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「誇れる趣味がない」と感じる本当の理由

「誇れる趣味がない」と感じる本当の理由

自慢できる趣味が欲しいという気持ちの正体は、たぶん承認ではなく、自分についての物語が欲しいという欲求だ。その物語を成立させる条件は種目のランクではなく、もっと厄介などこかにある。

TOMOAKI··趣味

「趣味は何ですか」と聞かれて、少し身構えることがある。答えがないわけではない。ただ、答えた瞬間に相手がどんな顔をするかを、無意識に先読みしてしまう。この趣味は語るに足るものだろうか、と。誰かに評価される場面でもないのに、頭の中では勝手に採点が始まっている。初対面の自己紹介のような、ごく軽い場面でも起きるし、久しぶりに会った旧友との近況報告でも起きる。趣味そのものを聞かれているだけなのに、その裏で「この数年、自分は何をしてきたと言えるのか」まで一緒に問われている気がしてしまう。

その身構えの正体を考えてみると、他人からの評価そのものより、もう少し手前にある気がする。「自分は何にこれだけの時間を投じてきたのか」を、自分自身に対して説明できるかどうか。誇れる趣味が欲しいというのは、結局のところ、自分についての一貫した物語が欲しいという欲求に近い。物語がなければ、時間はただ消費されて消えていく。休日の使い方を思い出せないまま一年が過ぎるのと、あの週末に何を積み上げたか答えられるのとでは、同じ可処分時間でもまるで違う手触りが残る。

この直感には、それなりの裏付けがある。心理学者ダン・マクアダムスは、人が自分の人生をどう物語として組み立てるかを長年調べてきた研究者で、過去の出来事と未来の見通しをひとつながりの筋にまとめる「ナラティブ・アイデンティティ」という考え方を提示した。マクアダムスとケイト・マクリーンによる報告では、苦しい出来事をそれきりの不運として終わらせず、そこから何かを学んだ、あるいは良い方向に転じたという筋立て――「贖いの場面」と呼ばれる構成――を自分の物語に組み込める人ほど、心理的な健康度や人生の統合感が高い傾向にあるという。趣味の話が面白いかどうかも、案外これと同じ構造をしているのかもしれない。実績の羅列は物語にならない。転落と回収がある話だけが、物語として機能する。裏を返せば、誇れる趣味を求める気持ちの奥には、承認欲求というより、自分の人生をひとつながりの筋として読める安心感への欲求があるのだろう。

語れるかどうかを分けているもの

ただ、その物語を成立させているのは、趣味の種類そのものではないと思う。ワインでも将棋でも家庭菜園でも、種目のランクで語れる/語れないが決まるなら、話は単純だ。実際にはそうなっていない。ワインを何年も嗜んでいても、覚えた銘柄を並べるだけの人の話は退屈だし、逆に近所の空き地を借りて野菜を作っているだけの人の話が、聞いていて止まらないこともある。優雅さや専門性の高さと、話の面白さは、思ったより相関しない。

違いを分けているのは、たぶん失敗の量だ。うまくいかなかったこと、思い込みが外れたこと、それでも続けている理由。そこまで語れる人の話には、自分の輪郭が透けて見える。逆に成果だけを並べる話は、どれだけ立派な趣味でも、ただの実績報告に聞こえてしまう。人はおそらく、相手の到達点よりも、そこに至るまでの迷い方を聞きたがっている。

この感覚を裏付けるように見える古い実験がある。心理学者エリオット・アロンソンらが1966年に行った研究で、大学のクイズ番組を模した録音を大学生の被験者に聞かせるというものだった。難問に次々と正答していく回答者――正答率92パーセントの極めて優秀な人物と、正答率30パーセントの平凡な人物――をそれぞれ用意し、さらに録音の最後にコーヒーをこぼして服を汚してしまう版と、そのまま何事もなく終わる版を作って、聞き終えた被験者に好感度を評価させた。結果は単純ではなかった。優秀な回答者がコーヒーをこぼすと好感度は上がったが、平凡な回答者が同じ失敗をすると好感度はむしろ下がった。研究者たちはこれを、有能さがすでに際立っている人物には近寄りがたさがつきまとい、小さな失態がその距離を縮めて人間らしさを取り戻させるからだ、と説明している。逆に、もともと平凡だと見なされている人物の失態は、有能さの不足をそのまま裏付けてしまう証拠として働く。「へま」が魅力になるのは、その人がすでに何かをできると示したあとに限られる、ということだ。のちに心理学者ケイ・ドーが1972年に行った追試では、この効果の出方が性別によって異なるという結果も報告されている。効果そのものは頑健だが、誰にでも同じ強さで働くわけではないらしい。

ここに、最初の直感への留保がひとつ入る。失敗を語れば人の話が面白くなる、という単純な話ではない。地図収集の知人が「なぜそこまで気になるのか」を自問した跡を見せられるのは、彼がすでに地形図を年代順に読み解く技術を積んでいるからで、その土台がないまま失敗談だけを並べても、ただの弱音にしか聞こえない可能性がある。失敗が物語になるのは、有能さがすでに示されたあとの、いわば二段構えの効果だということになる。順番を間違えると、謙遜のつもりが自信のなさにしか映らない。

身近にあった例

身の回りで実際に「聞いていて面白かった」趣味を思い返してみると、共通していたのはジャンルではなく距離の詰め方だった。

  • 古い地形図を集めている知人がいる。地図そのものより、同じ場所の地形図を年代順に並べて、川がどこで付け替えられたかを追うのが好きだという。話が面白いのは地図の話ではなく、「なぜそこまで気になるのか」を本人がすでに何度も自問した跡があるからだ。最初は単に古い紙が好きなだけだったが、ある時期から「なぜ川はまっすぐになったのか」を調べ始め、行政資料まで漁るようになったのだという。その回り道の話のほうが、地図そのものの話より長い。
  • 市民マラソンに出ている同僚は、タイムの話をほとんどしない。代わりに、練習を続けられる日と続けられない日の境目がどこにあるかを、ずっと観察している。走ることそのものより、自分の続かなさの観察記録として聞くと面白い。天気でも仕事の疲労でもなく、前日に誰かと気まずいやり取りをした日に限って走れなくなる、という発見を本人はどこか楽しそうに話す。
  • 実家の親は盆栽をやっているが、本人いわく「九割は待つこと」らしい。何かをした実感がほとんどない趣味について、なぜ十年以上続けられているのかを聞くと、答えがいつも少しずつ違う。ある時は「枝ぶりを直すのが快感だから」と言い、また別の時は「何も起きない時間そのものが目的だ」と言う。答えが揺れていること自体が、聞いていて面白い部分だ。

並べてみると、どれも珍しい趣味ではない。地図収集も、マラソンも、盆栽も、探せばいくらでも同じ趣味の人がいる。珍しさが語れる理由になっているわけではないということだ。

趣味は珍しいほど語れるのか

珍しい趣味を持てば人と違う自分になれる、という発想自体は、心理学の中にちゃんと居場所がある。1977年に心理学者スナイダーとフロムキンが発表した「独自性欲求」の研究がそれで、他人との類似性を指摘されると不快感を覚え、自分の個性を積極的に示そうとする傾向には個人差があるという内容だった。独自性欲求が強い人ほど、周囲の目を気にせず、ルールから外れることを厭わず、少数派の団体に加わりやすいという結果も報告されている。

ここで見落としやすいのは、この理論が測っているのが趣味そのものの客観的な希少性ではなく、自分が他人とどれだけ似ていると感じるかという、あくまで主観的な近さの感覚だという点だ。同じ趣味の人口がどれだけ少なくても、本人が「みんなと同じことをしている」と感じてしまえば独自性欲求は満たされないし、逆にありふれた趣味であっても、自分なりの角度から入り込んでいれば「自分だけの見方」だという感覚は成立する。趣味の珍しさと、語れるかどうかは、そもそも別の軸で測られているものらしい。地図収集や盆栽の例が示していたのも、結局はこのことだったのだろう。本人たちは、自分の趣味が珍しいかどうかをほとんど気にしていない。気にしているのは、その中に自分だけの角度があるかどうかだ。

この区別を取り違えると、珍しい趣味を探すことに時間を使ってしまう。珍しさは検索すれば手に入るが、独自の角度は検索では手に入らない。手に入らないものを、手に入るものの形で探し続けてしまうのが、この誤解のいちばん厄介なところだ。

実際、「変わった趣味」を紹介する記事や番組を眺めていると、珍しい対象そのものに焦点が当たり、なぜその人がそこに行き着いたのかという経緯がほとんど語られないことが多い。珍しい対象は視覚的にわかりやすく、編集や紹介の側からすれば扱いやすい素材だからだろう。だが、聞き手として実際に記憶に残るのは、対象の珍しさではなく、語り手がその対象とどう向き合ってきたかという部分のはずだ。珍しさを追いかける紹介のされ方そのものが、この取り違えを助長しているところがある。

自分の物語と他人の評価のズレ

もうひとつ、厄介な要素がある。「誇れる」という言葉には、実は二つの評価軸が同居している。自分が納得できているかどうかという内側の物差しと、それが他人にどう映るかという外側の物差しだ。この二つは、当たり前のように一致すると思われがちだが、必ずしもそうではない。

心理学者サイモン・ヴァジーレが2010年に提示した「自己他者知識の非対称性」というモデルは、この食い違いの構造をうまく説明している。ヴァジーレの報告によれば、自分の内面――何を感じ、何を考えているか――については本人がいちばんよく知っている一方で、外から観察しやすく、かつ他人からの評価に関わる特性については、むしろ周囲の人間のほうが正確に把握しているという。趣味に置き換えるなら、どれだけ苦労して技術を積んだか、どんな葛藤を経て今のやり方にたどり着いたかという内側の経緯は、本人にしか見えていない。一方で、それが「語るに値するかどうか」という評価は、他人の側の判断に大きく委ねられている。自分が誇りに思っている部分と、他人が実際に評価している部分が、そもそも別の場所にある可能性が高いということになる。

もうひとつ付け加えるなら、人が求めているのは、必ずしも高い評価そのものではない。心理学者ウィリアム・スワンが提唱した「自己確証理論」は、人には自分自身の自己像に合致した評価を他人から得たいという動機があると説明する。スワンらの報告では、自己評価の低い被験者が、あえて厳しい――自分に近いと感じられる――フィードバックを他人に求める傾向すら見られたという。誇れる趣味というと反射的に「褒められる趣味」を思い浮かべてしまうが、実際に人が欲しがっているのは、褒め言葉というより、自分がすでに感じている手応えと矛盾しない言葉なのかもしれない。過大な賛辞は、むしろ据わりの悪さを生む。

盆栽をやっている親のことを思い出す。周囲から「すごい」「芸術的だ」と言われることを、本人はあまり喜んでいるように見えない。むしろ「九割は待つことだ」という、地味で拍子抜けするような自己評価のほうを、誰かに追認してほしそうにしている。褒められることと、わかってもらえることは、似ているようでいて別の出来事だ。誇れる趣味を語るときに本当に欲しいのは、たぶん前者ではなく後者なのだろう。

だとすれば、「誇れる趣味がない」という悩みの少なくとも一部は、趣味そのものの不足ではなく、この二つの物差しを無意識に同一視してしまっていることから来ているのかもしれない。自分の中では十分に語るべき経緯があるのに、それが他人にどう伝わるかを想像した瞬間に、急に貧弱に見えてしまう。逆のことも起こる。自分では大したことだと思っていない習慣が、他人には興味深く映ることもある。評価のズレそのものは、なくすべき欠陥ではなく、そういうものだと最初から織り込んでおくべき前提に近い。

厄介なのは、このズレを埋めようとして、他人の物差しに自分を合わせにいく動きが起きやすいことだ。相手が興味を持ちそうな角度を先回りして選び、自分の経緯のうち地味な部分を切り捨てて話す。一度や二度ならただの配慮だが、これを繰り返していると、自分がどこに納得していたのかという内側の物差し自体が、外側の物差しに侵食されていく。誇れる趣味を探しているつもりが、いつのまにか、他人に語りやすい趣味を探すことにすり替わってしまう。

「時間をかければ語れる」という単純化への疑い

何かを続けていれば、ある時点で自然と語れるようになる、という考え方をたまに見かける。一万時間続ければ専門家の域に達する、という言い方が広まったこともあった。だが、この俗説のもとになった研究者アンダース・エリクソン自身が、後年この単純化を繰り返し否定している。2014年に心理学者ブルック・マクナマラらが発表したメタ分析では、練習量が実際のパフォーマンスの差を説明する割合は、ゲームで26パーセント、音楽で21パーセント、スポーツで18パーセントにとどまり、教育や専門職に至っては1桁台まで下がるという結果が出ている。つまり、練習時間だけでは技能差の大半は説明できない。同じチェスの練習量でも、国際マスターの水準に3000時間で到達する人もいれば、23000時間かけてもたどり着かない人もいる、という報告もある。

時間の量が、語れるようになるための十分条件ではないということだ。同じ時間を投じても、失敗を素通りしてきた人と、いちいち立ち止まってきた人とでは、語れる中身がまるで違う。時間は物語の材料を用意してくれるが、その材料をどう並べるかは別の作業として残る。長く続けているのに語ることがない、という状態は、決して珍しくない。時間と物語は、比例関係にはないということだ。

言い換えれば、練習量が説明できなかった残りの七割から八割は、何が埋めているのか。マクナマラらの分析はそこまでは踏み込んでいないが、練習の質や、途中でつまずいた箇所にどれだけ意識的に向き合ったかといった要因が候補として挙がっている。単に長く続けたという事実よりも、うまくいかなかった瞬間にどう反応したかのほうが、技能の差にも、語れる物語の厚みにも、より深く関わっているように見える。同じ失敗でも、素通りするか立ち止まるかで、その後の蓄積のされ方がまるで違うということだ。

探す場所を間違えているという可能性

ここまでをまとめると、誇れる趣味を探すという発想自体が、いくつかの層で的を外している可能性が見えてくる。珍しい趣味を選べば独自性が手に入るわけではない。失敗談を並べれば面白くなるわけでもなく、それはすでに何らかの有能さを示せている場合に限って効く上乗せの効果にすぎない。時間をかければ自然と語れるようになるわけでもない。そして何より、自分が誇りに思っている経緯と、他人がそこに見出す価値は、最初からずれていて当然のものだ。この四つの層は、それぞれ別の理由で「誇れる趣味探し」という発想を裏切っている。裏切られる場所が一つではないということは、これがちょっとした思い違いではなく、思考の入り口そのものが少しずれていることを示唆している。

見つかるとすれば、たぶん「自慢できるジャンル」ではなく、自分がすでにやっていることの中で、失敗や迷いを持ち帰ってきた場所の方だろう。それはたいてい、人に見せるために選んだ趣味ではなく、なんとなく続いてしまった趣味の方にある。地図収集も、マラソンも、盆栽も、はじめから語るために選ばれたわけではなかった。語れるようになったのは、続けているうちに、失敗や自問自答が自然と積み重なっていったからにすぎない。

これは少し皮肉な話でもある。「誇れる趣味を持ちたい」という動機で新しい趣味を始めた瞬間、その趣味はたぶん、なんとなく続いた趣味が持っていたはずの厚みを最初から欠いている。目的が先に立つと、失敗を迷惑なものとして避けてしまうからだ。習得の速度が最優先になり、遠回りや寄り道は削られていく。だが、地図収集の知人が持っていた分厚さは、まさにその遠回りの部分――なぜ川の付け替えが気になったのかという、当初の目的にはなかった枝道――から来ていた。効率よく目的地に着こうとする態度は、その枝道を最初から刈り取ってしまう。皮肉なことに、誇れる趣味を作ろうとする態度そのものが、誇れる趣味が育つ条件を潰しにかかっている。

誰に向けて語るかで話は変わる

ここまで、失敗を語れるかどうかの話をしてきたが、それは誰に向けて語るかによっても大きく変わる。心理学者ジック・ルービンが1975年に報告した「見知らぬ乗客効果」と呼ばれる現象がある。二度と会わないだろう見知らぬ相手には、日常的に接している知人よりもかえって踏み込んだ打ち明け話をしやすい、という傾向だ。長く続く関係を維持する必要がないぶん、失敗や迷いをそのまま口にしても、あとで気まずくなる心配がない。

この現象を踏まえると、誇れる趣味の話が誰との会話で一番深く語られるかは、案外身近な人間関係の中ではないのかもしれない。旅先で偶然隣に座った人、あるいは初対面のオンラインの相手に対してのほうが、盆栽の九割が待つ時間だという話や、走れない日の観察記録が、飾らない形でこぼれ出ることがある。日常的に顔を合わせる相手には、積み上げてきた印象があるぶん、迷いの部分を見せることに慎重になりやすい。誇れる趣味というものが、身近な人間関係の中でこそ確認されるべきだという思い込みも、一度疑ってよいのかもしれない。

もっとも、見知らぬ相手に語った話が、そのまま自分の中に残るとは限らない。一度きりの相手に打ち明けた話は、往々にしてその場限りで消えてしまい、あとから同じ濃度で語り直せないことも多い。だとすれば理想は、見知らぬ相手にこぼれ出た飾らない言葉を、あとで身近な誰かにも同じ形で伝え直してみることなのだろう。一度目の相手が言葉を引き出し、二度目の相手がそれを記憶として定着させる。役割が違うだけで、どちらか一方で足りるわけではない。

言葉が先に立つ前に

「誇り」と「自慢」は、辞書の上では近い場所にある言葉だが、使われ方はずいぶん違う。自慢は他人に向けて発信される言葉で、誇りは自分の内側で完結できる感情だ。「誇れる趣味が欲しい」と言うとき、本当は誇りの話をしているつもりで、いつの間にか自慢の話にすり替わっていることがある。他人にどう見せるかを先に決めてしまうと、その趣味は自慢の材料として組み立てられ、誇りが育つはずだった内側のスペースが埋まってしまう。

面白いのは、自慢として組み立てられた話ほど、聞いていて退屈になりやすいことだ。組み立てる過程で失敗や迷いが真っ先に削られるからで、削られた結果、残るのは実績の羅列に近い形になる。誇りとして語られる話は、逆に、失敗や迷いを削らずに残している。どちらの言葉を使っているつもりかは、話し手の中では区別されていないことが多いが、聞き手の側には案外はっきり伝わっている。

誇れる趣味という言葉から、いつのまにか「他人に評価される趣味」を思い浮かべてしまうのは、無理もないことだ。だが、ヴァジーレのモデルが示していたように、自分が納得できる物語と、他人が興味深いと感じる物語は、必ずしも同じ場所で生まれているわけではない。両方が一致する瞬間があるとすれば、それはおそらく狙って作れるものではなく、失敗や迷いを避けずに続けてきた結果として、あとから振り返って気づくものなのだろう。

今、誇れる趣味がないと感じているとしたら、それは趣味の選び方が間違っていたからではなく、まだその趣味の中の、言葉にしていない部分に光を当てていないだけかもしれない。地図収集も、マラソンも、盆栽も、本人たちが最初から「これは語れる」と見込んで始めたわけではなかった。続けているうちに、失敗や自問自答がひとりでに積もり、ある日ふと、それが語るに足る形をしていることに気づいた。趣味選びの基準を変える前に、すでに手元にある趣味の、まだ掘り返していない部分を探してみる方が、たぶん早い。

出典

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