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『使い捨てる』と『長く使う』、その分かれ目はどこか
同じように見えるモノの購入でも、消費して終わるものと、直しながら何十年も使うものがある。その違いは値段でも憧れでもなく、修理という一点にあるのではないか、という話。
棚の奥から、祖父の使っていたという万年筆が出てきたことがある。インクは固まり、ペン先は曲がっていたが、専門店に持ち込むと「これは直せますよ」とあっさり言われた。同じ引き出しには、数年前に買った安いボールペンも入っていたが、こちらはインクが切れた時点でそのまま燃えないごみになった。
どちらも「モノを買う」という同じ行為から始まっている。片方は直せて、片方は直せない。その違いはどこで生まれたのか、というのが今日の話の出発点になる。
消費するとは、使い切ることである
「消費」という言葉を辞書的に言えば、モノを使って価値を減らしていく行為ということになる。野菜を食べる、洗剤を使い切る。これは悪いことでも良いことでもなく、モノの性質上そうなっているだけだ。食べ物は消費されるために作られている。
問題は、消費されるようには本来できていないはずのモノ――椅子や時計や道具――までもが、消費財と同じ設計思想で作られるようになったことだ。壊れたら買い替える。修理より新品の方が安い。これは消費者の怠慢というより、単純に修理という選択肢そのものが用意されていないケースが多い。部品が単体で供給されない、修理を前提とした構造になっていない、修理費用が新品価格を上回るように設計時点で調整されている。こうなると、直したくても直しようがない。
ここで一つはっきりさせておきたいのは、これは「安いものが悪い」という話ではないということだ。安価であることと、直せないように作られていることは、本来は別の軸にある。ただ実務上、同じ製品に重なりやすいというだけの話だ。
「長く使えるもの」を分けている、ただ一つの条件
では、直して何十年も使えるモノには何があるのか。素材が良いから、というのはよく聞く説明だが、これは半分しか正しくない。無垢の木材も上質な鋼も、それだけでは長持ちしない。使われている間、摩耗し、劣化する。素材の良さは「壊れにくさ」には効くが、「直せるかどうか」には直接効かない。
実際に効いているのは、次の三つだと思う。
- 構造が分解・再組立てできるように作られているか(接着ではなくネジや継手で組まれているか)
- 消耗する部分が交換可能な部品として独立しているか(革は張り替えられる、ムーブメントは分解掃除できる)
- その修理をできる人と部品が、今もどこかに存在しているか
三つ目が一番厄介だ。どれほど設計が優れていても、部品を作る職人がいなくなれば直せなくなる。逆に、設計として優れていなくても、修理の需要が根強くあるモデルは、部品供給と技術がその周りに維持され続ける。つまり「直せるかどうか」は、モノ単体の性質ではなく、そのモノを取り巻く人とネットワークが今も生きているかどうかで決まる。ヴィンテージの時計や名作椅子が語られるとき、しばしば「価値がある」という言葉で片づけられがちだが、実態はもっと地味で、修理という営みが途切れずに続いているかどうか、というだけのことだ。
直すという行為が、所有の意味を変える
数年に一度オーバーホールに出す時計と、電池が切れたら捨てるだけの時計とでは、持ち主の側の関わり方がまるで違ってくる。前者は、定期的に手放し、専門家に預け、戻ってくるのを待つという一連の手続きを伴う。これは面倒だが、その面倒さの中に、自分がこのモノを「所有している」というより「預かっている」に近い感覚が生まれる瞬間がある。
椅子の張り替えも同じだ。座面がへたるたびに新しい革を張れば、その椅子は買った時の状態には戻らないが、別の状態で存在し続ける。傷や染みの一部は消え、別の履歴が上書きされていく。これは新品を買い直すのとは根本的に違う経験で、モノが自分の生活の時間を蓄積していく感覚に近い。
誤解のないように言っておくと、これは「だから直して使うべきだ」という話ではない。壊れたら買い替えるという選択にも、それはそれで合理性がある。時間もお金も有限で、修理に価値を見出さない人がいてもまったく構わない。ここで言いたいのは、直せる作りのモノを選んだ場合にだけ起こる、ある種の関わり方があるということだけだ。
結果として起きること、目的にすべきでないこと
直しながら長く使えるモノは、結果として中古市場でも値がつきやすい傾向がある。これは観察としては事実だろう。修理体制が生きているということは、それだけ需要が絶えず続いているということでもあるからだ。
ただ、これを目当てに買い物をするのは、たぶん順序が逆になる。値上がりを見込んで何かを買う人と、直しながら使い続けたくて何かを買う人とでは、同じ商品を選んでいても、モノとの関係のつくり方がまったく違う。前者にとってモノは早く手放すべき対象であり、後者にとってモノは長く付き合う相手になる。どちらの態度で買ったかは、後になって、そのモノを実際に使い込んでいく段階でじわじわと効いてくる。
「限定」「希少」「今が買い時」といった煽り文句がこの手のモノの周りには絶えず漂っているが、その多くは持ち主の判断を急がせるための言葉であって、そのモノが直せるかどうかとは何の関係もない。急かされて下した判断は、たいてい後から検証しづらい。
問うべきは、値段ではなく構造
何かを買うとき、値段の高い安いより先に確かめるべきことがあるとすれば、それは「これは分解できる作りか」「消耗する部分は交換できるのか」「それを直せる人は、今どこかにいるのか」ということだろう。この三つに自分なりの答えが出せないモノは、どれほど見た目が良くても、いずれ使い切って終わる消費財と同じ扱いになる可能性が高い。
もっとも、すべてのモノがそうである必要はない。消耗品は消耗品として気楽に扱えばいいし、使い切って捨てることに罪悪感を持つ必要もない。ただ、自分が今手にしているモノがどちらの性質を持っているのかを、買う前に一度だけ考えてみる。それだけで、モノとの付き合い方はずいぶん変わってくるのではないか。祖父の万年筆が今も使えているのは、誰かがそれを「直せる作り」に設計したからであって、それ以上でもそれ以下でもない。
