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上手く描こうとするほど、絵が下手になる理由
絵を描くときに働く「うまく描けているか」という採点は、上達したい気持ちよりも、下手だと思われたくない恐れから来ていることが多い。達成目標理論と評価予期の実験から、その構造を考える。
数年前、水彩絵の具のセットを買った。上手くなりたいわけではなかった。ただ、色が紙の上でにじんでいく様子を、しばらく黙って見ていたかっただけだったと思う。
実際にやってみると、「上手く描こうとしない」というのは思っていたより難しい。筆を持った瞬間、頭のどこかが勝手に「これは花に見えるか」「バランスは取れているか」と採点を始める。子どもの頃はそんなことを考えずに紙を塗りつぶせたはずなのに、大人になると評価の視線を自分自身に向けずにはいられなくなる。そこで最初に浮かぶ対処法は単純だ。評価するのをやめればいい、上手さを目標にしなければいい。だが、この処方箋には見落としがある。問題は「目標を持つかどうか」ではなく、「どういう種類の目標を持っているか」の方にあるらしい。
「上手くなりたい」と「下手だと思われたくない」は別の欲求である
心理学にはこの区別を扱う理論がある。達成目標理論と呼ばれる枠組みで、人が何かに取り組むときの目標を大きく二種類に分ける。ひとつは熟達目標(mastery goal)。自分の能力や理解を伸ばすこと自体を目的とし、比較の対象は過去の自分になる。もうひとつは遂行目標(performance goal)。他者からの評価を得ること、あるいは低い評価を避けることが目的で、比較の対象は他人になる。
この区別を最初に実証的に示したのがエリオットとドゥエックによる1988年の研究である。子どもたちに課題を与える際、「これはあなたの能力を測るテストだ」と伝えるか「これは新しいことを学ぶ練習だ」と伝えるかで、その後の行動が大きく変わることを確かめた実験だ。前者の枠づけ、つまり遂行目標を刺激された条件で、なおかつ自分の能力を低く見積もっている子どもたちは、課題が難しくなった途端に急速に崩れた。失敗をすぐ「自分には能力がない」という説明に結びつけ、否定的な感情を見せ、それまでできていたはずの作業の質まで落ちていく。研究者たちはこれを、学習性無力感の典型的なパターンと同一のものだと位置づけている。一方、学習そのものを目的とする枠づけを与えられた子どもたちは、同じように難しい課題にぶつかっても崩れなかった。うまくいかない理由を能力のせいにするのではなく、「やり方を変えてみよう」という解決志向の独り言を口にし、感情も作業の質も保たれるか、むしろ上向いた。
これを絵に当てはめると、筆を持った瞬間に働き始める採点係の正体が見えてくる。「これは花に見えるか」という問いは、実は「上手くなりたい」という欲求から出ているのではない。「下手だと思われたくない」「下手な自分だと確認したくない」という、遂行目標側の恐れから出ている。両者は似ているようで、動機の向きがまったく逆だ。前者は自分の内側に伸びていく力を求め、後者は他者の視線から自分を守ろうとする。塗りたくっていた子どもの頃の自分に採点係がいなかったのは、上手いかどうかを判定する他人の視線をまだ内面化していなかったからだろう。
厄介なのは、この二つの目標が排他的ではないという点だ。エリオットとドゥエックの研究以降の議論では、熟達目標と遂行接近目標(他人より優れていたいという前向きな比較欲求)は共存しうるとされている。問題を引き起こすのは遂行目標そのものではなく、遂行目標と「自分の能力への不安」が組み合わさったときだ。自分の腕前にある程度自信がある人が「もっと上手く見られたい」と思うぶんには、それは案外健全に機能する。だが「自分は下手だ」という前提のもとで「下手だと思われたくない」が働くと、課題が難しくなった瞬間に崩れる。大人になってから絵を再開する人の多くが最初につまずくのは、まさにこの組み合わせだろう。子どもの頃に描いていたきり何十年も筆を持っていない人は、たいてい自分の技術を低く見積もっている。そこに他人の目という遂行目標が重なれば、崩れる条件は最初からそろっている。
「成長のための目標」に切り替えれば解決するのか
ここで一度、話を単純化したくなる。遂行目標が悪者で、熟達目標が正解だという構図に落とし込めば、処方箋としてはきれいにまとまる。「上手さではなく成長を目指せばいい」というわけだ。だが、この理論には続きがある。
心理学者のアンドリュー・エリオットとホリー・マグレガーは2001年、達成目標を単純な二分法ではなく、二つの軸の組み合わせとして捉え直す枠組みを発表した。ひとつの軸は「何を基準に有能さを定義するか」(自分の過去との比較か、他者との比較か=熟達か遂行か)。もうひとつの軸は「その目標がどちら向きの感情に支えられているか」(望ましい結果に近づこうとする接近か、望ましくない結果を避けようとする回避か)だ。この二軸を掛け合わせると、目標は四種類に分かれる。熟達接近、熟達回避、遂行接近、遂行回避である。
問題は熟達回避の存在だ。これは「もっと理解を深めたい」ではなく、「自分の技術が下がるのが怖い」「以前できたことができなくなるのが怖い」という、恐れに駆動された熟達志向を指す。つまり、比較の対象を他人から自分自身に移しただけでは、恐れそのものは消えない場合がある。「上手くなること」を目標から外し、「成長すること」を新しい目標に据えたつもりでも、その成長を測る物差しがまた別の採点係を呼び込むことがある。「前回より下手になっていないか」という問いは、「他人より下手ではないか」という問いと、恐れの構造としてはほとんど双子だ。目標の対象を変えることと、目標の駆動源にある恐れを手放すことは、別の作業なのだ。
久しぶりに絵を再開した大人が陥りやすいのは、まさにこの熟達回避の罠だと思う。「昔はもっと描けていたはずだ」という記憶を基準にしてしまい、いまの自分の線が当時より不格好に見えるたびに落ち込む。これは他人と比較しているわけではないので、一見すると健全な熟達志向に見える。だが実際に働いているのは、過去の自分という基準に対する「下回りたくない」という回避の力学であって、「もっと理解したい」という前向きな接近の力学ではない。同じ熟達目標というラベルの中に、まったく違う手触りの動機が同居しうるということだ。エリオットの二軸モデルが強調しているのは、目標の対象(自分か他人か)だけでなく、その目標がどちらの感情に支えられているか(近づきたいのか、逃げたいのか)を分けて見なければ、実際に何が起きているかを取り違えるということだろう。
評価されると分かっているだけで、創造性そのものが目減りする
ここでもう一段、話をねじる必要がある。ここまでは「自分の中の採点係」の話だったが、採点係が実在する他人であっても、事態はさらにややこしくなる。心理学者テレサ・アマビルが1979年に行った実験は、この点で示唆的だ。大学生にコラージュ作品を作らせ、一部の参加者には「専門の美術家がこの作品を評価する」と事前に伝えた。結果、評価を予期していた参加者の作品は、そうでない参加者の作品より、専門家による創造性の評価が低かった。評価されると分かっているというその一点だけで、実際にできあがるものの質が変わってしまうということだ。
興味深いのは例外の扱われ方である。「創造性を評価する」と伝えたうえで「創造的に作るための具体的なヒント」も一緒に与えられた参加者だけは、作品の創造性の低下を免れた。ただしそのグループでも、作業そのものへの内発的な興味は、やはり評価予期によって下がっていた。つまり、評価される恐れは、テクニックさえ補えばアウトプットの質を守れる場合があるが、その作業を「やりたくてやっている」という感覚までは守ってくれない。上手く描けたかどうかと、描くこと自体が楽しかったかどうかは、別々に目減りしうるということになる。
アマビルはこの実験をもとに、後に創造性の componential theory(構成要素理論)と呼ばれる枠組みをまとめている。その中核にあるのが「内発的動機づけの原理」だ。人は、作業そのものへの興味・楽しさ・満足感・挑戦しがいによって動機づけられているときに最も創造的になり、外側からの評価や報酬といった外発的な動機が前面に出ると、その創造性は損なわれやすい、という主張である。この原理はアマビル自身の理論の中でも最も異論の多かった部分だが、その後の追試の多くは支持する結果を出しているとされる。ここで重要なのは、外発的動機づけそのものが常に害になるわけではなく、内発的な動機と衝突したときに問題が起きるという点だ。上手くなりたいという欲求(内発的でも外発的でもありうる)と、評価を避けたいという恐れ(外発的な動機の裏返り)が同居しているとき、後者が前者を静かに侵食していく。
この実験の対象は大学生であり匿名の他人の評価だったが、自宅で一人で絵を描く場面に応用するなら、評価者が実在しなくても同じ機制が働きうる、と考えるのが自然だろう。誰にも見せるつもりのない絵を描いていても、「もし誰かがこれを見たら」という想像上の視線は、頭の中で勝手に組み立てられる。SNSに投稿する前提がなくても、採点係は自家発電できるということだ。
美術教育の現場でも、恐れは特別あつかいされている
失敗への恐れが創造性を妨げるという知見は、美術教育の研究でも繰り返し確認されている。オスロ・メトロポリタン大学で絵画を教える教授、インゲボルグ・スターナの紹介によれば、美術を学ぶ学生であっても、失敗への恐れが創作行為そのものを萎縮させる様子が確認されている。彼女が強調するのは、早い段階での完璧主義は「創造性にとって毒のようなもの」だという点だ。恐れているのは「下手な絵になる」という結果そのものというより、多くの場合「評価される立場に置かれること」そのものへの反応だという。技術が未熟だから怖いのではなく、評価という構造に置かれること自体が怖い。これは達成目標理論でいう遂行回避目標とほぼ重なる指摘であり、専門的に美術を学ぶ学生でさえ、この構造から自由ではないことを示している。技術がある人ほど採点係から解放されているわけではないというのは、多少の慰めにも、多少の脅しにもなる話だ。加えて彼女は、いまの世代が以前の世代より危険を冒すことに消極的だという傾向を指摘し、現代の職場や教育機関は「間違いを育てること」の重要性を過小評価していると論じている。失敗を減らすことばかりに設計された環境では、失敗を通じてしか得られない何かが、そもそも育つ機会を失う。
同じ大学の別の紹介記事では、美術・デザイン学の教授アリルド・ベリが、創作の過程には障害物がむしろ必要だと論じている。「障害物のない創造性は存在しない」というのが彼の立場だ。混沌とした制作過程のただ中で、確信と疑いのあいだを行き来する勇気こそが創造的な過程には必要であり、失敗への恐れや過度に高い期待こそが、チクセントミハイの言うフロー状態への入り口を塞いでいるという見立てだ。この文脈でベリが引き合いに出すのが、20世紀のアメリカの心理学者ロロ・メイの議論である。メイは1975年の著書『創造への勇気』で、創造するという行為には、混沌に形を与え、結末がどうなるか分からないままそれを受け入れる態度が要ると論じた。ここでの「勇気」は、根性論的な精神論というより、結果が見えない状態への耐性という、もう少し具体的な能力として語られている。趣味として自宅で絵を描くという営みは、皮肉なことに、この「間違いを育てる」余地が制度的に確保された数少ない場のひとつなのかもしれない。誰にも成績をつけられず、締め切りもなく、下手な線をそのまま紙の上に残しておける。
塗り絵の本が教えてくれたこと
ここまでの理屈を踏まえると、数年前に自分がやっていたことの意味が、少し違って見えてくる。塗り絵の本を買った時期があった。下絵があると「色を塗る」という単純作業だけに集中できるという発見があった、と当時は思っていた。だが達成目標理論に照らせば、あれは単に「単純作業だから気楽」という以上のことをしていたのかもしれない。下絵がすでに与えられているということは、「何を描くか」という創造性を問われる部分——つまり評価の的になりやすい部分——を最初から差し引いて、残った塗るという工程だけに取り組めるということだ。遂行目標が評価されうる対象を狭めれば、採点係の出番も狭まる。子どもの塗り絵が安心して熱中できるのは、単純だからというより、評価される余地が構造的に小さいからなのかもしれない。
色を混ぜている間に採点が止まる瞬間があるという実感も、同じ筋で説明がつきそうだ。青と黄色がどのくらいの割合で緑になるか、水をどれだけ足せば滲みが広がるか。この作業には「うまくいったかどうか」を判定する外部の基準がほとんど存在しない。緑の色味に正解はなく、滲みの広がり方に合格ラインもない。評価する対象がないところに、採点係の出る幕はない。マインドフルネスと呼べるほどのものかどうかはわからないが、少なくとも、評価という行為が成立するための材料そのものが手元の作業には乏しいというのは、単なる気分の問題ではなく構造の問題として理解できる。
これは「完成形が何であるべきか」をあらかじめ決めていないことと、たぶん関係がある。花を描こうとして花に見えなければ、それは失敗という判定を受け入れざるを得ない。しかし色そのものの混ざり方を眺めているだけなら、目指すべき完成形が最初から存在しないので、途中経過のすべてが結果でもある。目標があるから逸脱が測定でき、逸脱が測定できるから評価が発生する。目標を持たない作業に評価が入り込む余地が少ないのは、当たり前といえば当たり前のことなのだが、絵を描くという行為の中に、意図せずそういう「目標のない区画」を作れていたことに、後になって気づいた。
道具を吟味しすぎないことの理屈
道具にはあまりこだわらないようにしている、という自分の判断も、振り返ると理にかなっていた部分がある。100円ショップの色鉛筆でも、自宅にある紙の裏でも構わないという態度は、単なる無精ではなく、道具の吟味という行為そのものが「ちゃんとやらなければ」という圧力——つまり遂行目標の呼び水——になりかねないという直感が働いていたのだろう。いい道具を選ぶという行為は、いい結果を出すべきだという期待とセットになりやすい。道具に投資すればするほど、その投資に見合う成果を求める声が大きくなるのは、絵に限った話ではない。安い道具を選ぶことは、単に節約ではなく、評価の重力から距離を取るための予防線でもあった。
これは経済学でいう埋没費用の話とも少し違う。埋没費用は「すでに払ったコストを無駄にしたくない」という後ろ向きの引力だが、道具選びが呼び込む圧力はもう少し手前で発生する。高価な水彩紙や名の通った絵の具のセットを買った瞬間、まだ何も描いていないのに、「この道具に見合う出来映えを出すべきだ」という遂行目標がすでに立ち上がっている。道具そのものが持つ性能や質感の問題ではなく、道具の値札が果たす象徴的な役割の問題だ。値札の高さは、暗黙のうちに達成すべき基準の高さを翻訳してしまう。逆に言えば、道具の値段を下げることは、単純にハードルを下げているのではなく、「これで評価されても構わない」という基準そのものを最初から無効化する操作に近い。100円の色鉛筆で描いた絵を下手だと言われても、道具のせいにできる余地が残っている——これは責任逃れというより、評価という行為そのものを成立させないための、地味だが有効な設計だと思う。
続かないことをどう扱うか
続けられているかというと、正直かなりムラがある。一ヶ月描かない時期もあれば、数日続けて開くこともある。それを「三日坊主でいい」と言い切ってしまうのも、なんだか違う気がしている。この居心地の悪さも、達成目標理論の枠組みに置いてみると輪郭がはっきりする。「三日坊主でいい」という開き直りは、一見すると遂行目標からの解放に見えるが、実際には「続けられなかったこと」を素通りするための、もうひとつの自己防衛でしかない場合がある。続かなかった自分を否定的に評価しないための予防線として先回りする開き直りは、評価を避けたいという遂行回避の裏返りにすぎない。続かなかった事実をそのまま置いておく方が自分には合っている、という感覚の方が、実はこの理屈に近い。評価もしないし、正当化もしない。ただの事実として扱う。それは熟達でも遂行でもない、目標そのものから一歩引いた場所に立とうとする態度だ。
もう少し踏み込んで考えると、「継続」という言葉自体が、すでに遂行目標の語彙に片足を突っ込んでいるのかもしれない。継続日数、継続週数という発想は、他人と比べるための単位ではなくても、過去の自分の記録と比べるための単位ではある。記録である以上、それは達成されるか破られるかのどちらかでしかありえない。月に一度しか筆を持たない時期があっても、それを「サボり」と呼ぶか「呼吸のようなもの」と呼ぶかで、次に紙を広げるときの気分はかなり変わる。前者の語彙を選んだ瞬間、次に描くという行為には「取り戻す」という遂行的な意味が付与される。後者を選べば、ただ息を吸うように筆を持つだけで、そこに達成も未達成もない。言葉の選び方ひとつで、同じ行動に貼られるラベルの種類が変わり、そのラベルがまた次の行動の動機を決めていく。この堂々巡りに気づいたところで、堂々巡り自体は止まらないのだが。
目標を手放すことも、また目標になりうる
ここまでの議論を並べると、ひとつの矛盾に突き当たる。「評価を目的にしない」という構えを意識的に保とうとすること自体が、実はかなり努力を要する目標設定になっているという矛盾だ。熟達目標を選び、遂行目標を退け、評価される恐れから距離を取り、道具にこだわらず、続かなくても気にしない——ここまで並べた態度のひとつひとつは、それ自体がひとつの達成基準になりうる。「今日はちゃんと評価せずに描けたか」を採点し始めたら、それはもう遂行目標の亜種でしかない。評価から自由になろうとする努力そのものが、新しい評価軸を作ってしまう。この入れ子構造から完全に降りる方法を、達成目標理論は教えてくれない。理論が説明できるのは目標の分類であって、目標を持つことそのものからの降り方ではないからだ。
ここで理屈を突き詰めようとすること自体が、また別の種類の遂行目標なのかもしれないとも思う。「この文章はきちんと一貫した結論にたどり着けているか」という問いを自分に向けた瞬間、絵を描くことについて考えていたはずの思考が、いつのまにか原稿の出来を採点する作業にすり替わっている。対象が絵であれ文章であれ、評価という機能そのものは驚くほど汎用性が高く、放っておけばどんな作業にも忍び込んでくる。理論を持ち出して構造を説明できたところで、その構造自体を無効化できるわけではない。せいぜいできるのは、いま働いているのが熟達目標なのか遂行目標なのか、接近なのか回避なのかを、後から見分ける解像度を持つことくらいだろう。
できあがったものを誰かに見せることはほとんどない。上手いかどうかを聞かれても困る。ただ、机の上に広げた紙と絵の具を片付けるとき、少しだけ頭がすっきりしている感覚は残る。それが熟達目標の充足感なのか、遂行目標から一時的に降りられた解放感なのか、あるいはどちらでもない何かなのか、正直なところ判別はつかない。判別がつかないまま続けているという状態のほうが、案外、この話全体の落とし所として妥当なのかもしれない。
理論を知ったからといって、次に筆を持つ瞬間に採点係が黙ってくれるわけではない。むしろ、頭の中で「これは遂行目標だ」「今のは熟達回避だ」とラベルを貼る作業が新たに増えただけかもしれず、それはそれで滑稽な話だ。それでも、自分の中で起きていることに名前がついているのといないのとでは、崩れたときの立ち直り方が多少違う気がする。下手だと思われたくないという恐れに名前がつけば、それを「自分の本心」だと思い込んで撤退する理由にはしにくくなる。片付けた後の頭のすっきりした感覚の正体を突き止められなくても、それを突き止めようとする視線が一つ増えたことくらいは、収穫として数えていいだろう。
出典
- Elliott, E. S., & Dweck, C. S. (1988). Goals: An approach to motivation and achievement. Journal of Personality and Social Psychology, 54(1), 5–12.
- Elliot, A. J., & McGregor, H. A. (2001). A 2 × 2 achievement goal framework. Journal of Personality and Social Psychology, 80(3), 501–519.
- Amabile, T. M. (1979). Effects of external evaluation on artistic creativity. Journal of Personality and Social Psychology, 37(2), 221–233.
- Amabile, T. M. (1983). The Social Psychology of Creativity. Springer-Verlag.
- May, R. (1975). The Courage to Create. W. W. Norton & Company.
- Oslo Metropolitan University (OsloMet). "Fear of failure hinders creativity" 研究紹介ページ(インゲボルグ・スターナ教授の紹介)による報告。
- Oslo Metropolitan University (OsloMet). "It takes courage to create" 研究紹介ページ(アリルド・ベリ教授の紹介)による報告。
