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服は全部残せなくても、少しなら残せるという理屈

服は全部残せなくても、少しなら残せるという理屈

着なくなった服の襟を一片だけ切り取って、残りは手放す。全部を諦めることと、少しも諦めないことの間にある、この中途半端な選択の心理的な仕組みを、記念品の実験と、割れた粘土板の歴史から追う。

TOMOAKI··趣味

クローゼットの中の一枚を手放すと決めたとき、鋏を持つ手が最初に向かったのは、生地の真ん中ではなく襟の先だった。五センチ四方に満たない、ボタンホールの一つも入らないくらいの布切れを切り取り、残りは古着回収に出した。捨てたわけではない。手元に置いたわけでもない。その中間の、どちらとも言い切れない処理を自分に許した。

あとになって、この判断の座りの悪さに気づいた。布切れ一枚で、失われた服の記憶が保存されるわけではない。むしろ服としての機能はその瞬間に完全に失われている。着られない、体を覆えない、ただの布の破片だ。それでも、何も残さずに手放すのとは明らかに違う感触があった。全部を諦めることと、少しも諦めないことの間に、まだ選べる場所があるらしい。この感触の正体を、もう少し具体的に追ってみたい。

断っておくと、これはコースターやポーチのような、生地を無駄なく活かす作り替えの話ではない。むしろその対極にある。使える部分をほとんど手放し、実用にはならない小さな一片だけを残す。効率という物差しでは説明のつかない、この縮小への衝動の方に興味がある。

全体を諦めて、一部だけを残すという操作

普段、モノを手放すかどうかの判断は「持つ」か「手放す」かの二択で語られることが多い。だが実際にクローゼットの前に立つと、この二択には収まらない第三の動きがしばしば起きている。全体を諦めて、その一部だけを抜き出して残すという操作だ。ボタンだけを外して取っておく。タグだけを切り取ってしまっておく。襟の角だけを保存する。服という単位で見れば、これは紛れもない部分的な喪失であり、しかも自ら望んで縮小させている。得るものより失うものの方が明らかに多い取引に見える。

それでも、この縮小をわざわざ選ぶ人は少なくない。行動経済学が長らく扱ってきた損失回避――同じ大きさの利得より損失の方を重く感じる傾向――に照らせば、これは奇妙な行動になる。全部を残せないなら、いっそ何も残さない方が未練を引きずらずに済みそうなものだ。ところが人は、九割九分を手放してでも、残りの一分を確保しようとする。この一分に、いったいどれほどの仕事ができるのか。

この操作を「小さなリメイク」の一種として片づけてしまうと、たぶん何かを見落とす。コースターやポーチに作り替える行為は、素材としての価値をできるだけ多く救い出そうとする、いわば効率の発想に立っている。一方で一片だけを残す行為は、効率とは正反対の方向を向いている。九割以上の生地をあえて手放し、実用性のかけらもない小さな布切れだけを確保する。効率を求めるならむしろ悪手に近い。にもかかわらずこの縮小に手を伸ばしたくなるのは、残す量の多さではなく、残すという行為そのものが果たしている役割が別にあるからだと考えた方が筋が通る。

ボトルとステッカーの実験

この疑問に、少し離れた角度から手がかりをくれる研究がある。消費者行動を研究するシャーリーン・チュウとスザンヌ・シューが2023年に発表した論文は、手放す品の「記念品」を手元に残せると、手放すことへの抵抗がどう変わるかを、三つの実験で調べている。三つ目の実験では、大学のロゴ入りボトルを学生に持たせ、いくらなら手放すかを尋ねた。同じロゴのステッカーを記念品として受け取れる人たちは、受け取れない人たちより低い金額でボトルを手放すと答えた(平均は9.36ドルに対して、6.5ドル前後)。記念品があるだけで、持ち物への執着、いわゆる保有効果が弱まったことになる。

記念品が寂しさを埋め合わせる、というところまでは、驚くほどの話ではないかもしれない。この研究のひねりは、記念品の伝え方にある。実験では、同じ写真やステッカーを、もとの品に最初から付いていたおまけとして残せると伝える場合と、手放すときに別にもらえる品として渡す場合とが比べられている。三つ目の実験では、どちらの伝え方でも売値の下がり方に差が見られなかった。もとの品に付いていたものだという位置づけは、効き目を左右しなかったのである。

これは、布切れに何か特別な本質――かつて着ていた自分の一部、とでも呼ぶべきもの――が宿っていて、それが心を慰めているのだ、という素朴な理解を、この研究は支えてくれるのか、それとも退けるのか。答えは、どちらでもない。実験で使われたのは写真と、ボトルと同じロゴのステッカーで、品物そのものを切り取った一片ではなかった。布切れが元の服の一部であることに意味があるかどうかは、この研究からは分からない。分かるのは、もとの品に付いていたものとして示されても、別にもらえるものとして示されても、効き目が変わらなかった、というところまでだ。

研究チームは理由を二つ挙げている。一つは、大きな損失の中に小さな得を切り分けて置くと、損の痛みが和らぐという説明(行動経済学でいうシルバーライニング)で、こちらが論文の柱になっている。もう一つは三つ目の実験の補助的な分析で、記念品を自分のものだと感じる度合いが強い人ほど、ボトルを手放したと想像したときの嫌な気分が小さかった。こちらは本人たちも「探索的」と断っている。布切れを後生大事に扱う自分の感覚と、実験が測っているものとの間には、ちょっとした隔たりがある。

ただし、この結果を鵜呑みにする前に、留保が二つある。一つは品物の格だ。実験で使われたのは、大学ロゴ入りのボトルや、好きなバンドのCDボックス、約50ドルのお気に入りの服で、どれも比較的値の張らない品だった。祖父の形見のセーターや、子どもの産着のような、はじめから重い意味を背負った品でも同じ結果になるかどうかは、この論文だけでは分からない。もう一つは実験の形で、三つのうち二つは、オンラインの回答者に場面を想像してもらうもので、服やCDを実際に手放した人の記録ではない。三つ目も、実際に取引が成立するのは抽選で選ばれた一人だけという仕組みだった。想像の中の損得と、鋏を入れたあとの手応えが、同じ動き方をするとは限らない。

それでも同じ布を選んでしまう理由

では、なぜ多くの人は、写真ではなく服の生地そのものを切り取って残そうとするのか。実験は、そこに意味があるかどうかを測っていない。だからこの問いは、研究の側ではなく、自分たちの選び方の癖の側から考えるしかない。

消費者研究者マーシャ・リチンズは1994年の論文で、モノの価値には二種類あると整理している。一つは、持ち主以外の人々にも共有される「公的な意味」――たとえばブランドや値段のように、他人にも説明できる価値だ。もう一つは、その持ち主だけが知っている「私的な意味」――いつ、どこで、誰と過ごしていたときの一枚か、という個人史に紐づいた価値である。ロゴ入りのステッカーが記念品として機能するのは、何かを思い出すための目印という、他人にも通じる水準の話なのだろう。布切れには、そこに私的な意味の水準が重なる。どの布切れを選ぶかという判断は、他人と共有される意味のどこにも載らない、自分だけの評価軸を使っている。写真やステッカーで足りる場面があるとしても、布切れを選ぶ行為が何をしているのかには、まだ検討の余地が残っている。

割られた距骨と、それでも符合する片割れ

一部だけを残して手放すという行為の古い先例を探すと、思いがけず遠くまで遡ることになる。古代ギリシャには、客人としてもてなしを受けた者と迎えた者が、動物の距骨などの品を真っ二つに割り、互いに片方ずつを持ち帰るという慣習があった。何年、あるいは何世代か経ったのちに、その片割れを持った者同士が再会したとき、二つの断片を突き合わせて元通りに符合するかどうかで、互いの関係が本物であることを証明した。この割られた品を指す言葉が「シュンボロン」で、のちに英語の「シンボル(象徴)」という単語の語源になったとされている。「合わせる」「突き合わせる」を意味するギリシャ語の動詞から派生した言葉だ。古代ギリシャの人間関係のあり方を論じた歴史学者ガブリエル・ハーマンの1987年の研究は、客人歓待が都市国家をまたぐ関係を支える、儀礼的な友情の制度だったことを扱っている。

この由来が正しければ、象徴という言葉そのものが、最初から「全体の一部を残すことで関係を保証する」という発想を内側に抱えていたことになる。手元に襟の切れ端を残す行為は、この意味で言葉の由来に忠実だ。ただし、古代の割符とは決定的に違う点が一つある。割符は必ず二人以上の人間の間で交わされ、離れた場所にいる相手との関係を証明するための道具だった。片方だけを持っていても意味は完成しない。もう一方の片割れを持つ誰かがいて初めて、符合するという確認の儀式が成立する。

一方、着なくなった服から切り取る一片には、対になる相手がいない。もう一方の片割れを持っているのは、服そのものでも、過去の自分でもない。厳密に言えば、それはもはや存在しない相手――服として機能していた頃の、今とは違う暮らしの自分――との割符のようなものだ。相手が現在の生活のどこにも実在しない以上、この照合はもう起こりようがない。それでも布切れを残そうとするのは、証明する相手を持たない割符を、それでもなお割ってしまう、という奇妙な行為だということになる。何かを証明するためではなく、証明という手続きの形だけを、一人で最後までなぞっているようなものだ。

考古学が考えた、割る側の作法

この「割る」という行為自体にも、実は作法があったのではないか、と考えた研究がある。考古学者ジョン・チャップマンは2000年の著書で、新石器時代から銅器時代にかけての東南ヨーロッパで見つかる土器や彫像の破片に注目した。使用中の破損ではなく、意図的に割られたものがあり、その破片は別々の場所や人のもとへ分散されていたのではないか、というのが彼の読みだ。この分散の過程を「エンチェインメント(連鎖)」と呼び、破片を交換し合うことで、離れた集団同士のつながりを物理的に維持する仕組みだったと論じている。もっとも、この解釈には異論もある。なお、ここでのチャップマンの議論は、原書ではなく後の論集の紹介に拠っている。

ここで考えたくなるのは、割られた破片のうち、どれが特別に扱われたのだろうか、という点だ。チャップマンは、珍しい形や文様のある品の破片ほど、関係を結ぶ交換で重みを持ちえたかもしれない、とも述べているらしい。なぜそうなるのかは、こちらで補って考えるほかない。文様や把手、縁の部分など、元の器の特徴がはっきり残る破片なら、後になって別の破片と突き合わせたときに「確かに同じ器から出た」と確認しやすいはずだ。のっぺりとした胴の欠片では、何の器の一部だったのかを言い当てるのが難しい。

先の話を手元の布切れに当てはめると、これまで何となく選んでいた基準に、ひとつの説明がつく。無地の背中の生地よりも、刺繍の入った胸元や、ブランドタグの縫い付けられた襟裏、あるいは着古してその人らしい色落ちが出たポケット口を選びたくなるのは、審美的な好みだけの問題ではない。「これが確かにあの服の一部だった」と後から言い当てられる情報量の多い場所を、無意識に選び取っているのだと考えると腑に落ちる。割られた土器の破片と同じ理屈かもしれないが、確かめようのない話だ。それに、あちらの破片には照合する相手がいた。こちらの布切れには、その相手がいない。もし同じ癖が働いているのだとしても、相手を失ったまま、選ぶ癖だけが残っていることになる。

もっとも、情報量を求める気持ちが行き過ぎると、今度は別の失敗が待っている。以前、思い入れの強かったジャケットを手放す際、片方の袖をまるごと残そうとしたことがある。裏地も、内ポケットも、袖口のボタンも全部そこにあるのだから、情報量としては申し分ないはずだった。ところが仕上がったのは、記念品と呼ぶには大きすぎる、始末に困る布の塊でしかなかった。抽斗の中で場所を取り、かといって鍋つかみにするには裏地が邪魔で、結局もう一段小さく切り直す羽目になった。情報量を増やそうとして面積を増やすと、その時点で記念品はもとの服の縮小コピーに戻ってしまい、全部を残さなかったことの意味が薄れる。手のひらに収まるかどうかという、ただそれだけの制約が、記念品を記念品のまま留めておくための、地味だが効いている歯止めだったらしい。

布切れは、母親の代わりになれるのか

もう一つ、規模の小さいモノがなぜ大きな安心を支えられるのかを考えるうえで参考になる研究がある。精神分析医ドナルド・ウィニコットは1953年の論文で、幼児が特定の毛布やぬいぐるみに執着する現象を「移行対象」と名付けた。母親と一体化していた状態から、母親を自分とは別の存在として認識する段階へ移る過程で、その毛布が橋渡しの役割を果たすという説明だ。この現象を実験で調べた心理学者リチャード・パスマンとポール・ワイズバーグの1975年の報告では、見慣れない部屋に置かれた、毛布に愛着のある3歳前後の子どもが、母親がそばにいる場合と、使い慣れた毛布だけが渡された場合とで、どちらも同じように遊びや探索を続けられることが確かめられている。ただし、その対象を部屋から取り去ったあと、苦痛を示すまでの持ちこたえ方は、母親と過ごした子のほうが長かったという。人間の代役として申し分ない、とまでは言えないらしい。

ここで注目したいのは、毛布が果たしていた役割の大きさと、毛布そのものの物理的な大きさとの間に、はっきりした対応関係が見当たらない点だ。実際、長く愛用された毛布の多くは、洗濯と摩耗を重ねるうちに端がほつれ、生地が薄くなり、元の大きさよりずっと小さな、頼りない布きれへと縮んでいく。それでも子どもが手放したがらないのは珍しい話ではない。効力は面積の大きさで測れるものではなく、使い込まれてきたという履歴の蓄積の方で測られている。布が縮むことと、その布が担っている役割が縮むことは、別々の出来事らしい。

着なくなった服から意図的に切り出す一片は、この毛布の縮み方とは順序が逆になっている。毛布は使い込まれた末に、結果として小さくなる。手元の布切れは、まだ何の履歴も刻まれていない状態から、最初に人為的に小さく仕立てられる。手順としては真逆でありながら、行き着く先――小さな布一枚が、それより大きな何かの代わりを果たすという構図――はよく似ている。履歴を積み重ねて縮むのを待てないぶん、切り取るという行為が、その縮小をあらかじめ肩代わりしているのだと言えるかもしれない。

この順序の違いは、小さくなった結果を見る側の心構えにも影響する。すり切れた毛布を見て嘆く人はまずいない。摩耗は、使われてきたことの証拠として、そのまま好意的に受け取られる。ところが切り取られた布片は、最初から欠損として現れる。誰かに見せれば「これしか残らなかったのか」と読まれかねない、いくぶん心もとない見た目をしている。同じ小ささでも、時間をかけて自然に縮んだものと、一度の判断で人為的に縮められたものとでは、周囲からの見え方に落差がある。この落差を埋めているのは布そのものではなく、その一片を選んで残した本人の記憶の方だ。他人には欠損に見えるものが、選んだ本人にとってだけは全体の代表として機能する。この非対称性を承知したうえで、それでも残す価値はあると判断できるかどうかが、たぶんこの作業の実質的な分かれ目になる。

どこを残すかを決める、という判断そのもの

ここまでの話を並べると、一つの空白が見えてくる。記念品の実験は、品物を切り取る場面も、どこを切るかも扱っていない。その空白を、人は情報量の多い部分を選ぶという振る舞いで、先回りして埋めているように見える。選ぶという行為そのものが、記念品の効能とは別の仕事をしているのではないか。

服のどの部分を残すかを決める作業は、その服について自分が何を一番覚えていたいかを、布の面積という限られた予算の中で採点し直す作業でもある。襟の擦れ具合を選べば、着古した実感を選んだことになる。タグを選べば、いつどこで手に入れたかという由来を選んだことになる。ボタンを選べば、留め具としての機能そのものへの愛着を選んだことになる。全部は残せないという制約があるからこそ、この採点は否応なく発生する。もし服をまるごと残せるなら、この判断を下す必要そのものがない。縮小を強いられて初めて、自分にとって何が本体だったのかを、あらためて言葉にせざるを得なくなる。

縫わずに、留めるための手順

実際の手順は、針も糸もほとんど要らない範囲で済ませられる。まず切り取る前に、布用のほつれ止め液を切断予定線に薄く塗っておくか、裏側に小さく切った接着芯を当ててアイロンで押さえておく。木綿やリネンは切りっぱなしだと数回の摩擦でほつれてくるが、この一手間だけで端の始末が要らなくなる。切り出す大きさは、名刺一枚から手のひらほどまでが扱いやすい。大きすぎると結局は「小さな服の切れ端」でしかなくなり、小さすぎると何の生地だったか分からなくなる。だいたい親指の爪から手のひら半分くらいの範囲に、ボタンやタグ、刺繍の一部など「これと分かる情報」を一つは収める、というのが実際に試してみた感触での目安だ。

そのまま保存するだけなら、これで作業は終わりでもいい。もう少し形にしたい場合は、木製の刺繍枠に布を挟んで留めるだけで、壁に掛けられる小さな額のようになる。枠のサイズに布を合わせて切り、枠の内輪と外輪で挟み込み、余った端を裏側に折り込んでボンドで押さえれば、縫う工程は一切発生しない。ボタンだけを残したいなら、小さな巾着袋に入れておくのが一番簡単だ。正方形の布を二つ折りにし、まつり縫いで両端を閉じ、上部だけを開けて紐を通す。縫うのはこの二辺だけで、五分もかからない。

もう一つ試してよかったのが、切り出した布片を、今まさに使っているバッグやポーチにブランケットステッチで縫い付けてしまうやり方だ。抽斗の奥に仕舞い込むのではなく、日常的に手に取るものの表面に留めておくと、記念品として保存する行為と、生活の中で実際に触れる機会とが両立する。縫い付けるのは、縁に直角の針目を等間隔に並べ、そのたびに糸を縁でループにくぐらせていく技法で、慣れれば難しくない。糸の色をあえて生地と変えれば、それ自体が小さな模様にもなる。

ボタンだけを残す場合は、もう一段簡単な方法もある。ボタンの穴に細い紐やチェーンを通し、鞄の持ち手やファスナーの引き手に結びつけてしまえば、それだけで持ち歩ける小さな下げ飾りになる。縫う工程そのものが要らないので、裁縫が苦手な人にはこちらの方が敷居が低い。刺繍やタグのように面積を持つ布片であれば、透明なビニール製のキーホルダーケースに挟むだけでも十分に用は足りる。額装や縫い付けといった手の込んだ作業をしなくても、記念品としての役割自体は、思っているより簡単な処理で成立する。作業の丁寧さと、記念品としての効き目とは、どうやら比例しない。

それでも全体を覚えている

実験が示していたのは、記念品があれば手放す値段が下がり、元の品に付いていたものとして伝えられたかどうかは問われない、というところまでだった。布切れが写真より効くのかどうかは、どこにも書かれていない。襟の切れ端を選んだ判断の価値は、実験の外で決まる。実験が測ったのは手放す値段で、選ぶ手続きのほうは測っていない。その手続きの中で、選ぶという手続きの中で、服のどこが自分にとっての本体だったのかを、一度は考えざるを得なかったからだ。古代の割符は、離れた相手と再会したときに符合するかどうかを確かめるための道具だった。手元に残る布切れには、その相手がもういない。それでも、いつか似たような布切れをまた手にしたとき、この一片がどこから来たのかを言い当てられるのは、この世で自分だけだ。証明する相手のいない割符を、それでも一人で持ち続けている。

抽斗の中の小さな布片を、たまに手に取ってみることがある。生地の厚み、縫い目の詰まり具合、色の褪せ方――そこから読み取れる情報は、売値が何ドル下がったかという物差しでは、そもそも測りようがない。写真一枚でも同じように効く場面があるのだとしても、この一片が背負っている情報の密度までが等価だとは、やはり思えない。実験の数字を信じることと、自分の手の中にある一片を特別だと感じ続けることは、矛盾なく両立する。縮んだのは布の面積だけで、そこに刻まれた採点の記憶までは縮んでいない。

出典

  • Chu, C. K., & Shu, S. B. (2023). Mementos and the endowment effect. Journal of Behavioral Decision Making, 36(1), e2295.(全文で確認)
  • Richins, M. L. (1994). Valuing Things: The Public and Private Meanings of Possessions. Journal of Consumer Research, 21(3), 504-521.(抄録で確認できたのは公的・私的な意味の区別まで。公的な意味の定義と例は全文未確認。終頁も未確認)
  • Herman, G. (1987). Ritualised Friendship and the Greek City. Cambridge University Press.(古代ギリシャの客人歓待の儀礼的な友情について。割符の記述は本書では未確認)
  • Liddell, H. G., Scott, R., & Jones, H. S. (1940). A Greek-English Lexicon (9th ed.). Clarendon Press, s.v. σύμβολον, συμβάλλω.(割符の説明、ヘロドトス6.86の用例、動詞の語義をPerseusで確認。英語のsymbolの語源は一般的な説明にとどまり、英語の語源辞典は未照合)
  • Chapman, J. (2000). Fragmentation in Archaeology: People, Places and Broken Objects in the Prehistory of South Eastern Europe. Routledge.(本書は未確認。Sörman ほか編 Broken Bodies, Places and Objects, Routledge, 2023 の序章による紹介で確認。特徴のある破片については同序章の紹介〔Chapman 2000: 64-65〕による。この解釈の適用範囲への批判に Brittain & Harris, 2010, World Archaeology, 42(4), 581-594)
  • Winnicott, D. W. (1953). Transitional Objects and Transitional Phenomena: A Study of the First Not-Me Possession. International Journal of Psychoanalysis, 34(2), 89-97.(PubMedで確認)
  • Passman, R. H., & Weisberg, P. (1975). Mothers and blankets as agents for promoting play and exploration by young children in a novel environment: The effects of social and nonsocial attachment objects. Developmental Psychology, 11(2), 170-177.(抄録で確認)
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