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瞑想が続かないのは、効果を求めるからかもしれない

瞑想が続かないのは、効果を求めるからかもしれない

瞑想は効果を求めるほど続かなくなる。その逆説を、皮肉過程理論とメタ分析の中身から確かめる。

TOMOAKI··趣味

瞑想を始めようとして、何度も挫折してきた。理由はいつも同じだった。「効果がありそうだから」という動機で座ると、数日で「今日はまだ何も変わっていない」と焦りだし、その焦りに耐えられなくなって、座ること自体をやめてしまう。目的を持って何もしないでいようとすると、何もしないことが仕事になる。これはただの意志薄弱の話ではなく、もう少し構造的な問題なのではないかと、最近になって疑うようになった。

先に断っておくと、この疑いは「瞑想には効果がない」という結論には向かわない。むしろ逆で、効果を確かめようとすればするほど、話は単純な推奨からも、単純な否定からも遠ざかっていく。良い話だけを拾って終わりにするには、この主題は分が悪い。

もっとも、こういう疑い方をすること自体、すでに一種の職業病なのかもしれない。何かを始めるとき、多くの人はまず「効くかどうか」を確かめてから動きたがる。合理的な態度に見えるし、実際たいていの場面ではそれでいい。ただ、対象が「心を静める」という、確認する主体と確認される対象が同一人物の中に同居してしまう類のものだった場合、この合理的な態度そのものが、目的を達成する条件を壊してしまうことがある。以下で確かめていくのは、まさにその一点に尽きる。

「ハーバードの研究」という枕詞は、本当か

瞑想を続けると脳の構造が変わる、という話をよく見かける。「ハーバード大学の研究」という言葉が添えられていることも多いが、どの研究の、どの条件下での話なのかまで確認したことは、正直に言うとほとんどなかった。今回、確認できる範囲で確かめてみた。

もっとも引用されやすいのは、ジョンズ・ホプキンス大学のゴヤール(Goyal)らが2014年に発表したメタ分析だろう。18,000件を超える文献から絞り込んだ47件の臨床試験、参加者3,515人分のデータを統合し、瞑想プログラムが不安・抑うつ・痛みにどの程度効くのかを検証した研究である。結果は、たしかに「効果あり」だった。ただしその効果量は、不安で0.38、抑うつで0.30、痛みで0.33(いずれも8週間後の値、統計的にはコーエンのdという指標で、0.2が小さい効果、0.5が中程度とされる)——つまり「小〜中程度」にとどまる。しかも3〜6か月後まで追跡すると、不安は0.22、抑うつは0.23まで下がっており、効果は時間とともに目減りしていく。よく語られる「劇的な変化」という言葉とは、数字の手触りがだいぶ違う。

さらにこの研究がもう一段踏み込んで指摘しているのは、瞑想が運動や薬物療法、他の行動療法といった既存の能動的治療法より優れているという証拠は見つからなかった、という点だ。瞑想は「何もしないよりはまし」であることは示されたが、「他の何かより優れている」ことは示されていない。この一段落ちた結論は、なぜか引用の際に脱落しやすい。効果量の数字とセットで語られることはめったになく、「メタ分析で効果が確認された」という一行だけが独り歩きする。数字を確認する手間を惜しんだ側にも責任はあるが、都合の良い部分だけを切り出しやすい構造がこの分野にあることも、認めておいたほうがいい。

さらに厄介なのは、この分野の研究の質そのものへの疑いである。心理学者ヴァンダム(Van Dam)らが2018年に発表した「Mind the Hype(誇大宣伝に気をつけろ)」と題する論文は、マインドフルネス研究全体を対象に、方法論上の欠陥——対照群の設定の甘さ、サンプルサイズの小ささ、そして好ましい結果だけが発表されやすい出版バイアスが疑われる分野特有の傾向——を並べ、研究の質が追いついていない現状のまま過大な期待だけが広まれば、消費者が「誤解させられ、害を受け(harmed)、失望させられる」危険があると警告した。出版バイアスについても、マインドフルネス研究全般に一律に当てはまると断定したわけではなく、査読を通過しやすい分野特有の構造的な誘因として指摘している点は、正確に踏まえておきたい。研究者自身が、自分たちの分野の看板研究に疑いの目を向けている。これは瞑想が無効だという話ではなく、「効くという結論に飛びつきたくなる磁場」がこの分野には強くかかっている、という話だ。皮肉なことに、その磁場の存在を実証的に示すこと自体が、この分野で最も再現性のある発見の一つになっている。効果を主張する側にも、効果を疑う側にも、それぞれの動機がある。両方を疑ってかかるくらいでちょうどいい。

そもそも、いま瞑想と呼ばれている作法の多くは、もとから「効果を測る」という発想を前提にしていたわけではない。仏教の瞑想実践は、何らかの精神状態を数値として達成するための技法として組み立てられたものではなく、その体系の外に医療や心理学の言葉を当てはめたのは、二十世紀後半になってからのことだ。分子生物学者だったジョン・カバットジンが1979年に米マサチューセッツ大学でマインドフルネスストレス低減法(MBSR)を立ち上げたのが、しばしばその転換点として語られる。ストレス低減という臨床上の目的のために技法を切り出し、測定可能な「介入」として西洋医療の枠に載せ替えた、という経緯である。この切り出し自体が悪かったとは思わない。おかげでゴヤールのようなメタ分析が可能になり、効果の中身を数字で検証できるようになった。ただ、効果を測るための枠組みを持ち込んだ瞬間に、実践そのものへ「測られる」という新しい重力が働き始めたことも、同時に起きたはずだ。効果を検証できるようになったことと、効果を求めずにはいられなくなったことは、同じ一つの出来事の表と裏なのだろう。

アプリが売っているのは効果か、安心か

瞑想を始める人の多くは、いまアプリから入る。HeadspaceやCalmのようなサービスは、静かな声のガイダンスと、進捗を可視化するストリーク表示を組み合わせて、続ける動機を外側から供給してくれる。ここにも、確かめておくべき数字がある。

2022年にJMIR Mental Health誌に発表されたオデイファー(O'Daffer)らのシステマティック・レビューは、Headspaceを対象とした無作為化比較試験14件、Calmを対象とした同1件を精査した。Headspaceについては、抑うつを指標にした研究の75%(4件中3件)で改善が見られた一方、マインドフルネス(7件中4件、57%)、幸福感(8件中4件、50%)、不安(4件中2件、50%)、ストレス(5件中2件、40%)は、指標によって割合が異なるだけでなく、そもそも改善を確認した研究の数自体が少ない。5割前後という数字は、コインを投げて表が出る確率とさほど変わらない。抑うつだけがはっきり良い結果を示し、それ以外の指標はどれも「良いとも悪いとも言い切れない」という、地味だが正直な結果に落ち着いている。そしてもう一つ、見過ごしにくい事実がある。Headspaceを扱った試験の半数(14件中7件)には、Headspace社との利益相反があった。一方のCalmには、そもそも査読付き学術誌に載った無作為化比較試験が一件しか見当たらない。数百万人が使っているアプリの効果を検証した独立した研究が、ほとんど存在しないということだ。これは「Calmは効かない」という証拠ではない——証拠が単に足りていない、という話であり、その足りなさ自体が、効果を謳う広告の量と釣り合っていない。

ストリーク表示のような仕組みは、続けるための工夫として悪いものではない。ただ、これは効果を測定するための装置ではなく、継続という行為そのものを新しい目標に仕立て直す装置でもある。「何日連続で座ったか」を毎朝確認する行為は、雑念を追い出そうとする監視作業と、構造としては同じものだ。座ること自体は何も強制していないアプリが、座り続けることを強制する仕組みへと、いつの間にか横滑りしていく。便利さの代償として、目的化のリスクが形を変えて戻ってくる。

ここで一度、瞑想以外の目標の立て方と比べておく価値がある。心理学の世界では、具体的で少し挑戦的な目標を立てたほうが漠然とした目標より成果が出る、という「目標設定理論」が長く支持されてきた。心理学者ロック(Locke)とラザム(Latham)が1990年代以降に積み上げてきたこの理論は、数百件規模の研究の蓄積を根拠にしている点で、瞑想研究より足場が固い。営業成績や運動の記録のように、目標と成果が自分の外側にある数字として一致している課題では、この理論はよく機能する。「今月の売上を一割伸ばす」という目標は、伸ばそうとする意識と、実際に伸びたかどうかの確認作業が互いに邪魔をしない。ところが瞑想が扱う対象は、目標にした瞬間、確認する主体と確認される対象が同じ心の中で重なり合ってしまう。外側の数字を狙う目標設定理論の作法を、そのまま内側の静けさに持ち込むと、うまくいかない理由がここにある。ストリークという発想は、もともと外側向けの道具を、内側の課題に流用したものだ。相性の悪さは、アプリの設計が悪いからというより、そもそも道具の適用範囲を間違えているからだと考えたほうが筋が通る。

ここまでを一度整理すると、瞑想には小〜中程度の効果があり、それを裏付ける研究の一部は方法論的に脆弱で、商業アプリの実証はさらに手薄い、という三重の留保がかかる話になる。それでも、ここで「だから瞑想は気休めだ」と結論するのは、また別の意味で早すぎる。次に確かめたいのは、効果の大きさではなく、効果を追い求めるという行為そのものが、なぜ裏目に出るのかという、もう一段別の階層の話だ。

白い熊のことを考えるな、と言われた人たち

心理学者ウェグナー(Wegner)が1987年に行った実験は、瞑想とは直接関係のない設定でありながら、この逆説の仕組みを説明してくれる。参加者に5分間、思い浮かんだことをすべて口に出してもらうのだが、条件は一つ、「白い熊のことだけは考えないように」というものだった。もし白い熊が頭に浮かんでしまったら、ベルを鳴らして申告する。結果、参加者は平均して1分に1回以上、ベルを鳴らした。考えないようにと言われた対象は、抑えようとするそばから、むしろ頭に居座り続けた。さらに興味深いのは続きの実験で、抑制を求められたグループは、その後「今度は自由に白い熊のことを考えていい」と言われた際に、最初から考えることを許されていたグループよりも、白い熊についてより多く、より強く考えた。抑え込んだ反動が、あとで跳ね返ってくる。

ウェグナーはこの現象を、1987年の実験報告から数年をかけて理論化し、1994年の論文で「皮肉過程理論」と名付けた。ある考えを頭から追い出そうとするとき、心の一部はたしかにその考えを避ける作業(操作プロセス)をするが、別の部分は「その考えが浮かんでいないかどうか」を定期的に監視し続ける(監視プロセス)。ウェグナー自身の説明では、この二つは通常うまく分業しているが、疲労やストレスで心の余力が減ると、監視プロセスの働きだけが目立つようになり、皮肉にも、避けたい考えを意識の手前に呼び戻してしまう。瞑想中に「雑念を消さなければ」と念じるとき、起きているのはまさにこの構造だ。雑念を追い出す作業のために立てた見張り番が、雑念の存在を絶えず確認する形で、雑念そのものを生かし続けてしまう。「何も考えない」ことを目標にした瞬間、その目標の達成度を測る監視プロセスが、目標の達成を妨げる側に回る。

ウェグナーの実験にはもう一つ続きがある。三つ目の条件として、白い熊の代わりに「赤いフォルクスワーゲン」を思い浮かべるよう指示されたグループを追加したところ、このグループはベルを鳴らす回数が明らかに減った。何かを消そうとする代わりに、別の何かに注意を明け渡すと、監視作業そのものが働く隙を失う。呼吸に意識を戻すという瞑想の作法は、雑念を追い出す努力ではなく、この「赤いフォルクスワーゲン」の役割に近いのだろう。雑念と戦うのではなく、注意の置き場所を用意しておく。ただし、この「呼吸に戻る」という行為自体もまた、続けているうちに「今日はちゃんと戻れているか」という新しい監視対象に変わりうる。逃げ場のように見えた技法も、目標に転用されればすぐに同じ罠に落ちる。

ただ、話をここで終わらせると、今度は「構造や指標は一切排除すべきだ」という、別種の断定に転びかねない。実際には、瞑想を始めたばかりの人にとって、ガイド音声のような外側からの支えが、最初の数回を乗り切る助けになることは十分にありうる。問題は支えの有無そのものではなく、その支えが「今日はきちんとできたか」を採点する審判に変わっていくかどうかだ。同じガイド音声でも、道に迷ったときに現在地を教えてくれる地図として使う分には害がなく、毎回の到着タイムを記録する計測器として使い始めた瞬間に、白い熊の実験と同じ構造に足を踏み入れる。支えそのものではなく、支えとの付き合い方の変質のほうを警戒したほうがいい。

幸福を目標にすると、なぜか独りになる

この構造は、瞑想の外側でも確認されている。心理学者マウス(Mauss)らが2012年に発表した研究は、「幸福になること」そのものを強く目標として掲げる人ほど、日々の生活の中で孤独を感じやすいという関係を示した。2週間分の日記データを使った調査でその相関を確認したのち、実験的に「幸福を重視する」よう仕向けた群と、そうでない群を比較したところ、前者の方が自己報告でも、孤独と関連するホルモン(プロゲステロン)の値でも、より強い孤独を示した。幸福というものが、たいてい個人的な感情の獲得として定義される以上、それを目標として追いかける姿勢そのものが、他者とのつながりを後回しにする方向に働くのではないか、というのが研究者たちの解釈である。

目標を立てて追いかけるという、一見まっとうな態度が、対象が「心の状態」であるときに限って裏目に出る。白い熊を消そうとして白い熊を呼び込み、幸福を追いかけて孤独になり、頭を静めようとして頭を騒がしくする。三つの現象は分野も年代も異なるが、同じ一つの形をしている。心の状態を目標に変換した瞬間、その目標の達成を測るための監視作業が、対象そのものを裏側から支え続けてしまう構造だ。売上や体重のような外側にある数字を目標にする分には、この構造はさほど問題にならない。数字は自分の内側で監視されているわけではないからだ。ところが「静かな心」や「幸福」のように、確認する行為そのものが心の中で起きる対象になると、確認作業自体が対象を乱す側に回ってしまう。

マウスの研究がもう一つ示唆しているのは、この逆説が個人の性格や意志の弱さの問題ではなく、目標の立て方そのものに内在する仕組みだという点だ。孤独を感じやすかった参加者は、もともと社交性に欠けていたわけではなく、実験的に「幸福を重視するように」と外から仕向けられただけで、同じ傾向を示した。つまり誰であっても、心の状態を目標に据えた瞬間、同じ構造にはまり込む可能性がある。これは救いのようでもあり、逃げ道のなさのようでもある。個人の資質の問題であれば克服の余地を探せるが、構造そのものの問題であるなら、克服しようとする努力自体が、また新しい監視を生み出しかねない。

それでも「何もしない」は空虚ではない

ここで一度、最初の疑いに立ち返る。効果を求める姿勢が裏目に出るのだとしたら、効果を一切求めずに座ることに、何の意味があるのか。この問い自体が、実はまだ目的化の枠組みの中にいる。「意味があるかどうか」を確認したがる態度は、「効果があるかどうか」を確認したがる態度の言い換えにすぎない。

ゴヤールらのメタ分析が示した「小〜中程度の効果」も、ウェグナーやマウスが示した「目標化の逆説」も、実はどちらも同じ一つの現実的な着地点を指している。座ること自体に劇的な力はないが、座っている間に起きる作業——雑念に気づき、それを追い出そうとせずにただ呼吸へ意識を戻す、という反復——には、目標に変換しない限りにおいて、ある種の効果が残る余地がある。効果を測ろうとする視線そのものが、効果を生む条件を壊してしまう。これは矛盾のように聞こえるが、これまで確認してきた研究の並びからすれば、むしろ一貫している。

だからといって、「効果を求めなければ効果が出る」という新しい処方箋を差し出すつもりはない。それもまた、目標を一段隠しただけの目標化にすぎない。座ってみて、鼻がかゆくなったり、夕飯のことを考え始めたりする。雑念が消えることはほとんどない。ただ、それに気づくたびに呼吸に意識を戻すという作業を繰り返していると、終わったあとに少しだけ頭が静かになっている、という程度の、地味な手応えが残ることがある。それ以上の説明を、自分に対して用意する必要はないのかもしれない。ゴヤールの効果量が「小〜中程度」だったことは、この地味さと、数字の上でも符合している。劇的な変化を期待しないほうが、皮肉にも、その地味な手応えに気づきやすくなる。効果を大きく見積もるほど、実際に起きているささやかな変化を「これだけでは足りない」と却下しやすくなるからだ。期待値の高さと、手に入る満足の小ささのあいだには、こういう形の相関もあるのだろう。

この構造は、座る前の準備段階にも及ぶ。何かを「整えよう」とする発想そのものが、対象が心の状態である限り、監視を一つ増やす作業になりやすい。ここで起きているのは道具の巧拙の問題ではなく、範疇の取り違えだ。マウスの実験が示したように、幸福という内側の状態を外側の目標のように扱った瞬間に孤独が忍び寄ったのと同じ理屈で、座る場を「整った状態」という達成対象に変えた瞬間、整っているかどうかを確認する視線がまた一つ生まれる。物を減らすことも、時間を区切ることも、それ自体は善悪の話ではない。問題は、その工夫が「これさえ満たせば座れる」という条件の列に変わった途端、条件が満たされているかを絶えず点検する作業が新たに立ち上がることだ。皮肉過程理論が示した監視プロセスは、雑念だけでなく、雑念を遠ざけるために用意したはずの周辺条件そのものにも、同じように取り付く。

だから、この種の工夫について語るとき、具体的な物や時間の長さを勧める形は取らないほうがいいのだろうと、今は思っている。特定のクッションや特定の分数を挙げた瞬間、それはその人にとっての新しい基準線になり、基準線が存在するということは、そこからのズレを測る作業が始まるということだからだ。むしろ問い直すべきは、いま自分が座る前にしている段取りのうち、どこまでが実際に注意を落ち着ける助けで、どこからが「正しく準備できているか」を測る手続きに変質しているか、という区別のほうだ。同じ行為でも、前者であり続けている間は害がなく、後者に転じた瞬間に、雑念を追い出そうとする作業と同じ罠に落ちる。この境目は固定されたものではなく、同じ人の同じ習慣でも、日によって、あるいは数か月の間に、静かに位置を変えていく。だからこそ、一度決めた段取りをそのまま正解として運用し続けるのではなく、時折それが今も助けとして機能しているかを——ただし、それ自体を新しい採点作業にしない程度に——確かめ直す必要が出てくる。

この手応えの薄さを、物足りなさとして受け取るか、正直さとして受け取るかは、たぶん人によって分かれる。マインドフルネスという言葉が消費の対象になって久しく、書店にもアプリストアにも、劇的な変化を約束する言葉があふれている。その言葉の勢いに比べれば、ゴヤールのメタ分析が示した効果量も、座ったあとに残る「少しだけ頭が静かになっている気がする」という感覚も、ずいぶん控えめに見える。ただ、控えめであることと、根拠が薄いことは別の話だ。派手な約束のほうが根拠に乏しく、控えめな手応えのほうが、少なくともここまで確認してきた研究の範囲では、実際に測定された数字に近い。何かを始めるときに、派手な言葉より控えめな数字のほうを信じておくのは、悪くない習慣だと思う。

測らないことに、耐えられるか

瞑想を「知的な遊び」や「脳の再起動」と呼びたくなる気持ちはよくわかる。ただ、そう名付けた瞬間に、また効果を期待してしまう自分がいる。皮肉過程理論が教えてくれるのは、監視をやめれば監視対象が消えるという単純な話ではなく、監視そのものが対象を生かし続けるという、もう少し込み入った仕組みだ。瞑想を続けられるかどうかの分かれ目は、根性でも環境でもなく、自分が今この瞬間に何かを測ろうとしていないかに、どれだけ無頓着でいられるかにあるのかもしれない。無頓着でいようと意識した時点で、それもまた測定になってしまうのだが。

ゴヤールの効果量も、ヴァンダムの警告も、ウェグナーの白い熊も、マウスの孤独も、すべてが指し示す先は同じだ。心の状態を対象にした瞬間、それを確かめたがる自分自身が、確かめたい状態を遠ざける側に回る。この構造から完全に自由になる方法は、おそらくない。せいぜいできるのは、その構造がいまこの瞬間にも働いていることを、時々思い出す程度のことだ。思い出したところで、何かが劇的に変わるわけでもない。ただ、変わらないことに慌てなくなるだけでも、座り続ける理由としては十分なのかもしれない。

もう一つ、正直に付け加えておきたいことがある。ここまで並べてきた研究を確認する作業自体が、実は最初の焦りとよく似た構造をしていた。「この記事の根拠は十分か」と検証を重ねるたびに、検証すること自体が新しい目標になり、どこかで区切りをつけなければ終わらない。効果を求める心の動きも、根拠を求める心の動きも、対象が違うだけで形は同じなのかもしれない。だとすれば、この記事もまた、読み終えた瞬間に「結局、何が正解なのか」を求めずにいられるかどうかが、一つの試金石になる。答えを渡さないという方針は、ここでも変わらない。

出典

  • Wegner (1987). Paradoxical effects of thought suppression. Journal of Personality and Social Psychology.
  • Wegner (1994). Ironic processes of mental control. Psychological Review.
  • Goyal, et al. (2014). Meditation Programs for Psychological Stress and Well-Being: A Systematic Review and Meta-Analysis. JAMA Internal Medicine.
  • Van Dam, et al. (2018). Mind the Hype: A Critical Evaluation and Prescriptive Agenda for Research on Mindfulness and Meditation. Perspectives on Psychological Science.
  • Mauss, et al. (2012). The Pursuit of Happiness Can Be Lonely. Emotion.
  • O'Daffer, et al. (2022). Efficacy and Conflicts of Interest in Randomized Controlled Trials Evaluating Headspace and Calm Apps: Systematic Review. JMIR Mental Health.
  • Locke & Latham (2002). Building a Practically Useful Theory of Goal Setting and Task Motivation: A 35-Year Odyssey. American Psychologist.