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「かっこいい趣味」という評価軸について
バイクツーリングやフィルムカメラが「かっこいい」とされるのは、それ自体の面白さのためなのか、それとも見た人の反応のためなのか。趣味を選ぶときの評価軸について考えてみる。
「かっこいい趣味」という言い方をするとき、そこにはたいてい、見ている人がいる。バイクツーリング、フィルムカメラ、ボクシング、ドローン空撮。並べてみると、どれも一人で完結する活動ではあるのに、語られ方は「周りにどう見えるか」を軸にしていることが多い。SNSに投稿したときの反応がいい、こだわりが伝わる、非日常感がある。そういう説明が並ぶ。
それ自体は不自然なことではない。人が何かを選ぶとき、他人の視線を完全に無視することは難しい。ただ、その比重が大きくなりすぎると、少し厄介なことが起きる。反応がもらえなくなった瞬間に、その趣味を続ける理由も一緒に消えてしまう。フィルムカメラの現像を待つ数日間の楽しみは、本来「映える一枚が撮れるかどうか」とは別の場所にあるはずなのに、評価の軸をそこに置いてしまうと、いつの間にか写真そのものより反応の方が主役になる。
面白さと評価は、別の軸のはずだった
フィルムカメラが面白いのは、現像するまで結果がわからないという、単純に不便な仕組みのためだと思う。DIY家具作りが面白いのは、寸法を間違えて作り直す過程そのもののためだと思う。どちらも「かっこよく見えるかどうか」とは独立して成立する面白さで、たまたま結果としてそう見えることがある、という順番のはずだ。
この順番が逆になると、選ぶ基準そのものが変わってしまう。「これは映えそうだから始める」という動機は、始めるきっかけとしては悪くないかもしれないが、続ける理由としてはあまり頼りにならない。反応が薄い日、写真がうまく撮れなかった日、家具が歪んでしまった日。そういう地味な日々を支えるのは、他人の評価ではなく、その作業自体のどこが面白かったかという記憶のほうだと思う。
「かっこいい趣味」という枠組みを疑ってみると、残るのは意外とシンプルな問いだ。それをやっている最中の時間そのものが、自分にとって面白いかどうか。見た目の印象は、その後についてくるかどうかの話でしかない。

