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効能への疑いと、湯上がりの爽快感は、別の場所にある
温泉の効能表示は、無作為化比較試験ではなく行政指針としての経験則に基づいている。それでも湯上がりに感じる爽快感が本物であることとは、そもそも別の問いだ。制度の成立史と査読研究、入浴の生理学から三層構造でたどる。
温泉旅館のパンフレットには、たいてい泉質と並んで「神経痛」「冷え性」「疲労回復」「アトピー性皮膚炎」といった適応症が列挙されている。この手の効能書きに対して、いくらか懐疑的な人は少なくない。特定の鉱泉成分が特定の病状に効くという主張の多くは、厳密な臨床試験を経たものではなさそうだ、という勘は正しい。だが、この話は「怪しいから信じない」で終われるほど単純でもなく、かといって「昔から言われているのだから何かあるはずだ」で片づけられるほど単純でもない。掘っていくと、少なくとも三つの層に分かれる。
効能表示は、どこから来ているのか
日本の温泉が掲げる適応症の一覧は、環境省(旧厚生省)が定める「鉱泉分析法指針」に基づいて、泉質ごとに割り振られている。単純温泉、塩化物泉、炭酸水素塩泉、硫酸塩泉、二酸化炭素泉、含鉄泉、含よう素泉、硫黄泉、酸性泉、放射能泉の十種類に分類されるこの指針は、旧厚生省が1951年に制定し、1957年に分析技術の進展を受けて大きく改訂され、その後1982年、1997年、2002年、2014年と改訂を重ねてきた。温泉そのものの定義(湧出温度25度以上、あるいは特定成分の含有)を定める1948年制定の温泉法とは別の、成分分析と適応症・禁忌症を扱う技術指針という位置づけだ。
この指針が適応症をどう割り当てているかというと、無作為化比較試験のような臨床データの提出を要求する仕組みにはなっていない。成分の化学的性質(pHや含有イオンなど)からの薬理学的な類推と、長年の湯治の経験則とを、専門家が合議的に整理し直す方式が取られている。1997年の改訂は分析機器・手法の進歩に伴うもの、2002年の改訂は温泉分析機関を指定制から登録制へ移す制度上の変更であり、適応症・禁忌症そのものの実質的な見直しとしては、2014年が1982年以来32年ぶりだった。その中身も「最新の医学的知見を踏まえた禁忌症・注意事項の整理」であって、個々の適応症を裏付ける介入試験を新たに要求する制度改革ではなかった。つまり効能表示の土台は、臨床試験の束ではなく、行政指針としての性格が強い分類体系だということになる。
それでも、査読を経た研究がまったくないわけではない
ここで公平を期すなら、温泉浴の健康効果について査読論文が皆無というのも言い過ぎだ。イスラエルの死海で行われてきた「クリマトセラピー(気候療法)」の研究では、皮膚科医ホダックらのグループが乾癬患者27例を対象に28日間の療養を行ったところ、症状の重症度スコアが平均で81.5%改善し、48%が完全に症状の消退に至ったという報告を、査読誌に発表している。日本国内でも、群馬大学のグループが強酸性(pH2程度)の草津温泉を用いた療養で、アトピー性皮膚炎患者46例中32例(70%)、別の131例中106例(81%)に症状改善が見られたと報告しており、水素・マンガン・ヨウ素の各イオンによる殺菌作用が機序として示唆されている。フランスのラ・ロッシュ・ポゼやアヴェンヌといった温泉地の水についても、アトピー性皮膚炎への効果を検証した臨床研究が複数、査読誌に掲載されている。
ただし、これらの研究には共通する弱点がある。死海や草津の研究はいずれも対照群を置かない小規模な観察研究であり、フランスの研究の多くは、その温泉水を原料とする化粧品企業自身が関与・出資したコホート研究が中心を占める。「まったく根拠がない」は言い過ぎだが、「効くと証明されている」もまた言い過ぎで、実際に立っているのは、査読は通っているが独立した大規模な比較試験には乏しい、という宙ぶらりんの位置だ。関節リウマチや変形性関節症を対象にした温泉療法のコクランレビューが軒並み「証拠不十分」という結論に落ち着いていることも、この宙ぶらりんさを裏付けている。
なぜ、この宙ぶらりんさが検証されずに流通し続けるのか
不思議なのは、効能表示の根拠がこれほど緩いことが、大々的に問題視されずにきた点だ。理由の一つは、単純に構造的な力学として説明できる。環境省の統計によれば、全国の温泉地は2,879か所、源泉総数は27,932か所にのぼり、温泉宿泊施設の年間収容力はおよそ4億9千万人泊にのぼる(宿泊利用者数自体は1992年度をピークに減少傾向にはある)。多くの地方自治体にとって、温泉は数少ない自前の観光資源であり、地域経済の柱の一つになっている。
こうした構造の中では、「泉質別の効能に厳密な臨床的根拠はない」と正面から言うことは、業界批判に直結しやすい。しかも、適応症を整理してきた鉱泉分析法指針そのものが、医学研究の独立した審査体制ではなく、温泉行政の枠組みの中で専門家が合議する形で運用されてきた経緯を持つ。誰かが意図的に事実を隠しているという話ではなく、そもそも効能表示という制度が、臨床試験によって検証される前提で設計されてこなかった、という方が実情に近い。検証すべきだと声を上げる立場に、検証のコストを負う動機を持つ主体がほとんど存在しない、という構造がそこにある。
一方で、入浴という行為自体には、もっと足場の固い効果がある
ここまでの三層——効能表示の緩い土台、それでも一部にある査読研究、そして検証が進まない構造的な事情——は、いずれも「泉質が特定の疾患に効くか」という、かなり厳しい基準の主張についての話だった。これとは別に、入浴という行為そのものが自律神経系に与える影響については、むしろ比較的よく確認されている。2019年に発表されたメタ分析では、就寝の1〜2時間前に40〜42.5度程度の湯に浸かる「受動的な身体加温」が、入眠までの時間を平均で10分ほど短縮し、睡眠の質を改善させるという結果が、複数の研究を通じて一貫して示された。この効果は温泉の成分ではなく、体温を一時的に上げてから下がる過程そのものが引き金になっている。蛇口から出るただのお湯でも、条件さえ揃えば似たような効果は起こり得る、泉質を問わない生理学的な効果だ。
さらにもう一つ、日常から離れた環境に身を置くこと自体が持つ、心理的な回復効果もある。休暇と心身の健康の関係を扱った研究の蓄積を整理したレビューによれば、休暇中に主観的な健康感やストレスの低下が観察されるのは比較的一貫した傾向である一方、その改善効果は休暇後2〜4週間ほどで元の水準に戻ってしまうことも、同じくらい一貫して報告されている。「非日常に身を置くことによるリセット効果」は確かに存在するが、それは温泉という特定の場所の効能というより、日常の義務から一時的に切り離されるという状況そのものが持つ効果に近い。
それでも、あの爽快感は本物だ
効能表示の緩さ、宙ぶらりんな研究状況、それが検証されずに済んでいる構造——ここまで並べても、湯に浸かって全身の力が抜けていく、あの感覚そのものへの疑いには、まだ届いていない。入浴が自律神経系に及ぼす作用も、日常から切り離される心理的な効果も、どちらも仕組みとして実在し、しかも重なり合って働いている。だとすれば、あの何ものにも代えがたい弛緩の感覚は、気のせいでも思い込みでもなく、複数の実在する経路が同時に働いた結果として、十分に説明がつく。
「この泉質はこの症状に効く」という言い切りへの疑いと、湯上がりに感じる軽さへの信頼は、対立するものではない。前者は、特定の成分が特定の疾患の経過を変えるという、相応に厳密な検証を要する主張であり、後者は、入浴と環境の変化がもたらす、仕組みの分かっている体験の報告だ。前者の根拠が緩いことに気づいたからといって、後者まで疑う理由にはならない。効能表示の緩さも、検証されないままの構造も、頭では分かっている。それでも全身の力が抜けていくあの感覚は、今のところ自分にとって手放しがたい、最上級の体験であり続けている。それは思い込みでも敗北でもなく、ただ両方とも本当だというだけのことだ。
出典
- 「温泉法」(1948年制定、法律第125号).
- 環境省, 「鉱泉分析法指針」(1951年制定、1957年改訂、以降1982年・1997年・2002年・2014年改訂).
- Emmilia Hodak, Alice B. Gottlieb, Tamar Segal, et al., "Climatotherapy at the Dead Sea is a remittive therapy for psoriasis: Combined effects on epidermal and immunologic activation", Journal of the American Academy of Dermatology, 2003.
- 群馬大学, 草津温泉療法によるアトピー性皮膚炎症状改善の報告(小規模非対照研究).
- La Roche-Posay および Avène の温泉水とアトピー性皮膚炎に関する臨床研究群(製造元関連機関による研究が中心).
- Arianne P. Verhagen et al., "Balneotherapy for Rheumatoid Arthritis", Cochrane Database of Systematic Reviews, 2015.
- Arianne P. Verhagen, Sita M. A. Bierma-Zeinstra, et al., "Balneotherapy for Osteoarthritis", Cochrane Database of Systematic Reviews(2007年版および更新版).
- Shahab Haghayegh et al., "Before-Bedtime Passive Body Heating by Warm Shower or Bath to Improve Sleep: A Systematic Review and Meta-Analysis", Sleep Medicine Reviews, 2019.
- Jessica de Bloom et al., "Do We Recover from Vacation? Meta-analysis of Vacation Effects on Health and Well-being", Journal of Occupational Health, 2009年および関連レビュー.
- 環境省, 「温泉利用状況」(令和4年度).