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女性の「かっこいい趣味」は、誰の視線で決まるのか

女性の「かっこいい趣味」は、誰の視線で決まるのか

バイクツーリングやフィルムカメラが「かっこいい」とされるとき、その評価はどこから来ているのか。趣味の性別コード化、自己呈示の研究、評価される側のコストをたどると、話は思ったより込み入っている。

TOMOAKI··趣味

「かっこいい趣味」という言い方をするとき、そこにはたいてい、見ている人がいる。バイクツーリング、フィルムカメラ、ボクシング、ドローン空撮。並べてみると、どれも一人で完結する活動であるはずなのに、語られ方は「周りにどう見えるか」を軸にしていることが多い。SNSに投稿したときの反応がいい、こだわりが伝わる、非日常感がある。そういう説明が並ぶ。しかも、この語彙が動員されるのは女性が始めたときに限って多い。男性がバイクに乗っても「かっこいい趣味ですね」とはあまり言わない。ただの趣味として扱われる。同じ人物が同じ排気量のバイクにまたがっていても、性別が変わるだけで説明の要不要が変わる。これは活動の内容に対する評価というより、活動と行為者の組み合わせそのものに対する評価だと考えた方が説明がつく。

この非対称に気づくと、問いの立て方が変わってくる。「なぜ女性はかっこいい趣味を求めるのか」ではなく、「なぜある活動を女性がやると、わざわざ評価の言葉がついてくるのか」という方に興味が移る。前者は個人の願望の話だが、後者は評価する側の構造の話になる。しかも構造の話にしてしまうと、次に浮かぶのは「その構造は誰が作り、誰が今も維持しているのか」という、もう一段厄介な問いだ。答えの一端は、案外、評価される側の内面にもある。この記事はその両方をたどってみる。

かっこよさは趣味の中にはなく、コードの中にある

フィルムカメラが面白いのは、現像するまで結果がわからないという、単純に不便な仕組みのためだと思う。DIY家具作りが面白いのは、寸法を間違えて作り直す過程そのもののためだと思う。どちらも「かっこよく見えるかどうか」とは独立して成立する面白さで、たまたま結果としてそう見えることがある、という順番のはずだった。

ところが、その活動がどれだけ「かっこいい」と評価されるかは、活動そのものの面白さの量とはほとんど関係がない。関係しているのは、その活動がどれだけ強く「男性のもの」としてコード化されてきたかという歴史の方だ。バイク、ボクシング、ドローン、登山、フィルム機材。並べてみると気づくのは、これらがどれも従来「男性の趣味」とされてきた領域だという点である。女性が「かっこいい」という評価を受け取るのは、多くの場合、男性コードの領域に足を踏み入れたときに限られる。編み物や刺繍がどれだけ精緻でも、「かっこいい」という言葉はまず出てこない。「素敵」「丁寧」という言葉が充てられる。同じ集中力、同じ技術の蓄積であるにもかかわらず、である。

つまり「かっこいい趣味」という評価軸は、活動の中身を見ているようでいて、実際には「これはどちらのジェンダーに属する領域か」という古い地図を参照している。地図の方が動かないまま、それを踏み越えた人にだけスポットライトが当たる。踏み越えなかった人の技術は、同じ密度で存在していても、スポットライトの外に置かれたままになる。

コード化は思っているより早くから始まっている

203人。この人数の子どもを中期児童期から青年期まで追跡し、余暇時間の使い方を記録した縦断研究がある。ペンシルベニア州立大学のリー、スキナーとマクヘイルらの手によるもので、2018年に学術誌Journal of Adolescenceに発表された。結果はわかりやすい形で出ている。男子が「男性型」とされる活動(スポーツなど)に使った時間の割合は平均52%だったのに対し、女子は平均43%。逆に女子だけの社会的な場での活動時間は女子が平均28%、男子は平均13%だった。統計的にはっきりした差である。

ここで興味深いのは、その先だ。子ども時代のこの余暇時間の配分パターンは、後の職業アスピレーション、つまり「将来どんな仕事に就きたいか」という意識の性別的な偏りとも関連していた。女子は将来就きたい職業として「女性型」とされる職業を挙げる程度が平均53.6(100点満点中)、男子は平均29.9。趣味という一見軽い領域での時間配分が、何年も先の進路イメージにまでつながっている。趣味の性別コード化は、大人になってから「かっこいいかどうか」を評価する場面で初めて発生するのではなく、遊びの時間そのものがすでにコード化された状態で子どもに配られている、というのがこの研究の示すところだ。

だとすれば、大人になった女性が「男性型」の趣味を選ぶという行為は、単なる好みの表明ではない。すでに敷かれたレールから外れる行為であり、外れたからこそ「かっこいい」という、ある種の驚きを含んだ評価がつく。逆に言えば、その評価が発生すること自体が、レールがまだそこにあることの証拠でもある。「かっこいい」という言葉は賞賛のようでいて、実は「本来ここにいるはずのない人がここにいる」という驚きの表明に近い。賞賛と異物扱いは、思ったより地続きにある。

もう一つ付け加えると、この研究が測定しているのは飽くまで平均的な傾向であり、個々の子どもの選択を決定づけるものではない。43%対52%という数字の重なりは大きく、大多数の女子が男性型活動を避けているわけでも、大多数の男子がそれ以外を避けているわけでもない。分布は大きく重なりながら、平均だけがわずかにずれている。それでも、社会全体で見たときにその小さなずれが積み重なると、大人になる頃には「男性型の趣味をやっている女性」が統計的にめずらしい存在として際立つようになる。個人のレベルではささやかな傾向差が、集団のレベルでは目立った偏りに変換される、というのはこの手の研究に共通する厄介さでもある。

踏み越えることには、コストが伴う

ここまでは「かっこいい」という評価が肯定的な注目である前提で話してきた。しかし、男性コードの領域で成果を出した女性が、常に好意的に受け取られるとは限らない。「男性の仕事」とされる領域で成功した女性が、同じ成果を出した男性と比べて低く評価される——好感度、対人的な敵意の知覚、上司としての望ましさといった評価軸で、女性の方が不利になる。この現象を突いた実験がある。2007年、心理学者ヘイルマンとオキモトがJournal of Applied Psychology誌に発表した一連の実験だ。

研究チームが突き止めた原因は単純だった。男性領域での成功は、その人物に「協調性」や「思いやり」が欠けているという印象を暗に呼び起こしてしまう。そしてこの印象の低下は、その人物に母親であることや、他者への配慮を示す具体的なエピソードといった「協調性の証拠」が付け加えられると和らいだ。つまり、評価の低下は成功そのものへの反発ではなく、「有能さ」と「協調性」を両立できないはずだという思い込みから来ている。

この構造を趣味の話に当てはめると、少し居心地の悪い仮説が出てくる。バイクに乗る女性、ボクシングジムに通う女性が「かっこいい」と評価される裏側では、同時に「この人は少し近寄りがたいのでは」という値踏みも走っているかもしれない、ということだ。称賛と警戒が同じ地点から発生している可能性がある。もちろんこれは職場での評価実験の結果を趣味の場に外挿した推測であり、趣味そのものを対象にした実証研究ではない。ただ、評価する側の心理的なメカニズムとしては、同じ地図が使い回されていると考えるのは不自然ではない。

興味深いのは、ヘイルマンとオキモトの実験でこの評価の低下を防いだのが「成果を控えめにすること」ではなく、「協調性の証拠を別に示すこと」だった点だ。母親であることが伝わる、他者への配慮を示す具体的なエピソードが添えられる。それだけで、同じ成果に対する評価が変わった。ここから読み取れるのは、女性が男性コードの趣味で目立つこと自体が問題視されているのではなく、その一点だけで人物像が完結してしまうことが問題視されている、という構図だ。裏を返せば、「バイクに乗る女性」という情報が一人歩きしたときに発生する値踏みは、その人物についての情報が乏しいことそのものが生む誤差でもある。情報が少ない対象について、人は空いた余白を紋切り型で埋めたがる。

「見られ方」を気にしているのは、本当に女性の方なのか

ここまでの流れだと、「女性は見た目の評価を気にしがちだ」という前提を強化しているように読めるかもしれない。だが自己呈示についての実証研究をたどると、この前提はそれほど単純に支持されない。

25か国、12,257人。これだけの規模で、SNS上での「虚偽的な自己呈示」——実際より良く見せるための誇張や偽装——を国際比較した研究がある。2021年、心理学者コレスニク、デ・ヨング、ピーテルスがPsychological Science誌に発表したものだ。身体的魅力に関する誇張は男性18%、女性20%とほぼ差がない。一方、個人的な達成(仕事の実績や学歴など)に関する誇張は、男性14%に対して女性は10%と、むしろ男性の方が多く誇張していた。しかも、この性差はジェンダー平等度の高い国ほど大きくなるという結果も出ている。平等が進んだ社会では、性別に典型的でない誇張——たとえば男性が容姿を誇張する、女性が実績を誇張する——が減り、結果として「その性別らしい」誇張だけが残る、という逆説的な構図だった。

もう一つ、プロフィール写真の撮り方を扱った実験もある。心理学者スチェスニーとカウフマンが2018年にFrontiers in Psychology誌に発表した研究では、大学生61人にプロフェッショナルネットワーク向けの自己紹介写真を選ばせたところ、顔を画面いっぱいに大きく写す傾向(facial prominence、数値が高いほど顔の占有面積が大きい)は男性の方が女性より有意に強かった(男性平均0.58、女性平均0.51)。実績を誇張するのも、顔を大きく見せるのも、この二つの研究では男性側の方が積極的だったことになる。

ここから言えるのは、「見せ方を気にする」という行動そのものに性差があるというより、何を誇張するかの中身に性差がある、ということだ。「かっこいい趣味」を求める心理を女性特有の見栄っ張りだと片づけるのは、この研究の並びを見る限り、根拠が薄い。誇張したい気持ちは誰にでもあり、ただそれがどの方向に向かうかが、周囲からどう見られたいかという社会的な期待によって振り分けられているだけかもしれない。

コレスニクらの研究がジェンダー平等度と誇張のパターンをセットで報告している点も見過ごしにくい。平等が進んだ社会ほど性差がむしろ開くという結果は、直感とは逆の向きに動く。平等になれば誇張の中身も均されていくはずだ、という予測は素直に外れている。人がどの領域で自分を良く見せたがるかは、法制度や機会の平等が達成された後も、その社会に残る「らしさ」の感覚——女性なら容姿、男性なら実績という振り分け——に沿って再生産され続ける。制度上の壁がなくなることと、評価される場面で何を誇張したくなるかが変わることは、別の速度で進む話らしい。

見られながらやることは、やること自体を変えてしまう

ここまでは評価する側の話をしてきた。だが評価者は外部にだけいるとは限らない。女性が育つ過程で「観察者の視点」を自分自身の見方として内面化していく——このプロセスを扱った枠組みが、客体化理論である。心理学者フレドリクソンとロバーツが1997年にPsychology of Women Quarterly誌で提示した。この理論の核は、内面化が単なる自己評価の癖にとどまらず、行動している最中の意識のあり方そのものを変えてしまう、という点にある。理論の中で提示された「自己監視(self-surveillance)」という概念は、自分の外見や振る舞いが今どう見えているかを、行為の途中で絶えず点検してしまう状態を指す。そしてこの自己監視は、対象への没入——理論の言葉では「フロー」——を妨げる方向に働くとされている。

この理論はもともと摂食障害や身体不安といった臨床的な文脈で組み立てられたもので、趣味の場面を直接扱った実証研究ではない。それでも、趣味に引きつけて考える価値はある。バイクを走らせている最中に、路面の感触より先に「今の自分はどう映っているか」が浮かぶとしたら、その一瞬、活動そのものへの没入は途切れている。フィルムカメラのシャッターを切る前に、被写体の面白さより先に「この写真は誰に見せるためのものか」が浮かぶとしたら、同じことが起きている。評価する側の視線がどこか外部にあるだけでなく、行為者自身の中に据え付けられてしまっている状態、と言い換えてもいい。だとすれば、「かっこいい趣味を持つ女性」への評価がどれだけ好意的であっても、その評価の視線を先回りして自分の内側に飼ってしまった瞬間、活動から得られていたはずの面白さの一部は、静かに目減りしている可能性がある。

「映える」の論理は、趣味だけの現象ではない

視点を少し引いてみる。「かっこいい趣味」を持つことが評価される構造は、経済学や消費者行動論が古くから扱ってきた「誇示的消費」の一種として説明できる。1899年、ソースティン・ヴェブレンは著書『有閑階級の理論』で一つの逆説を提示した。生産的な労働から離れた、コストのかかる非生産的な時間の過ごし方こそが、上流階級の地位を示す記号になる、というものだ。趣味に高価な機材や特別な訓練が要ることは、多くの場合その趣味の「格好よさ」の一部として機能している。フィルムカメラも、機材と手間のかかるボクシングジムも、この意味では地位の記号として消費されている面がある。

もっとも、この論理は近年ねじれてもいる。経営学者ベレッツァ、パハリア、ケイナンが2017年にJournal of Consumer Research誌に発表した研究によれば、現代の一部の文化圏では、暇であることよりも「忙しくて余暇がないこと」の方がむしろ地位の記号として機能するようになっている。忙しさは「この人材は市場で引く手あまただ」という推測を呼び起こし、それ自体が有能さの証明として読まれるからだという。趣味の世界に引きつけて言えば、「趣味に没頭する余裕がある」ことも、「趣味などする暇がないほど忙しい」ことも、どちらも状況次第で地位の記号になり得る、ということになる。地位を示す記号の中身は、時代や文脈によって入れ替わる程度には流動的だ。だとすれば、「かっこいい趣味」という評価軸そのものも、絶対的なものではなく、いま現在たまたまそう機能している記号の並びの一つにすぎない、という見方ができる。

屋外は最初から均等に開かれていたわけではない

もう一段、地図の話に戻る。「男性コードの趣味」がなぜそのようにコード化されているのかを考えるとき、参加率の差だけでなく、メディア表現の差も無視できない。スウェーデンの山岳リゾート地の観光・レジャーメディアを分析した研究がある。地理学者ゴットマン・クリング、マルガリアン、フックスが2020年にCurrent Issues in Tourism誌に発表したもので、屋外レクリエーションの描かれ方に明確な偏りがあることを示した。男性は分析対象となったほぼすべての活動に登場するか、他を圧倒する形で描かれていたのに対し、女性が描かれる活動の種類はそれより狭い範囲にとどまっていた。つまり、女性の参加率が低く見える活動の一部は、そもそも「女性が写っている素材が少ない」というメディア制作側の選択の結果でもある、ということになる。

これは、趣味の「かっこよさ」という評価軸を考えるうえで示唆的だ。ある活動が「かっこいい」と語られるためには、まずそれが「かっこよく撮られた画」として流通していなければならない。女性がバイクにまたがる画がめずらしいのは、女性がバイクに乗らないからというより、そういう画がこれまであまり作られてこなかったからかもしれない。めずらしさそのものが「かっこいい」という評価の一部を構成しているとすれば、この評価軸は活動の本質的な魅力よりも、その活動をめぐる映像の流通量の少なさに支えられている部分がある。皮肉なことに、その希少性が失われれば――つまり女性がバイクに乗ることが当たり前になれば――「かっこいい」という評価の一部もまた、静かに剥がれ落ちていくはずである。

この研究がもう一つ示しているのは、参加率の差と表現の差は互いに補強し合う関係にあるということだ。表現が少ないから憧れる対象が見つかりにくく、参加が増えにくい。参加が少ないから、メディアはさらに男性の画を選びやすくなる。この循環の中に「かっこいい」という評価が置かれているとすれば、その評価は活動の魅力を測る物差しというより、循環そのものが今どの段階にあるかを示す指標に近い。物差しだと思って使っているものが、実は温度計のようにその場の状態を映しているだけだった、というのはこの手の話によくある展開だ。

評価軸を外したところに残るもの

ここまでの話を並べると、いくつかの層が見えてくる。趣味の性別コードは幼少期の遊び方の配分からすでに始まっていること。そのコードを踏み越えた女性への評価は、称賛と同時に協調性への疑いという値踏みを伴いうること。その値踏みの視線は、外部にあるだけでなく行為者自身の内側にも据え付けられ、行為への没入を静かに削っていること。自己呈示における誇張の性差は、見せ方の量ではなく方向の問題であり、しかも平等が進んだ社会でむしろ開くという逆説を含んでいること。「かっこよさ」という記号自体が、地位を示す記号の流行り廃りの中の一項目にすぎないこと。そして、その記号を支える希少性は、メディア表現の偏りという、活動そのものとは別の場所で作られていること。

積んでもなお、一枚岩の結論には行き着かない。行き着かないこと自体、この主題の性質だと思う。ジェンダーと評価の関係は、一つの実験や一つの理論で閉じるにはあまりに多くの要因が絡んでいて、ここに並べた八本の研究・理論にしても、対象国も時代も方法論もばらばらである。それでも、ばらばらな研究がそれぞれ別の角度から同じ地図の存在を示唆している、という点だけは共通している。地図は一枚ではなく、参加のしやすさ、評価のされ方、映像の流通、内面化された視線という、複数のレイヤーが重なってできている。

最初の問い――バイクツーリングやフィルムカメラは、それ自体の面白さのために選ばれているのか、それとも見た人の反応のために選ばれているのか――に、明快な答えは出ない。おそらく答えが出ないこと自体が、この問いの立て方の限界を示している。人が何かを続ける理由に、他人の視線が一切混ざらない状態を想定すること自体が不自然だからだ。フィルムの現像を待つ数日間の楽しみは、たしかに「映える一枚が撮れるかどうか」とは別の場所にある。しかし、その現像待ちを最初に選ばせたきっかけの一部に、誰かに見せたときの反応への期待が混ざっていたとしても、それは特に恥じるようなことではない。

むしろ点検する価値があるのは、反応がもらえなくなった瞬間に、その趣味を続ける理由も一緒に消えるかどうかの方だ。評価が薄い日、写真がうまく撮れなかった日、バイクが思うように曲がらなかった日。そういう地味な時間を支えているものが、他人の評価なのか、作業そのもののどこが面白かったかという記憶なのか。この二つを分けて自分の中に置いておくことは、「かっこいい趣味」という言葉が誰の視線を代弁しているのかを見分けることと、たぶん同じ作業である。

見分けたところで、評価軸そのものが消えてなくなるわけではない。バイクにまたがれば、これからも誰かが「かっこいい」と言うだろうし、編み物の手元をどれだけ丁寧に仕上げても、同じ言葉は出てこないだろう。地図はすぐには描き換わらない。それでも、その言葉が飛んできたときに、自分の中のどの部分がその言葉に反応して喜んでいるのかを、一拍置いて確かめることはできる。喜んでいるのが活動そのものへの手応えなのか、地図の外側に出られたという安堵なのか。その見分けがつくかどうかで、同じ「かっこいい」という一言の重さは、受け取る側の中でまったく違うものになる。

出典

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