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伝説の毒より大きかった山の噴火——那須の湯と石と別荘地

殺生石の伝説が語る毒より、記録の噴火は大きい。茶臼岳は1408年からの噴火で180余名を死なせた。開湯伝説の食い違い、温泉の効能の基準、隣の那須塩原の別荘地をめぐる最高裁判決まで、資料で読む。

TOMOAKI·

那須湯本の共同浴場「鹿の湯」は、公式サイトで自分のことを「千三百年続く」湯だと紹介している。歴史のページには、開湯は「七世紀前半、約千三百年前の舒明天皇の御世」だったとある。那須温泉神社の沿革は、神社の創建を舒明天皇2年、西暦630年とする。神社の伝える伝説では、湯の発見と神社の創建が一続きの出来事なので、開湯もその年になる。

ここで少しだけ算数をすると、話にもう一つの年が加わる。630年から数えれば、千三百年はとうに過ぎていて、むしろ千四百年のほうに近い。一方、鹿の湯が同じページで「公式には」と断って挙げる記録は、738年のものだ。そこから数えると、千三百年にはまだ届かない。伝説の年と記録の年が百年ほど離れていて、千三百年という丸い数字は、ちょうどその間にある。「千三百年続く」なら630年からでも言え、「約千三百年前」なら738年から数えたほうが近い。鹿の湯の二つの言い方が、それぞれ別の年に合っている。

どちらが正しいかを裁きたいわけではない。気になるのは、湯の年齢、湯の効き目、石の毒という数字が、那須湯本という狭い範囲でそれぞれ別の理屈で語られ、そのどれもが、確かめてみると少しずつ違う顔を見せることのほうだ。最後に、隣の那須塩原市にある別荘地をめぐって最高裁が示した数字も一つ読む。以下は、公開されている資料を順に読んでいった記録である。

鹿を射た男が見つけた湯

まず伝説から。那須温泉神社の公式の案内によれば、湯本から南へ約8キロの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広が、小牛ほどの白鹿を追い、矢傷を負わせてなお追い続けた。霧の中で鹿を見失って立ち尽くしていると、岩の上に白髪の老翁が現れ、自分は温泉の神であり、鹿は谷間の湯で傷を癒しているのだと告げて消える。三郎は白鹿を射止め、温泉を見つけ、神社を建てた。これが神社の創建だという。

鹿の湯の公式サイトが伝える筋は、少し違う。狩野三郎行広が山狩りで射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿が傷ついた体を温泉で癒していた。そこで鹿が見つけた湯という意味で「鹿の湯」と名づけた、という。

二つを並べると、細部の違いがかえって目につく。神社の版では矢は鹿に当たっていて、最後に鹿は射止められる。鹿の湯の版は、射損じて逃げた鹿が傷ついた体を湯で癒していた、とあるだけで、最後に鹿がどうなったかは書いていない。どちらの版でも、傷ついた鹿を追って湯にたどり着いたのは、鹿に矢を向けた当の男で、湯はその傷を癒す場所として現れる。そして神社の版では、湯に浸かっていた鹿を、男が最後に仕留めて話が終わる。

動物が自分で湯治をしていた、という構図は、温泉の由来としては分かりやすい。人間が効能を言い出す前から、湯そのものに何かがあったのだと思わせてくれるからだ。けれど神社の版に従えば、その鹿に矢を当て、最後に仕留めたのも、湯を見つけた人間だった。開湯の話の芯に、狩りの話が埋まっている。この記事の前半は、この組み合わせ、つまり癒すものと殺すものが同じ場所から出てくる話を追いかけることになる。

記録はどこまで遡れるか

鹿の湯の歴史のページは、伝説とは別に「公式には」と断ったうえで、聖武天皇の御世の天平10年(738年)の正倉院文書の中に那須温泉の記録が残されている、と書いている。那須温泉神社の由緒も、奈良時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書からも明らかだ、としている。

この文書がどういうもので、誰がどう那須の湯に関わったのかを、私は原本の翻刻でまだ確かめられていない。だからここでは、鹿の湯が738年という年を挙げ、神社も正倉院文書に触れている、という点だけを使う。伝説の630年とは、およそ百年の開きがある。

次の手がかりは、平安時代の国史『日本三代実録』である。翻刻で原文を当たると、貞観5年(863年)10月7日の条に、下野国の従五位上・勲五等の温泉神に従四位下を授けた、という記事がある。さらに貞観11年(869年)2月28日の条には、従四位下・勲五等の温泉神を従四位上に進めた、とある。この条の温泉神には国名が付いていないが、直前の二荒神の記事が下野国のもので、位階も863年の記事から続いているので、同じ下野の温泉神と読める。神社の由緒が「貞観11年に従四位上を授けられた」と書いているのは、この後者の記事に当たる。国史の本文には「那須」の字はなく、あるのは「下野国の温泉神」という書き方なので、これを那須の温泉神社と結びつけているのは神社の側の読みだ、ということは添えておく。

神社の沿革は、延長5年(927年)に延喜式神名帳に記載された、とも書いている。現在、那須郡内には約八十社の温泉神社がある、というのも神社の説明だ。また神社は、『平家物語』で那須与一が扇の的を射る前に祈った神々の中に「那須温泉大明神」の名がある、と紹介している。

年表にしてみると、話の順序がはっきりする。伝説は630年を言い、記録は738年から始まり、国が神に位を与えた記事は863年と869年に出てくる。鹿の湯の案内は、伝説の年と「公式には」の記録の年を、はっきり書き分けて並べている。どちらかが他方を打ち消しているわけではない。読む側に残るのは、湯の年齢には二つの数え方がある、という事実のほうだ。

入り方を決めているのは誰か

その湯は、いまどう入るものとされているのか。鹿の湯の公式サイトに書かれた入浴法は、かなり細かい。まず、ひしゃくで湯をかぶる(かぶり湯)。大人でおよそ200回、子どもでおよそ100回。ひざを湯のふちに近づけ、頭を下げ、湯をはね出さないよう静かに、とある。のぼせや吐き気を防ぐための入浴法だという。

浴槽は41、42、43、44、46、48℃の6種類で、女湯には48℃がない。入り方は、腰まで1分、胸まで1分、首まで1分を繰り返す短熱浴で、1回の入浴は15分ほど、1日の入浴は最高4回が適当だとする。泉質は単純酸性硫黄温泉(硫化水素型)で、pHは3未満。建物は昭和16年に改築されたものを受け継いでいるという。

私が面白いと思うのは、施設自身が回数に上限を書いている点だ。温泉のページの「鹿の湯の効能と入浴Q&A」では、回数が多いほど湯治の効果が上がるわけではなく、回数より入浴方法が大切だ、と答えている。効く湯を売る側が、多ければ多いほどよいとは言っていない。薬の箱に用量が書いてあるのと同じ理屈で、効くと言うものほど、上限を書く。

では、その「効く」の中身を決めているのは誰か。温泉の適応症や禁忌症は、施設が自由に書いているわけではなく、国の基準がある。環境省が日本温泉気候物理医学会の監修で作った冊子「あんしん・あんぜんな温泉利用のいろは」(平成31年3月)によると、温泉の禁忌症、入浴・飲用上の注意、適応症を最初に定めたのは厚生省で、昭和29年(1954年)のこと。昭和57年(1982年)に環境庁が改訂し、今回、学会の協力のもとで「最新の医学的知見と科学的根拠を踏まえた改訂」を行った、と冊子は説明している。冊子の後ろの問答によれば、その改訂は平成26年(2014年)のことで、昭和57年に策定したものから病名などを分かりやすく書き、最新の医学的知見をふまえた修正を行った、という。

冊子は泉質ごとに特徴と適応症を並べている。硫黄泉の特徴は「殺菌力が強く」、表皮の細菌やアトピーの原因物質を取り除く、とされ、浴用の泉質別適応症はアトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、慢性湿疹、表皮化膿症。硫化水素型の場合は末梢循環障害が加わる。

冊子の説明では、昭和57年の改訂の次が平成26年の改訂で、その間は三十年あまりある。改訂の理由に「最新の医学的知見」を挙げる以上、それまでの基準は、その知見がまだそろっていなかった時点のものだった。基準は動く。いま読める適応症の一覧も、ある時点の知見で書かれたものだ。

冊子には「伝統的な適応症って?」という小さな囲みもある。適応症を国が定めたのは昭和29年だが、それ以前から温泉の効能は存在していて、江戸時代の番付が有名だ、と書く。そのうえで、現在は伝統的な適応症については、専門的な知識を有する医師の意見を聴いて決定することになっている、とする。昔から効くと言われてきたこと自体は、そのまま基準にはならない、という意味に私は読んだ。

根拠の質をもう少し具体的に見るために、国の研究費で行われた調査を一つ読んでみる。厚生労働科学研究の「温泉利用が健康づくりにもたらす総合的効果についてのエビデンスに関する研究」(研究代表者・前田豊樹、2015年の総合研究報告書)は、別府市の65歳以上の高齢者2万人にアンケートを郵送し、11,058通の有効回答を解析した。病気の既往と、温泉の入り方(頻度、期間、泉質など)を照らし合わせたもので、要旨は、入浴の頻度・期間・泉質によって高血圧、高脂血症、うつ病、気管支喘息、慢性肝炎の発症を抑制する可能性が「示唆された」と書いている。

泉質の比較に使えたのは単純泉、塩化物泉、炭酸水素塩泉の三つだけだった、と報告書は説明している。別府では十種類の泉質が使われているが、統計の解析に耐えるだけの利用者がいたのがこの三つだったからだ。那須湯本の硫黄泉は、この比較の外にある。

そしてこの種の調査には、読むときに気をつけたい性質がある。毎朝ジョギングを続けている人が健康なのは、走っているからなのか、それとも走り続けられるくらい健康な人が走っているからなのか。アンケートで「温泉によく入る人ほど病気の既往が少ない」と分かっても、同じ問いが残る。報告書もこの問題を意識していて、温泉の入り方が病気に影響したのか、病気になったことで入り方が変わったのかを見分けるために、過去1年以内の発症を尋ねる設問を加えている。それでも要旨の言い方は「可能性が示唆された」にとどまる。効くか効かないかを断じる材料ではなく、効くと言うときの言葉がどのくらいの強さまで許されるのかを測る材料として読むのがよさそうだ。

石の毒気と、それを割った僧

湯本には、もう一つの名所がある。那須町の案内によれば、殺生石は那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の、湯川に沿ったところにある。いまも独特の硫黄の香りが漂っている、と町は書く。

町の案内が伝える伝説はこうだ。平安の昔、帝の愛した妃「玉藻の前」は、天竺、唐から飛来した九尾の狐の化身だった。帝が日に日に衰えていく原因を、陰陽師の阿倍泰成が見破り、上総介広常と三浦介義純が狐を追い詰めて退治すると、狐は巨大な石に化身して毒気をふりまき、そこを通る人や家畜、鳥や獣に害を及ぼした。やがて源翁和尚が一喝すると、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残った。それが殺生石だという。

町の案内が名を挙げる源翁(玄翁)は、Wikipedia の項目では南北朝時代の僧とされる。大工道具の玄能(げんのう)の名も、この僧に由来するとされる。九尾の狐が石になる筋については、下野新聞が「室町時代の文献などによると」と紹介している。殺生石は1957年に栃木県の史跡に、2014年3月18日には「おくのほそ道の風景地」の一群として国の名勝に指定された。

その「おくのほそ道」の旅で、松尾芭蕉は元禄2年(1689年)にここへ来ている。那須町の案内が引く本文は「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」。句は「石の香や 夏草赤く 露あつし」。芭蕉が書き留めたのは、地面が見えなくなるほど重なって死んだ蜂や蝶だった。伝説がどう語られていようと、観察そのものは具体的で、火山ガスで説明のつくものだった。

名前の由来について、産経新聞は、付近一帯でかつて火山性の有毒ガスが噴出し、鳥や小動物が死んだことから「生き物を殺す石」と信じられ、この名がついたとも言われる、と書いている。毒の正体が狐の怨念ではなく火山ガスだと分かったいま、伝説は説明としての役目を終え、名前だけが残った格好だ。

伝説の石と、記録の山

ところで、伝説の中で毒を吐いていたのは石だった。記録の中で人を死なせたのは、山のほうである。

気象庁の「那須岳 有史以降の火山活動」は、日本活火山総覧(第4版)に基づいて、茶臼岳の噴火を年ごとに並べている。その最初の行が、応永15〜17年(1408〜10年)の噴火だ。2月24日から翌々年の3月5日まで、水蒸気噴火からマグマ噴火へ移り、火砕物の降下、火砕流、泥流、溶岩流が起きた。那珂川が黄色く変わり、死者180余名、牛馬にも多数の被害が出た。火山爆発指数は4とされている。

産経新聞は、高僧の一喝で石が割れたのを600年以上前の出来事と伝えている。町の案内はこの僧を源翁和尚としている。源翁を南北朝時代の僧とする記述に従えば、それは14世紀のことになり、この噴火とは長くても数十年しか離れていない。二つに因果があると言うつもりはないし、そう書いた資料も私は見ていない。ただ、伝説が石の毒の終わりに置く時代と、ほぼ同じころに、実際に人を百八十人あまり、牛馬も多数死なせた山があった。伝説の毒より、記録の噴火のほうが規模は大きい。

気象庁の表はその後も続く。弘化3年(1846年)の水蒸気噴火、明治14年(1881年)の噴火では那珂川の魚に被害が出た。昭和28年(1953年)と昭和38年(1963年)には、茶臼岳西側の「無間火口」と呼ばれる噴気地帯で噴火があった(1963年について、気象庁は「小爆発」と書いている)。無間とは、仏教で最も深いとされる地獄の名だ。火口の名前は、いまも地獄の語彙で呼ばれている。

殺生石のまわりで生き物が死ぬのも、過去の話ではない。下野新聞によれば、2022年12月7日、殺生石園地を管理する環境省日光国立公園那須管理官事務所の職員が、イノシシ8頭の死骸を見つけた。成獣3頭、一回り小さい幼獣5頭で、園地の中でも特に硫化水素や亜硫酸ガスの発生が多いとされる殺生石の右奥付近に横たわっていた。群れで迷い込み、火山ガスを吸ったとみられている。事務所の職員は、殺生石で見つかる動物の死骸の多くはキツネやタヌキで、イノシシの報告は初めてだ、と話している。

同じ職員は、人間の場合は極端に近寄らなければ基本的に問題はないが、動物は人間より低い姿勢のため、より影響を強く受けるのではないか、と推測している。そのうえで、幼い子どもやペットを連れた人には注意してほしい、柵を越えることは絶対にやめてほしい、と呼びかけた。同じ空気を吸っていても、鼻の高さが違えば吸うものが違う。芭蕉の見た蜂や蝶から、キツネ、タヌキ、イノシシへ。職員の推測が当たっているなら、石の毒気は、地面に近いものから順に届くことになる。

石が割れたとき、何が起きたか

2022年3月5日、殺生石が真っ二つに割れていることが分かった、と下野新聞は報じた。関係者によれば数年前からひびが入っていたことが確認されていて、自然に割れたとみられる。町の観光商工課は、観光客が投稿した情報などから、割れたのはここ数日ではないかとみていた。岩は真ん中付近から割れ、周りを囲んでいたしめ縄も切れていたという。

産経新聞によると、割れた状態で見つかったのは観光客がツイッターに画像を投稿したことがきっかけで、地元の観光協会も、石が以前からひびの入った溶岩で、自然現象で割れたとみられる、と説明していた。SNSでは「封印されていた九尾の狐が解放されたのでは」といった書き込みが広がった。石が割れたことは地元でも「一大事」と受け止められ、3月末には那須町観光協会による慰霊祭と平和祈願祭が行われた、と同紙は伝えている。

ひびの入った溶岩が割れた、という説明は、それだけで足りている。それでも広がったのは、封印が解けたという読み方だった。私はこれを笑う気にはなれない。説明が手元にあっても、反応のほうは古い文法で動く。芭蕉の時代の人が蜂蝶の死を毒気の話として受け取ったのと、2022年のSNSが割れ目を封印の話として受け取ったのとでは、使える知識の量はまるで違うのに、最初に手が伸びる先はそれほど変わっていない。違いがあるとすれば、いまはその反射を、あとから自分で点検できる材料がそろっていることくらいだ。

御用邸の森が、国立公園の森になるまで

那須という地名に、湯治場とは別の響きが加わったのは近代のことだ。観光庁の多言語解説文データベースに収められた解説文によると、那須御用邸は1890年から御用地として整備されてきた土地に、1926年に建てられた。その数年前の1923年、皇太子だった昭和天皇が初めて那須温泉を訪れ、景観に感動して別荘を建てることにした、という経緯である。栃木県の紹介によれば、植物学者でもあった昭和天皇は付近一帯の植物を調べ、他の学者たちとともに『那須の植物』『那須の植物誌』などを出版している。

同じ解説文は、御用邸は観光客に開放されたことはないが、その存在が夏のリゾート地としての地位を大きく高め、1960年代はじめから人気が急上昇し、1980年代から年間約500万人がこの地域を訪れるようになった、と書いている。

ここで一つ、反転がある。1,225ヘクタールあった御用地のうち、約560ヘクタール、つまり半分近くが、2008年に宮内庁から環境省へ所管換された。環境省は、この旧御用邸用地を日光国立公園の「那須平成の森」として整備し、2011年5月22日に一部を開園すると発表した。発表の時点では、森は自由に散策できる入園無料の「ふれあいの森」と、予約制で有料のガイドウォークでしか入れない「学びの森」に分かれるとされた。皇室のための土地として宮内庁が管理していた場所の半分近くが、環境省の管理する森になり、その一部は誰でも無料で歩ける場所とされたことになる。その一方で、隣の那須塩原市の別荘地には、また別の時間が流れていた。

建てていない土地にも、管理費はかかるのか

2025年6月30日、最高裁判所第一小法廷は、那須塩原市にある別荘地をめぐって一つの判決を出した(令和5年(受)第2461号)。判決が前提にした事実(原審が確定したもの)はこうだ。

管理会社は1982年以降、別荘地内の土地の所有者と個別に管理契約を結び、管理を続けてきた。中身は、道路、側溝、マンホールなどの雨水排水設備、街路灯、消火栓、ゴミ集積所の保全と維持管理。毎日2回のパトロール、道路ゲートの開閉、関係者以外の立ち入り防止、災害時の見回り。道路の両脇の草刈りと、U字溝の清掃。管理費は1区画あたり年3万6,000円(消費税別)とされていた。

訴えられた所有者は1993年に1区画を買ったが、建物を建てておらず、土地を使ってもいなかった。管理契約も結んでおらず、管理費も払っていなかった。管理会社は、2016年7月から2021年6月までの5年分、管理費と同じ額を、法律上の原因のない利益(不当利得)として返すよう求めた。

原審(控訴審)は、管理が土地の経済的価値にどう影響したかは不明なので、所有者が利益を受けたとは認められない、として請求を退けた。最高裁はこれを破棄した。管理は別荘地の全体を対象とし、全ての所有者に利益を及ぼすもので、契約していない一部の所有者だけを利益から外すのは難しい。だから、土地に建物を建てて使っているかどうかにかかわらず、所有者には利益が生じている。土地の経済的価値への影響が不明だったとしても、その結論は変わらない、と。最高裁は所有者の控訴を棄却し、請求を認めた第1審の判決を維持した。

判決は、払わないことを認めた場合の影響にも触れている。払っている所有者との間に不公平が生じる。管理の原資が減り、別荘地の基本的な機能や質に悪影響が出るおそれがある。管理は所有者が個別にできるものではなく、自治体による提供も期待できず、この会社以外に提供できる者もうかがわれない。そして所有者は、そこが別荘地だと分かってその1区画を買ったことが明らかだ。そうした事情を踏まえ、判決は、所有者が管理の提供を「望んでいなかったとしても」、管理費として相当と認められる額の負担を免れることはできない、と述べた。それが契約自由の原則に反しないことは明らかだ、とも。裁判官全員一致の判断だった。

この理屈は、マンションの共用廊下の照明に似ている。自分は夜に廊下を通らないから電気代は払わない、と言っても、廊下が明るいことの恩恵は、通る通らないにかかわらず建物全体に及んでいる。別荘地の道路や街灯やパトロールも、建てていない区画の前を同じように通っている。違うのは、マンションには管理規約があるのに対し、この別荘地では、契約を結ばなかった所有者との関係を、裁判で決めることになったことだ。

判決が扱ったのは一つの別荘地の一つの区画で、年3万6,000円という額も、那須一帯の相場を示すものではない。判決はむしろ、この別荘地が「現在も別荘地として利用されている」ことを前提にしている。だから、ここから那須の別荘地全体について何かを言い切ることはできない。言えるのは、この別荘地について、別荘地と分かって区画を買い、管理契約を結んでいない所有者にも、建物を建てて使っているかどうかにかかわらず、管理費として相当と認められる額を不当利得として返す義務がある、と最高裁が判断したことまでだ。

数字のずれは、どちらを向いていたか

那須湯本とその周りで拾った数字を並べ直してみる。湯の年齢について、伝説は630年を言い、記録は738年から始まり、千三百年といううたい文句はその二つの年の間にあった。湯の効き目について、施設は1日4回までと上限を書き、国の基準は平成26年に改訂され、研究は「示唆された」という言い方にとどまった。石の毒について、伝説は狐の怨念を語り、記録は1408年からの噴火で180余名の死者を数え、2022年にはイノシシ8頭が倒れているのが見つかった。

そして隣の那須塩原市の別荘地については、最高裁が、建てていない区画の所有者も、望んでいなかったとしても、管理費として相当と認められる額は負う、と判断した。

語られ方と記録の間に隙間がある点は共通していても、隙間の向きはそろっていない。湯の年齢では、丸い数字が伝説の年と記録の年のどちらにも掛かっていた。毒では、記録のほうが伝説より大きかった。効き目では、施設の上限や研究の「示唆された」のように、控えめな言葉のほうが資料に近かった。一つの物差しで全部を測れないのは、そのためだ。

残るのは、鹿の話に最初から入っていた組み合わせだろう。同じ山が湯を出し、同じ山が生き物を死なせる。前半で追ったのは、癒すものと殺すものが同じ場所から出てくる話だった。最後の判決が扱ったのは、殺すものではなく、建てていない区画にもかかる管理費のほうで、話の向きはそこで少し変わっている。それでも、受け取るものと差し出すものが一つの場所に重なっている、という形は似ている。その場所で、何を受け取り、何を差し出しているのか。湯につかるときにも、地図の上の一区画を眺めるときにも、問いの形は案外近い。

出典

  • 那須温泉神社 公式サイト「御由緒」「那須温泉神社のご案内」(創建の伝承、沿革、正倉院文書・貞観11年の叙位・延喜式・郡内の温泉神社の数・『平家物語』の那須与一についての紹介)
  • 那須温泉 鹿の湯 公式サイト「歴史」「温泉」(開湯の伝承、天平10年〈738年〉の正倉院文書についての紹介、入浴法、泉質、温泉のページの「鹿の湯の効能と入浴Q&A」)
  • 正倉院文書(天平10年)— 原本・翻刻は未見。本文の記述は鹿の湯・那須温泉神社の紹介による(二次情報)
  • 『日本三代実録』巻7(貞観5年10月7日条)、巻16(貞観11年2月28日条)— Wikisource 所収の翻刻で確認
  • 延喜式神名帳 — 本文の記述は那須温泉神社の沿革による(二次情報)
  • 『平家物語』「那須与一」— 本文の記述は那須温泉神社の紹介による(二次情報)
  • 那須町「国指定名勝『殺生石(せっしょうせき)』と那須伝説『九尾の狐』」(町公式サイト、令和3年3月2日更新)
  • 松尾芭蕉『おくのほそ道』元禄2年(1689年)の旅 — 引用の本文と句の表記は那須町の上記ページによる
  • 下野新聞「殺生石 真っ二つ 以前からひび、自然現象か 那須」2022年3月6日
  • 産経新聞「2つに割れた那須の『殺生石』 憶測呼ぶ『九尾の狐』伝説」2022年4月10日
  • 下野新聞「那須の殺生石にイノシシ8頭死骸 九尾の狐伝説の地、有毒ガスか」2022年12月9日
  • 気象庁「那須岳 有史以降の火山活動」(日本活火山総覧 第4版〈気象庁編、2013〉による)
  • 環境省自然環境局(監修:日本温泉気候物理医学会)「あんしん・あんぜんな温泉利用のいろは」平成31年3月
  • 前田豊樹(研究代表者)「温泉利用が健康づくりにもたらす総合的効果についてのエビデンスに関する研究」平成24〜26年度 厚生労働科学研究費補助金 総合研究報告書、2015年5月
  • 観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」那須御用邸に関する解説文(2件)
  • 栃木県「とちぎのあらまし 幕末から近・現代まで 御用邸」
  • 環境省 報道発表「日光国立公園『那須平成の森』の開園について(お知らせ)」2011年2月22日(開園予定の告知。2026年時点の入園条件は未確認)
  • 最高裁判所第一小法廷 令和7年6月30日判決(令和5年(受)第2461号 不当利得返還等請求事件)
  • Wikipedia「源翁心昭」— 源翁を南北朝時代の僧とする記述(同項目は生没年を1329〜1400年とする)と、玄能の名の由来はこの項目による(二次情報。一次資料は未確認)
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