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なぜ「直す」ことは、こんなに気持ちがいいのか
自転車の整備、革靴の手入れ、繕い物。新しく買うのではなく直す趣味には、無限の選択肢にはない何かがある。制約と手応えという二つの手がかりから考える。
自転車のチェーンにこびりついた汚れを落とし、ディレイラーの動きを一段ずつ調整していく。変速がすっと決まった瞬間、機械の側から返事をもらったような感じがする。これは、新しい自転車を買ったときには起きない。
直す趣味には、共通した手触りがある。革靴のワックスを剥がして磨き直す。セーターの虫食い穴を繕う。万年筆のペン先を洗って新しいインクを通す。包丁を砥石にかける。鉢の中で回りきった根をほどいて土を替える。どれも、何かを新しく手に入れる行為ではない。すでにあるものに、もう一度手をかける行為だ。
なぜこちらのほうが、選んで買うことより気持ちがいいと感じるときがあるのか。理由は二つあると思う。ひとつは制約、もうひとつは手応えだ。
選べることは、それ自体が負荷になる
何かを新しく買おうとすると、まず選ばなければならない。素材、ブランド、価格帯、レビューの評価。選択肢は原理的に無限で、どれだけ調べても「もっと良いものがあるかもしれない」という感覚がついて回る。心理学ではこれを選択過多と呼ぶ。選択肢が増えるほど満足度が上がるとは限らず、むしろ決めた後の後悔や、決める前の疲労が増えることが知られている。
直す趣味には、そもそも選ぶ余地がほとんどない。目の前にあるのは、この自転車、この革、この一箇所の破れだけだ。素材も傷の位置も、すでに決まっている。できることは、その条件の中でどう手を動かすかだけに絞られる。
皮肉なのは、選択肢が減ったはずのこの状況のほうが、頭が落ち着くということだ。決める作業がなくなり、やる作業だけが残る。何を選ぶかで消耗していた分の注意が、目の前の一つの対象に集中できるようになる。
結果が手元に返ってくる
もうひとつの理由は、フィードバックの速さと確かさだ。
革靴を磨けば、鈍かった表面がその場で違う光を返す。刃を研げば、切れ味という形ですぐに結果が分かる。植木鉢の底から染み出す水が、濁った色から透明に変わる瞬間もそうだ。やったことと、返ってくる結果のあいだに、迷う余地がない。
この「自分の手が加えた分だけ、対象が変わる」という感覚は、心理学でいう自己効力感、つまり自分の行動が結果に影響を及ぼせているという感覚に近い。デジタル環境の多くは、この感覚を意図的に薄める方向に作られている。フィードは無限にスクロールでき、通知は自分の行動と無関係に届き、成果は「いいね」の数のように、自分の手を離れた指標に置き換えられる。手を動かした量と、返ってくるものの量が、ほとんど対応していない。
古いものを直す作業は、その対応関係をそのまま取り戻す。磨いた分だけ光る。研いだ分だけ切れる。繕った分だけ、穴がふさがる。
直すことは、選ばないことを選ぶことでもある
誤解しないでおきたいのは、これは「モノを長く使うのは美徳だ」という話ではないということだ。修理より買い替えのほうが理にかなう場面はいくらでもあるし、直すこと自体を目的化すれば、それはそれで不自由なこだわりになる。
ここで確かめたかったのはもっと手前のことだ。何かを直すという行為は、無数の選択肢の中から最適なものを選び出す作業とは、根本的に別の種類の満足を伴っている。制約があるからこそ迷わずに済み、結果がすぐ返ってくるからこそ、やったことの手応えを疑わずに済む。新しいものを選ぶ自由と、決まったものに向き合う不自由は、単純にどちらが上とは言えない、別々の心地よさを持っている。
次に何かを直そうとするとき、それが本当に手をかけるに値する対象かどうかは、また別の問いだ。ただ、なぜ気持ちがいいのかを一度言葉にしておけば、次に選ぶか直すかを決めるときの、自分なりの判断材料にはなる。
