目次▼
マシュマロ実験の神話と、発酵という待つしかない時間
「待てる子は成功する」というマシュマロ実験の相関は、追試で大きく縮んだ。それでも台所で発酵を待つ人がいるのはなぜか。待つことの心理学を、発酵という待つしかない時間から考える。
動画は倍速で見て、検索は最短距離で答えに辿り着く。効率が善で、待つことは無駄だという空気に、いつのまにか馴染んでいた。要約サイトを開いて本を読んだ気になり、レシピの手順を三段飛ばしで読んで結果だけを知ろうとする。その反動なのか、台所に「待つしかないもの」を意図的に置く人がいる。ぬか床、味噌、塩麹。麹菌や乳酸菌という自分以外の生き物に、時間の使い方を預ける行為だ。どれだけ急いても、菌の代謝速度は早まらない。塩分濃度や温度を整えたら、あとは待つしかない。冷蔵庫を開けるたびに、まだ塩辛いだけの味噌を見て、進捗を確認するアプリのようにその変化を眺めてしまう——そんな場面は、想像に難くない。効率化への欲求は、待つ対象を持ち込んだくらいでは、そう簡単には消えてくれない。
ここまでは、よくある話として片づけられる。「せかせかした現代人が、発酵という遅い営みに救いを見出す」——そういう筋書きは検索すればいくらでも出てくるし、正直なところ自分でもそう書きたくなる誘惑がある。だが、この筋書きにはひとつ、確かめずに乗っているだけの前提がある。待つことができる人間は、そうでない人間より何かしら優れている、あるいは何かしら得をしている、という前提だ。これは思ったより脆い土台の上に立っている。今日はその土台を、一つずつ揺らしてみる。
待てる子どもは将来成功する、という神話の出どころ
その前提を最も有名な形で世に広めたのが、スタンフォード大学のミシェルらが1960年代末から1970年代初頭にかけて行った、いわゆるマシュマロ実験である。4歳前後の子どもの前にマシュマロを一つ置き、「今すぐ食べてもいいが、大人が戻ってくるまで我慢すれば二つもらえる」と伝えて部屋を出る。実験に参加した子どもは600人を超えるが、十数年後の追跡で連絡がついたのは185人で、SATとの相関を計算できたのはそのうち数十人だった。ごほうびが目の前に見えていて、待ち方の工夫も教えられなかった条件の子ども35人に限ると、待てた時間とSATの相関は言語で0.42、数学で0.57だった。家庭の事情などは調整していない、単純な相関である。一般向けの紹介では、待てた3分の1とすぐ食べた3分の1のあいだで、言語と数学の合計に210点の差があったと伝えられている(原論文の表では確認できていない)。
この数字は強烈だった。「4歳の自制心が15年後の学力を決める」という話は、育児書からビジネス書まで幅広く引用され、待つことは単なる忍耐ではなく将来への投資である、という物語の根拠になった。子育て中の親が、子どもにおやつを我慢させる遊びをわざわざ仕込むほどの影響力を持った実験である。台所の隅の発酵食品にも、どこかでこの物語が忍び込んでいるのかもしれない。待てば待つほど、何かしら見返りがあるはずだという期待だ。
その相関は、追試で大きく縮んだ
ところが2018年、心理学者のワッツらが、より大規模で多様な家庭背景の子どもを対象に、この結果を追試している。使われたのは、全米10か所で生まれたときから追跡されてきた一つの長期追跡データ(全国の縮図ではない)で、分析の中心は母親が大学を出ていない家庭の子ども552人だった。元の研究のおよそ10倍の人数である。結論は、単純な物語を裏切るものだった。待てた時間と思春期の学力の相関は確認されたものの、その大きさは元の研究のおよそ半分にとどまり、さらに家庭の所得や親の学歴、幼児期の認知能力といった要因を統計的に調整すると、相関はさらに3分の1程度にまで縮んだ。待てる子とすぐ食べる子の学力差の大部分は、家庭の背景や、同じ時期の認知能力の差と重なっていた。行動面の指標にいたっては、何も調整しない段階から、15歳時点での関連はほとんど見られなかった。
皮肉なのは、この追試論文自体が「マシュマロ実験は間違っていた」と単純に言い切ってはいない点だ。何も調整しない段階では、待てた時間が1分長いと15歳時点の学力がおよそ0.1標準偏差高い、という関連があった。待つ力だけを伸ばして、より広い認知や行動の力を変えない介入では、将来への効果は限られるだろう、と著者らは書いている。「待てる子は将来成功する」というキャッチーな要約は、注釈と留保をほとんど削ぎ落とした後の姿だったということになる。皮肉なのは、この要約そのものが、待つことを嫌う社会が「待つことにも早く結論を出したい」と急いだ結果でもある、という点だ。じっくり検証された結論より、覚えやすい一行のほうが遠くまで広まる。これは発酵とタイパを並べて語ろうとしている、この文章自体にもそのまま跳ね返ってくる話ではある。
待たない選択のほうが、合理的な場合もある
家庭環境の差がなぜ待つ時間に表れるのか。その手がかりになるのが、心理学者キッドらが2013年に発表した実験である。キッドらが操作したのは家庭ではなく、実験室で出会う一人の大人の信頼性だった。マシュマロを見せる前に、まず子どもに別の約束をしてみせる。片方のグループには、実験者が「新しい画材を持ってくる」と言って実際に持ってくる、信頼できる大人だと印象づける。もう片方のグループには、同じ約束をしたうえで、画材もステッカーも結局持ってこない、あてにならない大人だと印象づけておく。そのうえで例のマシュマロ課題を行うと、28人を14人ずつに分けた実験で、信頼できる大人のもとで待った子どもは平均12分あまり待てたのに対し、あてにならない大人のもとに置かれた子どもは平均3分ほどしか待てなかった。4歳前後の子どもが、大人の信頼性という一点だけで、待てる時間に4倍近い差を見せたことになる。
わずか十数分のあいだに約束を二度破られただけで、その後の行動がここまで変わるというのは驚くべきことだが、裏を返せば、それだけ子どもは目の前の大人の信頼性を鋭く見積もっているということでもある。これは、待てない子どもの自制心だけの問題ではなく、約束が守られる保証が薄い環境では、目の前にあるものを今すぐ確保するほうが合理的でもある、という話である(キッドら自身、自制心が無関係だとまでは言っていない)。家庭の経済的な不安定さが子どもの「待つ力」の低さと結びついているように見えることの一部も、これまでの経験から導き出した、環境に対するかなり筋の通った予測で説明できるのかもしれない。これは実験が示したことではなく、私の推論である。だとすれば、台所で発酵を悠長に待てるという事実そのものが、すでにある種の環境の安定——今日仕込んだものを明日も冷蔵庫で放っておける暮らしの余裕、電気が急に止まらない安心、来月も同じ台所に立っているだろうという見込み——の上に成り立っている。待てることを美徳として語るなら、その手前にある、待つ余裕を許してくれている環境の存在にも、目を向けておいたほうがいい。待てる人間が偉いという話だけでは足りず、待っても損をしないと確信できる環境の側にも、説明の一部はある。
それでも待つことに意味がないわけではない
ここで「だから発酵を待つことにも大した意味はない」と結論づけるのは、また別の早合点だろう。マシュマロ実験が崩れたのは、待つ能力が将来の成功を予言するという、いわば占いとしての機能の話であって、待つという行為そのものが人にとって何をしているかという話ではない。この二つは別の問いだ。将来を占う道具としては頼りなくても、待っている最中にその人の中で何が起きているかという、もっと手前の問いは、まだ手つかずのまま残っている。
待つことの体験そのものに関しては、経営学者マイスターが1985年に提示した「待ち行列の心理学」という古い、しかし今も引用され続けている議論が参考になる。マイスターの要点は、待ち時間の苦痛は客観的な長さだけでは決まらないということだ。何もせず手持ち無沙汰で過ごす時間は、何かに気を取られている時間より長く感じられる。そして、あとどれくらい待てばいいのか見当がつかない不確実な待ちは、終わりが見えている待ちより苦痛が大きい。ここから言えるのは、待つことの質を左右するのは、時間の長さそのものよりも、その時間に何をしているか、そしてどれだけ先の見通しが立っているかである。
ぬか床は、この条件をかなり有利な形で満たしている。毎日かき混ぜるという一分程度の作業を挟めば、手持ち無沙汰な放置時間にはならない。しかも、味噌なら数か月、長く寝かせるものなら1年といったふうに、およその期限は見えている。先の見えない待ちではなく、区切りのある待ちだ。発酵が「待つことの美徳」を体現しているというより、たまたま「苦痛の少ない待ち方の条件」——手を動かす作業と、見通せる期限——を満たしている、というほうが実情に近いのかもしれない。逆に言えば、期限の見えない発酵、たとえば失敗したのか成功したのか判断がつかないまま放置されたぬか床は、この条件から外れて、ただ苦痛なだけの待ち時間に転落する。
退屈を制御できる人ほど、待つのが苦にならない
マイスターの議論はもともと理論的な整理で、実証的な研究としては、2020年に心理学者ヴィトフスカらが行った研究がわかりやすい。99人の参加者に感情や思考を自分でうまく制御する傾向を測る質問紙に答えてもらったうえで、何もない部屋に一人で7分半のあいだ置き、そのあとで体感した時間の長さや退屈さを報告してもらうという実験である。結果は、自分の感情や注意をうまく制御できる傾向が強い人ほど、待っているあいだの時間への意識が薄く、退屈も感じにくい、というものだった。逆に退屈を強く感じた人ほど、時間のことを何度も考え、時間がゆっくり過ぎたと感じていた。ただし、何分待ったかという見積もりそのものは、退屈とはっきりした関係を示さなかったという。あくまで相関で、自己調整の傾向は性格として測ったものだ。待つことの苦痛には、時間の長さだけでなく、その空白を自分でどう扱うかという内側の要因も関わっている、ということになる。7分半という短い待ちでもこれだけの個人差が出るのなら、数か月にわたる発酵の待ちでは何が起きるのか、と考えたくなる——もっとも、それを確かめた研究はない。
ぬか床を毎日かき混ぜるという儀式は、この意味で理にかなっている。かき混ぜている一分のあいだは、退屈が入り込む隙がない。手を動かし、匂いを嗅ぎ、前日との違いを確かめる。何もしない7分半を耐えるよりずっと簡単な話で、待つことそのものを鍛えているというより、待つ時間に退屈を持ち込まない仕掛けを、台所の隅に一つ作っているだけなのかもしれない。忍耐力という抽象的な美徳の話にしてしまうと大げさになるが、実際にやっていることは、退屈対策としてかなり地味で具体的な工夫にすぎない。数か月単位で待つ味噌のような長い発酵になると、この一分の儀式すら毎日は要らなくなる。かき混ぜる回数が減るぶん、待ち時間に対する意識のしかたも変わり、ふとした瞬間に「そういえばまだ置いてあった」と思い出すような、間欠的な関わり方になる。退屈を管理する仕掛けが薄くなる代わりに、期待そのものが間遠になり、結果として苦にならない待ちに変わっているのかもしれない。
待つ時間そのものに価値を見出す、という説明の危うさ
経済学者ローウェンスタインは1987年の論文で、人は必ずしも「早くもらえるものほど良い」とは考えていないことを示した。学部生30人への仮想の質問で、好きな映画スターからのキスに「今いくら払うか」を、すぐの場合と、3時間後・1日後・3日後……の場合とで答えてもらうと、平均額はすぐのときより3日後のときのほうが高かった。値打ちが最も高かったのは3日後で、10年後になってようやく、すぐのときを下回った。電気ショックのような不快な出来事では、それを避けるために払う額は、3日後くらいまではすぐの場合とほとんど変わらないが、1年後・10年後のショックになると、むしろ高くなった。ローウェンスタインはこれを、待つあいだの「恐れ」(dread)で説明している。お金については、遠い将来ほど値打ちが下がるという標準どおりの割引が見られた。ところがキスのような、はかない楽しみでは、数日先までなら値打ちがむしろ上がった。楽しみを先に延ばすことで生まれる「期待する快さ」に、人は独自の価値を置いているというわけだ。標準的な経済学の割引モデルでは、遠い将来の報酬ほど価値は目減りするはずなのに、ここでは数日先のキスの値打ちが膨らむ。理論としては、かなり風変わりな部類に入る。
この理屈を借りれば、味噌を3か月待つ行為は、単なる我慢ではなく、期待という形の快楽をあらかじめ先取りしている、と説明できる。都合のいい話ではある。だがここで立ち止まったほうがいい。この説明は、待つことを結局また「得」の話に回収してしまっている。マシュマロ実験の神話を疑ったはずが、今度は「待てば期待という報酬が得られる」という、似た構造の物語に乗り換えているだけかもしれない。発酵を眺める時間が心地よいのだとしても、それを毎回「実は経済合理的だった」という形に翻訳しなおす必要はない。ただ心地よい、で十分なはずだ。効用という言葉を持ち出した瞬間に、静かだったはずの時間にまた値札が貼られる。タイパという発想自体、あらゆる時間の使い方に何らかの見返りを要求する態度だったはずなのに、それを疑うための説明が結局同じ形をしているのだとしたら、疑い方そのものを間違えているのかもしれない。
かき混ぜる手は、発酵を助けているのか、不安を鎮めているのか
もうひとつ、疑ってよい前提がある。「主導権を手放す」という感覚に浸っているつもりで、実際にはぬか床を毎日かき混ぜ、味噌の重石を気にし、塩麹の様子を覗き込む人は多いだろう。これは本当に手放している態度だろうか。
心理学者ランガーが1975年に報告した「コントロール幻想」は、偶然で決まるはずの出来事に、競争・選択・慣れ・関与といった技能の場面の要素が混ざると、人が勝てる見込みを実際より高く見積もる、という現象である。よく知られているのは、社内で売ったくじの実験だ。くじ券(アメフト選手のカード)を自分で選んだ人は、渡された人よりも、売り戻すときにずっと高い値段をつけた。平均で8.67ドル対1.96ドルである。ランガーは序論で、低い目がほしいときはそっと、高い目がほしいときは強く振るというサイコロ賭博の観察(ヘンスリンの報告)も紹介している。もっとも、くじを選ぶ実験は、近年の大規模な追試では再現されていない。かき混ぜるという儀式には、表面の酵母を抑え、底に空気を入れるという実際の効き目がある。それでも、毎日決まった時刻に、決まった回数だけ、というこだわりの細部までが発酵の役に立っているかは分からない。だとすれば、日課の一分には、発酵を助ける面と、制御できないものに向き合う不安を儀式によって鎮める面の両方があるのかもしれない。
これは別に誰かを貶める話ではない。制御しきれない対象に儀式的な関与を続けることそのものに、心を落ち着ける機能があるのだとすれば、それは効果がないどころか、むしろ実際に機能している。ただ、その機能を「発酵という自然に主導権を譲る崇高な行為」といった言葉で飾るのは、少し格好をつけすぎだろう。もっと地味に言えば、手を動かしていないと落ち着かないから手を動かしている、というだけの話だ。ぬか床の表面に白い産膜酵母が薄く張ったとき、かき混ぜ直すのは実際に理にかなっているが、その手を止められないのは、「打つ手がある」という事実が不安を和らげている面もあるのではないか、と考えている。
実際には、完全に手放してはいけない場面がある
それに、発酵を眺めていればすべて微生物任せというのも正確ではない。麹菌は30度台でよく育つ。清酒の麹づくりでは、種を付けたときの32度前後から、終盤の40〜42度くらいまで、段階を追って温度を上げていく。逆に、放っておいて熱がこもりすぎれば、麹は狙った状態から外れる。種を付けてから丸1日ほどたつと、麹菌が自分の熱で品温を押し上げはじめる。およそ20時間目から36時間目あたりにかけて、盛り・仲仕事・仕舞仕事と、数時間おきに手を入れて麹を崩し、積み直し、品温をその段階の狙いの温度に合わせる。麹菌がつくる酵素は、多くつくられる温度とよく働く温度を分けて考える必要がある。清酒用の麹では、でんぷんを分解する酵素は品温が高めのときに多くでき、たんぱく質を分解する酵素は低めの品温のほうが多くできる。できあがった酵素がよく働くのは30〜50度ほどで、60〜80度まで上げると壊れて働きを失う(広島県食品工業技術センターの解説による)。静かに進んでいるように見える過程の裏には、品温を狙いに合わせ続ける手入れがある。
ぬか床の管理にも、似た境界線がある。表面にうっすら白い膜が張るのは、たいてい産膜酵母という、空気に触れる表面で増える酵母だ。害はないとされ、多ければ表面を薄くすくい、残りは混ぜ込んで空気から遠ざけるのが一般的な対処とされる。一方、綿のように盛り上がった毛羽立ちや、黒・青緑の色はカビを疑うべき変化で、その部分を大きめに取り除くか、広がっていれば作り直す(ぬか床については一般的な指南による二次情報)。つまり同じ「変化を見守る」という行為の中にも、様子を見ていい変化と、見てはいけない変化の線引きがあり、その線を引いているのは経験と観察であって、放置でも祈りでもない。この線引きを誤ると、待った時間はそのまま無駄になる。発酵は寛容なようでいて、判断を間違えた分の代償はきちんと取り立てる。
つまり発酵というのは、放っておけば自動的に進む一本道ではなく、温度を段階ごとに合わせ続けなければ狙いから外れる、手入れのいる過程でもある。ここに、この文章の最初の前提に対するもう一段の反転がある。発酵は「人間が手を出さない領域」なのではなく、「人間が出していい手の範囲が、あらかじめ狭く決められている領域」なのだ。塩分濃度と温度という、限られた変数を整え、そのうえで品温が狙いから外れないよう決まった間隔で手を入れる。それ以外の場面では手を出さない。主導権を全面的に手放しているのではなく、手を出せる範囲と出せない範囲の境界線が、菌の生理によって外側からくっきり引かれている、というほうが実態に近い。手放しているようでいて、実は境界線の内側でこまめに手を動かし続けているのが、発酵という営みの実際の姿だ。
待つことを、また別の自己啓発の道具にしないために
ここまでの流れを整理すると、都合よく組み立てられるはずだった物語は、途中で何度も崩れている。「待てる人間は将来成功する」という科学的根拠は、追試によってかなり心もとないものになっている。その薄い相関は、家庭の背景や同じ時期の認知能力の差と重なっていた。別の実験室の実験では、約束が守られるかという見込みだけで、待つ時間が大きく変わった。「待つ時間そのものに経済合理的な価値がある」という説明も、結局は待つことを損得勘定に回収し直しているだけかもしれない。「主導権を手放している」という感覚も、実際には、発酵を助ける手入れと、不安を鎮める儀式が混ざっているのかもしれないし、しかもその手放しには、菌の生理によって決められた明確な限界がある。反転に反転を重ねてみると、最初に自分が語りたかった「発酵が教えてくれる待つことの美徳」という話は、骨組みがかなり痩せている。
それでも一つだけ、崩れずに残るものがある。待つことを鍛える必要も、待つことに意味を見出す必要もないという結論そのものが、実は静かな解放になっているという点だ。待てることが偉さの証明でも、待つ時間が特別な効用を生む修行でもないなら、発酵をただ眺めているだけの時間から、証明も効用も差し引いていい。残るのは、塩分濃度と温度という、自分にできるわずかな調整の範囲と、そこから先は菌に委ねるしかないという、案外そっけない事実だけだ。そっけないぶん、そこに勝手な意味を積み増す必要もなくなる。
それでも、台所の隅にぬか床を置き、毎日かき混ぜ続ける人がいる。その理由は、待てば偉くなれるからでも、待つこと自体に隠れた効用があるからでもないだろう。私の考えでは、タイパという言葉に慣れた頭にとって、代謝速度を早めようがない対象が身近にひとつあるという事実が、単純に都合がいいからだ。効率化できないものに向き合う練習を、わざわざ探しに行かなくても、台所の隅で自然に発生してくれる。マシュマロ実験の神話が崩れたことで失われたのは、待つことの美徳ではなく、待つことをまた別の自己改善の材料に仕立て上げる口実のほうだった。手元に残るのは、ただ塩を計り、温度を測り、決まった時間に様子を見るという、地味な作業の反復だけである。それで十分だという気がしている。動画を倍速で見る癖は、たぶんこれからも直らない。それでも台所の隅に発酵を置けば、早送りボタンの存在しない時間がひとつ生まれる。
出典
- Shoda, Y., Mischel, W., & Peake, P. K. (1990). "Predicting adolescent cognitive and self-regulatory competencies from preschool delay of gratification: Identifying diagnostic conditions." Developmental Psychology, 26(6), 978-986.(書誌と抄録で確認。本文は未入手で、SATとの相関と人数は Watts ら 2018 の紹介による。210点の差は一般向けの紹介による二次情報)
- Watts, T. W., Duncan, G. J., & Quan, H. (2018). "Revisiting the Marshmallow Test: A Conceptual Replication Investigating Links Between Early Delay of Gratification and Later Outcomes." Psychological Science, 29(7), 1159-1177.(本文で確認)
- Kidd, C., Palmeri, H., & Aslin, R. N. (2013). "Rational Snacking: Young Children's Decision-Making on the Marshmallow Task Is Moderated by Beliefs About Environmental Reliability." Cognition, 126(1), 109-114.(本文で確認)
- Maister, D. H. (1985). "The Psychology of Waiting Lines." In J. A. Czepiel, M. R. Solomon, & C. F. Surprenant (Eds.), The Service Encounter. Lexington Books.(著者サイトの本文で確認)
- Witowska, J., Schmidt, S., & Wittmann, M. (2020). "What happens while waiting? How self-regulation affects boredom and subjective time during a real waiting situation." Acta Psychologica, 205, 103061.(抄録で確認。本文は取得できず、測定項目と結果の一部は後続論文の紹介による二次情報)
- Loewenstein, G. (1987). "Anticipation and the Valuation of Delayed Consumption." The Economic Journal, 97(387), 666-684.(本人公開の本文で確認)
- Langer, E. J. (1975). "The Illusion of Control." Journal of Personality and Social Psychology, 32(2), 311-328.(本文で確認。サイコロの観察は序論での Henslin 1967 の紹介による)
- Klusowski, J., Small, D. A., & Simmons, J. P. "Does Choice Cause an Illusion of Control?"(ペンシルベニア大学ウォートン校教員ページ公開の論文。Langer のくじ券の選択の実験の追試で、17の実験・計10,825人で再現されなかったと報告。本文の要約で確認。刊行誌は未照合)
- Henslin, J. M. (1967). "Craps and Magic." American Journal of Sociology, 73(3), 316-330.(Langer 1975 の参考文献で確認。原典は未見の二次情報)
- 荒川弦矢・進藤斉・穂坂賢・徳岡昌文 (2020)「種麹製造及び製麹における麹菌 Aspergillus oryzae の制御因子 KpeA の機能解析」東京農大農学集報, 65(1), 25-32.(製麹中の品温の推移)
- 岩手県工業技術センター (2008) 研究報告 第15号(清酒用の麹の品温経過:盛・仲仕事・仕舞仕事)
- 広島県食品工業技術センター (2025)「米麹の利用方法」(酵素がつくられる温度とよく働く温度。『最新酒造講本』を参照)
- ぬか床の産膜酵母とカビの区別については、公的機関・学術の一次資料を確認できておらず、一般的な指南による二次情報
