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ネクタイがスカーフになるとき、消えるものと残るもの
ネクタイという物が背負っていた意味は、結ばれなくなった瞬間に消えるわけではないらしい。仕立て直すという手作業を通して、物の役割がどう組み替えられるのかを追う。
クローゼットの奥に、もう何年も結んでいないネクタイが何本かある。捨てるには忍びなくて、そのまま眠らせてきた。忍びない、という感覚の中身を自分でもうまく説明できないまま、何年もそうしてきた。だが仕立て直しの手を動かしているうちに、その感覚の正体が少しずつ輪郭を持ち始めた。これはただの端切れの再利用の話ではない。一枚の布が背負っていた意味が、誰の手にも渡らないまま宙に浮いている、という話だった。
捨てる、しまい込む、譲る、作り替える。選択肢を並べてみれば単純な四択に見えるが、実際にネクタイを前にすると、どれも簡単には選べない。捨てれば意味ごと消し去るようで気が引ける。しまい込めば場所を取るだけで何も解決しない。譲るにも、受け取ってくれる相手を思い浮かべるのは案外難しい。残るのは作り替えるという選択肢で、これを選んだのは積極的な決断というより、他の三つが軒並み気まずかった結果に近い。ただ、手を動かし始めてから、この消極的な選択の中に、思っていた以上にいろいろな理屈が詰まっていることに気づいた。
一本のネクタイが背負っていたもの
ネクタイの起源を遡ると、17世紀の三十年戦争にたどり着く。フランス軍に雇われたクロアチア人傭兵たちが首元に巻いていた布飾りに、当時のフランス王ルイ14世が目を留めたことから流行が始まったという説が広く紹介されている。「クラヴァット」という語自体、フランス語で「クロアチア人」を指す言葉に由来するとされる。もっとも、この起源譚は何度も語り直されるうちに輪郭が整えられた側面もあるだろうから、事実そのものというより、ヨーロッパで広く共有されてきた由来の物語として受け取っておくのが誠実だろう。
いずれにせよ、ネクタイは早い段階から社会的地位や近代性を示す記号として機能していた。着ける理由は防寒でも装飾でもなく、自分がどの階層に属しているか、あるいは属したいかを他人に読み取らせるためだった。今日の「格上のポストにふさわしい服装をしておく」という処世術めいた感覚は、実は数世紀前からある発想の焼き直しにすぎない。1920年代にニューヨークのテーラー、ジェシー・ラングスドルフが生地を斜めに裁つ製法を確立し、結んでも型崩れしにくいネクタイが量産できるようになったことで、この記号は大量生産品として一気に広く行き渡った。つまりネクタイは、最初から個人の趣味の表明として生まれたわけではなく、集団への帰属証明として設計された布だった、ということになる。個人の好みを語るための道具として選ばれたのではなく、逆に、個人の好みを引っ込めて集団の記号に従うための道具として選ばれた。ここがまず、後の話につながる出発点になる。
もう一つ付け加えておきたいのは、ネクタイが自分で選んで買う物であると同時に、頻繁に贈られる物でもあるという事実だ。父の日の贈り物、就職祝い、退職の記念品。この国では、ネクタイは長らく「本人の趣味を聞かずに贈れる無難な品」の代表格として扱われてきた。皮肉なのは、地位の記号としての性格が強いはずのこの品が、贈る側の趣味判断をあえて避けるための道具としても選ばれてきた、という点だ。自分の好みを表明する記号でありながら、他人が選ぶときにはむしろ好みを問わない無難さの記号になる。この二重性が、後で触れる「捨てられなさ」の一因にもなっている。贈られた物には、贈り主の意図という別の履歴が重なっているからだ。
記章が外れていく音
その記章としての役割が緩み始めたのは、そう昔のことではない。ただし、この後退の起源についてはよくある勘違いがあるので、順を追って正しておきたい。話の出発点は1990年代の不況ではなく、それよりずっと早い1960年代のハワイにある。地元の服飾業界団体が、亜熱帯の気候に見合った軽装を根付かせ、同時に地元産業を後押しするための販促策として、1962年に「アロハ・フライデー」という名でアロハシャツの着用を働きかけ始めた。これが1965年から66年にかけて州内の官公庁や企業に定着し、金曜日はアロハシャツで出勤するという地域限定の習慣として根を張った。この段階では、コスト削減とも不況対策とも無関係な、純粋に地元産業のためのマーケティング施策だったという点は押さえておく必要がある。話がねじれるのは、それから三十年近くたった1990年代初頭のことだ。今度は本土(マンハランド)の企業が、不況下で費用をかけずに従業員の士気を上げる手立てとして、ハワイ生まれのこの習慣を金曜日限定で借用し始めた。これが「カジュアルフライデー」という呼び名を得て広まったのだが、当初は何を着ていいのか誰も分からず、オフィスにサンダルや短パンで現れる社員が続出したと伝えられている。基準が失われた場所には、必ず誰かがその基準を新しく売りに来る。そこに商機を見出したのがリーバイスだった。同社は1992年、「カジュアルビジネスウェアの手引き」と題した8ページの小冊子を作成し、全米2万5000社の人事担当者に配布した。実質的には自社のドッカーズブランドの宣伝だったが、この一冊が「オフィスにふさわしいカジュアル」の基準を事実上定めてしまい、翌年には全米のオフィスにドッカーズ姿の男性が溢れたという。ネクタイという記章の後退は、価値観が自然に成熟していった結果というより、発祥地では地域産業の宣伝文句だったものが、遠く離れた本土で不況対策として横取りされ、さらに一枚の販促用パンフレットに基準を委ねられるという、何重にも屈折した経路をたどっていた。装いの権威というものがどれほど脆い土台の上に立っていたかが、この経路の曲がりくねり方からも透けて見える。
数字で見ても後退は明らかだ。1992年の時点で、アメリカ国内では年間9500万本のネクタイが売れ、小売総額は14億ドルを超えていたと報じられている。それが2023年には、シルク製のネクタイ・蝶ネクタイ類の輸出量が前年比52.5%も落ち込んだという貿易統計がある。この落差を、単に「ネクタイが時代遅れになった」という一言で片づけるのは簡単だが、それでは記号としての強度がどう失われていったかという過程を見落とすことになる。記号は一夜にして無効になるのではなく、着用を義務づけていた場が一つずつ消えていくことで、じわじわと効力を失っていく。ネクタイを結ぶ理由がまず消え、次に結ぶ習慣が消え、最後にネクタイという物自体が持ち主の生活の中で行き場を失う。順番はいつもこうだ。物が先に消えるのではなく、物を必要とする場が先に消える。
記章はただの飾りではなかった、という反転
ここで一つ、見落としがちな事実を挟んでおきたい。ネクタイの後退を、単なる価値観の緩みとして語ると、実はもう一つの側面を見逃す。日本では2005年、当時の小泉内閣のもとで環境省が「クールビズ」を提唱し、夏場のノーネクタイ・ノージャケットを推奨する運動が始まった。冷房の設定温度を28度にする代わりに、着るものを軽くして体感温度を調整する、というのが基本の発想だった。この28度という数字の根拠になったのが、財団法人省エネルギーセンターが首都大学東京大学院の研究室に委託して2005年に行った実験である。実験では、室温28度で半袖シャツにズボンだけの軽装をした場合と、室温26度でネクタイと上着まで着込んだスーツ姿でいる場合とで、体が感じる暑さがほぼ同じになることが確かめられた。つまりネクタイと上着を着けているだけで、体感としてはおよそ2度分、余計に暑くなっていたことになる。
これは象徴の話のようでいて、実は身体の話でもある。ネクタイが「きちんとして見える」ために人に強いていたのは、視覚的な緊張感だけではなく、汗をかくという物理的な負担でもあった。記章としての意味を保つために、人は実際に体温という代償を払っていたわけだ。冷房を強めて涼しさを演出する代わりに、ネクタイを外して涼しくする、という方向転換が国の主導で行われたという事実は、一枚の布が持っていた社会的な重みが、いかに具体的な身体感覚と結びついていたかを逆説的に示している。記号が緩むという出来事は、心の中だけで起きるのではなく、汗腺のレベルでも起きていたのである。
それでも捨てられない、という反応
記号としての効力を失った物が、ではただのゴミになるかというと、そうはならない。消費者研究者ラッセル・ベルクは1988年の論文「所有物と拡張された自己」で、人は自分の持ち物を通じて自己を外側に拡張していると論じた。持ち物は単なる道具ではなく、自己の一部として認識される、という主張である。ネクタイをもう結ばなくなっても捨てられないのは、それが単なる布ではなく、かつての職業人としての自分、あるいはそれを贈ってくれた誰かとの関係を含んだ「拡張された自己」の断片だからだ、と考えると腑に落ちる部分がある。
この感覚をさらに極端な形で示す実験がある。心理学者ジョージ・ニューマン、ギル・ディーゼンドラック、ポール・ブルームが2011年に発表した研究では、著名人が所有していたセーターへの支払い意思額が、そのセーターがクリーニングされたと聞かされた途端に大きく下がることが示された。対象の「本質」のようなものが接触を通じて物に移り、洗浄によってそれが失われると人々が無意識に感じている、という説明である。笑い話として片づけるにはもったいない発見だ。誰かの物だったという事実に、物理的な洗浄では消えない何かを人は感じ取る。父から譲られたネクタイ、あるいは特別な日に贈られたネクタイを、着なくなった後もクリーニングにすら出さずしまい込んでしまう感覚は、この「本質が失われることへの抵抗」とそう遠くない場所にあるのだろう。
セーターに宿るのが「クリーニングでは落ちない何か」だとするなら、その何かの正体は物質ではなく、物と人との接触の記録そのものなのだろう。皮膚に触れた、汗が染みた、長い時間そばにあった、という履歴の集積を、人は「本質」という言葉で丸めて理解しているにすぎない。同じ研究チームは翌年、対象を美術作品にも広げている。人が複製ではなくオリジナルの絵画に高い価値を見出すのは、単に希少だからではなく、作者が実際に手を触れたという物理的な接触の痕跡を重視するからだ、という結果だった。さらに遡って心理学者ブルース・フッドとポール・ブルームが2008年に行った実験では、三歳から六歳の子どもたちに、お気に入りの愛着ぬいぐるみを「コピー機」で複製できると説明したところ、多くの子どもが本物を選び、複製を渡されると泣き出す子までいたという。複製されること自体への恐怖に近い反応だった。これらの研究に共通しているのは、人が物の価値を、見た目や機能ではなく「それがどんな経緯を経てきたか」という履歴によって判断している、という点だ。ネクタイもまた、生地としての性能だけを見れば量産品にすぎないが、誰の首に何年結ばれてきたかという履歴を含めて評価すれば、まったく別の物になる。
保存することと、手放すことの間
ただし、この「持ち物に本質を見る」性質を無条件に肯定していいわけではない。精神科医ヴァミック・ヴォルカンは、死別を経験した人が故人の遺品を「つなぎの物」として保持し続ける現象を臨床的に記述した。もともとは複雑性悲嘆、つまり喪の作業がうまく進まない状態の文脈で論じられた概念であり、物への執着それ自体が回復を妨げる場合があることを示唆している。一方で、心理学者イネセ・ウィーラーによる後続の研究では、遺品を保持することが必ずしも病的な執着とは限らず、多くの遺族にとってはむしろ自然な悲嘆のプロセスの一部であることも確認されている。つまり「持ち続けること」は救いにも足枷にもなりうる、という両義的な結論しか出ていないわけだ。ここで安易にどちらか一方の立場に肩入れするのは、エビデンスに対して不誠実だろう。物を持ち続けることそのものに善悪の判定を下せるほど、この分野の研究はまだ単純な結論に到達していない。持ち続け方、あるいは持ち続けている間に自分がその物とどう向き合っているかのほうが、たぶん物を持っているという事実そのものより重要なのだ。
消費者研究者リサ・プライス、エリック・アーノルド、キャロリン・クラシによる高齢消費者を対象にした2000年の研究は、この両義性にもう一つの角度を加える。彼らが特別な思い入れのある持ち物の処分過程を調査したところ、単に手元に残すことよりも、その物にふさわしい次の担い手を見つけて手渡すことのほうが、当人にとって心理的な満足度が高い傾向が見られたという。ただ棚にしまっておくことは、意味を守っているようでいて、実はその意味を宙吊りにしたまま更新を止めてしまう行為でもあるらしい。クローゼットの奥で何年も眠っていたネクタイは、まさにこの宙吊り状態だった。捨てるには忍びないが、結ぶ機会も戻ってこない。持ち続けることが正解だと思い込んでいたが、それ自体がすでに一つの停滞だったのかもしれない。
仕立て直すという儀式
この停滞から抜け出す方法として示唆的なのが、消費者研究者グラント・マクラッケンが1986年に整理した「儀礼」の枠組みである。マクラッケンは、物から人へ、あるいは人から物へと文化的な意味が移動する際に、人は交換・所有・手入れ・そして「離脱」という四種類の儀礼を経由すると論じた。離脱の儀礼とは、ある物に染みついた意味を意図的に剥ぎ取り、次の持ち主や次の役割に引き渡せる状態にする手続きを指す。形見のネクタイを「仕立て直す」という手作業は、この離脱の儀礼を物理的な工程として体現している、と考えると腑に落ちる。プライスたちの研究が示していた「次の担い手に手渡す満足感」を、他人に譲る代わりに、物そのものの形を変えることで自分の手の中で完結させる、というやり方だとも言える。
実際の作業は、思ったより単純だ。ネクタイの表地は布目に対して斜め45度、いわゆる正バイアスに裁断されている。この裁ち方のおかげで生地は適度に伸縮し、結んだときに柔らかな陰影を作る。表地の内側には形を保つための芯地が入っていて、裏には先端を保護する裏地が縫い付けてある。中心を縫い留めている「かんぬき」と呼ばれる糸をリッパーでほどくと、芯地を抜き出すことができ、ネクタイは一枚の布に戻る。長年の結び目や折り目がついた布は、当て布をしてアイロンをかけると元の光沢を驚くほど取り戻す。あとは好みの幅に折り込んで、まつり縫いで端を留めていく。ミシンを使わないのは単に不要だからだ。滑りやすいシルクは、一針ずつ布の張りを指先で確かめながら進める手縫いのほうが傷めにくい。糸を引きすぎず、バイアス生地の伸縮性を殺さない程度の遊びを残しておく。仕上がりの針目が多少不揃いでも、それは失敗というより自分の手が導いた結果だと思うことにしている。針を刺すたびに、この布がどこから来たかを確認しているような感覚がある。儀式という言葉を大げさに使いたくはないが、少なくとも作業として意味を持たせるには十分な手間だ。
それは同じ物なのか、それとも別の物なのか
仕立て直しの途中でふと浮かんだのは、これは本当に「あのネクタイ」の続きなのか、それとも見た目だけそれらしい別物を作っているだけなのか、という疑問だった。フッドとブルームの実験が示していたのは、人が物の同一性を、材質や見た目ではなく由来の連続性によって判断しているということだ。姿形がどれだけ変わろうと、糸をほどいて縫い直したという物理的な連続性さえ保たれていれば、それは複製ではなく同じ布の続きだと感じられる。逆に言えば、もし同じデザインのスカーフを新品の生地で一から作ったとしたら、それは見た目が同一でも、まったく別の物として受け取られるだろう。仕立て直しという行為の価値は、効率や節約にあるのではなく、この「由来の連続性を保ったまま形を変えられる」という一点にあるのかもしれない。買い直しでは代替できない部分がここにある。
とはいえ、この連続性の感覚を過大評価するのも危うい。由来への信仰が強すぎれば、それは単なる物神崇拝と紙一重になる。布そのものに魔法のような力が宿っているわけではなく、宿っているように感じてしまう心の働きがあるだけだ、という一歩引いた見方も同時に持っておきたい。仕立て直しに意味があるとすれば、それは布に宿る本質を信じ込むことそのものではなく、その信じ込みを自覚しながら、それでも手を動かして形を変えるという、いくぶん醒めた実践のほうにある。贈られた物であればなおさらだ。贈り主の意図まで丸ごと保存しようとすれば、それはいずれ重すぎる荷物になる。かといって由来ごと手放してしまえば、最初から何もなかったことになる。仕立て直しは、その中間に落としどころを見つけるための、地味で具体的な作業なのだろう。
役割は変わっても、由来は消えない
スカーフに仕立て直したあとも、それが元々ネクタイだったという由来は、意識のどこかに残り続ける。だからこそ、仕立て直しは意味の消去ではなく、意味の役割変更として理解したほうが正確だろう。かつて「どの階層に属するか」を他人に示すための記号だった布が、仕立て直しを経て「誰との関係を携えているか」を自分自身に示すための布に変わる。読み手が他人から自分自身へと入れ替わる、という変化だ。地位を示す記号としての役目はもう期待していない。その代わり、かつての持ち主の記憶と今の自分の暮らしが縫い合わされた物として、手元に置いておくことを期待している。布そのものは変わっていないのに、それを見る自分の側の意味づけだけが入れ替わる、というのはよく考えると奇妙な現象だ。同じ繊維、同じ織り、同じ光沢でありながら、かつては他人に読ませるための記号だったものが、今は自分だけが読める私信になっている。物の側には何の変化もないのに、その物に投げかける問いだけが「これは自分をどう見せるか」から「これは誰との記憶をつないでいるか」へと丸ごと入れ替わっている。変わったのは、この布に対して自分が何を期待しているか、という一点だけである。
記号のコードごと外れる
もう一つ、仕立て直しが静かに壊しているコードがある。ネクタイは長らく男性の正装を構成する部品として扱われてきた。首元に何を巻くかという選択肢そのものが、性別によってあらかじめ振り分けられていたわけだ。スカーフという品目は、同じ「首に巻く布」でありながら、慣習的には女性の装いや、休日のカジュアルな装いに割り当てられてきた。ネクタイをスカーフに仕立て直すという工程は、だから単に用途を変えているだけでなく、その布がどちらの性別のコードに属するかという振り分け自体をまたいでいる。地位の記号だった布が、誰でも使える私的な布になる過程には、階層のコードだけでなく性別のコードも同時に外れていく、という側面がある。これは意図して狙った効果というより、仕立て直しという作業を最後までやり切った結果として、後から気づいたことだった。
この点を大げさな主張に育てるつもりはない。一本のネクタイを縫い直したところで、社会に根付いた装いの性別分業が揺らぐわけではない。ただ、自分の手元にある一枚の布に限って言えば、それが誰のために、何を示すために存在するのかという条件が、仕立て直しの前後でそっくり入れ替わった。この小さな入れ替わりを面白がる程度の距離感が、たぶんちょうどいい。
忍びなさの正体
一本のネクタイを解いて、また別の形に縫い直す。この手順を単なる節約や手芸の技巧として片づけてしまうと、そこで起きている出来事の半分しか見えていないことになる。物が担っていた意味は、着用の機会が失われた瞬間に消滅するわけではないし、かといって永遠にそのままの形で保存されるべきものでもない。手を動かして形を変えるという工程そのものが、古い意味に区切りをつけ、新しい役割を布に与え直す、地味だが確かな儀式になっている。忍びない、と感じていた正体は、たぶんこれだった。捨てることは意味の廃棄であり、しまい込み続けることは意味の凍結であり、そのどちらでもない選択肢が、針と糸を持って一時間ほど布と向き合うことの中にあった。
仕立て直したスカーフを首に巻いても、誰もそれが元ネクタイだったとは気づかない。気づかれる必要もない。かつて記章として機能していた頃は、他人に読み取らせることこそがこの布の仕事だった。今は違う。読み取るのは自分だけでよく、読み取られる相手は他人ではなく、布を渡した過去の誰かと、それを結び直した今の自分の二人だけでいい。読み手が減ったことを寂しいと感じる必要はない。むしろ、読み手を絞り込んだことで、この布はようやく誰かに読まれる緊張から解放されたのだとも言える。地位を示す記号から、私的な記憶の保管場所へ。役割は静かに移り変わっただけで、消えてなくなったわけではなかった。
出典
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- 環境省「クールビズ」に関する報道発表資料、および財団法人省エネルギーセンターが首都大学東京大学院研究室に委託して2005年に実施した室温・着衣量に関する実験結果の紹介記事(ウェザーニュース「『クールビズ』導入20年、上着・ネクタイなしで体感温度はどれぐらい違う?」等)。
- Gentleman's Gazette「History & Evolution Of Ties, Scarves & Neckwear」ほか、ネクタイの起源とバイアス裁断の製法史に関する記事。
- ネクタイ市場統計:1992年の米国内販売数・金額、および2023年のシルク製ネクタイ類輸出量の前年比変動に関する業界統計(IndexBox等の貿易データ)。
