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趣味の場で友人になるまでに、実は200時間かかっている

趣味の場で友人になるまでに、実は200時間かかっている

趣味を通じてどうすれば人と知り合えるのかを、社会心理学と社会学の研究から検証する。友人作りをビジネス語彙で語ることへの違和感を出発点に、接触回数、共同活動、類似性、弱いつながり、時間の使い道という五つの角度から、実際に何が効いているのかを見ていく。

TOMOAKI··趣味

大人になってから趣味を通じて友人を作る方法を説く記事の多くは、驚くほどビジネスの語彙でできている。趣味を「人生における最も貴重なリソースの配分」と呼び、コミュニティ選びを「戦場」と呼び、関係が終わるときには「出口戦略」を用意する。読んでいるうちに、これは友人作りの話なのか、それとも小さな事業計画の話なのか分からなくなってくる。

社会学者レイ・オルデンバーグが1989年の著書で「サードプレイス」という概念を提示し、家庭でも職場でもない第三の居場所の重要性を説いたのは事実だ。彼の定義によれば、そこは誰でも招待なしに出入りでき、損得抜きの会話が交わされる中立的な場所である。ただ、そこから先を「意思決定」や「投資」の言葉で埋めていくのは、その概念そのものとは別の作業だと思う。サードプレイスが心地よいのは、そこに損得勘定が持ち込まれていないからのはずで、趣味の場を「戦略的に選ぶべき戦場」として扱った瞬間、その前提が崩れる。

ではその場で実際に何が起きて、見知らぬ二人が知り合いになるのか。これは実は、社会心理学と社会学がそれぞれ別の角度から数十年かけて調べてきた問いでもある。答えを先に言ってしまうと、単純な一つの法則には収まらない。いくつかの独立したメカニズムが並行して働いていて、しかもその一つ一つに、素朴な期待を裏切る留保がついている。

相性の前に、集める装置がある

そもそも、なぜ趣味の場は友人ができやすい場所として語られるのか。この問いに対して、社会学者スコット・フェルドが1981年に発表した「焦点(フォーカス)理論」は、心理学とは別の、いくぶん身も蓋もない答えを用意している。フェルドの主張は、友人関係の多くは互いの相性や好意の積み重ねという心理的な過程の前に、まず「同じ活動・同じ場所・同じ組織」という外部の焦点によって、そもそも同じ場に居合わせる確率が引き上げられることで生まれる、というものだ。趣味のサークルも会社も学校のクラスも、この意味では等しく「焦点」であり、そこに集まった人間同士の相互作用の頻度を、当人の意志とは無関係に底上げしている。

フェルドがこの理論をわざわざ立てた狙いは、社会心理学が積み上げてきた「類似性は好意を生む」「性格の相性が関係を決める」といった説明に対して、もっと手前の段階を見落とすなという注文をつけることにあった。友人になった二人が似た者同士に見えるとしても、それは互いを選び抜いた結果というより、同じ焦点に居合わせ続けたことで似ていく側面が大きいかもしれない、というわけだ。趣味という入り口を、心理的な相性探しの場として語る前に、まず「定期的かつ予測可能に同じ場所へ人を集め続ける、ただの装置」として見ておく必要がある。以下に見ていく個々の心理的なメカニズムは、すべてこの装置がすでに稼働していることを前提にして初めて働き出す。

フェルドの議論を踏まえると、趣味を選ぶという行為の意味も少し変わって見える。「自分に合う趣味を選べば、気の合う仲間に出会える」という発想は、趣味の内容と人柄との相性を過大評価している。フェルドの理論が示しているのはむしろ逆で、どんな趣味であれ、それが定期的な集まりという形を取ってさえいれば、同じ「焦点」としての機能をほぼ等しく果たすということだ。極端に言えば、内容そのものへの思い入れが薄い趣味であっても、毎週決まった時間に同じ顔ぶれが集まる仕組みさえあれば、そこから知り合いが生まれる確率は大きく変わらない。趣味選びに慎重になりすぎることの効用は、少なくともこの理論の観点からは、思われているほど大きくないのかもしれない。

顔を合わせる回数それ自体が持つ力

心理学者ロバート・ザイアンスが1968年に示した「単純接触効果」——ある対象に繰り返し接触するだけで、それに対する好意が高まるという現象——は、社会心理学の中でも例外的に頑健な効果として知られている。ザイアンス自身の実験は、無意味な単語や図形、漢字に似た記号を被験者に見せ、提示回数の多いものほど後の好感度評価が高くなることを確かめるという、素っ気ないものだった。中身への理解がまったくなくても、ただ目にした回数だけで好意が上がる。相手の人柄も話の中身も関係がないという点で、身も蓋もない効果である。

この効果は、心理学者ロバート・ボーンスタインが1989年にまとめたメタ分析の時点で、すでに200件を超える研究によって確認されていた。心理学の「再現性の危機」以降、有名な効果の多くが縮小したり消えたりした中で、単純接触効果はほとんど無傷で生き残った数少ない例の一つだと言われる。趣味の場に何度か通ううちに顔なじみができるという、誰もが経験的に知っている感覚には、これだけの裏付けがある。

ただし、このボーンスタインのメタ分析にはもう一つ重要な発見がある。接触回数と好意の関係は単調に右肩上がりではなく、逆U字を描くというのだ。最初の十数回までは接触するほど好意が増すが、そこを超えると今度は飽きが勝り始め、好意はむしろ下がっていく。習熟による親しみやすさと、飽和による退屈さがせめぎ合った結果らしい。「とにかく顔を出し続ければいい」という助言が半分しか正しくないのは、このためだと思う。頻度は関係を作る燃料になるが、燃料を入れすぎると逆に火が消える局面が来る。どこがその境目かは、対象にも個人差にもよるので、あらかじめ計算できるようなものではない。ボーンスタインの分析は、無地の図形のような単純な刺激を対象にした実験の集計であることも付け加えておくべきだろう。多面的で情報量の多い人間という対象に、同じ天井がそのまま当てはまるのかどうかは、この分析だけからは分からない。

何をするかは、思うほど重要ではないかもしれない

趣味を通じた友人作りの助言には、「共通の関心事があるから話が弾む」という前提が置かれていることが多い。これは間違ってはいないが、心理学者アーサー・アロンらが2000年に発表した研究は、もう少し不穏な可能性を示している。アロンのチームはカップルを対象に、退屈でありふれた活動と、目新しく興奮を伴う活動(障害物コースのような課題)のどちらかに一緒に取り組んでもらい、その後の関係満足度を比較した。結果は、活動の内容そのものよりも、それが「新奇で興奮を伴うものだったかどうか」が、二人の親密さの変化を大きく左右していた。

この研究が対象にしていたのは恋愛関係にあるカップルであり、見知らぬ者同士が趣味の場で出会う状況にそのまま当てはめられるわけではない。それでも、この結果が示唆する自己拡張理論の骨格——新しい経験を通じて自分の世界が広がる感覚が、その経験を共にした相手への好意に転化する——は、趣味の場にも応用が利きそうな仮説ではある。だとすれば、皮肉な話になる。趣味の場で人と親しくなれるかどうかを決めているのは、「その趣味が二人にとってどれだけ意味があるか」ではなく、「その活動がどれだけ新奇で、多少なりとも興奮や緊張を伴うものだったか」かもしれないということだ。同じ釣り好き同士でも、いつもの釣り場でいつも通りに糸を垂らしているだけでは、この経路はほとんど働かない。逆に言えば、趣味の内容が合っているという一致感そのものは、少なくともこの理論の枠内では、親密さを生む主役ではない。

このアロンという研究者には、もう一つ因縁めいた経歴がある。彼は1974年、心理学者ドナルド・ダットンとともに、揺れる吊り橋を渡った直後の男性ほど、その場で出会った女性調査員を魅力的だと評価しやすいという実験を発表している。吊り橋を渡る緊張による生理的な興奮を、脳が「目の前の相手への好意」として取り違えてしまうという、いわゆる「興奮の誤帰属」である。同じ研究者が20年余り後に発表した自己拡張理論は、この誤帰属という個別の現象を、関係づくり全般に働く一般的な原理へと組み直したものだと見ることもできる。だとすれば趣味の場で「気が合う人に出会えた」と感じる瞬間の何割かは、実際には活動そのものが生んだ緊張や高揚を、目の前の相手の魅力だと取り違えているだけかもしれない。相手の人柄を見誤っているという意味ではなく、好意の出どころを見誤っているという意味で、である。

似ているから仲良くなるのか、仲良くなるから似て見えるのか

類似性が好意を生むという「類似性—魅力仮説」も、趣味を通じた友人作りを語るときによく持ち出される。心理学者セオドア・ニューカムが1961年に行った有名な寮生活の追跡調査は、この仮説の出発点の一つだ。彼はミシガン大学の男子学生を無作為にルームメイトとして組ませ、入居前の態度の類似度と、その後の親密さの推移を追った。結果として、態度が似ている者同士は、実際に親密になりやすかった。

ここで見落とされがちなのが、ニューカム自身が付け加えていた留保である。入居前の態度の一致は、出会った瞬間の第一印象の良し悪しをほとんど予測しなかった。一致が効いてくるのは、しばらく一緒に過ごした「後」だったという。つまり類似性は、出会いのきっかけというより、関係が続くかどうかを決める後工程の要因に近い。趣味という共通点があれば最初の会話の糸口には困らないが、それだけで親密さが約束されるわけではないというのは、この時系列のずれからも読み取れる。

もう一つ皮肉なのは、趣味の場という装置そのものが、実は似た者だけを集める仕組みではないという点だ。同じ活動を選んだというだけで、年齢も職業も生活の前提もばらばらな人間が同じ場に居合わせることになる。共通するのはただ一点、その趣味への関心だけだ。年収も家族構成も政治的な立場も、その場では問われない。類似性が好意の土台になるのだとしたら、趣味の場で生まれる関係の多くは、実はその土台が異様に細い場所の上に成り立っていることになる。それでも関係が育つのだとすれば、効いているのは類似性そのものよりも、次に見る別の要因である可能性が高い。

弱いつながりの価値、ただし弱すぎなければ

趣味の場でできる関係の多くは、親友と呼べるほど深くはならず、顔を合わせれば会話をする程度の緩いつながりに留まる。これを物足りなさとして語る記事は多いが、社会学者マーク・グラノヴェッターが1973年に発表した「弱い紐帯の強さ」という論文は、この緩さそのものに独自の価値があることを示した。彼がボストン地域の転職者282人に、今の仕事をどう見つけたかを尋ねたところ、決め手になった人脈の多くは、頻繁に会う親しい相手ではなく、たまにしか会わない知人だった。調査対象のうち「よく会う」相手経由だったのは16.7%に過ぎず、「たまに会う」「めったに会わない」相手経由が残りの大半を占めていたという。理由は単純で、いつも会っている相手は自分と同じ情報しか持っていないが、たまにしか会わない相手は、自分の知らない別の輪とつながっている。

この結果は長らく「弱ければ弱いほど良い」という単純化で語られがちだったが、2022年に発表されたより大規模な検証は、その理解を訂正している。LinkedIn上で約2000万人を対象に5年かけて行われた実験的な検証で、研究者らは新しくできたつながりの「強さ」を実際に操作し、転職への影響を測った。結果、最も効果的だったのは相互のつながりが最も少ない、文字通り最弱の関係ではなく、共通の知人がほどほどにいる「中程度に弱い」つながりだった。弱すぎるつながりは、そもそも情報が届きにくく信頼もされにくい。グラノヴェッターの直感は正しかったが、「弱ければ弱いほど良い」という単純化は、半世紀越しに訂正されたことになる。趣味の場で「顔は知っているが深くは知らない」人間関係が積み重なることには、それ自体で意味がある。ただし、その関係にも最適な緩さの水準があるらしく、誰とも深く関わらないことを目的化するのも、また違う話になる。

グラノヴェッターがこの調査で見ていたのは転職という、成果がはっきり数えられる出来事だった。友人作りにそのまま当てはめてよい保証はない。それでも構造としては似ている部分がある。転職の決め手になったのが「自分の輪の外側とつながっている人」だったように、趣味の場で新しく知り合う相手の多くも、普段の生活圏の外側にいる人間だ。深い友情に育つかどうかとは別に、それだけですでに、自分の情報網を広げるという意味での役割を果たしていることになる。友人を「増やす」ことと、自分の世界を広げる細い糸を「増やす」ことは、似ているようで別の効用であり、趣味の場が主に提供しているのは、案外後者の方かもしれない。

同じ場所にいた時間は、それだけでは友情の通貨にならない

では、単に一緒にいる時間を積み重ねれば良いのかというと、これもまた単純ではない。コミュニケーション学者ジェフリー・ホールが2018年に発表した研究は、見知らぬ相手が「知人」から「友人」、さらに「親友」と呼べる関係に移行するまでに、それぞれどれだけの時間を要するかを実測している。彼の推計では、単なる知人から気軽な友人になるまでにおよそ40〜60時間、そこから「友人」と呼べる段階に進むまでにさらに80〜100時間、そして「親友」と呼べる関係になるまでには200時間を超える時間が必要だった。趣味の集まりに月一回、数時間ずつ顔を出す程度では、単純計算でも年単位の付き合いが要ることになる。

この研究でもう一つ注目すべきなのは、時間の「中身」による差である。ホールの分析では、冗談を言い合ったり近況を話したりする時間は関係を大きく前進させたのに対し、単に隣り合って同じ作業をこなしていた時間は、関係の進展にほとんど寄与していなかった。これは趣味の場を考えるうえで少し気まずい事実だ。同じ活動に黙々と取り組んでいる時間そのものは、実は友情の材料としてはあまり働いていない可能性がある。効いているのは、その活動の合間や前後に交わされる、活動の目的からは外れた雑談のほうだということになる。共同作業自体が絆を作るという通念は、少なくともこの研究の枠内では裏付けられていない。

単純な算数をしてみると、この数字の重みがよく分かる。趣味の集まりが月に一度、数時間という頻度だとすれば、その中で実際に冗談や近況の話に充てられる時間はさらにその一部でしかない。40時間という最初の関門にたどり着くだけでも、実際にはかなりの年月を要する計算になる。趣味を通じた友人作りが「思ったより時間がかかる」と感じられるのだとしたら、それは気のせいではなく、単純に必要時間の見積もりが甘かったというだけの話かもしれない。

言葉を介さずに近づく、もう一つの回路

ここまでの話だと、趣味の場で親密さを育てるのは結局のところ「会話の量」だという結論に落ち着きそうになる。ところが、それとは別の経路を示す研究もある。人類学者ロビン・ダンバーらのグループが2015年に発表したダンスに関する実験では、参加者を同じ動きを揃えて踊る条件と、そうでない条件に分け、痛覚の閾値(体内のエンドルフィン分泌量を推定する指標として使われる)と、参加者どうしの一体感を測定した。結果、動きを揃えて踊った条件でのみ痛覚閾値が明確に上昇し、参加者が感じる仲間意識も強まっていた。会話の内容ではなく、体を同じリズムで動かすという、言語を介さない経路そのものが、社会的な結びつきを生んでいたことになる。

ダンバーはこれを、霊長類が互いの毛づくろいによって関係を維持してきた仕組みの、人間版の代替経路として位置づけている。集団の規模が毛づくろいで維持できる範囲を超えたとき、人間は笑い声や歌、同調した身体運動によって、同じ神経伝達物質の経路を別の手段で作動させるようになったという見立てである。これは前の節の結論と、静かに矛盾する。雑談の量が友情を進める一方で、体を同じ動きで動かす活動は、雑談がほとんどなくても親密さを生む。ランニングクラブや合唱団、ダンスの教室のように口数の少ない趣味が、傍から見た会話量の乏しさに反して急速に仲間意識を育てることがあるのは、この別回路のせいなのかもしれない。友情の形成に単一の近道はなく、言葉による回路と、身体による回路が、それぞれ独立に働いているらしい。

この実験で興味深いのは、動きを揃えること自体と、身体を大きく動かすこと自体が、それぞれ独立に効いていたという点だ。揃えて踊っただけの条件でも、激しく動いただけの条件でも、痛覚閾値の上昇は限定的で、両方が重なって初めて効果が最大化した。趣味の場に置き換えれば、身体を使う趣味であれば何でもこの回路が働くわけではなく、かつ他人と動きが噛み合っている実感を伴う必要がある、ということになる。黙々と一人で走るランニングと、誰かとペースを合わせて走るランニングとでは、同じ運動量であっても、この観点からは別の体験だということになる。

設計できるのは場であって、関係そのものではない

ここまで見てきた研究を並べると、一つの見取り図が浮かぶ。頻繁に顔を合わせることは効くが、多すぎれば飽きに転じる。共通の活動をすることは効くが、効いているのはおそらく活動の中身の一致ではなく、その活動がどれだけ新奇で気持ちを動かすものだったかである。似た者同士は関係が続きやすいが、似ていることは出会いのきっかけにはならず、しかも趣味の場自体が異なる背景の人間を集める装置でもある。関係は多くの場合、深い友情にまでは至らない緩いつながりに留まるが、それ自体が別の価値を持っており、しかも緩すぎるよりは多少の重なりがあるほうが機能する。時間をかけることは必要条件だが、かけた時間の中身が雑談か共同作業かで効果はまるで違う。そして体を同じ動きで動かす活動だけは、この雑談の理屈をまるごと迂回する。

ここまでを振り返ると、冒頭のフェルドの指摘に戻ってくる。趣味の場が果たしている最大の機能は、実のところ、これから挙げたどの心理的なメカニズムよりも手前にある、単純な事実かもしれない。それは「同じ時間に同じ場所へ、理由をつけて何度も人を呼び戻す」という、ただそれだけの反復構造を作っていることだ。ザイアンスの単純接触も、アロンの自己拡張も、ホールの時間の蓄積も、ダンバーの同調も、すべてこの反復の土台がなければ発生する機会すら持たない。趣味という「焦点」の役割は、相性の良い相手を選び出すことではなく、相性を試す機会そのものを、当人の意志にかかわらず定期的に発生させることにある。友人ができるかどうかを最終的に左右するのは、その先の心理的な過程だとしても、その過程が起動する条件を用意しているのは、驚くほど散文的な、日時と場所の反復でしかない。

これだけの要因が絡んでいるとなると、これらを意識的に組み合わせて「効率よく友人を作る」という発想そのものが、そもそも成立しにくいということでもある。頻度も、活動の新奇さも、雑談の量も、身体的な同調も、当人がそれを意識した瞬間に不自然な色を帯びる——単純接触効果が「無自覚な繰り返し」を前提にした効果であるように、これらのメカニズムの多くは、狙って発動させようとした時点で条件から外れてしまう性質のものらしい。冒頭で触れた「戦略」や「投資」という語彙が据わりの悪さを感じさせるのは、比喩が下品だからというより、対象の性質そのものと相性が悪いからなのだと思う。趣味の場に通い続けるという、ただそれだけの持続力が実際には一番効いていたように見えるのは、その持続の中に、意図せず上に挙げた条件のいくつもが自然に満たされていくからなのだろう。友人ができるかどうかを目的に据えて趣味の場に通う人と、趣味そのものが目的で通っているうちに結果として知り合いが増えた人とでは、同じ場所で同じ時間を過ごしていても、体験の質はおそらく違う。前者は反復のたびにその反復の意味を計算してしまい、後者は計算せずに反復そのものを続けられる。差がつくとすれば、そこだろう。

出典

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