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マシュマロ実験の神話と、発酵という待つしかない時間

マシュマロ実験の神話と、発酵という待つしかない時間

「待てる子は成功する」というマシュマロ実験の神話は、追試でほぼ崩れている。それでも台所でぬか床をかき混ぜる手が止まらないのはなぜか、待つことの心理学を発酵から考える。

TOMOAKI··趣味

動画は倍速で見て、検索は最短距離で答えに辿り着く。効率が善で、待つことは無駄だという空気に、いつのまにか馴染んでいた。要約サイトを開いて本を読んだ気になり、レシピの手順を三段飛ばしで読んで結果だけを知ろうとする。その反動なのか、最近は台所に「待つしかないもの」を意図的に置くようにしている。ぬか床、味噌、たまに黒にんにく。麹菌や乳酸菌という自分以外の生き物に、時間の使い方を預ける行為だ。どれだけ急いても、菌の代謝速度は早まらない。塩分濃度や温度を整えたら、あとは待つしかない。冷蔵庫を開けるたびに、まだ茶色くなりきっていないにんにくや、まだ塩辛いだけの味噌を見て、進捗を確認するアプリのようにその変化を眺めている自分に気づくこともある。効率化への欲求は、待つ対象を持ち込んだくらいでは、そう簡単には消えてくれない。

ここまでは、よくある話として片づけられる。「せかせかした現代人が、発酵という遅い営みに救いを見出す」——そういう筋書きは検索すればいくらでも出てくるし、正直なところ自分でもそう書きたくなる誘惑がある。だが、この筋書きにはひとつ、確かめずに乗っているだけの前提がある。待つことができる人間は、そうでない人間より何かしら優れている、あるいは何かしら得をしている、という前提だ。これは思ったより脆い土台の上に立っている。今日はその土台を、一つずつ揺らしてみる。

待てる子どもは将来成功する、という神話の出どころ

その前提を最も有名な形で世に広めたのが、スタンフォード大学のミシェルらが1960年代末から1970年代初頭にかけて行った、いわゆるマシュマロ実験である。4歳前後の子どもの前にマシュマロを一つ置き、「今すぐ食べてもいいが、大人が戻ってくるまで我慢すれば二つもらえる」と伝えて部屋を出る。数百人規模で行われたこの実験の追跡調査では、幼児期に長く待てた子どもほど、思春期になってからの学力テストの成績が高いという相関が報告された。具体的には、待てた時間と大学進学適性試験(SAT)の得点との相関係数は言語で0.42、数学で0.57に達し、よく待てた子とすぐ食べた子のあいだには平均で200点以上の得点差があったとされる。

この数字は強烈だった。「4歳の自制心が15年後の学力を決める」という話は、育児書からビジネス書まで幅広く引用され、待つことは単なる忍耐ではなく将来への投資である、という物語の根拠になった。子育て中の親が、子どもにおやつを我慢させる遊びをわざわざ仕込むほどの影響力を持った実験である。うちの台所の隅にある発酵食品にも、どこかでこの物語が忍び込んでいる。待てば待つほど、何かしら見返りがあるはずだという期待だ。

その相関は、追試でほぼ消えた

ところが2018年、心理学者のワッツらが、より大規模で多様な家庭背景の子どもを対象に、この結果を追試している。使われたのは全米規模の二つの長期追跡データで、特に母親が大学を卒業していない家庭の子どもに焦点を当てて分析し直した。結論は、単純な物語を裏切るものだった。待てた時間と思春期の学力の相関は確認されたものの、その大きさは元の研究のおよそ半分にとどまり、さらに家庭の所得や親の学歴、幼児期の認知能力といった要因を統計的に調整すると、相関はさらに3分の1程度にまで縮んだ。待てる子とすぐ食べる子の学力差の大半は、実は「待つ力」そのものではなく、その子がどんな家庭に生まれたかで、あらかた説明がついてしまうということである。行動面の指標にいたっては、思春期での差はほとんど統計的に有意ではなくなった。

皮肉なのは、この追試論文自体が「マシュマロ実験は間違っていた」と単純に言い切ってはいない点だ。待てた時間が1分増えるごとに、15歳時点の学力にはおよそ0.1標準偏差というごくわずかな上乗せ効果が残るとワッツらは書いている。だが強調点は明確で、幼児に我慢だけを訓練しても、それが将来の学力や行動を大きく変える保証はない、という慎重な言い方に落ち着いている。「待てる子は将来成功する」というキャッチーな要約は、注釈と留保をほとんど削ぎ落とした後の姿だったということになる。皮肉なのは、この要約そのものが、待つことを嫌う社会が「待つことにも早く結論を出したい」と急いだ結果でもある、という点だ。じっくり検証された結論より、覚えやすい一行のほうが遠くまで広まる。これは発酵とタイパを並べて語ろうとしている、この文章自体にもそのまま跳ね返ってくる話ではある。

待たない選択のほうが、合理的な場合もある

家庭環境がここまで効くのはなぜか、その仕組みに一歩踏み込んだのが、心理学者キッドらが2013年に発表した実験である。マシュマロを見せる前に、まず子どもに別の約束をしてみせる。片方のグループには、実験者が「後でもっといいクレヨンを持ってくる」と言って実際に持ってくる、信頼できる大人だと印象づける。もう片方のグループには、同じ約束をしたうえで、結局何も持ってこない、あてにならない大人だと印象づけておく。そのうえで例のマシュマロ課題を行うと、信頼できる大人のもとで待った子どもは平均で12分あまり待てたのに対し、あてにならない大人のもとに置かれた子どもは平均でわずか3分ほどしか待てなかった。同じ4歳児が、大人の信頼性という一点だけで、待てる時間に4倍近い差を見せたことになる。

4歳児の集中力の限界を考えれば、わずか一度の裏切りの記憶で、その後の行動がここまで変わるというのは驚くべきことだが、裏を返せば、それだけ子どもは目の前の大人の信頼性を鋭く見積もっているということでもある。これは、待てない子どもの自制心が弱いという話ではなく、約束が守られる保証が薄い環境では、目の前にあるものを今すぐ確保するほうが合理的だ、という話である。家庭の経済的な不安定さが子どもの「待つ力」の低さと結びついているように見えるのも、根っこにあるのは意志の弱さではなく、これまでの経験から導き出した、環境に対するかなり筋の通った予測なのかもしれない。だとすれば、うちの台所で発酵を悠長に待てるという事実そのものが、すでにある種の環境の安定——今日仕込んだものを明日も冷蔵庫で放っておける暮らしの余裕、電気が急に止まらない安心、来月も同じ台所に立っているだろうという見込み——の上に成り立っている。待てることを美徳として語るなら、その手前にある、待つ余裕を許してくれている環境の存在にも、目を向けておいたほうがいい。待てる人間が偉いのではなく、待っても損をしないと確信できる環境の側に、説明の重心はある。

それでも待つことに意味がないわけではない

ここで「だから発酵を待つことにも大した意味はない」と結論づけるのは、また別の早合点だろう。マシュマロ実験が崩れたのは、待つ能力が将来の成功を予言するという、いわば占いとしての機能の話であって、待つという行為そのものが人にとって何をしているかという話ではない。この二つは別の問いだ。将来を占う道具としては頼りなくても、待っている最中にその人の中で何が起きているかという、もっと手前の問いは、まだ手つかずのまま残っている。

待つことの体験そのものに関しては、経営学者マイスターが1985年に提示した「待ち行列の心理学」という古い、しかし今も引用され続けている議論が参考になる。マイスターの要点は、待ち時間の苦痛は客観的な長さだけでは決まらないということだ。何もせず手持ち無沙汰で過ごす時間は、何かに気を取られている時間より長く感じられる。そして、あとどれくらい待てばいいのか見当がつかない不確実な待ちは、終わりが見えている待ちより苦痛が大きい。関連する研究では、規則的な間隔で何かが起きる待ち時間は実際より短く見積もられ、不規則な間隔で起きる待ち時間は逆に長く見積もられる傾向も報告されている。つまり待つことの質を左右するのは、時間の長さそのものよりも、その時間に何をしているか、そしてどれだけ先の見通しが立っているかである。

ぬか床は、この条件をかなり有利な形で満たしている。毎日かき混ぜるという一分程度の作業があるおかげで、手持ち無沙汰な放置時間にはならない。しかも、味噌なら数か月、梅干しなら1年といったふうに、およその期限は見えている。先の見えない待ちではなく、区切りのある待ちだ。発酵が「待つことの美徳」を体現しているというより、たまたま「苦痛の少ない待ち方の条件」——規則的な作業と、見通せる期限——を満たしている、というほうが実情に近いのかもしれない。逆に言えば、期限の見えない発酵、たとえば失敗したのか成功したのか判断がつかないまま放置されたぬか床は、この条件から外れて、ただ苦痛なだけの待ち時間に転落する。

退屈を制御できる人ほど、待つのが苦にならない

マイスターの議論はもともと理論的な整理で、実験による裏付けとしては、2020年に心理学者ヴィトフスカらが行った研究がわかりやすい。99人の参加者に感情や思考を自分でうまく制御する傾向を測る質問紙に答えてもらったうえで、何もない部屋に一人で7分半のあいだ置き、そのあとで体感した時間の長さや退屈さを報告してもらうという実験である。結果は、自分の感情や注意をうまく制御できる傾向が強い人ほど、待っているあいだの時間への意識が薄く、退屈も感じにくく、結果として体感時間も短く見積もる、というものだった。逆に退屈を強く感じた人ほど、時計を何度も気にし、実際より長く待たされたと感じていた。待つことの苦痛の大部分は、外から課された時間の長さではなく、その空白をどう自分で埋めるかという、内側の技術の問題だということになる。7分半という、実験としてはごく短い時間ですら、これだけの個人差が出るのだから、数か月にわたる発酵の待ち時間となれば、その差はもっと大きく開いていておかしくない。

ぬか床を毎日かき混ぜるという儀式は、この意味で理にかなっている。かき混ぜている一分のあいだは、退屈が入り込む隙がない。手を動かし、匂いを嗅ぎ、前日との違いを確かめる。何もしない7分半を耐えるよりずっと簡単な話で、待つことそのものを鍛えているというより、待つ時間に退屈を持ち込まない仕掛けを、台所の隅に一つ作っているだけなのかもしれない。忍耐力という抽象的な美徳の話にしてしまうと大げさになるが、実際にやっていることは、退屈対策としてかなり地味で具体的な工夫にすぎない。数か月単位で待つ味噌のような長い発酵になると、この一分の儀式すら毎日は要らなくなる。かき混ぜる回数が減るぶん、待ち時間に対する意識のしかたも変わり、ふとした瞬間に「そういえばまだ置いてあった」と思い出すような、間欠的な関わり方になる。退屈を管理する仕掛けが薄くなる代わりに、期待そのものが間遠になり、結果として苦にならない待ちに変わっているのかもしれない。

待つ時間そのものに価値を見出す、という説明の危うさ

経済学者ローウェンスタインは1987年の論文で、人は必ずしも「早くもらえるものほど良い」とは考えていないことを示した。愉快な出来事については、むしろ先延ばしにしたほうが価値が上がる場合がある——たとえば好きな映画スターからのキスがもらえるとして、それを3日後に延ばせるなら延ばしたいと答える人が一定数いる、という調査結果を示している。逆に不快な出来事、たとえば電気ショックは、先延ばしにするほど嫌悪の度合いが増す。楽しみを先に延ばすことで生まれる「期待する快さ」に、人は独自の価値を置いているというわけだ。標準的な経済学の割引モデルでは、遠い将来の報酬ほど価値は目減りするはずなのに、ここでは逆に将来の報酬の価値が膨らむ。理論としては、かなり風変わりな部類に入る。

この理屈を借りれば、味噌を3か月待つ行為は、単なる我慢ではなく、期待という形の快楽をあらかじめ先取りしている、と説明できる。都合のいい話ではある。だがここで立ち止まったほうがいい。この説明は、待つことを結局また「得」の話に回収してしまっている。マシュマロ実験の神話を疑ったはずが、今度は「待てば期待という報酬が得られる」という、似た構造の物語に乗り換えているだけかもしれない。発酵を眺める時間が心地よいのだとしても、それを毎回「実は経済合理的だった」という形に翻訳しなおす必要はない。ただ心地よい、で十分なはずだ。効用という言葉を持ち出した瞬間に、静かだったはずの時間にまた値札が貼られる。タイパという発想自体、あらゆる時間の使い方に何らかの見返りを要求する態度だったはずなのに、それを疑うための説明が結局同じ形をしているのだとしたら、疑い方そのものを間違えているのかもしれない。

かき混ぜる手は、発酵を助けているのか、不安を鎮めているのか

もうひとつ、疑ってよい前提がある。「主導権を手放す」という感覚に浸っているつもりで、実際にはぬか床を毎日かき混ぜ、味噌の重石を気にし、黒にんにくの様子を覗き込んでいる。これは本当に手放している態度だろうか。

心理学者ランガーが1975年に示した「コントロール幻想」という現象がある。人は本来まったくの偶然で決まる出来事に対しても、そこに選択や競争、慣れ親しんだ手順といった「技能を要する状況」に似た要素が混ざると、あたかも自分の腕前で結果を左右できるかのように振る舞ってしまう。サイコロを振る力加減にこだわる人、宝くじの番号を「選ぶ」ことにこだわる人が典型例として挙げられる。かき混ぜるという儀式は、それ自体が発酵の化学反応を大きく変えるわけではない——塩分濃度と温度がおおむね決まっていれば、あとは微生物の代謝速度の問題であり、指先の力加減が入り込む余地は乏しい。だとすれば、日課の一分は、発酵を助けているというより、制御できないものに向き合う不安を、儀式によって鎮めている時間である可能性のほうが高い。

これは別に自分を貶める話ではない。制御できない対象に儀式的な関与を続けることそのものに、心を落ち着ける機能があるのだとすれば、それは効果がないどころか、むしろ実際に機能している。ただ、その機能を「発酵という自然に主導権を譲る崇高な行為」といった言葉で飾るのは、少し格好をつけすぎだろう。もっと地味に言えば、手を動かしていないと落ち着かないから手を動かしている、というだけの話だ。ぬか床の表面に白い産膜酵母が薄く張ったとき、かき混ぜ直せば大抵は元に戻るという経験則も、実際の化学変化を促しているというより、「打つ手がある」という事実が不安を和らげている側面が大きいのではないかと疑っている。

実際には、完全に手放してはいけない場面がある

それに、発酵を眺めていればすべて微生物任せというのも正確ではない。麹に使われる麹菌は30度から35度くらいの範囲で最もよく育ち、40度を超えると死んでしまう。厄介なのは、麹菌自身が増殖する過程で発熱するため、仕込み開始から24時間から40時間ほどの時間帯には、外気温を適切に保っていても、米粒の内部の温度がこの上限を超えて自滅方向に向かうことがある点だ。麹づくりの実務が、この時間帯にかぎって6時間から8時間おきに手を入れて温度を確認し、必要なら崩して熱を逃がすよう求めているのは、このためである。麹菌が生み出す酵素にも役割の分業があって、澱粉を糖に変えるアミラーゼは55度から60度あたりで最も働き、タンパク質をアミノ酸に変えるプロテアーゼは45度から55度あたりを好む。放置すれば澱粉は糖に、タンパク質はアミノ酸に、教科書どおり静かに変わっていくが、その静けさを支えているのは、実は目には見えない発熱との綱引きである。

ぬか床の管理にも、似た境界線がある。表面にうっすら白い膜が張るのは、産膜酵母という酸素を好む酵母が増えたサインで、これはかき混ぜて空気を抜けば大抵は元に戻る、いわば許容範囲の変化だ。だが同じ「白い変化」でも、ふわふわと綿のように立体的に盛り上がっていたり、黒や青緑がかっていたりする場合は、話が違ってくる。産膜酵母ではなくカビの一種であることが多く、こうなるとかき混ぜて誤魔化せる段階を超えており、その部分を取り除くか、床ごと作り直すほうが早い。つまり同じ「変化を見守る」という行為の中にも、様子を見ていい変化と、見てはいけない変化の線引きがあり、その線を引いているのは経験と観察であって、放置でも祈りでもない。この線引きを誤ると、待った時間はそのまま無駄になる。発酵は寛容なようでいて、判断を間違えた分の代償はきちんと取り立てる。

つまり発酵というのは、放っておけば自動的に進む一本道ではなく、微生物が自分の熱で自分を殺しかねない、綱渡りに近い過程でもある。ここに、この文章の最初の前提に対するもう一段の反転がある。発酵は「人間が手を出さない領域」なのではなく、「人間が出していい手の範囲が、あらかじめ狭く決められている領域」なのだ。塩分濃度と温度という、ごく限られた変数だけを整え、そのうえで麹菌が自滅しないよう決まった間隔で様子を見る。それ以外の場面では手を出さない。主導権を全面的に手放しているのではなく、手を出せる範囲と出せない範囲の境界線が、菌の生理によって外側からくっきり引かれている、というほうが実態に近い。手放しているようでいて、実は境界線の内側でこまめに手を動かし続けているのが、発酵という営みの実際の姿だ。

待つことを、また別の自己啓発の道具にしないために

ここまでの流れを整理すると、都合よく組み立てられるはずだった物語は、途中で何度も崩れている。「待てる人間は将来成功する」という科学的根拠は、追試によってかなり心もとないものになっている。しかもその薄い相関の背後には、待つ力そのものより、約束が守られるかどうかという環境への信頼が隠れていた。「待つ時間そのものに経済合理的な価値がある」という説明も、結局は待つことを損得勘定に回収し直しているだけかもしれない。「主導権を手放している」という感覚も、実際には制御幻想による自己鎮静である可能性が高いし、しかもその手放しには、菌の生理によって決められた明確な限界がある。反転に反転を重ねてみると、最初に自分が語りたかった「発酵が教えてくれる待つことの美徳」という話は、ほとんど骨組みが残っていない。

それでも一つだけ、崩れずに残るものがある。待つことを鍛える必要も、待つことに意味を見出す必要もないという結論そのものが、実は静かな解放になっているという点だ。待てることが偉さの証明でも、待つ時間が特別な効用を生む修行でもないなら、発酵をただ眺めているだけの時間から、証明も効用も差し引いていい。残るのは、塩分濃度と温度という、自分にできるわずかな調整の範囲と、そこから先は菌に委ねるしかないという、案外そっけない事実だけだ。そっけないぶん、そこに勝手な意味を積み増す必要もなくなる。

それでも、うちの台所の隅にはぬか床があり、これからも毎日かき混ぜ続けるだろう。理由は、待てば偉くなれるからでも、待つこと自体に隠れた効用があるからでもない。タイパという言葉に慣れた頭にとって、代謝速度を早めようがない対象が身近にひとつあるという事実が、単純に都合がいいからだ。効率化できないものに向き合う練習を、わざわざ探しに行かなくても、台所の隅で自然に発生してくれる。マシュマロ実験の神話が崩れたことで失われたのは、待つことの美徳ではなく、待つことをまた別の自己改善の材料に仕立て上げる口実のほうだった。手元に残るのは、ただ塩を計り、温度を測り、決まった時間に様子を見るという、地味な作業の反復だけである。それで十分だという気がしている。動画を倍速で見る癖は、たぶんこれからも直らない。それでも台所の隅にだけは、早送りボタンの存在しない時間が残っている。

出典

  • Shoda, Mischel, Peake (1990) — 就学前の遅延満足時間と青年期の学業・行動指標との関連についての追跡研究(SATとの相関等)
  • Watts, Duncan, Quan (2018) "Revisiting the Marshmallow Test: A Conceptual Replication Investigating Links Between Early Delay of Gratification and Later Outcomes", Psychological Science
  • Kidd, Palmeri, Aslin (2013) "Rational Snacking: Young Children's Decision-Making on the Marshmallow Task Is Moderated by Beliefs About Environmental Reliability", Cognition
  • Maister (1985) "The Psychology of Waiting Lines", in The Service Encounter
  • Witowska et al. (2020) "What Happens While Waiting? How Self-Regulation Affects Boredom and Subjective Time During a Real Waiting Situation", Acta Psychologica
  • Loewenstein (1987) "Anticipation and the Valuation of Delayed Consumption", The Economic Journal
  • Langer (1975) "The Illusion of Control", Journal of Personality and Social Psychology
  • 麹(Aspergillus oryzae)の生育温度・酵素活性至適温度・仕込み中の自己発熱に関する醸造・食品科学分野の知見(至適生育温度30〜35度、40度超で死滅、仕込み後24〜40時間の自己発熱管理を含む)