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半年経って、手元に残っていたのは動画の再生履歴だけだった
高性能なパソコンを買ったのに、結局動画とSNSで一日が終わる。その後ろめたさの正体は怠惰ではなく、フィードの設計と、余暇そのものの構造にある。
半年経って、手元に残っていたのは動画の再生履歴だけだった
新しいパソコンを買った週末のことを覚えている。動作は速く、画面は大きく、できることは理屈の上ではほとんど無限に思えた。動画編集も、簡単なゲーム開発も、データ分析も、このマシンなら重さを理由に諦める必要はない。そう思っていたはずだった。それから半年経って、そのパソコンで自分が主にしていることを数え上げてみると、動画を眺めることと、いくつかのタブを行き来することだった。再生履歴には見た覚えのある解説動画が何十件も並び、ブラウザの閲覧履歴には似たような検索語が繰り返し出てくる。性能を持て余しているという自覚だけが、確かな実感として残った。
この感覚を怠惰のせいにするのは簡単だ。意志が弱い、時間の使い方が下手だ、そう結論づければ話は早い。だが、たぶんそれは的外れな診断だ。動画を見ること自体は悪くないし、それで一日が終わったところで誰かに迷惑をかけるわけでもない。それでも何か引っかかるのだとしたら、問題は「何をしているか」ではなく、「その時間がどこにも積み上がっていない」という一点にあるのだと思う。買う前に比較していたスペック表のことを思い出す。コア数、クロック周波数、グラフィックボードの世代。あれだけ数値を見比べて選んだ道具が、結局は数値も何も生まない一日の背景になっている。そしてこの引っかかりの正体を辿っていくと、単なる自制心の問題では説明しきれない、もう少し込み入った構造が見えてくる。
後ろめたさの設計者は、案外はっきりしている
動画配信サービスやSNSのタイムラインが「なんとなく延々と見てしまう」ように作られているのは、偶然の産物ではない。人類学者のナターシャ・ダウ・シュールは、ラスベガスのスロットマシン利用者を15年にわたって調査した著書『Addiction by Design』の中で、ギャンブラーたちが勝ち負けそのものよりも、思考を止めたまま延々と操作を続けられる「マシン・ゾーン」と呼ばれる状態を求めていたと報告している。重要なのは、その没入状態が偶然生まれたのではなく、機械の反応速度、報酬の出るタイミングのばらつき、途切れない画面設計によって、意図的に作り込まれていたという指摘だ。次に何が出るか読めない「可変報酬」の仕組みは、プレイヤーを飽きさせず、かつ満足させて自発的にやめさせもしない。
動画のおすすめ欄や、SNSのタイムラインの設計思想は、このスロットマシンの論理と驚くほど近い。次に何を見せるかをアルゴリズムが決め、こちらがすることは指を動かして受け取り続けることだけで、そこには「終わり」の設計がそもそも存在しない。だから満足してやめるのではなく、疲れてやめることになりやすい。この仕組みの土台にあるのは、心理学者B・F・スキナーとチャールズ・ファースターが1957年の著書『Schedules of Reinforcement』で体系化した「間欠強化」の原理だ。報酬が毎回もらえるより、いつもらえるか予測できない方が、行動はかえってやめにくくなる。この「変動比率スケジュール」と呼ばれる仕組みは、もともとハトやネズミの実験から見出されたものだが、スロットマシンの設計にも、フィードの表示アルゴリズムにも、そのまま応用されている。次のスワイプで何が出てくるか予測できない、というあの感覚は、偶然そうなっているのではなく、行動科学の知見を土台に組み上げられた結果だ。ここまでは、パソコンやスマートフォンの前で感じる後ろめたさについて、多くの人がうっすら気づいていることでもある。フィードは意志の弱さにつけ込むよう作られている、という説明は、それ自体としては正しい。
とはいえ、「フィード設計が悪い」で話を終えるのも早すぎる
ただ、ここで思考を止めてしまうと、今度は別の粗さが残る。もし原因がすべてフィードの設計にあるのなら、対策は「見る時間を減らす」だけで足りるはずだ。実際には、多くの人がスクリーンタイムの制限アプリを試し、それでも数か月後には元に戻っている。設計の問題を指摘するだけでは、なぜ人がそこに戻り続けるのかまでは説明できない。
受動的にコンテンツを消費する時間と、能動的に何かを操作する時間の違いを、実際のデータで確かめた研究がある。カナダ・オンタリオ州の12歳から17歳の青少年2,320人を対象にした2020年の調査(Kimら、Social Psychiatry and Psychiatric Epidemiology誌)によると、1日4時間以上の受動的なスクリーンタイム(動画視聴やSNSの閲覧など)を報告した青少年は、2時間未満の青少年と比べて、大うつ病エピソード・社交不安症・全般不安症のいずれかの基準を満たす確率がおよそ3倍高かった。一方で、ゲーム制作や文章のやり取りのような能動的なスクリーンタイムには、こうした関連が見られなかったという。3倍という数字は、体感として持っていた「なんとなく気分が沈む」という印象よりもずっと大きい。
数字だけ見ると受動的な使い方が原因であるかのように読めるが、この種の横断調査は相関を示すにとどまり、気分の落ち込みが先にあって受動的な消費に向かいやすくなるという逆方向の説明も否定できない。落ち込んでいるときほど、判断や技能を要求されない受け身の時間を選びやすくなるのは、むしろ自然なことでもある。因果の向きを断定できない以上、「受動的だから危険」と言い切るのは、この研究の使い方としては誠実でない。むしろ確かなのは、消費と創作という二つの時間の質が、少なくとも統計的に区別できるほどはっきり異なっているという事実の方だ。因果がどちらに転んでいたとしても、両者のあいだに実質的な違いがあること自体は揺るがない。
消費と創作を分けているのは、画面の中身ではない
動画も、自作のプログラムも、同じ画面の中で起きている。デバイスの区別では説明がつかない。違いがあるとすれば、それは情報の流れる方向と、フィードバックの返ってくる先にある。
心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー」の理論では、人が深く没頭する状態は、明確な目標があり、行動に対する即座のフィードバックがあり、課題の難易度と自分の技能が釣り合っているときに生まれるとされる。この三条件を、動画視聴やタイムラインの閲覧に当てはめてみると、目標もなければ、こちらの入力に応じて変化する要素もない。技能が試されることもない。フローの条件が構造的に欠けているのだから、いくら時間をかけても没頭の感覚に届かないのは、ある意味で当然の帰結だ。
一方で、何かをつくる作業には、必ず次の一手を自分で決める場面がある。コードがエラーを返す。描いた線が思っていた形と違う。組んだ数式の答えが直感とずれている。そのつど手を止めて、直すか諦めるかを選ぶ。この「自分の判断が次に反映される」というループがあるかどうかが、同じ画面の中でも体験をまったく別のものにしている。ループが閉じている作業は、時間が経つほど何かが手元に残る。ループが開いたままの作業は、時間が経つほど記憶からこぼれていく。
この違いは、記憶に残るかどうかだけの問題でもない。ループが閉じている作業では、失敗そのものが次の手がかりになる。エラーメッセージは苛立たしいが、放置すれば作業が進まないという意味で、無視できない情報でもある。フィードのタイムラインには、そうした強制力を持つ失敗が存在しない。動画を最後まで見なくても、投稿を読み飛ばしても、何も破綻しない。破綻しないということは、裏を返せば、何も積み上がらないということでもある。失敗のない時間は、一見すると穏やかで気楽に思えるが、その気楽さの代償として、翌週に振り返って語れる出来事がひとつも残らない。
没頭できるはずの余暇に、なぜ人は没頭できないのか
ここまでの説明には、しかしもう一つ厄介な裏がある。フローの条件を満たす活動の方が心地よいのなら、人は自然とそちらを選ぶはずだ。ところが現実はその逆に近い。チクセントミハイとジュディス・ルフェーブルが1989年に発表した経験サンプリング法による調査(Journal of Personality and Social Psychology誌)は、これを「仕事のパラドックス」と呼んだ。シカゴの企業に勤める107人にポケベルを持たせ、1日に7回ランダムなタイミングで今していることと気分を記録させたところ、被験者たちは余暇にいるときよりも、仕事をしているときの方が約3倍高い頻度でフロー状態に入っていた。仕事の方が目標もフィードバックも構造として明確に組まれているからだ。それにもかかわらず、フローの最中であっても、被験者の多くは「今すぐ他のことをしたい」と答え、余暇にいるときは、フローに入っていなくても「このままでいたい」と答えた。
つまり人は、実際に満たされている状態と、自分がいたいと思う状態を、一致させて選ぶとは限らない。この捻れは、パソコンの前で創作的な作業になかなか手が伸びない理由の説明にもなる。プログラムを書く、絵を描く、数字を分析するといった作業は、構造としては「仕事」に近い。目標があり、フィードバックがあり、技能が試される。だから始めてしまえば動画視聴より満たされやすい一方で、始める前の腰の重さは、まさに仕事に取りかかる前のそれと同じだ。動画のタイムラインを開く方が軽く感じられるのは、意志が弱いからではなく、そちらの方が「仕事」の形をしていないからにすぎない。
興味深いのは、チクセントミハイとルフェーブルの調査対象者たちが、フローに入っている最中でさえ「他のことをしたい」と答えていたという点だ。満たされていることと、その状態を選び続けたいと思うことは、別の回路で動いている。だとすれば、パソコンの前で創作的な作業を始めるのに気乗りしない日があっても、それは意志薄弱の証拠ではなく、人間の設計そのものに織り込まれた抵抗感だと考えた方が実情に近い。腰が重いことと、始めれば満たされることは、両立してもまったく矛盾しない。
創作もまた、消費に飲み込まれることがある
ここまでの話を、消費は悪で創作は善だという単純な図式に落とし込みたくなるが、それも急ぎすぎだ。創作的な活動であっても、評価の基準を自分の外に置いた瞬間、フローの条件は静かに崩れる。動画編集の腕が上がったかどうかを、自分の目ではなく再生数や「いいね」の数で測るようになると、フィードバックの出どころは自分の判断から、他人の反応という予測不能な変数に置き換わる。これはまさに、スロットマシンやSNSのタイムラインが利用している変動比率スケジュールと同じ構造だ。投稿するたびに反応の大きさが読めず、たまに大きく伸びることがあるから、次も投稿してしまう。技能が上がっているかどうかとは無関係に、その繰り返し自体が目的化していく。
つまり、パソコンで何かを「つくる」ことが自動的に消費の対極になるわけではない。境界線を引いているのは道具でも活動の種類でもなく、フィードバックの出どころが自分の判断に閉じているか、他人の反応という外部の変数に開いているか、という一点だ。同じ動画編集でも、仕上がりを自分の基準で見て直すループと、公開後の数字を確認するために画面を開くループとでは、体験の構造がまるで違う。後者は創作の形をした消費に近い。作業内容だけを見て「これは創作的な趣味だから健全だ」と安心するのは、まだ半分しか診断できていないことになる。
具体的には、どういう時間か
抽象的な話だけでは実感が湧かないので、ループが閉じている作業の例をいくつか挙げておく。並べ方に優劣はなく、どれも「自分の入力が結果に跳ね返ってくる」という一点だけが共通している。
- 簡単なプログラムを書いて、面倒な作業を一つ自動化する。動くまで直し続ける過程そのものが、ループになっている。エラーメッセージは不親切だが、それに応答するたびに理解が一段深くなる。
- 絵を描く、曲を組む、映像を編集する。素材を置くたびに全体の印象が変わり、その変化を見てまた手を動かす。完成形を最初から思い描けている必要はなく、一方で手を動かしながら目標自体が更新されていく方が自然だ。
- 手元のデータを表計算ソフトやプログラミング言語で集計し、思い込みと実際の数字のずれを確認する。数字が仮説を裏切るたびに、見方を組み直す。この「裏切られる」瞬間こそが、消費だけの時間には存在しない要素だ。
どれも派手さはない。それでいて最初の数十分は、動画を見ているときより疲れるかもしれない。手を止めて考える時間が挟まるからだ。ただその疲れは、受け身の疲れとは質が違う。ループを一周終えたときに、何かが少しだけ変わっている。翌日、同じ作業の続きに戻ったとき、前回止めた場所から再開できるという感覚も、消費だけの時間にはないものだ。動画は見終われば何も残らないが、途中まで書いたプログラムは、開き直した瞬間に続きが待っている。
「趣味」ではなく「本気の余暇」という区分
この消費と創作の違いを、余暇研究の分野ではすでに半世紀近く前から扱っている。社会学者のロバート・ステビンスは1970年代から、余暇を「カジュアル・レジャー」と「シリアス・レジャー」に分ける枠組みを提唱してきた。カジュアル・レジャーは特別な訓練を必要とせず、短時間で完結する快楽的な活動を指す。テレビを見る、なんとなくSNSを眺めるといった行為の多くがここに含まれる。対してシリアス・レジャーは、アマチュアやホビイストとして特定の技能・知識・経験を体系的に積み上げていく活動を指し、困難を乗り越えることや、長期的に熟達していくことそのものが動機になる。
この区分が示しているのは、「趣味」という一語でまとめてしまうと見えなくなる違いがある、ということだ。同じ「パソコンで絵を描く」でも、思いつきで一枚仕上げて満足するならカジュアル・レジャーに近く、技法を体系的に学び続けるならシリアス・レジャーに近づく。どちらが優れているという話ではない。カジュアル・レジャーにも回復や気晴らしとしての役割はあり、すべての余暇をシリアスな蓄積に変える必要はどこにもない。ただ、後ろめたさの正体を探すなら、動画視聴に近いカジュアルな消費ばかりが積み重なっていて、蓄積を伴う活動が生活のどこにも存在しない、という偏りの方を疑ってみる価値はある。ステビンスが半世紀近く前にこの区分を必要としたということ自体、テレビやラジオの時代からすでに、余暇の質は均質ではなかったことを示している。パソコンやスマートフォンが特別に人を消費側へ引っ張っているというより、道具が変わるたびに同じ構図が繰り返されている、と見る方が正確かもしれない。目新しいのはフィードの設計精度であって、消費と創作の対立そのものではない。
趣味の効用を、仕事と比べてみると
「所詮は趣味であって、仕事ほどの重みはない」という感覚も、後ろめたさを後押ししている一因だろう。だが、この前提自体を疑わせる数字がある。英国の文化・スポーツ参加に関する全国調査「Taking Part」のデータをもとに、2019年から2020年にかけてイングランドの成人7,182人分を分析した2024年の研究(Keyesら、Frontiers in Public Health誌)は、創作的な芸術活動やクラフト活動への従事が主観的幸福感に与える影響の大きさを、雇用の有無が幸福感に与える影響の大きさと比較した。結果は、創作活動の効果の方が、就労している状態の効果よりも大きいというものだった。人生に意味を感じる度合いや生活満足度において、趣味として何かをつくる時間は、仕事を持っていること以上に効いていたことになる。
この結果を、そのまま「趣味は仕事より価値がある」と読み替えるのは早計だ。横断的な調査である以上、もともと創作的な活動を続けられるだけの時間的・経済的な余裕がある人が、そもそも幸福度も高いという逆方向の説明も成り立つ。仕事に追われて疲弊している人ほど、創作に割く余力自体が残っていないという事情も、この相関の背後にはあるだろう。研究者たち自身も、この結果を根拠に創作活動を社会的処方として推奨できないか、という慎重な留保つきの提案にとどめている。因果を断定できないという点では、この研究も先のスクリーンタイムの調査とまったく同じ弱点を抱えている。
それでも、少なくとも「趣味は仕事の片手間にすぎない」という思い込みを裏づける根拠はどこにもなく、むしろ数字は逆方向を指している。パソコンの前で何かをつくる時間を、仕事より軽いものとして扱う理由は、思っているほど強くない。「これは所詮ただの趣味だから」と自分に言い聞かせて後回しにする発想の方が、根拠薄弱だったということになる。優先順位の付け方そのものが、検証もされずに何となく受け継がれてきた思い込みだった、という可能性は一度疑ってよい。
「使い道がない」という感覚を、急いで埋めない
ここまで書くと、では今日から何か始めようという話に着地させたくなるが、それはこの記事の役目ではない。性能を持て余しているという感覚は、怠け心の証拠ではなく、自分がまだ「つくる」方の使い方を試していないだけの、ただの事実だ。事実である以上、焦って埋める必要はない。フィードの設計に抗うために創作的な趣味を「対策」として導入する、という発想自体が、すでにどこか処方箋くさい。対策として始めた活動は、たいてい長続きしない。始める動機が「後ろめたさの解消」である限り、そこにあるのは自分の判断ではなく、また別の外部からの要請でしかないからだ。
むしろ確かめる価値があるのは、自分が惹かれるのはどのループなのかということだ。エラーを直す粘り強さに向いている人もいれば、色や音を微調整する方が性に合う人もいる。数字を並べ替えて仮説を検証する方が落ち着く人もいる。これは好みの問題であって、正解のリストが存在するような話ではない。カジュアルな消費とシリアスな創作のあいだのどこに自分の時間を配分するかも、他人が決められることではない。高性能なパソコンを買った動機を思い出してみるのも一つの手だ。動画を快適に見るためだけに、あれほどの性能を選んだ人はそう多くないだろう。購入時に思い描いていた使い道と、実際の使い道のあいだにある落差こそが、後ろめたさの実質的な発生源かもしれない。
選び方のほうが、静かに変わっていく
パソコンの前で感じる後ろめたさの正体を、性能の無駄遣いだと決めつける前に、その時間にループが存在したかどうかを振り返ってみるとよい。動画を見ていた一時間と、何かを直しながら過ごした一時間は、体感としての疲労は似ていても、翌週に残っているものが違う。フィードの側は、こちらが疲れて画面を閉じるまで、その違いに気づかせない設計になっている。
何を選ぶかは、結局のところ自分にしか判断できない。ただ、選ぶ基準を「話題になっているから」ではなく「自分の判断が返ってくるかどうか」に置いてみると、同じ画面の前での過ごし方は、思っていたより静かに変わっていく。仕事のように構造化された余暇は、始める前は腰が重く、始めたあとは満たされる。その順番を承知の上で画面の前に座るかどうかだけが、半年後に何も残っていないと感じるかどうかを分けている。
スペック表の数字は、パソコンが何をできるかを示しているだけで、実際に何をするかまでは決めてくれない。その空白を埋めるのがアルゴリズムなのか、自分の判断なのか。選んでいるようで選ばされている一日と、選んだ結果として何かが残る一日の違いは、思っているよりも小さな分岐点から始まっている。買った日のスペック表を眺めながら、あのとき自分が何を期待していたのかを思い出してみたら、半年後の使い方との落差はどんな顔をしているだろうか。
出典
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