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趣味に「Lv.1〜Lv.3」を割り振ることの効き目と副作用

趣味に「Lv.1〜Lv.3」を割り振ることの効き目と副作用

趣味の上達を「スキルツリー」として段階づける語り方には、ゲーミフィケーション研究の裏づけがある。ただしその効果は思ったより不安定で、効いている理由も思ったより一枚岩ではない。

TOMOAKI··趣味

「実用的な趣味」を紹介する記事や自己啓発系のブログで、それぞれの活動に「Lv.1(生存)」「Lv.2(自律)」「Lv.3(資産化)」というようなスキルツリーを割り振り、最終的にキャリアや人間関係の「資産」に転換されると説明する構成を見かけたことがある。ゲームの熟練度表示を借りたその見た目のわかりやすさに、正直なところ最初は少し感心した。同時に、なぜこの段階分けにこれほど説得力を感じてしまうのか、その理由の方が気になった。段階そのものが正しいかどうかより、段階という形式がなぜ効くのかを知りたかった。

同じ発想は趣味の記事に限らない。フィットネスアプリはワークアウトのたびに経験値バーを伸ばし、語学アプリは連続学習日数をカウントし、職場のOKR研修ですら達成度をパーセンテージで表示する。ゲームでもないものにゲームの見た目を貸し与えるこの手法は、いまや趣味や自己啓発の語り口として、ほとんど疑われることなく流通している。だからこそ、一度立ち止まって、この手法の裏側にある研究を確認しておく価値があると思った。

「ゲーミフィケーション」という語の来歴

趣味や学習にゲームの仕組みを持ち込むこの手法には、すでに名前がついている。ゲーム研究者のデターディングらが2011年に発表した定義がよく引用される。「ゲームではない文脈にゲームのデザイン要素を持ち込むこと」というのがその骨子だ。ここで言う「ゲームのデザイン要素」とは、ポイント、バッジ、レベル、進捗バー、リーダーボードといった、ゲームの中でもとりわけ表層的で切り出しやすい部品を指す。つまり「Lv.1〜Lv.3」という枠組みは思いつきの比喩ではなく、すでに一つの応用分野として研究の対象になっている手法の、ごく典型的な実装だということになる。

この語の来歴を確認しておくと、話の見通しがよくなる。ゲーミフィケーションが批判されるとき、その批判はしばしば「ゲームというもの全般が薄っぺらい」という話にすり替わりがちだが、デターディングらの定義が指しているのはあくまで「ゲームの一部の意匠を借りてくること」であって、ゲームそのものではない。本物のゲームが持つ複雑な相互作用やルールの奥行きと、そこから切り出された点数やレベル表示だけを別の文脈に移植することは、まったく別の作業だ。この切り分けを頭に入れておかないと、この先の議論は「ゲームは良いか悪いか」という不毛な方向に流れてしまう。

効果は「ある」——ただし小さく、不安定に

ここでまず認めておきたいのは、ゲーミフィケーションという手法自体には、実証研究の裏づけが一応存在するということだ。教育心理学者のザイラーとホムナーが2020年に発表したメタ分析は、学習場面におけるゲーミフィケーションの効果を検証した研究群を統合し、認知的な学習成果(研究数k=19、効果量g=0.49)、動機づけに関わる成果(k=16、g=0.36)、行動面の成果(k=9、g=0.25)のいずれにおいても、統計的に有意な効果を確認している。数字だけ見れば、この手法を頭ごなしに否定する根拠はない。

ただし、この分析には見落とせない留保がついている。方法論的に厳密な研究だけに絞り込んでも安定していたのは認知的な成果への効果だけで、動機づけや行動面への効果は、研究の質を上げるほど不安定になった。さらにザイラーらは、効果の大きさを左右する要因として「ゲーム的な物語(フィクション)が組み込まれているか」「社会的な相互作用が組み込まれているか」を挙げている。つまり、ポイントやレベルという記号を貼りつけるだけの実装と、それが物語や他者との関わりに埋め込まれた実装とでは、同じ「ゲーミフィケーション」という呼び名の下でもまったく別の効き方をする。「Lv.1〜Lv.3」という数字だけを割り振る手法は、この中でもっとも痩せた部類の実装に近い。

この「痩せた実装」という点は強調しておきたい。ザイラーらが効果を確認したゲーミフィケーションの多くは、単なる数字の貼りつけではなく、キャラクターの成長や仲間との協力といった、ある程度の作り込みを伴うものだった。趣味の記事に貼られる「Lv.1〜Lv.3」は、物語も相互作用もなく、ラベルだけが与えられる。メタ分析が示した正の効果を、そのままこの手法にも当てはめてよいという保証は、実はどこにもない。

半年間の教室で起きたこと

効果が「不安定」であることの意味を、具体的な数字で確かめておく。心理学者のハヌスとフォックスが2015年に発表した研究は、大学の同じ内容の講義を、片方はリーダーボードとバッジ付きのゲーミフィケーション版、もう片方は同じ内容の非ゲーミフィケーション版として、16週間の学期を通じて追跡したものだ。四つの時点で内発的動機、社会的比較、努力、満足度、学習者エンパワーメント(自分の学びに意味・有能感・影響力を感じられているかという構成概念)、そして最終的な成績を測定している。

結果は、単純な「効いた・効かなかった」という二択には収まらない形で出た。ゲーミフィケーション版の講義を受けた学生は、学期が進むにつれて内発的動機、満足度、学習者エンパワーメントのいずれもが低下していった。そして最終試験の成績も、非ゲーミフィケーション版の学生より低く、その差は内発的動機の低下によって媒介されているとハヌスらは分析している。導入した直後の反応ではなく、半年という時間をかけて動機づけが目減りしていった末に、成績という具体的な結果にまで影響が及んだという点が重い。ポイントやバッジは、少なくともこの実験条件においては、学ぶ意欲を底上げするどころか、ゆっくりと蝕んでいた。

ここで注意したいのは、この研究が「ゲーミフィケーションは初日から逆効果だ」と言っているわけではない点だ。導入直後の学生の反応を見る限り、ゲーミフィケーション版の講義は好意的に受け止められていたはずで、そうでなければ企業や教育機関がこぞって導入する理由が説明できない。問題が表面化するのは、目新しさが薄れ、リーダーボードの順位や獲得したバッジの数が日常の一部になってからだ。短期の満足度調査だけでこの手法の効果を判断すると、半年後に起きていることを完全に見落とすことになる。趣味の「Lv.1〜Lv.3」も、導入した瞬間の高揚感だけで語られがちだが、その効果を検証すべきなのは、むしろ数か月後にその趣味への興味がどう変わっているかの方だろう。

外から与えられた印が意欲を侵食する仕組み

なぜこんなことが起きるのか。この現象を説明する枠組みとしてもっとも引用されるのが、心理学者のデシとライアンらが積み重ねてきた研究群であり、その集大成の一つが1999年にデシ、コエストナー、ライアンが発表したメタ分析だ。128件の実験を統合したこの分析は、外的な報酬が内発的動機に与える影響を検証し、達成そのものに対して与えられる報酬(エンゲージメント随伴型、完了随伴型、成果随伴型)のいずれもが、報酬がなくなった後の自由な取り組み意欲——つまり本来の内発的動機——を有意に押し下げることを確認した。効果量は種類によって異なり、単に取り組んだだけで得られる報酬でd=−0.40、課題を完了して得られる報酬でd=−0.36、成果の良し悪しに応じて得られる報酬でd=−0.28という数字が出ている。

ポイントもバッジもレベルも、厳密には金銭ではないが、この分析でいう「報酬」とほぼ同じ機能を持つ。「Lv.2に到達した」という表示は、本人がその活動をどれだけ楽しんでいたかとは無関係に与えられる、外部からの評価の印だ。この印が繰り返し与えられることで、活動そのものへの興味という内側から湧く動機が、印を得るための手段という位置に少しずつ格下げされていく。デシらの理論では、これは人が生まれつき持っている有能感・自律性・関係性という三つの心理的欲求のうち、有能感が「自分で確かめるもの」から「外から認定してもらうもの」にすり替わることで起きるとされる。趣味における「資産化」という到達点は、この外部認定の最終形にほかならない。趣味を評価する主体が、自分自身から、その趣味を見ている(かもしれない)誰か、あるいはキャリアという抽象的な尺度に移ってしまう。

興味深いのは、デシらのメタ分析が報酬の種類ごとに差を見つけている点だ。単に取り組んだというだけで与えられる報酬がもっとも意欲を損ない、成果に応じて与えられる報酬は、それよりいくらか害が小さい。ここから逆に読み取れるのは、「参加賞」的な性格の強い印ほど危険だということだ。「Lv.1(生存)」に到達するための条件がもし「とりあえず一度やってみること」程度の緩さなら、それはまさに参加すること自体への報酬に近い。腕前の実態とは無関係に配られる印であるほど、印と実力の結びつきが弱まり、印だけが目的化しやすくなる。

進捗バーがなぜあれほど効くのか

ここでもう一段、視点を変える必要がある。ここまでの議論は「なぜ外的な印が悪さをするか」だったが、それとは別の理屈で、進捗の可視化そのものには強力な効果があることもわかっている。悪さをする仕組みと、効いてしまう仕組みは、実は別々のメカニズムだ。

マーケティング研究者のキヴェッツ、アーミンスキー、ゼンが2006年に発表した研究は、実在するカフェのスタンプカード制度——10個買うと11個目が無料になる仕組み——を使い、949枚の完了済みスタンプカードから会員の来店間隔を実際に追跡した。結果、会員はスタンプが貯まるほど来店の間隔を縮め、カードが埋まる直前には最初の頃と比べて来店ペースがおよそ2割速くなっていた。これは1930年代に心理学者のハルが、迷路を走るネズミがゴールに近づくほど速く走ることを確認した現象——目標勾配効果——の、人間の消費行動における再現である。ゴールが近いという知覚そのものが、実際の到達度とは独立に、行動を加速させる。

「Lv.2まであと少し」という表示が妙に効くのは、この目標勾配効果を利用しているからだと考えると筋が通る。段階を細かく刻むほど、常にどこかの「あと少し」に自分を置いておくことができ、常に加速のトリガーが引かれ続ける。ここが厄介なところで、この効果は本人の技能が実際に向上しているかどうかとは無関係に作動する。キヴェッツらの研究でも、進捗の「知覚」が加速を生むのであって、進捗の「実態」ではないことが強調されている。スタンプが埋まっていく様子を見せられれば、コーヒーの味とは無関係に足が速くなる。趣味のレベル表示も同じで、Lv.2からLv.3への矢印を見せられれば、実際の腕前の変化とは切り離されたところで、次に取り組みたくなる気持ちが生まれてしまう。

本物の段階論はどんな形をしているか

ここで一度、「段階分けそのもの」への疑いを持ちすぎないよう釘を刺しておきたい。技能の上達に本当に質的な段階があるという考え方自体は、根拠のない思いつきではない。哲学者のドレイファス兄弟が1980年、アメリカ空軍科学研究局の委託でまとめた報告書は、技能の熟達を「初心者」「中級初心者」「一人前」「上級者」「達人」という五段階のモデルとして定式化した。この枠組みは、その後の医療教育や専門職研修の現場で広く参照され続けている、実在の理論だ。

ただし、このドレイファス・モデルが描く段階は、「Lv.1〜Lv.3」の枠組みとはまるで様相が違う。ドレイファス兄弟が注目したのは、達成した課題の数やこなした時間ではなく、状況をどう認識するかという質そのものの変化だ。初心者は状況を文脈から切り離されたルールの適用対象として見る。達人になると、ルールを意識的に適用するのではなく、状況全体を直観的に把握し、考えるより先に適切な行動が立ち上がる。これは外側から観測してチェックボックスを埋められるような達成ではなく、内側の認識の仕方そのものが変わるという、もっと捉えにくい変化だ。段階と段階の境目は、本人にもはっきりとは自覚できないことが多い。ドレイファス兄弟が観察対象にしていたのはチェスの指し手や航空機のパイロットだが、料理でも園芸でも楽器でも、上達した人に話を聞くと、似た証言が返ってくることが多い。「いつからできるようになったかは自分でもわからない」という言い方だ。特定の日付や到達点を指させないことこそが、この種の変化の特徴であって、欠陥ではない。

マーケティング目的の「スキルツリー」が借用しているのは、この本物の段階論が持つ「たしかに質的な飛躍がある」という直観の説得力であって、その飛躍がどれほど測定しにくく、どれほど本人の内側でしか起きないかという肝心の部分は、都合よく抜け落ちている。段階を三つに区切って名前をつければ、測定できないはずのものが測定できたかのように見えてしまう。これは嘘というより、測りにくいものを測りやすい形に無理やり整形する作業であり、整形の過程で失われる情報の方が、たぶん本質に近い。

「資産化」という言葉が漏らしているもの

段階の名づけ方にも注目する価値がある。「Lv.3(資産化)」という表現は、その趣味が最終的に何のために存在するのかを、思いのほか正直に語ってしまっている。ゲームデザイン研究者のボゴストは2011年の論考で、ゲーミフィケーションという語そのものを批判し、「エクスプロイテーションウェア(搾取ソフト)」と呼び直すべきだと論じた。彼の主張の核は、ポイントやレベルといった記号は、本物のゲームが持つ複雑な相互作用の「付随的な特徴」にすぎないのに、それをあたかも本質であるかのように扱ってビジネスに転用している点にある。本物の互恵的な報酬——相手に何かを投資し、相手からも相応の価値が返ってくる関係——の代わりに、コストのかからない「まがいものの報酬」を与えているにすぎない、という指摘だ。

「資産化」という語はこの構図を露骨に体現している。趣味を続けた先にあるはずのご褒美が、その趣味自体の面白さではなく、キャリアや人間関係という別の経済圏での交換価値として名指しされている。これは趣味というものへの侮辱というより、単に設計思想の告白だと捉えた方が正確だろう。この段階表示を作った側にとって、Lv.3の到達点は「読者がその趣味をどれだけ楽しめたか」ではなく「読者がその趣味を通じて何を得られると期待させれば記事が読まれるか」という基準で選ばれている。ボゴストの言葉を借りれば、これは互恵的な投資ではなく、コストゼロで発行できる印を配っているだけの構造だ。

「生存」「自律」「資産化」という三段階の並びそのものも、よく見ると妙な設計になっている。最初の段階が「生存」だというのは、その趣味に手をつけていない状態が、まるで生き延びていない状態であるかのような含みを持たせている。基礎的な欲求から出発し、最終的に高次の達成へ至るという語りの型自体は目新しいものではないが、この型を趣味という本来もっと軽いはずの活動に貼りつけると、「まだLv.1にすら達していない自分」という不安を、必要以上に喚起する効き目が生まれる。段階の名づけ方一つで、同じ活動が「気晴らし」にも「生存戦略」にも見えてしまうという、この振れ幅の大きさ自体が、この手法の危うさを物語っている。

それでも流行っている理由

ここまで否定的な材料ばかり並べたが、この手法が実際に広く使われ続けている以上、何かは機能しているはずだ。その「機能している何か」の正体を、もう少し丁寧に見ておく必要がある。語学学習アプリの「連続記録(ストリーク)」機能はその典型例で、日々の継続率を明確に押し上げる効果があることは広く知られている。この効果の背後にあるとされるのが、心理学者のカーネマンとトヴェルスキーが1979年に発表したプロスペクト理論の中核をなす損失回避——「失うことの痛みは、同じ量を得る喜びより大きく感じられる」という非対称性——である。積み上げた記録を失いたくないという恐れは、新しく何かを得たいという期待よりも強い行動の駆動力になる。

ここで見落としてはいけないのは、この仕組みが最適化しているのは「継続率」であって「上達の質」ではないという区別だ。アプリを毎日開かせることと、その人が実際にその言語を深く理解することは、相関はしても同一ではない。ハヌスとフォックスの実験が示していたのも、まさにこの乖離だった。ゲーミフィケーションは行動の頻度を上げることには長けているが、その行動の中身の充実度までは保証しない。むしろ内発的な動機が目減りしていれば、頻度だけが維持されて中身が空洞化するという事態すら起こりうる。「Lv.1〜Lv.3」というスキルツリーが約束しているのは継続の予感であって、上達の実質ではないのかもしれない。両者を同じ言葉で語ってしまうところに、この手法のいちばん都合のいい曖昧さがある。

継続率と上達の質を区別すれば、この手法をどこまで採用してよいかの見当もつきやすくなる。語学アプリの単語カードのように、反復そのものが上達に直結する作業では、継続率を上げること自体がほぼ上達に等しい。一方、絵を描く、庭をいじる、文章を書くといった、作業の質が量と単純比例しない趣味では、継続率を上げる仕掛けが、かえって作業の中身を空洞化させるリスクの方が大きくなる。同じ「Lv.1〜Lv.3」という形式を、性質のまるで違う趣味に一律に当てはめてしまうところに、そもそもの無理がある。ゲーミフィケーションが効くかどうかは、手法そのものの良し悪しである以上に、その活動が反復型か探究型かという性質に依存する話なのだろう。

段階を数えない自分を数えていないか

ここまで書いてきて、ひとつ据わりの悪さが残る。「レベル分けやスキルツリーには頼らない」という構えを意識的に選ぶこと自体が、また別の達成基準になりかねないという据わりの悪さだ。段階を刻まないことを自分の趣味の流儀として誇るなら、それは「段階を刻まない自分」という、また別のバッジを自分に発行しているにすぎない。ボゴストが批判したまがいものの報酬の構造は、レベル表示を拒否するという身振りの中にも、形を変えて紛れ込む余地がある。

実際のところ、趣味の上達というものはたいてい、段階として自覚できるほどきれいには進まない。ある日ふと、以前は考えながらやっていたことを考えずにできている自分に気づく、という程度の、ドレイファス・モデルが描くような不定形な変化がほとんどだ。そこに「Lv.2に到達しました」という表示が挟まれば、進捗は測りやすくなる代わりに、測りやすさそのものが目的化してしまう危険と引き換えになる。数字にできない変化を数字にしないまま眺めていられるかどうか、というのが、この話の落としどころとしては案外近いように思う。数えないでいることの居心地の悪さに、そのまま留まっていられるかという話でもある。

もう一つ付け加えるなら、この居心地の悪さを解消しようとして、また別の測定の道具を持ち出す必要はない。「レベル分けの代わりに、上達の実感を日記に書きとめる」というような代替案を提示したくなる誘惑はあるが、それもまた進捗を可視化する装置であることに変わりはなく、目標勾配効果や外的報酬の力学から完全に自由になれるわけではない。装置を変えることと、装置そのものから距離を取ることは、別の話だ。ここで具体的な代替手段を提案しないのは、怠慢ではなく、提案した瞬間にまた新しいスキルツリーを一つ増やすだけだと考えているからだ。

結局のところ、この記事自体もまた、ゲーミフィケーションという現象を段階立てて説明し、研究を並べて「ここまで理解できればLv.2」というような読後感を演出してしまっている可能性から、完全には自由でない。書いている側が批判している構造の外側に、書いている側自身が立てているという保証はどこにもない。せめてできるのは、そのことに自覚的でいることくらいだろう。

出典

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