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年収800万と1,000万の差は、手取りで月11万円——収入と幸福の「頭打ち」を、測り直す
年収800万円と1,000万円の差は、独身会社員の試算で手取り年約133万円。幸福の「頭打ち」は、米国の再解析では、日々の気分の分布の下位15〜20%あたりにだけ見えた。収入が効く場面を、四つの軸で分ける。
進路を選ぶとき、年収は、いちばん比べやすい基準だ。大学の学部、就職先の業界、会社の規模を、数字ひとつで並べられる。やりがいや人間関係、時間の自由は、数字にならない。年収は、数字になる。数字になるものは、数字にならないものより、重く扱われやすいように思える。
この記事は、「進路の基準を疑う」シリーズの二本目で、年収を扱う。賃金は大事なのか、大事でないのか。先に、三つの数字を挙げておく。年収800万円と1,000万円の差は、独身の会社員の試算で、手取りでは年に約133万円、月に約11万円になる。「幸福は年収7.5万ドルで頭打ちになる」と最初に報告した研究者は、2023年に、その結論を共同の再解析で書き直した。そして、日本の内閣府の調査で、世帯年収と家計・資産への満足度が直線的に重なる部分は、4%ほどだった。
結論を先に書くと、「大事でもあるし、大事でもない」になる。ただ、それをどちらつかずの言い方にしないために、「大事」を一語のまま使わず、どの意味で、どの条件のときに大事なのかを、研究の数字で分けていく。扱う研究の多くは米国のもので、日本のデータは薄い。確認の水準は、出典の欄に書いた。
年収の差200万円は、手取りでいくらか
最初に、年収800万円と1,000万円の差を、手取りに直しておく。額面の差は200万円だが、手元に残るのは、それより少ない。
独身で、扶養する家族がなく、40歳未満の会社員で、東京の協会けんぽに入っている、という条件で試算した。給与は毎月同じ額で、賞与はないものとし、令和8年分の所得税と、令和8年度の社会保険料率を使った。住民税は、基礎控除43万円と均等割5,000円(森林環境税を含む)で計算している。この控除額は、令和8年度は改正がない、と総務省の資料の紹介にあるが、私は総務省の原文までは確認していない。所得税の基礎控除は、年収800万円で67万円、1,000万円で62万円と、所得に応じて段階がある。
年収800万円の手取りは、約595万円(額面の74.3%)。年収1,000万円の手取りは、約727万円(72.7%)。差は約133万円で、額面の差200万円の約3分の2になる。額面の差200万円のうち、所得税が約39万円、住民税が約18万円、社会保険料が約10万円から11万円増え、合わせて約67万円が引かれる。差が200万円より小さくなるのは、増えた分に、所得税も住民税も保険料も、かかるからだ。どちらの年収も、所得税の税率は20%の帯に収まっていて、増えた分の限界の負担は、平均の負担より重い。
この試算には条件がある。月給だけで賞与がない仮定のとき、厚生年金は、年収800万円の時点で、保険料の上限に達していて、増えない。賞与がある場合は、賞与にも上限がかかる別の計算になり、手取りの差は、約120万円ほどに縮む。「月に約11万円」は、手取りの差133万円を12か月で割った額だ。
この11万円は、小さくはない。ただ、この記事が問うのは、その差が、幸福や選択に、どれだけ効くのかだ。
収入が増えると、幸福は頭打ちになるのか
収入と幸福の関係は、長いあいだ、「頭打ちがある」と言われてきた。きっかけは、KahnemanとDeatonが2010年に発表した研究だ。米国で45万人を超える回答を使い、人生をどう評価するかは、収入の対数に沿って上がり続けるが、日々の感情の良さ(情緒的な幸福)は、年収約7万5,000ドルを超えると、それ以上は上がらない、と報告した。「年収7.5万ドルで幸福は頭打ち」という言い方は、ここから広まった。
ここで、二つの言葉を説明しておく。一つは「幸福」の種類で、自分の人生をどう評価するかという「人生の評価」と、その日、その場で、どんな気分だったかという「日々の感情」がある。2010年の研究が頭打ちを見つけたのは、後者のほうだ。前者は、頭打ちにならず、上がり続けていた。この区別は、広まる過程で、しばしば落ちる。もう一つは「対数に沿って」という言い方で、収入が同じ割合で増えるごとに、幸福が同じだけ上がる、という意味だ。300万円から500万円は1.7倍、800万円から1,000万円は1.25倍で、同じ200万円でも、割合は違う。
2021年に、Killingsworthが、これに反する結果を出した。米国の働く成人33,391人を対象に、1,725,994回の、その場の気分の記録(スマートフォンの通知に、その場で答えてもらう体験サンプリングという方法)を集めた研究で、体験した幸福も、人生への満足も、収入の対数に沿って直線的に上がり、7.5万ドルを超えても、頭打ちの証拠はなかった。
この二つの研究の著者が、2023年に、共同で解析し直した(Killingsworth、Kahneman、Mellers)。結果は、どちらも部分的に正しく、頭打ちがあったのは、日々の幸福度の分布の、下位15%から20%あたりの人たちだけだった。たとえば、下位15%のあたりでは、収入と幸福の関係を表す傾き(収入の対数が1増えたときの、幸福度の増え方)が、年収10万ドル以下で1.90、10万ドルを超えると0.34で、後者は有意とは言えなかった。有意とは、偶然では起きにくい、という意味だ。下位5%のあたりでは、10万ドル以下の傾きが2.34と大きく、10万ドルを超えると0.25だった。一方、幸福度が最も高い上位の人たちは、10万ドルを超えても、傾きが小さくならず、上位85%のあたりでは、むしろ大きくなっていた。
二人の研究者が、別々の調査で、一人は「折れている」と言い、一人は「折れていない」と言った。2023年に、二人が同じ記録を見直すと、折れていたのは、いちばん下の束だけだった。著者らは、2010年の結論を、「幸福」ではなく「不幸」について書いていれば、正しい結論になっていたかもしれない、と述べている。頭打ちは、全員のものではなかった。
この解析にも、批判がある。RohrerとWenzが2024年に、「下位15%」のような分位の区切りは、特定の人を指さず、人の順位が変わらない、という仮定が要ると指摘した。Killingsworthらは、同じ年に応答している。この論争は、決着していない。
標本にも、限りがある。33,391人の米国の就業者で、世帯年収の中央値は8.5万ドル。年収が1万ドル未満の世帯は含まれず、10万ドル以上の層は含まれている。通知に答え続けた人は、答える余裕のある人かもしれない。2010年の研究の対象は、2008年から2009年の米国の住民で、就業者に限らない。結果は、米国の、主に働いている人の話で、日本の年収800万円と、為替の換算だけでは、並べられない。
頭打ちを探した研究は、この三つだけではない。StevensonとWolfersが2013年に発表した研究は、複数の国のデータと、満足度についての複数の質問を使って、収入との関係を調べた。結果は、収入の対数に対して、ほぼ直線的で、収入が増えても、関係が弱まる様子は見えなかった。飽和点があるとしても、まだ到達していない、と著者らは書いている。国をまたいで見ても、同じ国の中で見ても、同じ形だった。頭打ちの証拠は、研究によって、見つかったり見つからなかったりする。見つかったのは、日々の気分を見た研究で、再解析では、幸福度が低い側に限られていた。
日本の数字は、何を言えるのか
日本のデータで、同じ問いを見る。内閣府が2019年と2020年に実施した調査をまとめた報告書(満足度・生活の質に関する第4次報告書)では、総合的な生活満足度(0から10)が、世帯年収の階級別に示されている。回答者は、2年分を合わせて約1万5,600人のインターネット調査だ。
世帯年収700万円から1,000万円の層は6.27、1,000万円から2,000万円の層は6.51で、差は0.24点。もっとも高いのは、2,000万円から3,000万円の層の7.00だが、この層の回答者は135人しかいない。1億円以上の層は6.11で、44人だった。500万円未満の層は、どれも5.69以下で、700万円から1億円未満の層は、どれも6.27以上だった(1億円以上は6.11、44人)。階級のあいだの差は、2,000万円までは、一段ごとに、0.17から0.49まで、ばらつく。
この数字から言えることは、限られている。年収の低い層と高い層で、満足度に差があることは、確かだ。ただ、「800万円で頭打ち」とは、この報告書の図からは読めない。0.24点は、700万円から1,000万円の層と、1,000万円から2,000万円の層の平均の差で、年収800万円と1,000万円の差ではない。階級が上がるほど、回答者の数が減るので、上の階級の値は、ぶれが大きい。個人の年収と満足度の関係を、800万円と1,000万円で直接比べた査読論文は、確認できた範囲では、見当たらなかった。
同じ報告書の、別の図もある。世帯年収と、家計と資産への満足度の相関係数は、0.21だった。相関係数は、二つの量が一緒に動く傾向を、マイナス1からプラス1の値で表したもので、0.21は、正の向きではあるが、弱い。二乗すると約0.044で、家計と資産への満足度のばらつきのうち、世帯年収と直線的に重なる部分は、4%ほどにすぎない。残りの部分には、収入以外の事情も、測り方のばらつきも、直線にならない関係も含まれる。収入は、満足度を決める一つの要素で、決定的な要素ではない。同じ調査で、家計と資産への満足度だけを見ると、いちばん高いのは、世帯年収3,000万円から5,000万円の層だった。
足りないうちは、足りないことが効く
「年収は幸福と関係ない」という読みは、どの研究からも出てこない。収入が低い側では、はっきり関係している。
内閣府の同じ調査で、世帯年収が100万円未満の層の総合満足度は5.04、100万円から300万円の層は5.21、300万円から500万円の層は5.69だった。100万円未満の層と、700万円から1,000万円の層とでは、1.2点ほど開く。700万円から1,000万円と、1,000万円から2,000万円の差は、0.24点だ。
Kahnemanたちの2010年の研究も、低い収入が、離婚、病気、孤独といった、感情の痛みを悪化させる、と報告している。2023年の解析でも、幸福度の低い層では、収入の傾きが、いちばん大きかった(下位5%のあたりで2.34)。収入が少ない層ほど、不幸の度合いが大きい。ただし、これは、ある時点の数字を並べたもので、病気や失業が、収入と満足の両方を下げている可能性は、分けられない。収入が増えれば不幸が和らぐ、とまでは言えない。
だから、「大事でもあるし、大事でもない」の、「大事」の側は、はっきりしている。足りないうちは、年収は、幸福と強く結びついている。「大事でない」が成り立つのは、一定の水準を超えた先で、しかも、それは全員に当てはまるわけではない。
周りと比べるとき、収入の意味は変わる
幸福に効くのは、収入の絶対額か、周りとの比較か。この問いにも、研究がある。
Luttmerが2005年に発表した研究は、米国の約1万人を、1987年から1994年にかけて追った調査を使っている。自分の所得を一定にしたとき、近くに住む人の所得が高いほど、自分の幸福度は低かった。近隣は、平均で約15万人の地域だ。近隣の所得の上昇に対する幸福度の低下は、自分の所得が同じだけ下がったときの低下と、同じ桁の大きさだった。近隣の所得は、職業の構成から予測した値で、選別や、幸福度の測り方の変化では、説明がつかない、と著者は書いている。
英国の家計パネルを使った、ClarkとOswaldの1996年の研究では、仕事の満足度は、その人の賃金を、同じ条件の人の予測賃金と比べた値と、逆の関係にあった。比較の相手の賃金が高いほど、自分の仕事の満足度は低い。
収入に慣れる、という話も、もっともなのだが、その大きさは、研究で割れている。Di Tellaらが2010年に発表した研究は、所得の効果の大部分が数年で消える一方で、周りと比べた地位の効果は消えない、と報告している(出版版の要旨は、ドイツの個人パネルで、4年後には所得の有意な効果が残らない、と述べる。所得の効果の65%が4年で消える、という数字は、一部の要旨にだけある)。一方、LindqvistとÖstlingとCesariniが2020年に、スウェーデンの宝くじの高額当選者を調べた研究では、人生の満足度の上昇が、10年以上続いた。宝くじは、年収の差とは別物だが、「慣れ」の大きさが、一つの値に決まらないことは示している。
年収の効き方は、比べる相手によって、変わりうる。1,000万円を稼ぐ人が、周りの多くが2,000万円の環境にいれば、800万円の人が、周りの多くが500万円の環境にいる場合より、満足は低いかもしれない。進路を選ぶときに、年収を数字で比べるのは、その年収を、どの環境の中で受け取るのかを、見落とすことにもなる。
長く残るのは、どんな人か
ここまで、ある時点の年収の話をしてきた。進路の選択は、その時点だけでなく、そこから先の年収の伸び方に関わる。同じ路線でも、始発駅が違えば、終点までの景色は違う。
カナダの税の記録などの行政データ(アンケートではなく、実際に申告された収入の記録)を使った、Oreopoulos、von Wachter、Heiszの研究がある。1976年から1995年に大学を卒業した男性が対象だ。卒業した年の失業率が5ポイント高いと、新卒の初年度の賃金は、約9%低くなった。その差は、5年後に半分になり、10年後にほぼ消える。つまり、平均では、不況に卒業した損失は、10年ほどで取り戻された。
ただし、平均の裏に、違いがある。卒業前に予想される収入が、最も低い五分位(人を予想収入の低い順に並べて、5等分した、いちばん下のグループ)の人たちは、初年度に約15%低く、10年後も約7.5%低いままだった。一方、最も高い五分位の人たちは、4年で差が2%未満になった。しかも、初期の損失の3割から4割は、最初に入った勤め先の質の低さで説明された。有利な人ほど、早く転職して取り戻し、不利な人は、質の低い勤め先に、長くとどまる。
米国のKahnが2010年に発表した研究は、1979年から1989年に大学を卒業した白人男性について、景気の悪い年に卒業した人の賃金への損失が、観察期間の約20年にわたって続く、と報告している(損失の大きさは、抄録には出ていない)。日本では、Genda、Kondo、Ohtaが2010年に、学歴の低い男性で、卒業時の失業率の影響が、雇用に持続する、と報告している。米国では、同じ学歴の低い層の影響は、一時的だった。大卒者を対象にした米国の研究と、学歴の低い層を対象にした日米の比較で、結論が分かれているのは、集団が違うからでもある。学校を通した採用慣行と、解雇規制が、日本での初期の雇用の損失を長引かせた、と著者らは考察している。
これらは、「就職の時期の運」の話で、進路の選択そのものではない。ここから分かるのは、初期の賃金が、勤め先の選び方を通して、長く残ることがある、という点までだ。年収の差が、その時点だけの差ではなく、そこからの伸び方の差でもありうる、という見方の、材料にはなる。
選択肢には、効くのか
もう一つ、年収が効くかもしれない道筋がある。幸福そのものではなく、選択肢の広さと、失敗したときの余裕だ。
Chettyが2008年に発表した研究は、米国の失業給付を扱っている。失業給付が、失業期間を延ばす効果のうち、約6割は、手元の資金が足りるかどうかによる「流動性効果」で、働く意欲の低下ではない、という結果だった(ワーキングペーパー版の数値)。資金に余裕のない世帯ほど、給付の効果は大きく、一時金を受け取っても、失業期間は大きく延びた。手元の現金が多いほど、次の仕事を探す期間を長くとれる。
この研究は、米国の失業給付の話で、年収の高い人と低い人を比べたものではない。年収の高さが、選択の余裕に変わる、という説明は、この研究から直接は言えない。ただ、道筋としては、もっともらしい。年収800万円と1,000万円の差が、幸福にほとんど効かないとしても、失業や病気のときの余裕には、効くかもしれない。この読みは私のもので、検証されたものではない。
Oreopoulosらの研究にも、似た形が出ている。有利な卒業生は、転職で早く損失を取り戻し、不利な卒業生は、質の低い勤め先に長くとどまる。これは、選択の余裕の違いとも読めるが、研究は、資金の制約を直接検証してはいない。
研究の「年収」と、進路の「年収」は、同じ数字か
ここまで、研究の「年収」と、進路を選ぶときの「年収」を、同じものとして扱ってきた。実は、同じではない。違いを三つ挙げておく。
一つめは、世帯か、個人か。内閣府の調査も、KahnemanとDeatonの研究も、Killingsworthの研究も、Luttmerの研究も、世帯年収を使っている。夫婦で働く世帯は、二人分の収入が合算される。進路を選ぶ個人の年収が800万円か1,000万円かと、その人の世帯年収が800万円か1,000万円かは、別の話だ。一方、ClarkとOswald、Oreopoulosら、Kahnの研究は、個人の賃金や稼ぎを使っている。
二つめは、額面か、手取りか。Killingsworthの研究と、Killingsworthらの2023年の解析は、税引前の世帯年収を使っている。求人票に書かれる年収も、税引前の額だ。額面の差と幸福の関係を見た研究には、額面の差をそのまま当てはめれば足りる。手取りに直して当てはめると、税の分を二重に引くことになる。手取りで見るのは、暮らしに使える額を問うときだ。冒頭の試算のように、額面200万円の差は、手取りでは約133万円になる。
三つめは、ある年の額か、続く額か。研究の年収は、ある時点の額で、その人が、その額を、何年続けるのかは、含まれていない。進路で選ぶのは、一年の年収ではなく、数十年にわたる年収の道筋だ。年収の差が、一時的なのか、続くのかで、幸福にも選択肢にも、効き方は変わるはずだが、この点を直接測った研究は、確認できた範囲では、見当たらなかった。
この三つの違いは、研究の結果を、そのまま進路に当てはめにくくしている。当てはめるときには、「研究の年収」を、「個人」「額面か手取りか」「続く額」に読み替える作業が、一段入る。その作業の結果は、研究の数字より、ぶれが大きい。
四つの軸で、書き直してみる
ここまでの材料を、年収の「大事」を分ける四つの軸で、並べ直す。シリーズでは、各基準を、「大事な場面」「大事でない場面」、その二つを分ける条件、の三つに分けて整理している。年収では、大事な場面は、水準が低いとき、キャリアの初期、選択の余裕が問われるとき。大事でない場面は、水準が十分で、後期で、比べる相手が変わらないとき。二つを分ける条件が、次の四つの軸だ。
- 水準: 足りないうちは、幸福と強く結びついている。一定の水準を超えると、平均的には、結びつきが弱まって見える。ただし、頭打ちがあるのは、日々の幸福度が低いほうの、下位15〜20%あたりの人たちで、残りの人たちは、収入とともに上がり続けるという解析が出ている。日本の数字では、700万から1,000万円の層と1,000万から2,000万円の層の平均の差は、0.24点だった。
- 何を通して効くか: 幸福そのものには小さくても、選択肢の広さと、失敗したときの余裕には、効きうる。この点は、米国の失業給付の研究からの、間接的な傍証にとどまる。
- 時間: キャリアの初期の差は、勤め先の選び方を通して、長く残ることがある。特に、もともと条件の厳しい人ほど、残る。後期の差については、「慣れ」の大きさが、研究で割れている。20代前半の年収の差は、40年のあいだ、形を変えながら続きうる。60歳の年収の差は、その後の期間が短いぶん、残る時間も短い。
- 比較の相手: 所得の効果には慣れても、周りと比べた地位の効果は消えない、という推計がある(Di Tellaら。要旨のみ)。周りと比べるなら、効き方は長く続きうる。
四つの軸は、独立ではない。水準が低い人は、時間の軸でも、比較の軸でも、損をしやすい。初期の賃金が低かった人は、周りと比べたときの差も、その後の選択肢の狭さも、重なって効いてくる。水準の軸で見れば「大事でない」場面でも、時間の軸で見れば「大事」になることがある。
この四つの軸のどれを動かすかで、「年収は大事か」の答えが変わる。ある人にとっての「大事」は、水準の軸の話かもしれないし、別の人にとっては、時間の軸の話かもしれない。
四つの軸を、同じ求人票を前にした、仮の三人の場面に当ててみる。これは、読みやすくするための仮の例で、実在の人の話ではない。求人票には、年収1,000万円と書いてある。
一人めは、生活費が十分に賄えていて、日々の気分も安定している人。水準の軸では、平均的には、この上乗せの結びつきは小さい。ただし、幸福度が高い側の人は、収入とともに上がり続ける、という解析もある。ただ、20代であれば、時間の軸で、その後の伸び方に響くかもしれない。二人めは、生活費がぎりぎりで、日々の気分も沈みがちな人。水準の軸でも、選択の余裕の軸でも、この差は強く効く側にいる。三人めは、周りの友人の多くが、これより高い年収の環境にいる人。比較の軸では、自分の年収が上がっても、満足は思ったほど上がらないかもしれない。
同じ求人票でも、三人にとって、意味が違う。年収を一語で語ると、この違いが、見えなくなる。
一語に収まらなかった「大事」
年収は、大事なのか。この問いに、一つの答えを出すことは、できなかった。出たのは、問いが四つに割れる、ということだ。どの水準の話か。幸福に効くのか、選択肢に効くのか。いつの時点の差か。誰と比べているのか。
求人票の1,000万円は、額面で、税の前で、ある一年の数字だ。手取りに直すと、年200万円の差は約133万円、月にして約11万円になる。世帯に直し、数十年に直すたびに、別の数字になる。直したあとに残る「大事」の中身は、研究の曲線のどこにも、書かれていない。
年収は、数字で比べやすい。比べやすいものは、比べにくいものを隠しやすい。この記事で、数字で見えたのは、年収という一語の中に、少なくとも四つの違うものが、入っていることまでだった。
出典
確認の水準は、全文(本文を読んだ)、抄録(抄録のみ)、試算(私の計算)で示す。
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- Killingsworth MA. 2021. Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year. Proc Natl Acad Sci USA 118(4):e2016976118(抄録)
- Killingsworth MA, Kahneman D, Mellers B. 2023. Income and emotional well-being: a conflict resolved. Proc Natl Acad Sci USA 120(10):e2208661120(全文)
- Rohrer JM, Wenz 他. 2024. KKM 2023 への批判. Proc Natl Acad Sci USA 121(46):e2313712121(要旨相当)。Killingsworth 他. 2024. 同誌 121(46):e2322160121(応答。要旨)
- Stevenson B, Wolfers J. 2013. Subjective well-being and income: is there any evidence of satiation? Am Econ Rev 103(3):598–604(全文。ワーキングペーパー版)
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