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趣味診断について、実際にやっていることを説明する

趣味診断について、実際にやっていることを説明する

「あなたの深層心理を読み取る」という宣伝文句を取り下げた後、診断というジャンルそのものを疑ってみる。ForerからMBTI、血液型性格判断、占星術の二重盲検試験まで、当てはまった感覚の正体を辿る。

TOMOAKI··お知らせ

この趣味診断がやっていることは単純である。6つの質問への回答を、記事で定義した3つのアーキタイプ——収集と体系化・没入と遮断・自己研鑽と表現——に数えて、いちばん多かったものを表示する。それだけだ。分析でも予測でもない、ただの集計にすぎない。以前この場所には、もっと大仰な触れ込みが掲げられていた。中身に見合わない言い回しだったので取り下げた。看板を実態に合わせて書き直すと、この程度の話になる。

ここで終えてもよかった。だが取り下げた宣伝文句の裏には、もう少し大きな問いが隠れている。診断が「当たっている」と感じるとき、実際には何が起きているのか、という問いだ。これは趣味診断固有の話ではない。血液型性格診断からMBTI、星占い、就職活動で受けさせられる適性検査まで、「あなたはこういう人間だ」と言い切る形式全般に共通する仕掛けがある。診断というジャンルを一度、外から眺めてみる。

この問いを避けて通れないのは、疑ってかかる対象が結局は自分自身のツールだからだ。他人の主張の裏づけを問う記事を書きながら、自分の作った診断だけを検証の外に置いておくわけにはいかない。診断というジャンル全体を疑いの対象にすると、当然この趣味診断も同じ物差しで測られることになる。その結果、擁護できる部分と擁護できない部分がはっきり分かれた。以下はその線引きの記録である。

当てはまる、という感覚の作り方

1948年、心理学者のフォアは自分の授業を受けていた学生たちに性格診断を実施した。回答を分析した上で、一人ひとりに個別の性格記述を返す、という体裁を取った。学生たちはその記述がどれだけ自分に当てはまるかを5点満点で評価し、平均は4.26だった。ほとんど完璧な的中率である。

種明かしはこうだ。全員に配られた記述は一言一句同じだった。フォアが新聞売り場の占星術本から適当に集めた文言だ。「あなたは他人から好かれたいという強い欲求を持っている」「時に外向的で社交的だが、時に内向的で用心深く、控えめになることもある」——誰にでも当てはまる曖昧な言葉を並べただけの、いわば汎用の型紙である。それでも学生たちは、これは自分のために書かれたものだと信じ込んだ。この実験はその後数十年にわたって何度も再現されており、平均評価はおおむね4.2前後で安定している。個別化されているという前提さえ与えれば、中身がどれほど空疎でも人は自分の姿を読み取ってしまう。バーナム効果、あるいはフォア効果と呼ばれる現象だ。

厄介なのは、これが「騙されやすい人」に限った話ではないという点だ。効きやすさの個人差を検証しようとした試みはいくつもあるが、知能や批判的思考力の高さがこの効果への免疫になるとは言い切れない、というのが大方の見方だ。むしろ効きやすさを左右するのは受け手の性質よりも文の作り方の側にある。好ましい内容であること、両義的で反証しにくい言い回しであること、そして何より「あなたのために書かれた」という枠組みそのものだ。診断結果を疑うべき理由は、読む側の注意力不足にではなく、文の設計にあると考えたほうが実情に近い。

フォアがこの現象に名前をつけたわけではない。「バーナム効果」という呼び名は、興行師P・T・バーナムが客寄せの際に語ったとされる「誰にでも当てはまる出し物を用意すれば誰もが満足する」という発想にちなんで、後の研究者が与えたものだ。占いや性格診断だけでなく、パーソナライズされているように見える広告やレコメンド機能にも、同じ骨格が流用されている。宛先が自分一人であるという体裁さえ整えば、中身の解像度は二の次になる。この効果を知った後でも、当てはまって見える感覚そのものは消えない。消えるのは「これは自分だけに向けて書かれた」という前提の方だけだ。

MBTIが測っているもの

MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)は世界で最も広く使われている性格類型のひとつであり、企業研修から婚活サービスまで顔を出す。16種類のアルファベット4文字に人を割り振るこの手法の出自を辿ると、少し意外な事実に行き着く。開発したブリッグスとその娘マイヤーズは、心理測定学はおろか心理学の専門教育すら受けていない。二人が拠り所にしたのはユングの類型論への傾倒であり、統計的な検証を経て世に出た手法ではなかった。とはいえ、出自だけで手法の価値が決まるわけではない。問題は、後年行われた検証の結果の方にある。

心理学者のピッテンジャーは1993年、MBTIの統計的な構造・信頼性・妥当性に関する研究を横断的にレビューし、深刻な問題を指摘した。なかでも際立つのが再検査信頼性の低さである。同じ人に同じ質問紙を数週間おいて2回受けさせたとき、本来なら同じ結果が返ってくるはずだ。ところがピッテンジャーが参照した研究群では、わずか5週間ほどの間隔で受け直した回答者のうち、およそ半数が4文字のうち少なくとも1文字で違う判定を受けていた。4軸それぞれで具体的にどの程度入れ替わるかは研究ごとに数字の幅があり、一つの安定した内訳として言い切れるほどの一致は見られない。それでも、半数という水準そのものは動かない。数週間で人格の軸そのものが変わったとは考えにくい。変わったのは、その日の気分や質問文の解釈のわずかな揺れの方だろう。MBTIの4文字は、安定した特性というよりもその日のコンディションを拾っている部分が小さくない。

もうひとつの問題は、性格を2つの箱のどちらかに押し込めるという発想自体にある。外向性や直観といった特性は、多くの心理測定研究において連続的な分布——中央が高く両端が低い釣鐘型——を示す。ところがMBTIは中央値のすぐ隣にいる人と、両端に近い人を同じ「タイプ」として扱ってしまう。わずかな回答の揺れで箱をまたぐ人が大量に生まれるのは、この設計の必然的な帰結であって、たまたまの誤差ではない。MBTIが企業研修の場で好まれやすいのは、この明快な4文字が説明しやすく、場が盛り上がるからだ、と言われることがある。使い勝手の良さと測定の正確さは、残念ながら別の軸にある。

ここで見落とされがちなのは、診断が使われる場面によって求められる精度がまったく違うという点だ。友人との会話の糸口として「ENFPらしいね」と言い合う分には、再検査信頼性の低さはほとんど実害を生まない。だが採用選考や配属の判断材料としてこの種の類型を使うとなると話は変わる。日本の新卒採用で広く使われるSPIのような適性検査も含め、性格検査の結果が人の進路を左右する場面では、検査そのものの妥当性がどこまで検証されているかを、受ける側が知っておく意味は大きい。同じ質問紙でも、遊びとして受けるか、選考の材料として受けるかで、要求される精度の水準は本来別物のはずだ。会話の潤滑油として使う分には粗くても構わない道具が、人事の判断材料に横滑りした瞬間、粗さそのものが誰かの不利益に直結しかねない。

見えるはずのない相関が見えてしまう

MBTIや血液型性格診断を支えているのが確証バイアスや文の設計だとして、専門家の側はこの手の罠から自由なのだろうか。1967年、心理学者のチャップマン夫妻はこの問いを、フォアの実験よりさらに古い診断ジャンルであるロールシャッハ・テストで検証した。インクの染みを見せて何が見えるかを答えさせ、その反応から性格や病理を読み取る手法である。

チャップマン夫妻が注目したのは、経験を積んだ臨床家の多くが「肛門への言及は同性愛傾向を示す」「女性の衣服への言及は同性愛傾向を示す」といった、実際には統計的な裏づけを欠く対応関係を長年信じ込んできたという事実だった。実験では、ロールシャッハの反応内容と架空の症状を無作為に組み合わせたデータを被験者に提示した。相関がまったく存在しないよう設計されたそのデータからでも、被験者は臨床現場で語り継がれてきたのと同じ「よくある」組み合わせを、実際より強く結びついた印象として報告した。目立つ症状と目立つ反応が同時に提示されると、両者の間に実在しない相関を見出してしまう。この現象は後に錯誤相関(イリュージョナリー・コレレーション)と名づけられた。

確証バイアスが「すでに持っている仮説を裏づける証拠ばかり集めてしまう」働きだとすれば、錯誤相関はそれより手前、証拠を集める前の段階で起きる。目立つ特徴同士を並べて見せられただけで、そこに関係があるという印象が勝手に立ち上がってしまうのだ。血液型性格診断の生成過程を考えるとき、この錯誤相関は確証バイアス以上に厄介な役者になりうる。几帳面という特性は目立つ形で語られやすく、A型という属性もまた話題になりやすい。目立つ者同士が結びついて見えるのは、観察力の有無とは関係のない、認知の側の癖である。ロールシャッハ・テストは今も一部の臨床現場で使われ続けているが、チャップマン夫妻の発見以降、反応内容と診断名を機械的に結びつける古い解釈表の少なくとも一部は、専門家自身の手によって書き換えを迫られることになった。

血液型と、日米1万人のデータ

日本に固有の診断ジャンルとして血液型性格判断がある。A型は几帳面、B型はマイペース、といった語彙は日常会話に定着している。この俗説を大規模データで検証した研究がある。心理学者の縄田健悟は2014年、日本と米国で行われた大規模な社会調査のデータ——両国合わせて1万人を超える無作為抽出サンプル——を二次分析し、血液型と性格特性の関連を検証した。結果、68の性格関連項目のうち65項目では血液型間に統計的に有意な差すら見られず、残る3項目についても効果量(η²)は0.003未満、つまり血液型が性格の分散を説明する割合は0.3%に満たなかった。誤差の範囲と言ってよい水準であり、血液型から性格を言い当てる根拠は見出せなかったと結論づけている。

それでも血液型性格判断が廃れないのは、当てはまる例だけが記憶に残るからだろう。A型の知人が几帳面な行動を取れば「やっぱり」と受け止められ、そうでない行動を取れば例外として処理される。確証バイアスと呼ばれるこの選別は、統計を持ち出されるまでは自分では気づきにくい。1万人規模のデータですら覆せない俗説の根強さは、診断というジャンルが理屈の外側で機能していることを示している。

この俗説には、話のネタでは済まない副作用もある。血液型を理由に採用や配属の判断を左右したり、恋愛や結婚の可否を左右したりする、いわゆる血液型ハラスメントは日本社会でしばしば問題視されてきた。縄田の研究が学術誌でわざわざ取り上げられた背景にも、単なる俗信の域を超えて実際の意思決定に影響を及ぼしている現状への懸念があった。診断が娯楽の枠を出て評価や選抜の道具に転用されたとき、その診断の妥当性を問う作業は、話のネタとして消費している段階よりずっと切実な意味を持つようになる。分散説明率0.3%未満という数字の小ささを知った上でなお血液型を判断材料に使い続けるという主張は、単なる誤解というより、根拠より物語を優先する構造そのものに近い。

占星術を実験した人がいる

診断ジャンルの祖先をたどれば占星術に行き着く。これについては、めずらしく厳密な検証が行われている。物理学者のカールソンは1985年、科学誌ネイチャーに二重盲検試験の結果を発表した。参加した占星術師28名は、被験者116名分の出生図(ネイタルチャート)と、同じ被験者が受けたカリフォルニア心理検査(CPI、18の性格尺度からなる質問紙)の結果を突き合わせ、どの出生図がどの性格プロファイルに対応するかを判定するよう求められた。手続きの設計には占星術師自身も加わっており、「不利な条件で試された」という言い訳ができないよう配慮されていた。

結果は、統計的に偶然と区別がつかなかった。占星術師たちが自信を持って一致させた組み合わせも、当てずっぽうで選んだ場合と的中率に差はなかった。この結果を巡ってはその後も占星術側からの再分析が発表されており、心理学者のエルテルは2009年、1位と2位の候補を両方正解に含める採点方式に変えれば統計的に見て境界線上の有意差(第一の検定でp=.054、別の評定方式ではp=.04)が出ると主張した。境界線上とはいえ偶然では片付けにくい数値だという立場だ。とはいえ主要な追試も含めて、出生図から性格を安定して言い当てる能力を再現よく示した例は今のところ見当たらない。星の並びを読むという行為が当てているのは、天体の運行ではなく、読み手と受け手が共有する期待の方だろう。

この論争が興味深いのは、白黒がすっきりつかなかった点にある。ネイチャー誌の結論は否定的だったが、後年の再分析はそれをそのまま覆すには至らず、かといって占星術の主張を積極的に支持する結果でもなかった。統計の世界では、これくらいの境界線上の数字はしばしば起きる。診断の話をするとき、「科学的に完全に否定された」と「まだ何とも言えない」を混同しないことも、案外大事な作法である。星占いを鼻で笑う態度も、都合のいい部分だけを切り取って「完全に無根拠だ」と言い切るなら、占星術師が都合のいい相関を拾い上げるのと同じ振る舞いに転じる。

診断は科学が始まる前からあった

診断というジャンルの起源をさらに遡ると、占星術よりは新しく、現代の性格検査よりはずっと古い時代に、骨相学という試みがあった。19世紀初頭、ドイツ生まれでウィーンを拠点にした医師ガルは、脳のそれぞれの部位が几帳面さや攻撃性、音楽の才能といった特定の性質を司っており、その部位が発達するほど頭蓋骨の表面に「隆起」として現れると考えた。指で頭の凹凸をなぞれば、その人の性格や才能を読み取れるという理屈である。ガルの学説はヨーロッパとアメリカで熱狂的に受け入れられ、頭蓋骨の模型を売る商売まで生まれたが、パリの科学アカデミーがガルの入会を拒んだように、当時の権威ある学術機関からは一貫して相手にされなかった。今日、骨相学は疑似科学の代名詞として教科書に載っている。

骨相学と同じ頃合いに勢いを持った試みに、イタリアの医師ロンブローゾが唱えた犯罪人類学がある。ロンブローゾは、犯罪者には進化の過程を後戻りしたような身体的特徴——顔の非対称、頭蓋骨の形状——が現れると主張し、それを「生来性犯罪者」の証拠だと位置づけた。ある山賊の遺体を解剖した際、頭蓋骨の付け根に下等動物に似た窪みを見つけたことがきっかけだったという。この理論は後に自ら修正を迫られ、生来性犯罪者に当てはまるのは全体の3分の1程度にすぎないとロンブローゾ自身が認めるに至ったが、それでも刑事司法の現場に、身体的特徴から危険性を判定するという発想の一時代を築いた。骨相学が個人の性格を、犯罪人類学が個人の危険性を、それぞれ身体の形状から読み取ろうとした点は共通している。犯罪人類学の害はこの一時代にとどまらなかった。身体的特徴によって人を序列化するという発想は、当時の人種主義や優生学の言説と容易に結びつき、特定の集団を劣った存在とみなす政策やまなざしを、科学の体裁を借りて正当化する道具にも転用された。統計的な洗練を装った理屈が、検証を経ないまま制度や権威に都合よく利用されてしまう経路がここにある。診断が処遇に組み込まれるとき何が起こりうるかを考える上で、この系譜は無視できない前例である。犯罪人類学が退けられた後も、顔つきや体格から危険性を判定したいという欲求そのものが消えたわけではなく、後年の研究者たちはより統計的に洗練された装いでこの種の問いに立ち戻り続けている。装いが変わっても問いの根が変わらない、という構図は診断全般に共通する。

骨相学が廃れた後も、体の特徴から内面を読み取れるという発想そのものは形を変えて生き延びた。20世紀に入ると、筆跡から性格を判定するグラフォロジーが台頭する。フランスの採用選考に広く浸透しているという話は、日本でも紹介されることが多い。ところが、この「広く使われている」という語り自体が誇張だったことが、後の研究で明らかになっている。心理学者のバンガーターらは2009年、実際の求人広告や企業へのインタビューを重ねた調査で、手書きの応募書類を実際に要求する求人はごく少数であり、集まった手書き書類がグラフォロジーによる分析にかけられることも稀だと報告した。市場関係者はグラフォロジーの利用頻度を実態より大きく見積もっており、「フランス企業の大半が筆跡診断を使っている」という語り自体が、診断というジャンルとよく似た構造を持つ都市伝説だったことになる。

肝心の中身についても、心理学者のネーターとベン・シャハーが1989年に発表したメタ分析が手厳しい。17件の先行研究、グラフォロジスト63名と非専門家51名による1223件の筆跡サンプルの評価を統合したところ、筆跡から職務成績を予測する相関係数はグラフォロジストでもおおむね0.15前後にとどまり、しかも筆跡の中身、つまり何が書かれていたかを伏せて字形だけを見せた場合、その相関はほぼゼロにまで落ちた。皮肉なのは、グラフォロジーの心得がない心理学者や素人が同じ筆跡サンプルを評価したとき、成績がグラフォロジストを上回る場面すらあったことだ。字の形そのものに性格を読み取る技術など存在せず、判定の手がかりになっていたのは文面の内容——字を見なくても分かる情報——だったと考えるのが妥当だろう。骨相学からグラフォロジーへ、そして現代のさまざまな性格診断へと続く系譜を辿ると、道具立ては変わっても、身体的特徴やふるまいから内面を読み取れるという発想そのものは、驚くほど息が長い。

診断が意思決定の道具に格上げされるとき

職場でよく使われる性格類型にDISCがある。積極性・感化力・安定性・慎重さの4類型に人を割り振るこの手法の生みの親は、ハーバードで心理学を修めたマーストンという人物だ。感情と血圧の関係に着目し、後にポリグラフ(嘘発見器)の原型を発明したことでも知られる。マーストンはアメリカンコミックのワンダーウーマンの生みの親でもあり、相手に真実を語らせる「真実の縄」という道具を主人公に持たせている。嘘を見抜く技術への関心が、厳密な検証手続きよりも先にポピュラー文化を通じて広まり、しかもそれが後世まで語り継がれるほどの人気を保ったという経緯は、DISCという分類がたどった道筋そのものと重なる。学術的な裏づけを欠いたまま親しみやすさだけが先行して定着する、という診断ジャンルに繰り返し現れる型を、この逸話は図らずも映し出している。マーストンの原案は学術的な心理測定の手続きを経ておらず、後年これを商業化した各社の質問紙についても、独立した査読を通った検証はMBTI以上に乏しい。それでも研修や採用の現場で好まれ続けているのは、4類型がチームの会話の糸口として使いやすいという、MBTIと同じ理由による。

コーチングの領域では、近年エニアグラムという9類型の診断も勢いを増している。心理学者のフックらが2021年に発表した系統的レビューは、104件の独立したサンプルを横断的に検討し、信頼性と妥当性の両方について入り混じった結果しか見出せなかったと結論づけた。因子分析をかけると9つより少ない因子しか浮かび上がらないことが多く、9類型を統計的な手続きから導き出した研究は見当たらない。ウイングやタイプ間の移動といった、エニアグラムの理論の中でも人気の高い部分ほど、裏づけとなる研究の蓄積が薄いという逆転現象も指摘されている。起源が神秘思想に近い診断が、企業研修という科学の顔をした場に持ち込まれるとき、出自と検証状況の間にあるはずの隙間は、かえって見えにくくなる。

診断が意思決定に組み込まれる場面は、人事だけに限らない。結婚や交際相手を選ぶマッチングアプリの多くは、独自の「相性診断アルゴリズム」を売りにしている。心理学者のフィンケルらが2012年に発表した大規模なレビューは、恋愛関係の科学を専門とする研究者5名の共著で、マッチングアルゴリズムが実際の交際の質や継続を予測できるという主張を裏づける説得力のある証拠は見当たらないと結論づけた。相性診断が示す数値やパーセンテージは、心理測定の手続きを経た予測値というより、利用者に「自分に合う相手を選んでくれている」という安心感を売るための演出に近い。診断の看板が個人の趣味嗜好の紹介から結婚相手の選定にまで広がるにつれ、その看板の裏にどれだけの検証があるかを問う意味も、比例して重くなる。

診断が実際に人の処遇を左右した例として、2005年に米国第7巡回区控訴裁判所が下した判断がある。家具・家電のレンタル会社レント・ア・センターは、昇進を希望する社員に「APTマネジメント・トレーニー・エグゼクティブ・プロファイル」という試験を課していた。その中身は、精神疾患の傾向を測る目的で作られた質問紙ミネソタ多面人格目録(MMPI)から抜き出した502問を含んでいた。回答から算出される「偏差」の数値が一定の基準を超えた社員は、他の実績と関係なく昇進の対象から外された。裁判所はこれを、障害を持つアメリカ人法(ADA)が制限する「医学的検査」に当たると判断した。会社側に精神疾患を選別する意図があったかどうかは関係なく、実際にそうした効果を持つ検査を昇進の足切りに使っていたこと自体が違法とされたのである。性格を測るはずの質問紙が、運用のされ方次第で医学的検査そのものに転じてしまう。診断というジャンルが話のネタを超えて処遇に組み込まれたとき、看板と中身の距離を問う作業は、洒落で済まない重みを持つようになる。この判決以降も、企業が独自に作成した質問紙が医学的検査に当たるかどうかの線引きは、訴訟のたびに個別に争われ続けている。境界線がどこにあるかが判例任せになっているという事実自体、性格を測るという行為の外形と実質がいかに乖離しやすいかを物語っている。

DISCもエニアグラムもマッチングアルゴリズムも、共通しているのは商業的な成功と学術的な検証が別々の物差しだという点だ。使われ続けているという事実は、正しさの証明にはならない。使われ続けている理由の大半は、正しさとは別のところ——分かりやすさ、場の盛り上がり、あるいは選んでもらえたという安心感——にある。導入する側にとっても、精度の検証にかかる手間より、既製の質問紙を買ってくる方がはるかに安く済むという事情は無視できない。

では「科学的な」性格検査はどうか

MBTIや占星術を退けたところで、「ビッグファイブなら科学的だから安心」という結論に飛びつくのも急ぎすぎである。外向性・協調性・誠実性・神経症的傾向・開放性の5因子は、統計的な再現性という点ではMBTIより頑健で、連続量として扱う分だけ箱に押し込む問題も避けている。学術的な地盤の固さと、実生活での有用性は、しばしば同じものだと思われがちだが、両者は別々に検証されるべき問いである。だが、それが人生の予測に強く効くかというと話は別だ。

心理学者のバリックとマウントは1991年、ビッグファイブと職務成績の関係を扱った先行研究群を統合するメタ分析を発表した。5因子のうち誠実性だけが、職種を問わず一貫して職務成績と結びついていたが、その相関係数は補正後でもおおむね0.2程度にとどまる。決して無視できる数値ではないが、「誠実性が高い人ほど仕事ができる」と言い切れるほどの強さでもない。統計的に有意であることと、個人の将来を言い当てられることの間には、思っている以上の距離がある。相関係数0.2というのは、誠実性の高低で人を並べ替えても、職務成績の順位がその通りに入れ替わるのはせいぜい数パーセント分にすぎない、という程度の説明力である。

加えて、この種の検査はほぼ例外なく自己申告に基づく。誠実な人ほど自分を誠実だと申告しやすいという以上のことを、質問紙は測れていない可能性が常につきまとう。ビッグファイブ由来の性格診断が企業のオンライン適性検査からマッチングアプリのプロフィールまで浸透しているのは、統計的な裏付けがMBTIよりましだからというより、5つの数値という体裁が説得力を持って見えるからという面も大きいだろう。性格検査全般に共通する限界はここにある——集団の傾向としては意味のある差が、個人の予測としては頼りない精度しか持たない。

それでも診断が求められる理由

ここまでの話は、性格診断というジャンルへの不信を煽るために書いたわけではない。当てはまった感覚の仕組みを知ってなお、人はその感覚を求め続ける。理由は単純で、診断は答えを与える以上に、状況を整理する道具として機能するからだ。自分の趣味や仕事の選び方に迷っているとき、選択肢を3つや4つのラベルに束ねてもらえるだけで、考える負荷は軽くなる。趣味を始めようとして検索すれば無数の候補が出てくる。何から手をつけるか決められないまま検索履歴だけが増えていく状態から、とりあえず3つのどれかに自分を分類してもらえれば、次に読むべき記事の見当がつく。この絞り込み自体には実害がない。

占い師に相談する行為の大部分も、未来を知りたいというより、今の自分の状態に言葉を与えたいという欲求で説明できる場面が多いだろう。誰かに悩みを話すとき、聞き手が的確な助言をくれるかどうかより先に、話を聞いてもらえたという事実自体が気持ちを軽くする、という経験は多くの人にとって身に覚えがあるはずだ。診断はその聞き手の役を、人間の代わりに簡易な質問紙が肩代わりしているにすぎない。診断が果たしている役割が予言ではなく整理なのだとすれば、それ自体は責められる話ではない。

診断結果を受け入れるかどうかにも、法則がある。心理学者のスナイダーらは1977年、それまで約25年分蓄積されていたバーナム効果の受容研究を整理し、二つの要因が受容のされやすさを大きく左右すると結論づけた。ひとつは、その記述が好ましい内容であるかどうか。もうひとつは、その記述が権威ある立場から自分個人に向けて手渡されたと感じられるかどうかだ。同じ空疎な記述でも、専門家の肩書きを添えて「あなた個人のために分析した結果です」と渡された場合の方が、匿名の一般論として渡された場合よりも強く受け入れられる。診断結果が当てはまって見えるかどうかは、結果の中身そのものよりも、誰が、どんな体裁で、どれだけ好ましい言葉を選んで手渡したかに左右される部分が大きい。

もっとも、当てはまってほしいという欲求は、常に良く見られたいという欲求と同じではない。心理学者のスワンが1983年に整理した自己確証理論によれば、人は自分について抱いている自己像——それがたとえ否定的なものであっても——を他者から追認されることを好む傾向がある。すでに「自分は要領が悪い人間だ」と思い込んでいる人にとっては、要領の良さを誉める診断結果よりも、不器用さを言い当てる診断結果の方が、かえって納得感を伴って受け止められる場合がある。診断が当てはまって見える理由は、常に耳当たりの良さだけでは説明しきれない。すでに固まった自己像を裏づけてくれるかどうかという、もう一つの物差しが働いている。

当てはまらなかった場合の反応も一様ではない。好ましくない記述や見慣れない類型を提示されたとき、人はその診断自体の妥当性を疑うこともあれば、診断は正しいが自分がその中の例外なのだと解釈し直すこともある。選択的知覚と呼ばれる、都合の悪い情報ほど記憶に残りにくいという傾向も、この解釈し直しの作業を後押しする。後者を選べば、診断という枠組みそのものへの信頼は保たれたまま、都合の悪い部分だけを個人の特殊事情として処理できる。診断が長く生き延びる理由の一端は、当てはまらなかったときの逃げ道まで用意されている、というこの構造にもあるのだろう。

問題が生じるのは、整理の道具に予測や深層心理の解明という看板を掲げたときだ。「あなたの深層心理を読み取る」という宣伝文句がまずかったのは、看板と中身が釣り合っていなかったからだ。単純な集計に対して、分不相応な権威を貼り付けていたにすぎない。権威を貼り付けたくなる動機も分からなくはない。「6つの質問を3つの箱に仕分けるだけです」と正直に書くより、「深層心理を読み取ります」と書いたほうが人は試してみたくなる。だがその誘惑に乗った時点で、このサイトが他の記事で疑ってかかっている態度——根拠のない断定にもったいぶった権威をまとわせる身振り——を自分の足元でやっていることになる。集計は集計のままで構わない。看板を実態に合わせて下ろせばよかっただけの話だ。

もっとも、「整理の道具にすぎない」と言い切ることにも、別の都合のよさが潜んでいる。整理だと自称した瞬間に、精度への説明責任から丸ごと降りられるわけではないからだ。3つの箱への振り分けが実際の判断に影響を与える場面——診断結果を見て新しい趣味への出費を決めたり、自己紹介の材料として誰かにその結果を語ったりする場面——では、「整理です」という言葉の軽さと、その情報が実際に及ぼす重さとの間に隙間が生まれる。看板を「深層心理を読み取る」から「6問の集計です」に書き換えれば免責が完了する、という考え方もまた、看板の言葉だけで安心してしまう点で、この記事がここまで疑ってきた仕組みと地続きだ。正直な看板は必要条件であって、十分条件ではない。

趣味診断が実際にやっていること

この趣味診断の仕組みは、フォアの実験やMBTIの複雑な因子構造と比べると拍子抜けするほど単純である。6つの設問それぞれに、収集と体系化・没入と遮断・自己研鑽と表現という3つのアーキタイプへの重みが割り振られている。回答を集計し、最も多く該当したアーキタイプを結果として表示する。裏で動いているのは条件分岐と加算であって、機械学習でも予測モデルでもない。同じ回答をすれば誰がいつ受けても同じ結果が返る——先に挙げたMBTIの再検査信頼性の低さとは、この点で対照的である。

この単純さには利点がある。結果に納得がいかない場合、なぜその結果になったのかを全部たどれる。ブラックボックスの中で何が起きたのか分からない占星術やMBTIとは違い、6つの回答のどれがどう効いたのかを逆算できる。結果が腑に落ちないとしたら、それは診断が外れたのではなく、3つの切り分け自体が自分の趣味の実態に合っていない、という可能性の方が高い。3分類はどこまでいっても粗い網であり、網の目からこぼれる趣味の方が多いくらいで丁度いい。

逆に言えば、この診断ができないこともはっきりしている。深層心理を掘り当てることはできないし、まだ知らない自分の才能を発見することもできない。やっているのは、既に持っている6つの答えを3つの箱に仕分ける作業だけだ。箱に名前をつけて渡すことに一定の価値があるとしても、それは箱の中身を新しく作り出したわけではない。フォアの学生たちが読んだ文章と違い、この診断が返す3つの結果は互いに矛盾する記述であり、少なくとも全員に同じ紙を配るという構造にはなっていない。ただし粗い網である以上、当てはまり方の実感がフォア効果とどこまで独立しているかは、この診断自身にも検証しようがない。

再検査信頼性についても、胸を張れるほどのものではない。同じ回答をすれば同じ結果が返るという意味での一貫性はあるが、それは6問という短さと単純な加算という設計上、当然そうなるだけの話であって、MBTIより優れた心理測定を行っているという意味ではない。むしろ短く単純だからこそ、揺れが表面化しにくいという言い方の方が正確だろう。3つのアーキタイプという枠組み自体、査読を経た学術的な分類ではなく、ひとつの記事のために便宜的に立てた仮の切り口にすぎない。その出自を偉そうに語る理由はどこにもないし、この記事を書いている人間自身、3つのうちどれに当てはまるかを自分の答えから逆算できてしまう程度には、仕掛けの単純さを内側から知っている。

診断というジャンルとの付き合い方

診断が当てはまって見える仕組みも、統計的に脆弱な検査が広く信頼されている経緯も、それぞれ別の研究の蓄積として存在している。だからといって、診断というジャンルを丸ごと退けるのも極端な反応だろう。血液型性格診断を信じている人に分散説明率0.3%未満というデータを突きつけたところで、その人が診断から得ていた「今日話す話題」や「自己紹介の糸口」としての実用性まで否定する必要はない。診断の価値を、それが担っている役割に応じて測り直すことの方が実りは大きい。

予測の道具として差し出された診断は、その予測がどの程度の精度で検証されているかが問われることになる。整理の道具として差し出された診断は、整理の粗さを織り込んだ上で受け止められる、という前提に立つことになる。厄介なのは、この2つが同じパッケージの中で曖昧に混ざっているときだ。占星術もMBTIも血液型性格判断も、DISCもエニアグラムも相性診断アルゴリズムも、そして取り下げる前のこの趣味診断の宣伝文句も、整理の道具に予測の看板を掛けていたという一点で同じ穴に落ちていた。看板の言葉を少し変えるだけで、中身が同じ集計であっても受け手の身構え方はまるで違ってくる。言葉を選ぶ作業は、だから軽んじていい仕事ではない。

ここまで辿ってきた診断の系譜——骨相学、犯罪人類学、グラフォロジー、血液型性格判断、MBTI、占星術、エニアグラムやDISC、そして恋愛のマッチングアルゴリズム——を並べてみると、時代が下るごとに道具立てはもっともらしくなっているのに、当てはまって見える仕組みの方はほとんど更新されていないことに気づく。頭の凹凸を測る代わりに質問紙のスコアを測るようになっただけで、目立つ特徴同士を結びつけてしまう認知の癖も、好ましい記述を自分だけのものだと思い込む傾向も、当てはまらなかった部分を例外として処理してしまう解釈のしなやかさも、19世紀からほとんど変わっていない。診断というジャンルが古びないのは、対象になる人間の側の仕組みが古びないからだろう。新しい診断が現れるたびに「今度こそ違う」と感じてしまうこと自体、この仕組みの一部に組み込まれている。

この見分け方は、診断を受ける側だけでなく、診断を作る側にも同じ重さでのしかかる。ある切り口を提示するとき、それが読者の自己理解を助ける整理なのか、それとも読者の判断を代行してしまう処方箋なのかは、書いている本人にも常に自明とは限らない。3つのアーキタイプという枠組みを立てた時点で、すでに読者の趣味を狭い型に押し込める危うさは抱え込んでいる。せめてその型が何に基づいていて、何に基づいていないかだけは、正直に言えるようにしておきたい。看板を外した後に残るのは、6つの質問と3つの箱という、それだけの装置である。それで十分だと思っている。

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