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一人で体を動かすということ
ボルダリングで考えているのは筋力より「次にどのホールドを掴むか」。ジムの入会もチームスポーツも気が重いときに、一人で運動を続けるという選択が心理学的には何を意味しているのかを検証する。
運動不足は気になるが、ジムの入会手続きやサークルの人間関係を想像すると、それだけで気が重くなる。そういう状態がしばらく続いていた。結局、健康のためという義務感からではなく、体を動かすこと自体が単純に面白かったものだけが残った。ボルダリング、フォトウォーク、低山ハイキング、ヨガ。共通しているのは、誰かに合わせる必要がないという一点だ。調子がいい日は長く、疲れている日は早めに切り上げる。自分のペースを自分で決められるという感覚は、たしかに心地いい。
ただし、この「一人でいい」という結論には、都合よく素通りしてきた前提がある。運動の効果を集団と個人で比べた研究は、実のところ個人の側にあまり優しくない。一人であることの心地よさと、一人であることの効果は、別の話なのかもしれないという疑いを、いったん持ってみる必要がある。まずはその不都合な数字から始めたい。
集団の方が効くという不都合な数字
2017年に発表された、アメリカのある医科大学の学生69名を対象にした12週間の追跡調査がある。参加者は3つの群に分けられた。週に最低1回、30分間の「CXWORX」という名の集団フィットネスクラスに通う群。一人か、多くても2人までの少人数でランニングやウエイトトレーニングをする習慣を持つ群。そして運動をしていない対照群だ。医科大学生という、慢性的なストレスにさらされやすい集団を対象にしている点も、この研究の生々しさを補強している。結果は、「体を動かせば効く」という素朴な前提を裏切るものだった。集団フィットネスクラスの参加者は、12週間でストレスが26%減少し、精神的・身体的・感情的な生活の質のいずれもが有意に改善した。一方、一人または少人数で運動していた学生たちは、集団側より平均して長い時間運動していたにもかかわらず、ストレスの数値にはほとんど変化がなく、生活の質の改善も精神面のわずかな上昇にとどまった。運動の量ではなく、運動の形式の方が効いていたことになる。長く動いた側が報われなかったという点が、この結果を単なる「運動は良いことだ」の追認から遠ざけている。
運動嫌いが治ったわけでも、意志が急に強くなったわけでもない。同じ「運動する」という行為が、置かれた形式によって別物になっている、というだけのことだ。この差は、意志の強さや根性の問題として片づけられるものではない。集団運動の場では、動機づけそのものが個人の外側から供給される。心理学にはこれを説明する古い実験群がある。ケーラー効果と呼ばれる現象で、自分より少しだけ有能な相手と組んで作業をすると、一人でやるときよりも粘り強くなるというものだ。プランクの姿勢をどれだけ長く保持できるかを競わせた実験では、仮想的なパートナーが自分よりおよそ1.4倍長く持ちこたえられるという設定のときに、動機づけの押し上げ効果がもっとも大きくなることが確かめられている。実際にこの実験では、ペアを組んだすべての条件が、一人で行う統制条件よりも有意に長く姿勢を保持できていた。誰かが隣で、自分より少しだけ上を行っている。その事実そのものが、努力の総量を押し上げる。一人で運動しているとき、この上乗せは構造上どこにも存在しない。壁を登っているときに隣のホールドを誰かが掴んでいるわけでもなく、フォトウォークの途中で誰かに歩調を合わせられているわけでもない。純粋に、自分の出せる分だけが出力される。
ここで「だから一人の運動には意味が薄い」と結論づけたくなるが、それは急ぎすぎている。この研究が測っていたのは、あくまで12週間というスパンでのストレスと生活の質という、限られた指標だ。もっと長い時間軸で、しかもストレスとは別の何かを見たとき、風景は変わってくる。
「効いている」は何を指しているのか
集団運動が強いのは、外部からの動機づけが途切れなく供給される限りにおいてである。裏を返せば、そのクラスをやめた瞬間、一緒に走っていた友人が引っ越した瞬間に、動機づけの供給源も同時に消える。ケーラー効果の実験が示していたのも、まさにこの構造だった。効果は「その場に、自分より少しだけ有能な誰かがいる」という条件に紐づいている。条件が外れれば、効果も外れる。動機づけを外部の誰かに預けるということは、その誰かがいなくなったときの引き出し不能もあわせて引き受けるということでもある。
一人で運動する人たちの一部が、外部からの後押しなしに何年も同じ習慣を続けているという事実は、だから別の説明を要求する。運動心理学には「運動の自己図式」という考え方がある。1990年にケンジエルスキーが行った研究では、被験者を、運動と自分を結びつけて考える「運動者図式群」、運動しない自分を思い描く「非運動者図式群」、どちらとも強く結びつけずにいる「図式なし群」の3つに分類した。運動者図式を持つ人は、単に運動の頻度が高いだけではない。自分に関する言葉を判断する際に運動に関連した言葉を一貫して選びやすく、その判断にかかる時間も短く、過去の「運動した自分」の具体的な記憶を想起しやすかった。つまり運動は、彼らにとって「するかどうかを毎回選ぶ行為」ではなく、「自分が何者であるかを確認する行為」に近い位置に収まっている。選択のたびに意志力を動員する必要がない、というのが実際の効能に近い。
この違いは、集団運動の実験結果と矛盾しない。むしろ補い合っている。集団の場は短期的な運動強度と気分の改善に強く効くが、そこで起きているのは動機づけの外部供給だ。一方、自己図式が扱っているのは、外部の供給が途絶えたあとにも残る、行動と自己概念の結びつきの方である。ストレスの数値だけを12週間追った研究の設計は、この結びつきの強さそのものを最初から測る対象にしていない。測っていないものを「効果がない」と読むのは、測定の限界を実態の限界と取り違えている。
先ほど棚上げにした「もっと長い時間軸で見たときの風景」という問いに、ここでいったん答えを出しておく。ケンジエルスキーの研究が同時に示していたのは、運動者図式を持つ人ほど、将来も運動を続けるという自分の予測に確信を持っていたという点だ。12週間というスパンでは集団運動に軍配が上がる指標が、数年という単位に引き延ばされたとき、自己概念という緩慢な変数の重みが増していく可能性はある。もっとも、これは推測の域を出ない。ケンジエルスキーの研究自体は数年単位の追跡ではなく、あくまで態度と予測の一致を扱ったものだからだ。
9つの質問でわかること
この「運動している自分」という感覚は、印象論ではなく、測定に値するほど安定した構造を持っている。1994年にアンダーソンとサイコシュが開発した運動アイデンティティ尺度は、9項目の質問からなる。開発された当初のこの尺度は、下位尺度に分かれていない単一因子のものとして設計されており、主成分分析でも一因子解が支持され、内的整合性は0.94に達していた。この尺度に手を入れ直したのが2008年のウィルソンとミュオンで、確認的因子分析にかけ直したところ、単一因子モデルよりも、「自分は運動する人間だ」という役割の引き受けに関わる3項目と、「運動は自分にとって重要だ」といった信念に関わる6項目という、性質の異なる2つの下位尺度に分けたモデルの方が、データへの当てはまりが良いことが示された。内的整合性は役割アイデンティティ側が0.87、運動信念側が0.90。信念と役割は別々に変動しうる、という点がこの再分析の面白いところだ。運動が大事だと頭では思っていても、自分を「運動する人間」だと引き受けられていない状態がありうるし、逆に、たいした信念がなくても習慣として自分の一部になっている場合もある。
この尺度が示しているのは、アイデンティティが単なる継続日数の言い換えではないということだ。同じ週3回の運動でも、それを「まだ続けられている」と捉える人と、「これが自分だ」と捉える人とでは、翌年の継続率に対する予測力がまるで違ってくる。ジムに一度も通わず、フォトウォークと低山ハイキングだけを何年も続けている人がいるとして、その人の生活の質を集団フィットネスクラスの参加者と同じものさしで測れば、劣って見えるかもしれない。だが、その人において測られていないのは、行動の量ではなく、行動が自己像とどれだけ癒着しているかという、まったく別の変数の方だ。生活の質という尺度と、アイデンティティという尺度は、そもそも別の軸を向いている。
一人であることの代償
とはいえ、この自己図式という仕組みには裏がある。図式は白か黒かに近い形で機能し、いったん「運動者」という枠組みが崩れると、立て直すコストが安くない。集団に所属していれば、自分の気分が落ちている日でもクラスの時間割や同席者の存在が体を運んでくれる。ケーラー効果が示していたのは、まさにこの「自分の内側の状態が悪くても、外側の構造が行動を支える」という代替経路だった。一人で運動している人には、この経路がない。自己概念という内側の支えが揺らげば、行動を継続させる仕組みそのものが同時に揺らぐ。だからこそ、走行距離や心拍数を記録するアプリで自分の記録を可視化したり、SNSで同じ趣味を持つ人の投稿を眺めたりする人が多いのだろう。あれは見栄でも承認欲求だけでもなく、集団が本来供給していた外部の視線を、乏しい形であっても自分の手で補おうとする動きに見える。
集団運動をやめた人は、また別の集団か、別の外的な仕組みを探せばいい。だが、運動者としての自己概念そのものを失った人が立て直す先は、結局のところ自分の内側にしかない。一人で運動を続けるという選択は、外部からの動機づけの供給を受け取らない代わりに、自己概念という、より根が深いが同時に脆くもある基盤に賭けている。どちらが優れているかという話ではない。どちらの失敗モードを引き受けるかという話に近い。
もう一つ、この賭け方には見過ごされがちな弱点がある。自己図式は、外からの評価を必要としない代わりに、自分で自分の証人にならなければならない。集団の中であれば、隣の人の存在そのものが「自分は今日も運動した」という事実の証人になってくれる。一人で運動していると、その証言台に立つのはいつも自分だけだ。三日坊主で終わった過去を、都合よく忘れて「自分は運動する人間だ」と思い込むことはできない。運動者図式が「過去の運動した自分を具体的に思い出しやすい」という性質を持っていたことを思い出すと、この自己証言の役目は、記憶の中に蓄積された具体的な場面の量に支えられていることになる。証拠が薄いうちは、この基盤はまだ十分に固まっていない。
沈黙する自己、集中する自己
ここまでは、運動と自己像がどう結びつくかという話だった。だが体を動かしているときに実際に起きている体験は、もう少し違う手触りをしている。自己概念を強化する話と、自己から意識をそらす話は、一見すると逆方向を向いている。
運動が不安や落ち込みを和らげる効果については、1978年のバーキーとモーガンによる古い実験がある。運動、瞑想、ただ椅子で20分休むことの3つを比較したところ、不安を下げる効果に有意な差は出なかった。この結果から二人が導いた説明が「気そらし仮説」である。運動が効くのは生理的な変化そのものというより、日常のストレス源から注意を一時的にそらす「時間切り」として機能しているからだという見方だ。ボルダリングの壁の前で仕事のことを考えなくなるのも、フォトウォークで「今日は青いものだけ撮る」と決めた瞬間に歩く距離が伸びるのも、同じ仕組みで説明がつく。注意の対象が、頭の中の心配事から、次のホールド、次の被写体という具体的で小さな課題に移っている。
一方で、運動者アイデンティティの話は、自分についての思考をむしろ強化する仕組みだった。運動する自分を思い出しやすく、運動に関連した言葉を自分に結びつけやすい状態を指している。気そらし仮説とは逆に、自己への参照が増えているように見える。矛盾しているのだろうか。
実は、この二つは自己への注意の「種類」が違うだけで両立する。ケンジエルスキーが測っていたのは、運動という行為を通じて時間をかけてゆっくり積み上がる、安定した自己像への参照だ。バーキーとモーガンが扱っていたのは、いまこの瞬間の、評価と心配に満ちた反芻的な自己注視で、これは短時間で消えたり戻ったりする。運動は、後者の反芻的な自己注視を退けながら、前者の安定した自己像には栄養を与えている。ヨガのポーズを取りながら自分の筋肉の位置に呼吸とともに意識を向けることは、心配事への反芻とは別の種類の自己への注意であり、それどころか反芻を遠ざける方向に働く。体との対話と、頭の中での自分への詰問は、似ているようでいて、まったく別の回路を使っている。
この区別は、地味だが実用上の意味を持つ。運動をしていて気分が良くなったとき、その理由を「不安から気をそらせたから」だと考えるか、「自分が運動する人間だと確認できたから」だと考えるかで、次に取るべき行動が変わってくる。前者であれば、その場しのぎの気晴らしとして、翌日には忘れてもかまわない。後者であれば、同じ行為を積み重ねることに意味が出てくる。両方が同時に起きているのだとしたら、一回の運動を「今日の気分転換」としてだけ消費するのは、もったいない話ということになる。
意識が体に溶ける瞬間
この、注意の対象が課題そのものに吸収されていく状態を、心理学者のチクセントミハイはフロー状態と呼んだ。フローを構成する要素として彼が挙げたもののうち、少なくとも二つはここでの話に直結する。ひとつは行為と意識の融合、つまり「やっていること」と「やっていると気づいていること」の境界が薄くなる状態。もうひとつは自己意識の消失、つまり他人からどう見えるかという評価的な視線が働かなくなる状態だ。
集団のクラスでは、この自己意識の消失が起きにくい構造がある。周りにインストラクターがいて、隣に自分より上手な人がいて、動機づけはそこから供給されるが、同時に「見られている」という感覚も供給される。ケーラー効果が機能するのは、まさに自分の努力が他人の目に触れているからだ。一人でボルダリングの壁に向き合っているときに起きているのは、その逆の状態に近い。評価する他者がいない代わりに、意識は次のホールドという具体的な課題に沈んでいく。フォトウォークで被写体を探しているときの、しゃがんだり見上げたりする体の動きも、低山を歩きながら木漏れ日の匂いに気を取られる感覚も、この意識の吸収がなければただの移動でしかない。
ここで一周してわかるのは、一人で運動することの利点は、集団運動が持つ利点の劣化版ではないということだ。集団は動機づけを外から運んでくる代わりに、評価的な視線をつねに持ち込む。一人の運動は、その視線が最初から存在しない分だけ、行為への没入が起きやすい条件を用意している。数字で測れば集団に負けるストレス指標が、フローという別の指標では測られてすらいないのは、単に測定の設計がそちらを向いていないからかもしれない。集団運動の研究者が生活の質を測るとき、フローの深さまでは質問票に含めていない。含めていないものは、存在しないことにはならない。
ただし、これも一枚岩の結論にはしたくない。フローが起きやすい条件は、裏を返せば、フローが起きない日にはただ苦しいだけの時間になりやすい条件でもある。集団の場であれば、フローに入れなくても、周りのペースやインストラクターの声かけが行為を運んでくれる。一人の壁の前で集中が切れたとき、そこに残るのは自分と課題だけで、代わりに没入を運んでくれる誰かはいない。没入が深い分だけ、没入が起きなかったときの落差も大きい。この非対称性を、フローの利点だけを語ることで隠してしまうのは、集団運動の効果だけを語って副作用を隠すのと同じくらい、片手落ちだろう。
四つの一人運動を並べてみる
ここまでの整理を、実際にやっている四つの一人運動に当てはめてみると、それぞれが同じ「一人であること」の中でも違う位置を占めていることがわかる。
ボルダリングは、フローの条件をもっとも純粋に満たしている。壁の課題は明確で、次のホールドに手が届くかどうかという結果はすぐに返ってくる。難易度は自分の実力に合わせて選べる。行為と意識が融合しやすい条件が最初から揃っている競技だ。ジムに一人で黙々と取り組む人が多いのも、この競技の設計そのものが評価的な視線を必要としない構造になっているからかもしれない。もっとも、多くのボルダリングジムには常連同士のゆるい観察関係があり、完全な無評価空間というわけでもない。それでも、集団フィットネスクラスにおける「隣の人に追いつこうとする圧」とは、質がまるで違う。
フォトウォークは、フローと自己図式の両方にまたがっている。「今日は青いものだけ撮る」というような小さな制約を自分に課す行為そのものが、被写体探しへの没入を作り出す一方で、撮った写真を見返し、自分の作風や視点の癖を確認する行為は、運動というより創作の自己図式に近い働きをしている。体を動かす行為に、もう一つ別の自己確認のレイヤーが乗っている格好だ。
低山ハイキングは、この四つの中でもっとも気そらし仮説に近い。装備を整え、地図アプリを確認し、足元の岩を選びながら歩くという一連の作業は、頭の中の心配事を押しのけるだけの具体性を持っている。都市の疲れとは違う疲れ方をする、という感覚は、注意の対象が丸ごと入れ替わったことの副産物だろう。ケーラー効果が働く余地はほとんどない代わりに、他人の歩調に合わせる必要もない。登山サークルに入れば道迷いの不安は減るかもしれないが、その代わりに、他人のペースに歩幅を合わせるという別の負荷を引き受けることになる。GPSアプリという道具は、集団が担っていた安全の機能だけを取り出して、ペース合わせの負荷は引き受けずに済むようにした、都合の良い代替物と言える。
ヨガとピラティスは、四つの中でもっとも自己図式に寄っている。運動というより体のメンテナンスに近いと感じるのは、そこで行われているのが新しい何かの達成ではなく、すでにある自分の体の状態の確認だからだ。呼吸に合わせて筋肉の位置に意識を向ける行為は、バーキーとモーガンの言う気そらしとは少し違う。心配事から意識をそらしているというより、評価を伴わない形で自分の内側に注意を向け直している。この静かな自己参照が、運動者アイデンティティを底で支えている部分もあるはずだ。派手な達成感を伴わない分、外から見れば地味な運動に映るかもしれないが、地味であることと、効いていないこととは別の話である。
賭けているものの違い
一人で体を動かすことを選ぶとき、実際に手放しているのは健康効果ではない。手放しているのは、他人の存在が自動的に供給してくれる動機づけの底上げと、努力を見てもらえるという確認である。そのかわりに賭けているのは、行為そのものへの没入と、時間をかけて積み上がる、行動と切り離せない自己像の方だ。前者の賭けは即効性があり、失うときも早い。後者の賭けは効き始めるまでに時間がかかり、失うと立て直しにも時間がかかる。どちらが正しい賭け方かは、多分どちらでもない。数字で見える短期の効果と、数字にしにくい長期の基盤を、同じ土俵で比べようとすること自体が、そもそも無理な注文なのだろう。
ジムの会員証を作る気力が湧かない日に、それでも壁の前には立てる。低山の入口までは足が向く。その理由は根性でも節約でもなく、賭けている対象が最初から違っていたからだ、と考えるほうが筋が通っている。集団に属していれば、その日は誰かが背中を押してくれたかもしれない。一人であれば、押してくれる誰かの代わりに、これまで積み上げてきた「自分は運動する人間だ」という記憶の蓄積が背中を押す。押す力の出どころが違うだけで、体が動くという結果に、優劣をつける理由はさほどない。集団の輪に入れなかった日の埋め合わせとしてではなく、自分が何に賭けているかをはっきりさせるための一人の運動として、もう少し続けてみるつもりでいる。
出典
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