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「クレジットカード一枚分」を疑う——プラスチックを減らすという遠回りな趣味

「クレジットカード一枚分」を疑う——プラスチックを減らすという遠回りな趣味

プラスチックを減らす行為から環境負荷という建前を外すと、何が残るのか。クレジットカード一枚分のマイクロプラスチック、モラルライセンシング、二十社の生産量——数字を追いながら、素材を選び直すという行為の実質を確かめる。

TOMOAKI··趣味

「プラスチックを減らそう」という呼びかけには、たいてい環境負荷という真面目な理由がついてくる。ただ、実際に蜜蝋ラップや木の歯ブラシを試してみると、自分を動かしていたのは義務感よりも単純な好奇心の方だったと気づく。プラスチックは軽くて壊れにくく、無味乾燥だ。木や布、ガラスに置き換えると、重さや温度、経年での変化が急に手元に戻ってくる。蜜蝋を布にアイロンで染み込ませていくと、布の質感がじわじわ変わっていくのがわかる。石けんは一ヶ月ほど寝かせる過程で色と香りが落ち着いていく。この手触りの違いを面白がっているだけで、環境負荷の計算はほとんどしていない。そう考えると、「プラスチックフリー」という看板は、自分にとっては半分くらい方便なのかもしれない。

ただ、この方便を最後まで追い詰めてみると、案外面倒な場所に行き着く。プラスチックを減らすという行為には、少なくとも三つの層で数字がまとわりついている。恐怖を煽る数字、無力感を誘う数字、そして自分を甘やかしていいと囁く数字だ。どれも一度は本気で信じられ、その後どこかで訂正されている。訂正された経緯を辿ると、環境配慮という言葉がどこまで自分の実感に基づいていて、どこから借り物のイメージなのかが、少しずつ切り分けられていく。この記事はその切り分けの記録でもある。

先に断っておくと、これは「プラスチックを減らすことに意味はない」という話ではないし、逆に「意味があるから続けるべきだ」という話でもない。どちらの結論も、この趣味を始めた時の自分の動機とはずれている。素材を選び直すという行為が環境問題の解決に寄与する度合いと、自分がその行為を面白がっている度合いは、そもそも別の軸で測るべきものだ。この二つを混同したまま数字を追いかけると、都合のいい数字が見つかった瞬間に安心し、都合の悪い数字が見つかった瞬間に罪悪感を抱くという、疲れる往復運動が続くことになる。だから一度、両方の数字を並べて、どちらの側にも寄りかからずに見てみたい。

クレジットカード一枚分、という数字は本当なのか

「人は毎週クレジットカード一枚分のプラスチックを食べている」という話を、どこかで見た記憶がある人は多いはずだ。二〇一九年にWWFが発表した報告書がその出どころで、オーストラリアの研究者センアシラジャらが行った推計に基づいている。人が呼吸や飲食を通じて取り込むマイクロプラスチックの量を、既存の研究データから積み上げて算出したもので、結論は週あたり〇・一グラムから五グラムという幅のある数字だった。メディアが取り上げたのは、その上限である五グラム——クレジットカード一枚分に相当するという、絵になる換算の方だった。幅のある推計の下限ではなく上限が一人歩きするのは、この手の話ではむしろ通例に近い。

この数字は独り歩きしたが、そのまま定着したわけではない。二〇二一年には、オランダとマレーシアの研究者モハメド・ノールらのグループが、体内へのマイクロプラスチック蓄積量を子どもと大人それぞれについて別の方法で推計し直し、環境科学の専門誌に発表している。その過程で、センアシラジャらの推計は実際の平均的な摂取量よりも百万倍近く大きく見積もられている可能性がある、と指摘した。二〇二二年にはドイツの研究者プレッツが、粒子の大きさと質量の関係についての計算方法そのものに誤りがあると別の論文で論じている。マイクロプラスチックの検出研究の多くは一ミリメートル以下、時には一マイクロメートルという微小な粒子まで数えているのに、それを質量に換算する段階では、球や立方体に近い大きな粒子を仮定してしまっていた。実際に検出される粒子の多くは繊維状や破片状で、同じ大きさでも質量はずっと軽い。この一点だけで、推計は桁単位で狂う。つまり「クレジットカード一枚分」は、複数の独立した検証によって、まず間違いなく過大評価だったとされている数字なのである。

ここで面白いのは、間違っていたという事実そのものより、その間違い方の向きだ。プラスチックの害を過小評価する方向の誤りではなく、過大評価する方向の誤りだった。恐怖を煽る数字は、たとえ根拠が薄くても遠くまで届く。逆に、それを訂正する地味な再計算論文は、専門誌の中にとどまって終わる。ニュース記事の見出しになった数字と、それを検証した論文の被引用数を比べれば、この非対称は数え切れないほど繰り返されてきたパターンだろう。しかもこの推計は、環境保護団体が委託した調査から出てきたものだった。企業の広報が出す数字には懐疑的になれても、環境保護団体が出す数字には同じだけの警戒心を向けにくい、という非対称も、この件にはもう一枚重なっている。目的が善であることと、その目的のために使われた数字が正確であることは、まったく別の話だ。

マイクロプラスチックが無害だという話をしたいのではない——体内から検出されること自体は複数の研究で確認されており、健康影響そのものの研究はまだ発展途上にある。ただ、この「一枚分」という数字を動機にして自分の生活を変えていたのだとしたら、その動機の土台は思っていたより頼りない、ということは知っておいた方がいい。恐怖に基づく行動変容は、恐怖の根拠が崩れた瞬間に一緒に崩れる。素材への興味の方が、まだ長持ちする動機のように思う。

二十社が半分を作っている、という数字

もう一つ、個人の努力を測るときに避けて通れない数字がある。海洋に流れ込むプラスチックごみの量について、二〇一五年に環境工学者ジャンベックらが発表した推計では、陸上から海に流入するプラスチックは年間およそ四百八十万トンから千二百七十万トンにのぼるとされた。中央値としてよく引用される八百万トンという数字は、「沿岸線一フィートごとに、ごみ袋五袋分のプラスチックが積まれている状態に相当する」という説明とともに広まった。この研究は、世界百九十二の沿岸国について、人口動態や廃棄物管理の実態から積み上げた推計であり、先ほどのマイクロプラスチック推計とは違って、その後の再検証でも大枠は崩れていない。

一方で、そのプラスチックを実際に生み出しているのは誰かという問いに向き合うと、話の重心が個人の食器棚から離れていく。オーストラリアのミンデルー財団が二〇二一年に公表した「プラスチック・ウェイスト・メーカーズ・インデックス」によれば、使い捨てプラスチックの原料となるポリマーの半分以上を、世界のわずか二十社が生産している。上位には石油化学大手が並び、上位百社まで広げると世界の使い捨てプラスチック生産の九割に達する。つまり、家庭でストローやレジ袋をどれだけ減らしても、供給側の蛇口はほとんど閉まらない構造になっている。自分がマイボトルを持ち歩くことでどれだけの原料生産を止められるかを試算してみると、桁があまりに違いすぎて、試算そのものが意味を持たなくなる。

この構造を指摘する議論の中には、そもそも「個人の責任」という枠組み自体が、企業側にとって都合のいい発明だったという見方もある。ポイ捨て防止を訴えた一九七〇年代のアメリカの啓発運動は、飲料や容器を作る企業が資金を出していたことで知られている。ごみを出すのは消費者だ、という物語を先に広めておけば、生産量そのものへの規制論は後回しにできる。実際、この構図に対する反省から、近年は「拡大生産者責任」と呼ばれる制度が各国で広がりつつある。製品を作った企業に、その製品が廃棄されるまでの責任を負わせる仕組みで、発案者はスウェーデンの研究者とされる。この制度が本気で機能すれば、消費者が店頭で選べる選択肢そのものが変わっていくはずだ。これと似た構図は、プラスチック以外の場所でも確認されている。「カーボンフットプリント」という言葉は、二〇〇四年に石油大手BPが広告代理店オグルヴィと組んで展開したキャンペーンをきっかけに広まったとされる。BPはオンラインの計算ツールを公開し、日々の暮らしから出る温室効果ガスを個人単位で計算させた。この言葉自体は一九九〇年代の学術用語「エコロジカル・フットプリント」を土台にしているが、BPのキャンペーンを経て、責任の焦点は生産者から一人ひとりの生活習慣へと移った。プラスチックにおける「個人の責任」という語りも、同じ手つきで作られたものだとしたら、その語りに乗ること自体が、すでに誰かの思惑の内側にいるということになる。この歴史を知ってしまうと、蜜蝋ラップを作る手が一瞬止まる。自分がやっていることは、企業の責任を薄める片棒を、無自覚に担いでいるだけなのではないか、という疑いが浮かぶからだ。

ただ、この構造論にも安易に乗り切れない部分がある。「個人にできることは誤差でしかない」という結論は、既存の生産体制にとって一番都合のいい免罪符でもある。政策変更を求める声も、結局は個々の有権者や消費者の態度の総和から生まれる。拡大生産者責任のような制度が導入されるまでの間には、それを求める世論の蓄積という、地味で数値化しにくい過程が挟まっている。構造が問題の九割を占めるとしても、残りの一割を放棄していい理由にはならない——ただし、その一割を「自分は意識が高い」という物語に育てすぎないように、常に規模の感覚を持っておく必要はある。二十社と一人の消費者を並べて語ること自体、本来は釣り合いの取れた比較ではない。

だとすれば、この構造の非対称に対して個人が取りうる態度は、実質的に二つしかないように見える。一つは、誤差でしかないと割り切って何もしないこと。もう一つは、誤差でしかないと知りながら、それでも自分にできる範囲のことを、規模の錯覚を持たずに続けること。前者は論理的には筋が通っているが、後者を選ぶ人が一定数いなければ、拡大生産者責任のような制度に世論の後押しがつくこともない。矛盾しているようだが、規模の小ささを正確に認識していることと、それでも続けることは両立する。両立しないのは、規模の小ささを認識せずに続けて、いつか自分の消費行動だけで海洋プラスチックが減ると信じ込むことの方だ。

善行の後には気が緩む、はずだったのだが

個人の行動には、もう一つ心理学的な仕掛けが疑われてきた。モラルライセンシングと呼ばれる現象だ。二〇一〇年に心理学者マザーとチョンが発表した実験では、被験者に通常の商品とエコ商品のどちらかを選ばせたあと、別の課題での振る舞いを観察している。その結果、エコ商品を購入した被験者の方が、その後の課題で不正をしたり、他人にお金を分け与える割合が減ったりする傾向が見られたと報告された。善いことを一つした自覚が、その後の身勝手さに対する免罪符として機能する、という解釈だ。この話は「エコバッグを持つ人ほど性格が悪い」式の俗説として広まり、環境配慮行動そのものを冷笑する材料としても使われてきた。皮肉屋にとって都合のいい話だったからこそ、よく引用されたのだろう。

ところが二〇一九年、心理学者アーバン、バーニーク、ブラウン・コフロヴァーの三人が、この実験を三通りの方法で追試したところ、合計千二百七十四人の参加者を対象にしたいずれの追試でも、エコ商品の購入がその後の不正行動を増やすという効果は確認されなかった。金銭が絡む三種類の課題を使い、元の実験に近い設定と、条件を変えた設定の両方を試した上での結果である。つまり、最初に話題になった「善行が不正の免罪符になる」という筋書きは、少なくともこの追試の範囲では再現しなかったことになる。ちなみにこの研究チームは別の論文で、環境や気候の分野の心理学研究には出版バイアス——効果が確認された研究の方が発表されやすい傾向——が疑われるとも指摘している。話題性のある結論ほど、再検証に耐えないことがある。

では逆に、一つの環境配慮行動が次の環境配慮行動を後押しする、という楽観的な話は成り立つのか。これについては二〇一九年に心理学者マキらのグループが二十二件の研究・七十七の効果量を統合したメタ分析を発表している。結果はどちらの単純な物語も支持しなかった。ある環境配慮行動をした後、次に同種の行動を「したいと思う気持ち」への影響は、わずかながらプラスだった。ところが、実際の行動や、環境政策への支持といった、より実質的な指標で見ると、効果はわずかにマイナスに転じていた。やる気は少し高まるが、行動はむしろ足踏みする——都合の良い波及効果も、都合の悪いライセンシングも、どちらも単純な形では実証されていない、というのが今のところの実像に近い。関連する研究では、この効果の向きを左右する要因として、その行動を自分のアイデンティティの一部だと感じているかどうかが挙げられている。値引きにつられてエコ商品を買った場合と、自分は環境に配慮する人間だと思って買った場合とでは、その後の行動への波及の仕方が違ってくるらしい。二〇二五年に発表された心理学者ワンらの研究でも、同じ論点が別の角度から検討されている。自分の道徳的な価値観をどれだけ自分の一部だと感じているか——研究では「道徳的アイデンティティの内面化」と呼ばれる度合い——が強い人ほど、一つの環境配慮的な消費のあとも同じ方向を選び続けやすく、逆にその度合いが弱い人では、同じ消費のあとにかえってエコ商品への選好が下がる傾向が見られたという。つまり、免罪符になるかご褒美になるかは、行動そのものの性質よりも、それをする人が自分をどう見ているかに左右される部分が大きい。数字の上では小さな効果量の中に、こうした個人差が埋もれている。

この宙ぶらりんな結果は、拍子抜けするようでいて、案外誠実だとも思う。蜜蝋ラップを作った翌週に自分が急に品行方正になるわけでも、逆に開き直って浪費家になるわけでもない。心理学の実験室で測れるほど、人の行動はきれいに連動していない。そういう意味では、この趣味に道徳的な効能——自分を律する装置としての効果——を期待すること自体が、そもそも見当違いなのかもしれない。効果があるとすれば、それは行動の総量にではなく、素材への注意の向け方という、もっと個人的で測定しづらい場所にあるのだろう。

皮肉なのは、「エコバッグを持つ人ほど性格が悪い」という俗説の方が、追試で否定された研究よりも長く人々の記憶に残っている点だ。一度出回った印象は、それを支えていた実験結果が覆っても、そう簡単には覆らない。この非対称は、マイクロプラスチックの推計をめぐる話とまったく同じ形をしている。派手な話は訂正の後もしばらく生き延び、地味な訂正は最初から目立たない。だとすれば、環境配慮行動をめぐる俗説を鵜呑みにしないことも、プラスチックそのものを減らすことと並んで、この趣味の一部に含めていいのかもしれない。

不便さそのものを面白がれるかどうか

マイボトルを忘れる日もあるし、コンビニでペットボトルを買うと、それはそれで「やっぱり楽だ」と思う。ここで自分を責める必要はないと思っている。ここまで見てきたように、個人の消費行動が海洋プラスチックの総量に与える影響は、二十社の生産量と比べれば誤差の範囲に近く、善行の自覚が生活全体を清く保ってくれるという保証もない。プラスチックを完全に排除することが目的になった瞬間、この趣味は本来持っていなかった重みを背負わされる。忘れた日を数えて落ち込むのは、統計的にも心理学的にも見合わない苦労だ。

だから、素材が持つ違いに気づく回数が増えれば、それでいいはずだと考え直している。全部を変えるのは無理でも、一つだけプラスチック以外にすると決めておくと、選ぶ基準が少しずつ見えてくる。自分の場合はキッチンのスポンジをヘチマに変えただけで、洗い物の音や手触りがわずかに変わった。大した発見ではないが、意識せず使っていたものに一度触れ直すきっかけにはなった。ヘチマは乾くと繊維が粗くなり、濡らすと元の柔らかさに戻る。この可逆的な変化は、プラスチックのスポンジにはない性質で、単純に触っていて飽きない。使い込むほど繊維がほつれていく様子を見ていると、消耗そのものが情報になっていることに気づく。プラスチックのスポンジは、劣化してもその劣化の仕方に個性がない。

石けんの香りが数週間かけて変わっていくのも、蜜蝋ラップが使ううちに折り目の癖をつけていくのも、環境負荷の指標には出てこない種類の情報だ。木の歯ブラシも同じで、使い始めは表面が滑らかだが、数週間もすると毛先だけでなく持ち手の木目にも細かい摩耗が出てくる。プラスチックの歯ブラシなら気にも留めない部分だ。プラスチックが均質さと引き換えに手放しているのは、こうした経年の情報の総体なのだろうと思う。均質であることは工業製品としては美点だが、観察の対象としては退屈だ。

ゴミの量が減ったかどうかより、素材への感覚が変わったかどうかの方が、正直なところ自分には確かめやすい変化だった。これは達成でも改善でもなく、単なる観察の記録に近い。丁寧に暮らそうとしているわけではなく、単に素材の挙動を観察するのが性に合っているだけだ、という線引きは、自分の中で保っておきたいと思っている。前者は生き方の美学の話になり、後者はただの趣味の話で終わる。この差は小さいようで、続けるための負荷はまるで違う。美学として背負ってしまうと、うまくできなかった日に自分の生き方そのものが否定された気になる。単なる観察であれば、うまくいかなかった日は、次に試すときの条件が一つ増えるだけで済む。

数字を外したところに残るもの

ここまで数字を並べてきたのは、この趣味を数字で正当化するためではない。むしろ逆で、正当化に使えそうな数字のほとんどが、掘り下げるとどこかで崩れることを確認したかった。恐怖を煽る五グラムの推計は過大評価だったとされ、個人の努力は生産構造の規模の前では小さく、善行の免罪符も波及効果も、心理学の実験室では思ったほどきれいには現れない。環境配慮という看板の下で語られてきたことの多くが、検証してみると輪郭がぼやける。この看板を外した状態で、それでも残る動機がどれだけあるかが、この趣味の実質を測る基準になる。

数字を疑うという作業は、それ自体がやや後ろ向きな作業に見えるかもしれない。何かを信じるより、信じかけたものを一つずつ取り下げていく方が、地味で報われにくい。ただ、この取り下げの作業を経たあとに残った動機の方が、環境負荷の計算に依存していない分だけ、天気予報のように新しい研究一つで揺らぐことがない。素材の重さや香りの変化は、査読を経て訂正される種類の情報ではないからだ。

それでも蜜蝋ラップを作る手は止まっていない。理由を強いて言葉にするなら、これは環境問題の解決策の練習ではなく、素材が経年でどう変わるかを観察する趣味に、たまたまプラスチックを減らすという副産物がついてきているだけなのだと思う。順番を間違えると、義務感が先に立って続かなくなるし、続けられたとしても別の看板を背負うことになる。看板はどちらの向きに立てても、結局は素材そのものを見る邪魔になる。

二十社が世界の使い捨てプラスチックの半分を作っているという事実は、変わらず重い。それでも自分が布に蜜蝋を染み込ませる手を止める理由には、なぜかならない。この二つは同じ天秤に乗せるべきものではなく、乗せた瞬間にどちらかが不自然に軽く見えたり重く見えたりするだけなのだと思う。環境負荷の計算は計算として別の場所に置いておき、素材の手触りは手触りとしてここに置いておく。手元にある布と蜜蝋の重さを確かめることの方が、少なくとも自分にとっては、まだ地に足がついている。

出典

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  • ミンデルー財団(2021)「Plastic Waste Makers Index」
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  • Mazar, N. & Zhong, C.(2010)「Do Green Products Make Us Better People?」Psychological Science
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  • Kaufman, M.(2020)「The devious fossil fuel propaganda we all use」Mashable