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「かっこいい趣味女子」を卒業する
SNSに溢れる「おしゃれで自立した」趣味のテンプレートに、どこか息苦しさを感じることがある。他人の評価から離れ、自分の意思決定そのものを研磨する趣味のあり方について考えてみる。
「かっこいい趣味を持ちたい」と検索するとき、そこにあるのは単なる暇つぶし以上の欲求だと思う。今の自分に対する退屈への抗いであり、何かに没頭することで自分の輪郭を鮮明にしたいという欲求だ。ただ、SNSに溢れる「おしゃれで自立していてかっこいい」とされる趣味の数々に、どこか息苦しさを感じることもある。それはたぶん、そのかっこよさが自分の内側から湧いたものではなく、どこかで見たテンプレートに自分を当てはめようとしているからだ。
檻としてのテンプレート
InstagramやPinterestを開けば、美しく整えられたキャンプギア、最新のウェアで登る山、フィルター越しに切り取られた日常が並んでいる。これらは確かに美しいが、多くは「他人の目」を前提とした消費に過ぎない。特定のブランドを揃え、特定の構図で写真を撮る。そこには「このように見られたい」という他者への依存がある。見せるための体験を積み重ねるほど、自分の内側から湧く好奇心はすり減っていくように思う。
他者の定義するかっこよさを追い求めることは、終わりのない評価レースに参加することでもある。ここで考えたいかっこよさとは、他人の視線をいったん脇に置いて、一人の熱中の中に沈んでいる状態、自分の時間の使い方を自分で決めている状態のことだ。
意思決定の訓練として
趣味を必要とする理由の一つは、仕事や日常の中で「自分の意志で決めること」が思いのほか少ないからかもしれない。次に見るべきものをアルゴリズムが提示してくる環境に慣れると、自分で選んでいるつもりが実は選ばされている、という感覚が積もっていく。
趣味の世界では、どの道を進み、どの道具を使い、どの対象を掘り下げるかに正解も上司も介在しない。自分の価値観だけで「AではなくB」を選ぶ試行錯誤を繰り返すこと自体が、意思決定の力を保つ練習になっている気がする。
積み重なる趣味
単発の体験で終わる趣味と、自分の中に積み重なっていく趣味は違う。前者はトレンドやアルゴリズムに左右され、後者は自分の内発的な好奇心に立脚する。前者は瞬間的な刺激で終わるが、後者は時間が経つほど自分の中の解像度を上げてくれる。
たとえばバイクの整備。錆びついたボルトを外すために潤滑剤を吹き、熱を与え、金属が緩む手応えを指先で探る。この地道な作業を通じて、世界は自分の手で変えられるという確信を少し取り戻せる気がする。ソロキャンプも近い。便利なインフラを切り離した場所では、判断ミスがそのまま寒さや空腹として返ってくる。何もない場所で自分を律するプロセスは、日頃どれだけ「過剰なおもてなし」に頼っていたかを可視化する。歴史や民俗学に興味を向けるのもいい。今住んでいる街の古地図を片手に歩いてみると、なぜここに坂があり、道が不自然に折れ曲がっているのかが見えてきて、見慣れた景色が急に立体的になる。トレンドという一年単位のノイズから距離を取るための、自分なりの足場になる。
自分の趣味に立ち返るために
「何が好きか」という問いは、今の時代アルゴリズムに汚染されがちだ。まずは「何に自分の時間や注意を奪われたくないか」という拒絶の方から考え始めてみるのも一つの手だと思う。絶え間ない通知や目的のない社交を意識的に減らした先に、好奇心の種が残っていることがある。日常を支配する「タイパ」のロジックを趣味の時間にまで持ち込まず、あえて回り道の手法や手間のかかる工程を選んでみる。効率という自動操縦を止めたとき、自分の手で時間を動かしている感覚が戻ってくる。そして記録は、他者の承認を得るためのポートフォリオではなく、自分の内面の変化を見るための実験ログとして残しておく。
「かっこいい趣味女子」と呼ばれたい欲求を手放して、ただ自分の決定権を保つことに集中する。それくらいでちょうどいいのかもしれない。誰の目も気にせず対象に沈み込んでいるとき、その熱中は結果として周囲にはかっこよく映ることもあるが、それは与えられたラベルではなく、あくまで副産物だと思う。
