目次▼
包丁を研いでいる間だけ、頭が静かになる理由
包丁を研いでいる間は頭が静かになる、という話をよく聞く。禅的な説明にも、脳の一部が沈黙するという説明にも頼らず、注意資源の奪い合いという地味な仕組みから探る。研ぎそのものを調べた研究は見つからなかったので、隣の実験からの推測として。
砥石に刃を当てている10分ほどの間は、他の考えごとが入り込む余地が小さくなる、という話をよく聞く。そう語る人の声は、経験談としてはかなり確かなことのように聞こえる。ただし「なぜそうなるのか」を説明しようとすると、途端に怪しい話が増える。デフォルトモード・ネットワークが静まる、無心になる、瞑想的な状態に入る——こうした言い回しはどれも、体感を言い換えているだけで、機序を説明してはいない。単純作業が思考を鎮めるとして、それは頭の中の何を、どうやって、どの程度まで鎮めているのか。
この問いを軽く見てはいけないのは、答え方次第で、まったく別の教訓が出てくるからだ。もし「無心になる」という説明が正しければ、答えは瞑想の亜種として扱われるべきだろう。もし脳のある領域が特別に沈黙するという説明が正しければ、答えは神経科学の話になる。だが、これから見ていくように、実際に検証可能な形で示されている機序は、そのどちらとも少し違う、もっと退屈な話らしい。
「何もしていない脳」は、思ったより忙しい
安静時にも脳は活発に活動している、という話はよく聞く。この安静時の活動を担う領域群はデフォルトモード・ネットワーク(DMN)と呼ばれ、内省や将来のシミュレーション、他人の心を推測する作業などに関わるとされる。脳は体重の2%ほどしかないのに、全身のエネルギーの約2割を使う。そしてその大半は、課題に取り組んでいるかどうかに関係なく続いている活動に使われ、課題を始めたときの上乗せは小さい——というのが、この分野を切り開いたレイクルらの見方だ。ただし彼ら自身、この「課題によらない」活動はDMNに限らず脳の全域にあるもので、ぼんやり考えごとをすること自体が使うのはそのごく一部だろうと断っている。DMNが安静時エネルギーの9割を占める、という言い回しもネット上でよく見かけるが、レイクルらの論文にそういう数字は出てこない。脳全体の話(エネルギーの大半は課題によらない活動に使われる)が、いつのまにかDMNの話にすり替わったのだろう。鵜呑みにできる段階の数字ではない。
むしろ確認しておくべきなのは、心理学者マリア・メイソン(Malia Mason)らが2007年に『サイエンス』誌に発表した研究の中身のほうだ。被験者19人に、文字列や指の動きの順序を覚えて操作する作業記憶課題を3日間(1日30分ずつ)練習させ、4日目と5日目に、練習済みの系列と初めての系列とを比べた。課題の形式は同じで、違うのは慣れているかどうかだけである。4日目には作業の途中で不意に手を止めさせ、いま課題と関係のないことを考えていたかを答えさせた。5日目には同じ課題を行う間の脳活動をfMRIで測った。結果は、直感とは逆方向だった。同じ課題でも、練習済みの系列を行っているときのほうが、課題と関係のない考えが浮かんだと答えた割合が高く(約32%対22%)、DMNの活動も、新しい系列のときほどは下がらなかった。慣れた作業は頭を鎮めるどころか、むしろ空回りの余地を広げる——少なくともこの実験系では、そう読める結果が出ている。
研ぐことと、慣れた作業とは違う
これは、包丁を研ぐ体感と矛盾するように見える。だが矛盾の正体を分解すると、両者は実は別の条件を扱っている可能性がある。メイソンらの実験で使われた「慣れた課題」は、3日間練習した系列だった。著者らはこの差を、慣れた系列では中央実行系(注意を割り振る働き)への負荷が下がったためと説明している。
一方、包丁を研ぐという作業は、少なくとも大半の人間にとって手が勝手に動くほど慣れた作業ではない。刃の角度を一定に保ち、砥石にかかる圧力を微調整し、指先でバリの出方を確かめ、刃が砥石に当たる音の変化を聞き分ける。これらはどれも、視覚・触覚・聴覚からの情報をリアルタイムで統合しながら次の動作を微修正する作業であり、心理学者アラン・バドリーが提唱したワーキングメモリ・モデルでいう「視空間スケッチパッド」——視覚的・空間的な情報を一時的に保持し操作する下位システム——を使い続けていると考えられる。バドリーのモデルでは、ワーキングメモリは単一の容量ではなく、言語情報を扱う音韻ループと、視覚・空間情報を扱う視空間スケッチパッドという、ある程度独立した下位システムに分かれている。この視空間スケッチパッド(いわば頭の中の作業台)の容量は限られていて、別の視空間的な作業と同時に使うと、うまく働かなくなる。バドリー自身も加わった1997年の研究では、目を左右に動かす課題や、見えない位置を指で順に叩く課題を同時にさせると、被験者が思い浮かべた画像の鮮明さは落ちた。
ここで重要なのは、頭の中で反芻される心配ごとの一部が、視空間的な性質を持つという点である。明日の会議で気まずくなる場面を思い浮かべる、過去のやり取りを再生する、うまくいかなかった光景を繰り返し想起する——これらは、視空間スケッチパッドを使って生成される内的なイメージだと考えられる。ただし、心配ごとのすべてが絵として浮かぶわけではない。ボルコヴェックとインズは1990年、心配している最中の頭の中はイメージよりも言葉による思考が優位になると報告している(不安の強くない対照群では、心配の時間に思考が優位へ移った)。視空間の作業台を取り合うという説明が届くのは、絵として浮かぶ部分に限られ、言葉でぐるぐる回る心配のほうには、この理屈はそのままでは当てはまらない。それでも、絵として浮かぶ部分に限れば、砥石の上で刃の角度を目と指で追い続ける作業は、そのイメージ生成と同じ資源を奪い合っていることになる。DMNという神経回路の話ではなく、容量の限られた作業台を取り合っているだけ、という身も蓋もない説明である。
テトリスとフラッシュバック——同じ理屈を裏づける実験
この「視空間資源の奪い合い」という考え方を検証した実験がある。心理学者エミリー・ホームズらは2009年、『PLoS ONE』誌に次のような実験を報告した。健常な参加者40人に事故や手術の実写映像を12分間見せ、30分の休憩をはさんでから無作為に二つに分け、片方には視空間的な作業であるテトリスを10分間、もう片方には何もさせない。その後1週間、映像のフラッシュバック(意図せず浮かぶ想起)を日誌に記録してもらうと、テトリス条件のほうが回数が有意に少なかった。一方で、映像の内容を意図的に思い出す再認テストの成績には差がなかった。著者らの説明はこうだ。フラッシュバックは感覚的で視空間的なイメージであり、視空間的な課題はそのイメージを生み出すのに必要な資源を奪い合う。しかも記憶が固定化されるまでには数時間の猶予がある。その間に同じ資源を使う課題を割り込ませれば、のちのフラッシュバックは育ちにくくなる、というものだ。同じグループは翌年、言語的なクイズのゲーム(Pub Quiz)を比較条件に加えた実験を報告している。映像の30分後にテトリスをした群はフラッシュバックが減ったが、クイズをした群は、何もしなかった群よりもむしろ増えた。4時間後に遊ばせた実験でもテトリスの効果は残り、クイズには減らす効果が見られなかった。気を紛らわせさえすればよいわけではなく、どの資源を使う作業かで向きまで変わりうる、という結果だ。
包丁研ぎがテトリスやフラッシュバックの実験とそのまま同じ土俵にあるとまでは言えない。対象は健常な日常のもやもやであって外傷記憶ではないし、実験室的な統制もない。ただ、視空間的に負荷の高い手作業が、視空間的なイメージとして展開される思考に割り込む、という機序自体は矛盾なく当てはめられる。
編み物と摂食障害病棟の記録
もう一つ、数字が残っている臨床的な報告がある。クラーヴ゠ブリュレらが2009年に『Eating and Weight Disorders』誌に発表したもので、摂食障害専門病棟に入院していた神経性やせ症の女性38人に、編み物の手ほどきと道具を自由に使える環境を用意し、編み物が気持ちにどう作用したかを自己記入式の質問票で尋ねた。28人(74パーセント)が「恐れや考えの強さが和らぎ、摂食障害のとらわれから頭が離れた」と答え、同じく28人が「気持ちが落ち着き、治療的な効果があった」と、20人(53パーセント)が「満足感や誇り、達成感があった」と答えている。著者らが理論的な背景に置いたのは、視空間的な課題を同時に行うと苦痛なイメージの情動的な強さが下がる、という一連の研究で、ホームズらの2004年のトラウマ映像の研究もそこに引かれている。
ただし、この数字を過大評価するのも禁物だろう。対象は38人という小規模な集団で、対照群を置かない自己報告式の予備的研究にすぎない。「和らいだ気がする」という申告と、実際に反芻の頻度や強度が客観的に下がったかどうかは、厳密には別の問題でもある。摂食障害という特殊な臨床像に効いた仕組みが、日常の漠然とした気疲れにもそのまま当てはまる保証もない。それでも、手作業が反芻を退ける方向に働くという傍証が、まったく異なる文脈からもう一つ出てきたことには意味がある。著者ら自身は、編み物の利点として、安く覚えやすいこと、人と話しながらでも続けられること、達成感が得られることを挙げている。私が付け加えたいのは、棒針の先を追う視線、糸のテンションを感じ取る指先、目数を数え続ける作業という組み合わせが、包丁を研ぐときに要求される感覚の統合とかなり近い構造をしている、という点だ。
「反芻」とは、正確には何を指すのか
ここまで「反芻」という言葉を説明抜きに使ってきたが、これは心理学の用語としては輪郭がある。心理学者スーザン・ノーレン・ホークセマが提唱した「反応様式理論」における反芻とは、落ち込んだ気分やその原因・結果について、能動的な問題解決に向かうことなく、受動的かつ反復的に注意を向け続ける傾向を指す。単に考え込むことと反芻とを分けるのは、この「受動性」と「反復性」の二点だろう。何かに気を取られていること自体は反芻ではなく、同じ内容を、堂々巡りのまま繰り返し再生し続けることが反芻とされる。
ノーレン・ホークセマとジャネイ・モロウが1993年に学術誌『Cognition and Emotion』に発表した実験は、この反芻と対比される概念として「気晴らし(distraction)」を扱っている。軽度から中等度の抑うつ傾向を持つ被験者と、そうでない被験者を、それぞれ無作為に二つの条件に割り付け、片方には8分間、自分の今の気分や自分自身の性格について注意を向けさせる(反芻条件)、もう片方には8分間、地理的な場所や物の描写について考えさせる(気晴らし条件)という課題を与えた。結果、抑うつ傾向のあった被験者では、反芻条件のほうが気分をさらに落ち込ませ、気晴らし条件のほうが気分を改善させた。一方、抑うつ傾向のない被験者では、どちらの条件でも気分に有意な変化は見られなかった。
この実験には、二つの点で立ち止まる価値がある。一つは、気晴らし条件として使われた課題の性格だ。雲や物の表面といった情景を一つずつ思い浮かべさせるもので(後続研究が引き継いだ同系統の項目例による)、視覚的なイメージをかなり使う作業だったと考えられる。ただ、テトリスのように視空間的な操作を求めるわけではなく、課題そのものが視空間資源をどれだけ占めたかは測られていない。そのため、効くのは視空間的な作業に限られるのか、注意の対象がどこであれ切り替わりさえすれば一定の効果があるのか、この実験だけでは判断できない。侵入的な映像記憶については、ホームズらが視空間課題と言語課題を直接比べ、言語課題に同じ効果はなかったと報告している。だが、反芻や落ち込んだ気分について両者を比べた研究は、探した範囲では見当たらなかった。
もう一つ立ち止まるべき点は、効果が抑うつ傾向のある集団にしか現れなかったという事実である。もともと反芻の材料が乏しく、気分の落ち込みも浅い人にとっては、気晴らし課題を挟んだところで測定できるほどの変化は起きなかった。これを包丁研ぎに当てはめるなら、日常的に反芻しがちな人ほどこの作業から得るものが大きく、そうでない人にとっては体感するほどの差は出ない、という可能性がある。「効く人には効くが、全員に同じだけ効くわけではない」という、身も蓋もないが無視できない留保だ。
これは裏を返せば、反芻の材料をそもそもあまり抱えていない人が「包丁を研ぐと頭が静かになる」と言い出しても、それはこの機序の証明にはならないということでもある。反芻するものがなければ、それを押しのける効果も測定のしようがない。逆に、四六時中同じ心配ごとを繰り返し再生してしまう自覚のある人ほど、この種の作業から得られるものは大きいのかもしれないが、それは作業に特別な力があるからというより、単に押しのける対象の量が多いからにすぎない。
もう一つの説明——鎮めるのではなく、静める
ここまでは「注意資源を奪い合う」という認知的な説明で通してきたが、別の系統の説明も存在する。医師ハーバート・ベンソンらが1970年代半ばに「リラクセーション反応」と名づけた反応は、心の中で同じ言葉や音を繰り返し、浮かんでくる雑念を追い払おうとせず受け流す(受動的な態度)といった条件がそろうと、酸素消費量や呼吸数が下がるというもので、ベンソンらはこれを交感神経の働きが弱まった結果だと推測した。こちらは注意資源の取り合いという情報処理の話ではなく、身体の生理的な反応を扱っている。なお、ベンソンの枠組みでは、絶えず動作の調整を要する状況はむしろ緊急反応を引き起こすとされる。砥石の上の微調整の連続は、この点ではリラクセーション反応の条件とは向きが違う。
この二つの説明は、必ずしも矛盾しない。ただ、由来する研究の系譜も、想定している機序のレベルも異なる。前者は認知心理学の実験室で培われた、注意という有限資源の配分の理論であり、後者は生理学的な指標を追いかけてきた自律神経の理論である。包丁を研いでいる10分間に何が起きているかを説明する際、どちらか一方だけを持ち出して「これで解明された」と言い切るのは、話を単純にしすぎている。両方が別々のレベルで動いている可能性はあるが、ベンソンの条件に照らすと、研いでいる最中にリラクセーション反応が働く余地は限られるかもしれない。それぞれの寄与を切り分けた研究も見当たらない。
上達すると、効かなくなるかもしれないという皮肉
ここで最初のメイソンらの実験に話を戻したい。あの実験が示していたのは、同じ課題でも慣れた系列のほうが、課題と無関係な思考が増え、DMNの活動の下がり方も小さいという方向性だった。これを、視空間の作業台が空く話として読み替えるのは私の推論だが、包丁研ぎに当てはめると、穏やかならざる含みが出てくる。刃の角度が体に染みつき、砥石の感触を確かめなくても手が勝手に動くようになったとき——つまり「上達」したとき——この作業はもはや視空間スケッチパッドを強く占有しなくなっている可能性がある。皮肉なことに、研ぎの腕が上がるほど、この作業が思考を鎮める力は弱まっていくかもしれないのだ。
もっとも、この橋渡し自体にも留保が要る。メイソンらの実験が測定していたのは、あくまで「練習済みか初めてか」に応じたマインドワンダリングの生起頻度であり、視空間スケッチパッドの占有量そのものを行動指標や生理指標で直接に読み取ったわけではない。プローブ課題で被験者に「今、課題以外のことを考えていたか」と尋ね、その頻度を数えるという手法は、内観報告という間接的な窓を通した推定にすぎず、その窓の解像度には自ずと限界がある。したがって「習熟すれば視空間資源が空く」という説明は、メイソンらのマインドワンダリング研究と、バドリーの実験室的なワーキングメモリ理論という、由来の異なる二つの実験系列を橋渡しする推論であって、同一の被験者に同一の課題を課し、習熟度と視空間資源の占有量を同時に測定した研究があるわけではない。橋渡しとして筋は通っている。ただ、メイソンら自身の説明は中央実行系の負荷の低下という、視空間に限らない話であり、そちらでも同じ結果は説明できる。いずれにせよ、この橋渡しをすでに検証済みの事実であるかのように語ってしまうと、この記事全体に流れているつもりの慎重さを、ちょうどこの一点でだけ手放すことになる。
もしこれが正しければ、効果を保つ条件は「上手になりすぎないこと」、あるいはあえて非効率さを手順のどこかに残しておくことになる。効率を追い求める姿勢とは相性の悪い話であり、実用的な包丁研ぎの指南書がおよそ書かないであろう結論でもある。ここで注意しておきたいのは、これは処方箋ではないということだ。誰もが下手なままでいるべきだ、という話ではない。ただ、単純作業が思考を鎮めるという体感は、その作業への習熟度によって効き方が変わる変数だという可能性を示しているにすぎない。
「無心」でも「フロー」でもない、と一応言っておく
この手の話をすると、心理学者ミハイ・チクセントミハイの「フロー」理論を持ち出したくなる誘惑がある。だが、ここまで検討してきた機序はフローとは前提が違う。フロー理論が要求するのは、明確な目標、即時のフィードバック、そして自分の技量と課題の難易度がちょうど釣り合っていることであり、その均衡が崩れると退屈か不安のどちらかに転じるとされる。一方、視空間資源の奪い合いという説明には、そうした釣り合いは要求されないし、フロー体験に伴うとされる楽しさも前提にしていない。極端に言えば、退屈で単調なだけの作業でも、それが視空間資源を占有し続けている限り、絵として浮かぶ反芻に割り込む効果は理屈の上では成立する。快の感情が伴うかどうかは、この機序にとって本質的ではない。
同様に、瞑想における「無心」とも機序が異なる。マインドフルネスの実践が目指すのは、浮かんでくる思考をそのまま観察し、評価を加えずに受け流す訓練であり、思考そのものを消すことではない。対して、視空間資源の奪い合いという説明が言っているのは、もっと機械的なことだ。ある種の思考は視空間的な作業台を必要とするので、その作業台を先に埋めてしまえば、そこに乗るはずだった思考は物理的に居場所を失う。受け流す訓練ではなく、席を先に取ってしまうという話であり、精神性の話というよりは、部屋の広さの話に近い。
「単に注意を引く作業だから」という、もっと安い説明の検討
ここまでの議論に対しては、もっと安上がりな反論も可能だ。視空間資源がどうこうという話を持ち出さなくても、包丁研ぎは単純に「珍しい、失敗すると指を切る、だから注意を引く」というだけの話ではないか、という反論である。心理学者エフゲニー・ソコロフが定式化した「定位反射」は、新しい刺激や、それまでと違う刺激に対して、生体が自動的に注意を向け直す反応を指す(強い刺激や危険に対する反応は、ソコロフは防御反射として別に扱っていたとされる)。刃物を扱うという、日常のほとんどの動作より明確な物理的リスクを伴う作業であれば、新しさへの定位反射や、危険への防御反射だけで注意が持っていかれても不思議はない。視空間だろうと言語だろうと関係なく、単に「危ないから集中せざるを得ない」だけかもしれない。
この反論には一理あるが、説明として弱い部分もある。定位反射は本来、刺激への「馴化」——同じ刺激に繰り返しさらされるうちに反応が弱まっていく現象——を伴う。何百回も同じ包丁を同じ手順で研いできた人であれば、新奇性への定位反射はとうに弱まっているはずで、新奇性だけでは持続的な注意の占有を説明しにくい。危険への防御反射は馴化しにくいとされるので、こちらは慣れでは片づかない。ただ、慣れた人が研ぐたびに身構えているとも考えにくく、仮に危険への身構えが薄れた後も一定の集中が続くのだとすれば、それは視空間的な微調整を要求し続ける作業の構造そのものが理由である可能性がある。刃を握るたびに新しく「危ない」と感じているわけではなく、刃の角度や砥石の抵抗が毎回わずかに違うために、感覚と動作の微調整をやめられないだけなのだろう。もっとも、ソコロフのモデルでは刺激がわずかでも変われば定位反射は戻ってくるとされるので、毎回違う砥石の手応えが注意を引き続けている、という説明も成り立たなくはない。定位反射と視空間資源の競合は、互いを完全に排除する説明ではなく、どちらが習熟後の持続をよく説明するかは、この記事の範囲では決められない。
台所を出た後まで続く話ではない
研ぎ終えた包丁で野菜を刻む作業にも、似た機序が働いているとは考えられる。トントンという規則的な音のリズムを聴覚で追いながら、切る幅を視覚と触覚で微調整し続ける限り、同じ資源を使い続けることになるからだ。ただし、これも慣れの問題からは逃れられない。長年台所に立ってきた人にとって、野菜を刻む動作はすでに自動化されている可能性が高く、その場合はメイソンらの実験が示した方向——空いた資源が思考の遊びに回される方向——に近づいているのかもしれない。
そして、この効果がキッチンを出た後まで続くという証拠はどこにもない。視空間資源の奪い合いは、その作業をしている間だけの現象であって、作業を終えて手を止めた瞬間、割り込まれていた思考はまた元の場所に戻ってくる。外の世界で起きていた理不尽な出来事は、包丁を研いでいる10分間だけ棚上げされていたにすぎず、棚から下ろされれば重さは変わらない。これは効能というより、一時的な席替えに近い。何かを解決したわけではなく、ただ10分間、別のものにその席を占めさせていただけだ。
頭の中の忙しさが静まったように感じられる瞬間の正体を探ると、そこにあるのは崇高な精神統一でも、脳の一部が眠りにつく特別な状態でもなく、少なくとも絵として浮かぶ考えごとについては、容量の限られた作業台の奪い合いという、いくぶん即物的な仕組みだったらしい。それで十分だとも思う。静けさの理由が地味であることと、その静けさが確かに存在することとは、別の話だからだ。
もっとも、ここまで並べてきた研究のどれ一つとして、包丁を研ぐという行為そのものを対象にしたものはない。テトリスと編み物と情景を思い浮かべる課題から類推を重ねて、包丁研ぎにも同じ機序が働いているはずだと組み立てただけの話であり、実験室で刃物を研がせて脳活動や気分の変化を測定した研究には、少なくとも探した範囲では行き当たらなかった。台所仕事という日常的すぎる行為は、研究対象としては地味すぎるのかもしれない。だから、ここまでの議論は「おそらくこの機序だろう」という妥当な推測の連鎖であって、確定した説明ではない。それでも、根拠のない精神論に頼るよりは、隣接する実験群から機序を借りてくるほうが、まだ誠実な態度だとは思う。
もう一つ付け加えるなら、この推測の連鎖そのものが崩れる可能性も残しておくべきだろう。テトリスは画面の中で完結する視空間課題であり、編み物は座って行う手先の作業であり、包丁研ぎは刃物という物理的な危険物を伴う。三者を同列に扱ってよいという保証はどこにもなく、危険物を扱う緊張感がわずかでも混ざり込めば、これまで検討してきた視空間資源の競合という説明だけでは足りなくなる。複数の機序が重なり合って生じている現象を、単一の理論で割り切ろうとする態度そのものが、この話の一番弱いところかもしれない。
出典
- Mason, M. F., et al.(2007)“Wandering Minds: The Default Network and Stimulus-Independent Thought.” Science, 315(5810), 393-395.(本文と補足資料で確認)
- Raichle, M. E., & Snyder, A. Z.(2007)“A default mode of brain function: A brief history of an evolving idea.” NeuroImage, 37(4), 1083-1090.(抄録で確認。本文は非公開)
- Snyder, A. Z., & Raichle, M. E.(2012)“A brief history of the resting state: The Washington University perspective.” NeuroImage, 62(2), 902-910.(本文で確認)
- Baddeley, A. D., & Hitch, G.(1974)“Working Memory.” Psychology of Learning and Motivation, 8, 47-89.(書誌のみ確認)
- Andrade, J., Kavanagh, D., & Baddeley, A.(1997)“Eye-movements and visual imagery: A working memory approach to the treatment of post-traumatic stress disorder.” British Journal of Clinical Psychology, 36(2), 209-223.(要旨で確認)
- Borkovec, T. D., & Inz, J.(1990)“The nature of worry in generalized anxiety disorder: A predominance of thought activity.” Behaviour Research and Therapy, 28(2), 153-158.(要旨で確認。本文は未入手)
- Nolen-Hoeksema, S.(1991)“Responses to depression and their effects on the duration of depressive episodes.” Journal of Abnormal Psychology, 100(4), 569-582.(抄録で確認)
- Nolen-Hoeksema, S., Wisco, B. E., & Lyubomirsky, S.(2008)“Rethinking Rumination.” Perspectives on Psychological Science, 3(5), 400-424.(反芻の「受動的かつ反復的」という言い回しの出どころ)
- Nolen-Hoeksema, S., & Morrow, J.(1993)“Effects of rumination and distraction on naturally occurring depressed mood.” Cognition and Emotion, 7(6), 561-570.(抄録で確認。本文は未入手。気晴らし課題の項目例は Lyubomirsky, Caldwell & Nolen-Hoeksema, 1998, Journal of Personality and Social Psychology, 75(1), 166-177 による)
- Holmes, E. A., James, E. L., Coode-Bate, T., & Deeprose, C.(2009)“Can Playing the Computer Game 'Tetris' Reduce the Build-Up of Flashbacks for Trauma? A Proposal from Cognitive Science.” PLoS ONE, 4(1), e4153.(本文で確認)
- Holmes, E. A., James, E. L., Kilford, E. J., & Deeprose, C.(2010)“Key Steps in Developing a Cognitive Vaccine against Traumatic Flashbacks: Visuospatial Tetris versus Verbal Pub Quiz.” PLoS ONE, 5(11), e13706.(本文で確認)
- Holmes, E. A., Brewin, C. R., & Hennessy, R. G.(2004)“Trauma films, information processing, and intrusive memory development.” Journal of Experimental Psychology: General, 133(1), 3-22.(クラーヴ゠ブリュレらの参考文献一覧に挙がっていることの確認のみ)
- Clave-Brule, M., Mazloum, A., Park, R. J., Harbottle, E. J., & Birmingham, C. L.(2009)“Managing anxiety in eating disorders with knitting.” Eating and Weight Disorders, 14(1), e1-e5.(抄録と参考文献で確認。本文は未入手)
- Benson, H., Greenwood, M. M., & Klemchuk, H.(1975)“The relaxation response: psychophysiologic aspects and clinical applications.” International Journal of Psychiatry in Medicine, 6(1-2), 87-98.(抄録で確認)
- Beary, J. F., Benson, H., & Klemchuk, H. P.(1974)“A simple psychophysiologic technique which elicits the hypometabolic changes of the relaxation response.” Psychosomatic Medicine, 36(2), 115-120.(酸素消費量・呼吸数の測定の出どころ。書誌のみ確認)
- Csikszentmihalyi, M.(1990)Flow: The Psychology of Optimal Experience.(本は未入手。記述は一般的な要約による)
- Sokolov, E. N.(1963)Perception and the Conditioned Reflex. Pergamon Press.(本は未入手。防御反射の区別は二次的な解説による)
