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包丁を研いでいる間だけ、頭が静かになる理由

包丁を研いでいる間だけ、頭が静かになる理由

単純作業が思考を鎮めるという体感を、注意資源の奪い合いという地味な仕組みから検証する。禅的な説明にも、脳の一部が沈黙するという説明にも、そのまま乗らずに。

TOMOAKI··趣味

砥石に刃を当てている10分ほどの間、他の考えごとが入り込む余地が明らかに小さくなる。これは経験としてはかなり確かなことのように思える。ただし「なぜそうなるのか」を説明しようとすると、途端に怪しい話が増える。デフォルトモード・ネットワークが静まる、無心になる、瞑想的な状態に入る——こうした言い回しはどれも、体感を言い換えているだけで、機序を説明してはいない。単純作業が思考を鎮めるとして、それは頭の中の何を、どうやって、どの程度まで鎮めているのか。

この問いを軽く見てはいけないのは、答え方次第で、まったく別の教訓が出てくるからだ。もし「無心になる」という説明が正しければ、答えは瞑想の亜種として扱われるべきだろう。もし脳のある領域が特別に沈黙するという説明が正しければ、答えは神経科学の話になる。だが、これから見ていくように、実際に検証可能な形で示されている機序は、そのどちらとも少し違う、もっと退屈な話らしい。

「何もしていない脳」は、思ったより忙しい

安静時にも脳は活発に活動している、という話はよく聞く。この安静時の活動を担う領域群はデフォルトモード・ネットワーク(DMN)と呼ばれ、内省や将来のシミュレーション、他人の心を推測する作業などに関わるとされる。脳が消費するエネルギーの大半はこうした「課題によらない」活動に向けられており、外部の課題に取り組んだときの追加消費はごくわずかだとする報告もある。ただし、この手の数字は測定条件や解析方法によって大きく揺れる。DMNが安静時エネルギーの9割を占めるといった言い回しがネット上でよく流通しているが、これは複数の異なる主張が混同された結果らしく、一次の報告を直接あたっても同じ数字にはたどり着けなかった。話としては魅力的でも、鵜呑みにできる段階の数字ではない。

むしろ確認しておくべきなのは、心理学者マライア・メイソンらが2007年に『サイエンス』誌に発表した研究の中身のほうだ。被験者に単純な作業と複雑な作業を交互に行わせ、fMRIで脳活動を測定しながら、思考がどれだけ課題から逸れているか(マインドワンダリング)を自己報告させた。結果は、直感とは逆方向だった。作業が単純で慣れているほど、そして繰り返しの回数が増えて習熟が進むほど、DMNの活動は強まり、思考は課題から離れていきやすくなったのである。単調な作業は頭を鎮めるどころか、むしろ空回りの余地を広げる——少なくともこの実験系では、そう読める結果が出ている。

研ぐことと、慣れた作業とは違う

これは、包丁を研ぐ体感と矛盾するように見える。だが矛盾の正体を分解すると、両者は実は別の条件を扱っている可能性が高い。メイソンらの実験で使われた「単純作業」は、被験者が数十回、数百回と繰り返して十分に自動化された課題だった。自動化された運動は、大脳基底核を中心とした回路がほぼ自律的に処理してしまうため、大脳皮質の注意資源をほとんど必要としない。皮質が空くから、DMNの出番が増える——という理屈である。

一方、包丁を研ぐという作業は、少なくとも大半の人間にとって自動化とは程遠い。刃の角度を一定に保ち、砥石にかかる圧力を微調整し、指先でバリの出方を確かめ、刃が砥石に当たる音の変化を聞き分ける。これらはどれも、視覚・触覚・聴覚からの情報をリアルタイムで統合しながら次の動作を微修正する作業であり、心理学者アラン・バドリーが提唱したワーキングメモリ・モデルでいう「視空間スケッチパッド」——視覚的・空間的な情報を一時的に保持し操作する下位システム——を継続的に占有し続ける。バドリーのモデルでは、ワーキングメモリは単一の容量ではなく、言語情報を扱う音韻ループと、視覚・空間情報を扱う視空間スケッチパッドという、ある程度独立した下位システムに分かれている。この視空間スケッチパッドの容量は限られており、しかも他の視空間的な作業と競合する。

ここで重要なのは、頭の中で反芻される心配ごとの多くが、実は視空間的な性質を持つという点である。明日の会議で気まずくなる場面を思い浮かべる、過去のやり取りを再生する、うまくいかなかった光景を繰り返し想起する——これらはいずれも、視空間スケッチパッドを使って生成される内的なイメージだ。だとすれば、砥石の上で刃の角度を目と指で追い続ける作業は、心配ごとのイメージ生成と同じ資源を奪い合っていることになる。DMNという神経回路の話ではなく、容量の限られた作業台を取り合っているだけ、という身も蓋もない説明である。

テトリスと反芻——同じ理屈を裏づける実験

この「視空間資源の奪い合い」という考え方を検証した実験がある。心理学者エミリー・ホームズらは2009年、『PLoS ONE』誌に、外傷的な映像を見せた直後に被験者を無作為に振り分け、片方には視空間的な作業であるテトリスを、もう片方には何もさせないという実験を報告した。その後1週間、映像に関連するフラッシュバック(侵入的な想起)の回数を記録したところ、テトリス条件のほうが有意に少なかった。理論的な説明は明快で、フラッシュバックは本質的に視覚イメージであり、それを固定化する記憶の再生成プロセスも視空間資源に依存する。同じ資源を使う課題を割り込ませれば、そのプロセスは邪魔される、というものだ。同グループは翌年、比較対象として言語的なクイズ課題(視空間資源を使わない)を用いた追試も行い、視空間課題であるテトリスのほうがフラッシュバック抑制に効くことを確認している。言語的な気晴らしと視空間的な気晴らしとでは、効果の質が違うという含みがある。

包丁研ぎがテトリスやフラッシュバックの実験とそのまま同じ土俵にあるとまでは言えない。対象は健常な日常のもやもやであって外傷記憶ではないし、実験室的な統制もない。ただ、視空間的に負荷の高い手作業が、視空間的なイメージとして展開される思考を割り込ませる、という機序自体は矛盾なく当てはめられる。

編み物と摂食障害病棟の記録

もう一つ、数字が残っている臨床的な報告がある。心理学者マリオン・クラーヴ゠ブリュレらが2009年に学術誌『Eating and Weight Disorders』に発表した研究で、摂食障害の入院治療を受けていた女性38人に編み物の道具と手ほどきを提供し、その心理的な効果を自己報告式のアンケートで尋ねた。結果、28人(74パーセント)が「不安の強さや反芻的な思考が和らぎ、頭が食事や体型へのとらわれから離れた」と回答し、同じく28人(74パーセント)が「気持ちが落ち着く効果があった」と答え、20人(53パーセント)が「達成感や満足感があった」と回答している。研究チーム自身が挙げている理論的背景は、まさに視空間課題が侵入的なイメージの強度を弱めるという、先のテトリス研究と同系統のものだ。

ただし、この数字を過大評価するのも禁物だろう。対象は38人という小規模な集団で、対照群を置かない自己報告式の予備的研究にすぎない。「和らいだ気がする」という申告と、実際に反芻の頻度や強度が客観的に下がったかどうかは、厳密には別の問題でもある。摂食障害という特殊な臨床像に効いた仕組みが、日常の漠然とした気疲れにもそのまま当てはまる保証もない。それでも、視空間的な手作業が反芻を退ける方向に働くという傍証が、まったく異なる文脈からもう一つ出てきたことには意味がある。研究チームが編み物を選んだ理由も示唆的で、彼らは単なる作業療法としてではなく、両手を同時に、しかも視線と連動させながら動かし続ける動作そのものに注目していた。棒針の先を追う視線、糸のテンションを感じ取る指先、目数を数え続ける作業——これは包丁を研ぐときに要求される感覚統合と、かなり近い構造をしている。

「反芻」とは、正確には何を指すのか

ここまで「反芻」という言葉を説明抜きに使ってきたが、これは心理学の用語としては輪郭がある。心理学者スーザン・ノーレン・ホークセマが提唱した「反応様式理論」における反芻とは、落ち込んだ気分やその原因・結果について、能動的な問題解決に向かうことなく、受動的かつ反復的に注意を向け続ける傾向を指す。単に考え込むことと反芻とを分けるのは、この「受動性」と「反復性」の二点だ。何かに気を取られていること自体は反芻ではなく、同じ内容を、堂々巡りのまま繰り返し再生し続けることが反芻とされる。

ノーレン・ホークセマとジャネイ・モロウが1993年に学術誌『Cognition and Emotion』に発表した実験は、この反芻と対比される概念として「気晴らし(distraction)」を扱っている。軽度から中等度の抑うつ傾向を持つ被験者と、そうでない被験者を無作為に分け、片方には8分間、自分の今の気分や自分自身の性格について注意を向けさせる(反芻条件)、もう片方には8分間、地理的な場所や物の描写について考えさせる(気晴らし条件)という課題を与えた。結果、抑うつ傾向のあった被験者では、反芻条件のほうが気分をさらに落ち込ませ、気晴らし条件のほうが気分を改善させた。一方、抑うつ傾向のない被験者では、どちらの条件でも気分に有意な変化は見られなかった。

この実験には、二つの点で立ち止まる価値がある。一つは、気晴らし条件として使われた課題が、地理的な場所や物の描写という、視空間的というよりはやや言語的・意味的な性質の作業だったことだ。ホームズらのテトリス研究が視空間資源の競合という限定された機序を主張していたのに対し、こちらは視空間性にこだわらない、もっと一般的な「注意の対象を切り替えること」自体の効果を示唆している。二つの研究を並べると、効くのは視空間的な作業に限られるのか、それとも注意の対象がどこであれ切り替わりさえすれば一定の効果があるのか、という問いが残る。この点について両者を直接比較した研究は見当たらず、決着はついていない。

もう一つ立ち止まるべき点は、効果が抑うつ傾向のある集団にしか現れなかったという事実である。もともと反芻の材料が乏しく、気分の落ち込みも浅い人にとっては、気晴らし課題を挟んだところで測定できるほどの変化は起きなかった。これを包丁研ぎに当てはめるなら、日常的に反芻しがちな人ほどこの作業から得るものが大きく、そうでない人にとっては体感するほどの差は出ない、という可能性がある。「効く人には効くが、全員に同じだけ効くわけではない」という、身も蓋もないが無視できない留保だ。

これは裏を返せば、反芻の材料をそもそもあまり抱えていない人が「包丁を研ぐと頭が静かになる」と言い出しても、それはこの機序の証明にはならないということでもある。反芻するものがなければ、それを押しのける効果も測定のしようがない。逆に、四六時中同じ心配ごとを繰り返し再生してしまう自覚のある人ほど、この種の作業から得られるものは大きいはずだが、それは作業に特別な力があるからというより、単に押しのける対象の量が多いからにすぎない。

もう一つの説明——鎮めるのではなく、静める

ここまでは「注意資源を奪い合う」という認知的な説明で通してきたが、別の系統の説明も存在する。医師ハーバート・ベンソンが1975年に提唱した「リラクセーション反応」は、特定の言葉や動作を単調に繰り返しながら、浮かんでくる雑念を無理に追い払わず受け流すという条件がそろったとき、自律神経系の交感神経優位から副交感神経優位への切り替えが起こり、心拍数や血圧、代謝が下がるとする仮説である。こちらは注意資源の取り合いという情報処理の話ではなく、身体の自律神経レベルでの反応を扱っている。

この二つの説明は、必ずしも矛盾しない。ただ、由来する研究の系譜も、想定している機序のレベルも異なる。前者は認知心理学の実験室で培われた、注意という有限資源の配分の理論であり、後者は生理学的な指標を追いかけてきた自律神経の理論である。包丁を研いでいる10分間に何が起きているかを説明する際、どちらか一方だけを持ち出して「これで解明された」と言い切るのは、話を単純にしすぎている。おそらく両方が別々のレベルで多少なりとも動いているのだろうが、それぞれの寄与がどの程度かを切り分けた研究は見当たらない。

上達すると、効かなくなるかもしれないという皮肉

ここで最初のメイソンらの実験に話を戻したい。あの実験が示していたのは、作業が習熟して自動化されるほど、視空間資源はむしろ空き、マインドワンダリングが増えるという方向性だった。これを包丁研ぎに当てはめると、穏やかならざる含みが出てくる。刃の角度が体に染みつき、砥石の感触を確かめなくても手が勝手に動くようになったとき——つまり「上達」したとき——この作業はもはや視空間スケッチパッドを強く占有しなくなっている可能性がある。皮肉なことに、研ぎの腕が上がるほど、この作業が思考を鎮める力は弱まっていくかもしれないのだ。

もっとも、この橋渡し自体にも留保が要る。メイソンらの実験が測定していたのは、あくまで「作業の複雑さ」に応じたマインドワンダリングの生起頻度であり、視空間スケッチパッドの占有量そのものを行動指標や生理指標で直接に読み取ったわけではない。プローブ課題で被験者に「今、課題以外のことを考えていたか」と尋ね、その頻度を数えるという手法は、内観報告という間接的な窓を通した推定にすぎず、その窓の解像度には自ずと限界がある。したがって「習熟すれば視空間資源が空く」という説明は、メイソンらのマインドワンダリング研究と、バドリーの実験室的なワーキングメモリ理論という、由来の異なる二つの実験系列を橋渡しする推論であって、同一の被験者に同一の課題を課し、習熟度と視空間資源の占有量を同時に測定した研究があるわけではない。橋渡しとして筋は通っているし、これに代わる有力な対抗説明も見当たらない。ただし、それをすでに検証済みの事実であるかのように語ってしまうと、この記事全体に流れているつもりの慎重さを、ちょうどこの一点でだけ手放すことになる。

もしこれが正しければ、効果を保つ条件は「上手になりすぎないこと」、あるいはあえて非効率さを手順のどこかに残しておくことになる。効率を追い求める姿勢とは相性の悪い話であり、実用的な包丁研ぎの指南書がおよそ書かないであろう結論でもある。ここで注意しておきたいのは、これは処方箋ではないということだ。誰もが下手なままでいるべきだ、という話ではない。ただ、単純作業が思考を鎮めるという体感は、その作業への習熟度によって効き方が変わる変数だという可能性を示しているにすぎない。

「無心」でも「フロー」でもない、と一応言っておく

この手の話をすると、心理学者ミハイ・チクセントミハイの「フロー」理論を持ち出したくなる誘惑がある。だが、ここまで検討してきた機序はフローとは前提が違う。フロー理論が要求するのは、明確な目標、即時のフィードバック、そして自分の技量と課題の難易度がちょうど釣り合っていることであり、その均衡が崩れると退屈か不安のどちらかに転じるとされる。一方、視空間資源の奪い合いという説明には、そうした釣り合いも、楽しさの実感も要求されない。極端に言えば、退屈で単調なだけの作業でも、それが視空間資源を占有し続けている限り、反芻を割り込ませる効果は理屈の上では成立する。快の感情が伴うかどうかは、この機序にとって本質的ではない。

同様に、瞑想における「無心」とも機序が異なる。マインドフルネスの実践が目指すのは、浮かんでくる思考をそのまま観察し、評価を加えずに受け流す訓練であり、思考そのものを消すことではない。対して、視空間資源の奪い合いという説明が言っているのは、もっと機械的なことだ。ある種の思考は視空間的な作業台を必要とするので、その作業台を先に埋めてしまえば、そこに乗るはずだった思考は物理的に居場所を失う。受け流す訓練ではなく、席を先に取ってしまうという話であり、精神性の話というよりは、部屋の広さの話に近い。

「単に注意を引く作業だから」という、もっと安い説明への反論

ここまでの議論に対しては、もっと安上がりな反論も可能だ。視空間資源がどうこうという話を持ち出さなくても、包丁研ぎは単純に「珍しい、失敗すると指を切る、だから注意を引く」というだけの話ではないか、という反論である。心理学者エフゲニー・ソコロフが定式化した「定位反射」は、新奇な刺激や潜在的な脅威に対して、生体が自動的に注意を向け直す反応を指す。刃物を扱うという、日常のほとんどの動作より明確な物理的リスクを伴う作業であれば、この定位反射だけで注意が持っていかれても不思議はない。視空間だろうと言語だろうと関係なく、単に「危ないから集中せざるを得ない」だけかもしれない。

この反論には一理あるが、説明として弱い部分もある。定位反射は本来、刺激への「馴化」——同じ刺激に繰り返しさらされるうちに反応が弱まっていく現象——を伴う。何百回も同じ包丁を同じ手順で研いできた人であれば、危険性そのものへの新奇性はとうに擦り切れているはずで、定位反射だけでは持続的な注意の占有を説明しきれない。むしろ危険性への警戒が擦り切れた後も一定の集中が続くのだとすれば、それは視空間的な微調整を要求し続ける作業の構造そのものが理由である可能性のほうが高い。刃を握るたびに新しく「危ない」と感じているわけではなく、刃の角度や砥石の抵抗が毎回わずかに違うために、感覚と動作の微調整をやめられないだけなのだろう。定位反射と視空間資源の競合は、互いを完全に排除する説明ではないが、少なくとも後者のほうが、習熟後も効果が続く理由を無理なく説明できる。

台所を出た後まで続く話ではない

研ぎ終えた包丁で野菜を刻む作業にも、似た機序が働いているとは考えられる。トントンという規則的な音のリズムを聴覚で追いながら、切る幅を視覚と触覚で微調整し続ける限り、同じ資源を使い続けることになるからだ。ただし、これも慣れの問題からは逃れられない。長年台所に立ってきた人にとって、野菜を刻む動作はすでに自動化されている可能性が高く、その場合はメイソンらの実験が示した方向——空いた資源が思考の遊びに回される方向——に近づいているはずだ。

そして、この効果がキッチンを出た後まで続くという証拠はどこにもない。視空間資源の奪い合いは、その作業をしている間だけの現象であって、作業を終えて手を止めた瞬間、割り込まれていた思考はまた元の場所に戻ってくる。外の世界で起きていた理不尽な出来事は、包丁を研いでいる10分間だけ棚上げされていたにすぎず、棚から下ろされれば重さは変わらない。これは効能というより、一時的な席替えに近い。何かを解決したわけではなく、ただ10分間、別のものにその席を占めさせていただけだ。

頭の中の忙しさが静まったように感じられる瞬間の正体を探ると、そこにあるのは崇高な精神統一でも、脳の一部が眠りにつく特別な状態でもなく、容量の限られた作業台の奪い合いという、いくぶん即物的な仕組みだったらしい。それで十分だとも思う。静けさの理由が地味であることと、その静けさが確かに存在することとは、別の話だからだ。

もっとも、ここまで並べてきた研究のどれ一つとして、包丁を研ぐという行為そのものを対象にしたものはない。テトリスと編み物と地理描写の課題から類推を重ねて、包丁研ぎにも同じ機序が働いているはずだと組み立てただけの話であり、実験室で刃物を研がせて脳活動や気分の変化を測定した研究には、少なくとも探した範囲では行き当たらなかった。台所仕事という日常的すぎる行為は、研究対象としては地味すぎるのかもしれない。だから、ここまでの議論は「おそらくこの機序だろう」という妥当な推測の連鎖であって、確定した説明ではない。それでも、根拠のない精神論に頼るよりは、隣接する実験群から機序を借りてくるほうが、まだ誠実な態度だとは思う。

もう一つ付け加えるなら、この推測の連鎖そのものが崩れる可能性も残しておくべきだろう。テトリスは画面の中で完結する視空間課題であり、編み物は座って行う手先の作業であり、包丁研ぎは刃物という物理的な危険物を伴う。三者を同列に扱ってよいという保証はどこにもなく、危険物を扱う緊張感がわずかでも混ざり込めば、これまで検討してきた視空間資源の競合という説明だけでは足りなくなる。複数の機序が重なり合って生じている現象を、単一の理論で割り切ろうとする態度そのものが、この話の一番弱いところかもしれない。

出典

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