因というより、まだ診断がついていない前臨床期の症状そのものである可能性を指摘している。同じホワイトホールII研究のデータを別の角度から分析したサビアらの2017年の研究(BMJ)は、この逆因果の疑いと同じ向きの手がかりを、具体的な数字で示している。身体活動の量そのものは、その後の認知機能低下や認知症リスクとは関連していなかった一方で、身体活動量の減少は診断の最大9年前から見られたという。もっとも、9年前の時点の差は統計的にぎりぎりの水準(P=0.05)で、著者らも結論では、逆因果によるのかもしれない、という可能性の言い方にとどめている。気力が落ちる、億劫になる、日課をこなす段取りが崩れる——これらは診断のはるか手前から始まる認知症の初期兆候でありうる。だとすれば、「趣味をやめた高齢者ほど後に認知症になりやすい」という観察は、趣味が防波堤として機能していたことの証拠ではなく、すでに始まっていた病の兆候を、周囲より先に趣味の中断という形で見せていただけ、という因果の向きの逆転があり得ることになる。ヴァーギーズの研究もソマーラッドの研究もサビアの研究も、追跡開始時点ではまだ発症していない集団を扱っている。ヴァーギーズらは、開始時点ですでに認知症の前段階にあった可能性のある人を除いても関連が残ったと報告している。ただ、その追跡は中央値で5年余りで、ソマーラッドらは、関連を示したそれまでの研究の多くは追跡が10年に満たないと指摘している。10年規模の前臨床期を除ききれる長さとは言いにくい。松村らの研究は、趣味を尋ねてから12年以上あとの発症だけを数えることで、この逆向きの影響を小さくしようとしており、著者らもその点を挙げている。それでも、平均55.8歳の時点の参加を認知症と無関連としたソマーラッドらの結果とは食い違っていて、どちらに重みを置くかを、私はまだ決められない。どの設計も、この手の観察研究が持つ限界そのものを消し去ることはできない。趣味を続けていれば頭を守れるという話は、聞こえのよい因果の物語として流通しやすいが、実際に手元にある証拠は、もう少し慎重な言い回しを要求している。

歳を重ねるほど、趣味は絞られていくのだろうか

ここまでの話は「趣味を持つこと」「複数持つこと」がおおむね良い方向に働くという文脈で進んできた。ところが心理学者ローラ・カーステンセンが1990年代初めから論文で示し、1999年に共著の総説にまとめた社会情動的選択性理論は、これとは違う角度から老いを説明する。カーステンセンの理論の骨子は、人が何を追い求めるかは、残された時間をどれだけ長いと感じているかに左右される、というものだ。時間がまだ十分にあると感じられる若い時期には、人は知識を広げ、人脈を広げ、新しい経験を積むことに動機づけられる。ところが人生の残り時間が短く感じられるようになると——それは加齢によることが最も多いが、大病や別れなど、若い時期に起きる出来事でも生じうる——人は視野を広げることより、すでに情緒的な意味を持つ、限られた対象に資源を集中させるようになる。社会的な人間関係についていえば、カーステンセンが1992年に、同じ50人の34年分の面接記録から示したのは、知人や親しい友人と会う頻度が、老年期よりずっと前、成人期の早い時期から少しずつ減っていた一方で、配偶者やきょうだいと会う頻度は増え、親族や親しい友人への情緒的な近さは増していた、ということだった。相手の数を絞り、残った関係を深める動きは、老いてから急に始まるわけではないらしい。

この理論を趣味に当てはめると、少し据わりの悪い像が浮かび上がる。中年期に複数の趣味を持っていることが将来の認知機能にとって良い兆候だ、という先ほどの疫学研究の話と、歳を重ねるほど付き合う相手や追う目標を絞り込んでいくという発達心理学の理論——これを趣味に当てはめたのは私の見立てだ——は、一見矛盾しているように見える。だが、両者は測っている時間軸と機序が違う。前者は中年期における活動の「量」が将来の脳の健康にどう関わるかという疫学的な相関の話であり、後者は、残された時間の感じ方に応じて、本人の内側でなぜ、どのように対象が絞られていくのかという動機づけの話である。量が多いことが良いという話と、量を絞ることが情緒的には適応的だという話は、異なる次元の現象を指しており、どちらか一方が誤りだと決める必要はない。長く続いている趣味というのは、この二つの力がせめぎ合った結果、最後まで削られずに残った一つなのだろう。若い頃にいくつも手を出した中から、歳を重ねる過程で情緒的な重みが薄いものから自然に手放され、最も意味の濃いものだけが生き残る——長寿命の趣味とは、選ばれ続けてきた趣味というより、削られずに残ってきた趣味なのかもしれない。

形を変えながら核だけが残る、という続き方

継続性理論、退職した人のほうが自分らしさの領域が多いという比較、社会情動的選択性理論——出どころの違う三つの知見を並べてみると、共通して見えてくるのは、長く続く趣味が「同じ行動の反復」ではなく「同じ核をめぐる形の更新」だという像である。テニスを二十代で始めた人が、五十代になって膝を痛め、六十代でシングルスからダブルスに移り、七十代でコートに立つ回数が減った分、審判講習を受けて大会の運営側に回る——こうした変遷を、継続性理論は「テニスをやめて審判という別のことを始めた」とは記述しない。「テニスを通じて自分を確認するという内的な一貫性を保ったまま、外的な関わり方を環境の制約に合わせて更新した」と記述する。外形だけを見れば大きな断絶だが、本人の内側では地続きの一本の線として経験されている。この「核は保ったまま、形式を作り替える」という運動を、体力や環境の変化のたびに何度もやり直せるかどうかが、一つの趣味が四十年生き延びるかどうかを分けているように見える。

逆に、その趣味が要求する形式が一種類しかない場合——たとえば特定の強度の運動能力を前提にした遊び方しか用意されていない場合——は、体力という一変数が閾値を割った瞬間に、趣味そのものが継続不可能になる。長寿命の趣味に共通するのは、対象そのものの魅力の強さというより、その対象に複数の関わり方の階層が用意されているかどうか、あるいは本人がそれを見つけ出す発想を持てるかどうかにあるのかもしれない。プレーする、教える、記録する、観る、道具を手入れする、歴史を調べる——一つの領域の中にこれだけ関わり方の選択肢があれば、身体的な制約が一つ増えるたびに、隣の関わり方へと軸足を移しながら、同じ対象への興味だけは保ち続けられる。逆に言えば、始めたばかりの趣味を「長く続けたい」と思うなら、いま自分がしている一つの関わり方に固執する必要はない。同じ対象の中に、今の自分とは違う関わり方の余地がどれだけあるかを、あらかじめ見ておく価値はある。

この階層の豊富さは、趣味を選ぶ段階で見た目からはなかなか判断がつかない。始めたばかりの人が目にするのは、たいてい「プレーする」という一番手前の関わり方だけであり、その奥に教える、記録する、観る、調べるといった層があること自体、しばらく続けてみて初めて見えてくる。だからこそ、続けるうちに関わり方が枝分かれしていくのを自分で許せるかどうかが分かれ目になる。最初の関わり方に飽きたことを、その趣味そのものへの興味が尽きた証拠だと早合点してしまうと、まだ手つかずだった隣の層に気づかないまま撤退することになる。私が話を聞いた範囲では、長く続いている趣味を持つ人は、一貫して同じ対象が好きだったと語ることが多かったが、その中身をたどると、プレーヤーから審判へ、演奏者から聴き手へ、作り手から教える側へと、関わり方そのものは何度も入れ替わっている。本人にとってその入れ替わりは断絶ではなく、単なる興味の深まりとして経験されているにすぎない。

同じ趣味に見えて、実は何度も別のものになっている

四十年続いた趣味を、当人が振り返って語るとき、そこにはたいてい一本の筋の通った物語が語られる。「学生の頃からずっと山が好きで」「若い頃に始めたカメラを今も続けていて」——だがここまで見てきた研究を踏まえると、その一本の筋というのは、実際に何一つ変わらずに続いてきた結果というより、変わり続けることを許した結果、後から振り返って一本の筋に見えているだけ、という可能性のほうが高い。継続性理論が言う内的な一貫性は、外から見た行動の同一性を保証するものではない。トイシャーの調査では、自分らしさの領域が多様な人ほど満足度が高かった。一つの役割にしがみつかず、複数の役割を並行して育てているのかもしれない。カーステンセンの理論を趣味に当てはめれば、対象は時間とともに絞り込まれてもいくのだろう。そして認知機能をめぐる研究群が突きつけているのは、趣味を続けることと結果が良いことの間にある因果の向きは、思っているよりずっと確かめにくいという、地味だが重要な留保である。

四十年続く趣味というのは、だから、四十年前に正しい一つを選び当てた結果ではない。むしろ、その時々の制約の中で、同じ対象への興味だけを頼りに、関わり方を作り替え続けてきた記録に近い。ニムロッドらの研究に出てくるように、その隣には、過去とはほとんど接点のない、まったく新しいものへ踏み出す道もある。どちらが正しい老い方だという話ではない。継続という道を選ぶにせよ、刷新という道を選ぶにせよ、共通して要るのは、今しているその関わり方が唯一の形ではないと知っておくことだけだ。

続いていることを誇るべき成果として語るより、これからも作り替え続けられる余地がどこにあるかを、今のうちから探しておくほうが、この先の四十年には役立つはずだ。今日と同じ関わり方が十年後も通用するとは限らない、という前提を持っておくことは、その趣味への愛着が薄いことの表れではなく、むしろ長く付き合っていくつもりであることの表れなのかもしれない。

出典

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