目次▼
田舎で趣味の時間ができる、というのは本当か
田舎に住めば趣味の時間ができるという通念を、通勤時間の統計と社会関係資本の研究で分解する。出てくるのは自由な時間ではなく、別の種類の拘束だった。
「田舎に来ると時間ができる」という言い方をよく見かける。都会の喧騒から離れて、というくだりが枕詞のようについてくることも多い。だがこの主張は、検証しようと思えばできる形をしている。時間ができるかどうかは印象の話ではなく、一日の時間の使い方の内訳の話だからだ。通勤に何分使い、地域の集まりに何時間割いているか。数えれば答えが出る種類の問いに、雰囲気で答えているのだとしたら、それはこのサイトが距離を置きたい種類の言説そのものになる。
この問いを検証する前に、確認しておきたいことがある。「田舎で時間ができる」という主張を分解すると、実は二つの別の主張が重なっている。一つは、通勤や移動に取られる時間の絶対量が減るという、比較的単純な物理的事実。もう一つは、その浮いた時間が趣味や自己実現に振り向けられるはずだという、因果の飛躍を含んだ期待だ。前者は統計で確認できる。後者は、確認せずに信じられていることが多い。以下ではこの二つを分けて、それぞれどこまで裏が取れるのかを見ていく。
通勤時間という、最もわかりやすい変数
総務省統計局の令和3年社会生活基本調査によれば、都道府県別の通勤・通学時間には差がある。ここで使われている指標は、平日に実際に通勤・通学をした人(行動者)の1日あたりの平均時間で、往復・通学者を含んだ数字だ。全国平均は1時間19分だが、最長は神奈川県の1時間40分、最短は山形県・宮崎県の56分で、その差は44分に達する。一日44分は、年間250日ほど働くとして計算すれば180時間を超える。確かに「時間ができる」と言いたくなる数字ではある。
ただし、ここで立ち止まる必要がある。浮いた時間がそのまま自由な余暇に変換されるという想定は、検証されているだろうか。英国のUK Biobankを分析した研究(Foley ら, 2019, PLOS ONE)は、通勤手段を車から徒歩・自転車・公共交通に変えた人を追跡し、テレビなどの画面時間・散歩・スポーツやDIYに使う時間が変わるかを調べている。結果は、手段を変えた人でも、画面時間や散歩の時間の配分に違いは見られない、というものだった。一方で、ある時点で徒歩や公共交通を使っていた人は、車だけの人より、画面時間も余暇の合計時間も週に1時間ほど少なく、追跡の2時点とも続けていた人でも、画面時間は週30分ほど少なかった。これは通勤「時間」ではなく「手段」の研究で、浮いた時間の行き先を直接調べたものではない。それでも、通勤の形が変わっても余暇の使い方が目立って変わらなかったことは、通勤の条件が変われば趣味の時間が増える、という見込みを疑う手がかりにはなる。
通勤時間の短さが時間という資源の総量を増やすことは、先の統計から言える。しかしその資源が「趣味」という使い道に自動的に流れ込むという因果関係までは、データは保証していない。田舎の通勤時間の短さが趣味の充実に直結するという話は、ここで一段階、留保が必要になる。
もう一つ加えておきたいのは、通勤時間そのものが地域差を生む唯一の変数ではないという点だ。通勤・通学時間が最も短い山形県や宮崎県は、往復を含めても1時間に満たない水準にある一方、都市部への通勤者が集中する首都圏・近畿圏では長時間通勤が構造化している。この差は個人が選び取った生活様式というより、居住地と職場の距離という、都市計画や産業立地の産物である。田舎に住む人が「賢く時間を使っている」からではなく、単に職住近接という配置がそこでは成立しやすいというだけの話だ。時間の余裕を人の選択の結果として語ると、実際には地理的な配置の効果にすぎないものを、ライフスタイルの美点として誤配してしまう。
加えて、通勤時間が短い地域の多くは、そもそも通勤先の選択肢自体が乏しいという事情も抱えている。都市部の労働者が長い通勤時間と引き換えに得ているのは、転職先や職種の選択肢の広さでもある。地方で通勤時間が短いことは、近くに勤め先がそれだけ集約されている、あるいは選べる勤め先の数自体が少ないことの裏返しである場合が少なくない。時間という一つの指標だけを取り出して比較すると、その時間の短さが何と引き換えに得られているのかという、もう一段の条件が見えなくなる。ここでも、良いことずくめに見える差分の裏には、必ず何かとのトレードオフが隠れている。
Putnamの数字と、その裏返し
ロバート・パットナムは『孤独なボウリング』(2000年)の中で、通勤時間が10分伸びるごとに、地域活動への関与がおよそ10%落ちるという推計を示していると紹介されている。これは逆に読むこともできる図式で、通勤が短ければ地域活動への関与は増えるはずだ、という予測が成り立つ。田舎の通勤時間の短さが地域活動への関与を増やしているかを直接測った研究は、私は見つけられなかった。
直接の答えではないが、地域の集まりに出ることの意味を見た研究として、日本老年学的評価研究(JAGES)の縦断データを用いた比較研究(Ide ら, 2020)がある。65歳以上を約6年追跡したこの研究(解析の対象は約4万7千人)では、趣味の会への参加と要介護認定との関係を、都市部と農村部で分けて調べている。趣味の会に参加している場合の要介護認定のリスクの比(ハザード比)は、都市部で0.90、農村部で0.76だった。点推定では農村部のほうが小さいが、信頼区間は重なっており、論文は両者の差を検定していない。著者の結論は、都市でも農村でも、趣味の会への参加は要介護認定の少なさと結びついていた、というものだ。
農村部のほうが小さいという点推定に、田舎の地域活動の「濃さ」を読み込みたくなる。確かめられた差ではないが、そう読むとしても、濃さの正体を時間の余裕という説明だけで片づけるのは早い。農村社会学の比較研究(Hofferth と Iceland, 1998, Rural Sociology)は、1988年の米国のPSID(Panel Study of Income Dynamics)のデータを用いて、都市部と農村部それぞれの世帯が、金銭的な援助や労力の融通をどの相手とどれだけやり取りしているかを比較している。そこで示されているのは、農村部の世帯ほど血縁関係にある相手との交換に偏っており、血縁以外の相手との交換の比重は都市部より低いという傾向だ。都市と農村の差を説明する要因として同研究が挙げているのは、規範の違いと、公的な支援サービスがどれだけ利用可能かという制度的な条件までであり、関係の質そのものを型として分類するところまでは踏み込んでいない。なお、似た属性の世帯どうしで比べると、やり取りの量(金額)の差は小さく、都市と農村の違いは、金額よりも相手の選ばれ方にあるように見える。
パットナムが『孤独なボウリング』で使った「橋渡し型」「結束型」という語彙をここに重ねて整理するなら——これはあくまでこちらの読み方であって、Hofferth と Icelandの研究自体がその類型を使って農村を論じているわけではない——農村部で優勢な血縁中心の交換は結束型に近く、都市部で相対的に厚みを増す非血縁の交換は橋渡し型に近い性格を持つと言えるだろう。田舎の地域活動が濃いのは、選択の自由度が高いからではなく、関係の輪そのものが血縁という狭い範囲に集中し、その分だけ一つ一つの関係にかかる密度が高いからだ、という説明のほうが実態に近いのではないか。
ここで見落とされがちなのは、密度の高さと選択肢の広さは反比例するという点だ。都市部の橋渡し型の関係は、一つ一つの結びつきは弱いが、その分だけ数が多く、離脱のコストも低い。ある趣味の集まりが合わなければ、別の集まりに移ればいい。結束型が優勢な地域では、その代替が利きにくい。地域の趣味の会が一つしかなければ、そこから抜けることは地域そのものから距離を置くことに近い意味を持ってしまう。ハザード比の差を見て「田舎の趣味の会のほうが効く」と言いたくなるが、その差は確かめられていない。参加が要介護認定の少なさと結びついているのは都市でも農村でも確かだとして、農村の趣味の会に濃さがあるとすれば、そこには退出しにくいという不自由さも混じっているのかもしれない。そうだとすれば、効能と不自由は、同じ密度という一つの現象の両面であり、片方だけを取り出して語ることはできない。
密度は自由の対義語でもある
この「密度」は、参加する側からすれば拘束でもある。祭りの準備を手伝う、消防団に入る、集落の総会に出る——これらは個人が余暇として自由に選び取る活動というより、地域という単位が存続するために誰かが担わなければならない役割に近い。都会であれば、参加しない選択にコストがほとんどかからない活動が、田舎ではそうはいかない。これは「田舎はコミュニティが豊かだ」という言い方が省略している半分であり、豊かさの裏側にある義務の重さを無視すると、話は美談に寄っていってしまう。
幸福度は何によって説明されるか
農林水産政策研究所の佐々木宏樹による調査分析(2016年)は、2014年に行った20〜64歳1,500人のWeb調査(都市か農村かは回答者本人の認識による)で、都市住民と農村住民の主観的幸福度を比較し、何がその差を説明しているのかを検討している。統計的に有意な差ではないものの、平均所得が都市住民より有意に低い農村住民のほうが幸福度が高い傾向が見られたという結果自体は興味深い。だがこの研究がより丁寧に示しているのは、その先だ。都市住民の幸福度は所得が上がるほど上昇する傾向が明確なのに対し、農村住民の幸福度を説明する変数は世帯所得の額ではなく、人とのつながりや信頼関係の豊かさだった。
つまり田舎で幸福度を左右しているのは、自然環境でも時間の余裕でもなく、関係の密度という変数のようだ。田舎の趣味が意味を持つのは、それが自然の中で行われるからでも、急かされずに行えるからでもなく、その趣味を介して結ばれる関係が、参加者の生活の他の部分とも強く結びついているからだ、と考えたほうが説明がつく。裏を返せば、関係の結びつきを伴わない趣味——一人で黙々と行う作業——は、田舎で行っても都市部で行うのと同じ効用しか持たない可能性がある。
別の角度からの材料として、OECDが111カ国のデータを統合して行った都市・農村間の生活満足度の分析(2023年)がある。世界全体で見ると、個人属性を統制したうえでも都市の生活満足度は農村よりやや高く、その差と結びついているのは健康上の問題の申告、市街地の広さ、将来の経済見通し、住宅費の負担感といった要因だという。ただし同じ報告は、この都市優位の差が経済発展の水準が上がるほど縮小し、高所得国では消失すると述べている。これは国をまとめた平均で、日本単独の結果ではない。高所得国では、人口500万を超える大都市圏の住民の満足度がいちばん低い、という結果も同じ報告に出ている。佐々木の研究が示した「農村住民の幸福度が所得の額より人間関係に規定される」という結果は、都市農村の差が消えたあとに残る、もう一段細かい変数を捉えていると読むこともできる。田舎か都会かではなく、関係の密度がどちらの土地にどれだけ配分されているかが、効いているのかもしれない。
移住という装置は、期待通りに幸福を生産しない
ここでもう一つ、話を複雑にする研究を挟んでおきたい。経済産業研究所(RIETI)が公表した熊谷・ユー・馬奈木による分析(2025年)がある。この分析は、2023年に1万人が回答したオンライン調査のうち約4,000人を使い、人口減少地域と人口増加地域の間の移住(ここでの区分は、人口の伸びが標本の中央値より高いか低いかによる相対的なもので、移住前の住所は都道府県単位)が、生活満足度の各領域とどう結びついているかを比べている。人口減少地域から人口増加地域へ移った人は、減少地域に住み続けている人より、総合的な生活満足度が7.39%高かった。逆に、増加地域から減少地域へ移った人では、環境・治安・コミュニティといった領域の満足度が高いという結果は出なかった。環境の満足度は、むしろやや低かった。一時点の調査なので、移住が満足度を変えたのか、満足度の高い人が移ったのかは区別できない。
これは「田舎に行けば人間関係が豊かになって満足度が上がる」という予測を、単純には支持しない結果である。総務省地域力創造グループ過疎対策室の調査研究報告書(2018年)にも、研究会の議論として、移住の満足度は移住後のフォローアップの有無に影響されるのではないか、という指摘が記録されており、田舎に身を置くこと自体が自動的にコミュニティとの結びつきを生むわけではないことがうかがえる。関係の密度は、そこに住めば自然に発生する環境変数ではなく、意図的に維持されなければ生まれない構築物に近い。
ここまでの議論を並べると、奇妙な形の一貫性が見えてくる。田舎の趣味が「豊か」に見えるとしたら、それは自然でも静けさでもなく、関係の密度という一つの変数が、佐々木の調査をはじめ、いくつかの研究の周辺に見え隠れしているからかもしれない。だがその変数は、田舎に移り住むだけで手に入るものではなく、地域の側の受け入れ態勢や、本人が担う義務の重さとセットになっている。時間ができるという言い方の裏には、実際には「使える時間の総量が増える」ことと「その時間が特定の関係の維持に自動的に組み込まれていく」ことの、二つの別々の現象が混ざっている。
さらに言えば、この二つの現象は必ずしも同時に起きるわけではない。通勤時間が短くなって浮いた時間を、地域の関係づくりにまったく使わず、単に一人の時間として消費する選択も当然ある。その場合、田舎に住むことで得られるのは物理的な時間の増加だけであり、幸福度に効いていた「関係の密度」という変数は手つかずのまま残る。田舎に住めば自動的に人間関係が豊かになるわけではないという、総務省の報告書で研究会が指摘したフォローアップの重要性は、まさにこの隙間を埋める話だ。時間の余裕と関係の密度は、別々に調達しなければならない二つの資源であり、片方が手に入れば他方もついてくるという単純な話ではない。
「よそ者から顔見知りへ」という物語の値段
地元の工芸や祭りへの参加を通じて「よそ者から顔見知りに変わっていく」という語り方も、よく見かける表現の一つだ。この変化自体が起きること自体は疑わない。だが、それが誰にとっても等しく開かれた道のりだと考えるのは楽観的すぎる。結束型の社会関係資本が優勢な地域では、内側に入るための審査のようなものが、都市部の橋渡し型の関係よりも厳しく機能しやすいのかもしれない。総務省の報告書に記録された研究会の指摘のとおり、移住後の満足度が受け入れ後のフォローアップに影響されるのだとすれば、それは、この審査を通過できるかどうかが個人の努力だけでなく、受け入れる側の制度設計にも左右されるという意味でもある。祭りを手伝う側に回れたという体験談の背後には、手伝う側に回れなかった人の存在が、統計上は見えない形で必ず存在している。
陶芸や竹細工といった地元の工芸に触れることで得られるものについても、技術の習得とコミュニティへの参入は、別々に評価したほうがいい。技術は誰にでも開かれているが、参入は違う。工芸の教室に通うことと、その土地の歴史を担う一員として遇されることの間には、時間的にも社会的にも大きな距離がある。この距離を「趣味を通じて自然につながっていく」という滑らかな物語で語ってしまうと、実際にはそこにある選抜の過程——誰が受け入れられ、誰がそうでないか——が見えなくなる。工芸に触れること自体の面白さと、地域への帰属を得ることの難しさは、切り分けて語る必要がある。
手を動かす趣味の正体をもう一度見る
家庭菜園、保存食作り、薪割りといった、手を動かす作業に自然と寄っていくという現象自体は、否定する必要がない。ただしその理由を、田舎の時間的な余裕や自然との近さに求めるのは、ここまでの議論からすると説明として薄い。より単純な説明は、都市部で市場が代行しているサービス——惣菜、宅配、暖房設備の充実——の密度が、人口の少ない地域では相対的に薄いというだけのことだ。市場が代行してくれない作業は、自分の手で行うしかない。それは選び取られた豊かなライフスタイルというより、選択肢が少ない環境で生じる労働の再配分に近い。
この見立てが正しいなら、薪割りや保存食作りを「丁寧な暮らし」と呼ぶことは、二重の意味で不正確になる。一つは、それが自由な選択というより制約の結果だという点。もう一つは、その作業に意味を与えているのが、作業そのものの質感ではなく、それを介して維持される地域内の関係だという点だ。梅干しを漬けることに意味があるとすれば、それは自分だけで完結する工程ではなく、隣家からもらった梅で漬けて、できたものを配り、また来年の梅をもらうという、関係の往復の中に置かれているからだろう。工程の静けさを味わうことと、関係の維持コストを払うことは、別の行為であり、後者を前者の言葉で語ると実態が見えなくなる。
家庭菜園についても同じ切り分けができる。地面に植えられるという条件そのものは、都市部の集合住宅では得にくい環境上の違いであり、これは素直に認めていい事実だ。だが、ミニトマトやハーブといった育てやすい品目から始めるという判断は、田舎だから可能になる知恵ではなく、初心者が失敗を管理可能な範囲に留めるという、栽培という営みに一般的な原則にすぎない。都市部のベランダ栽培でも同じ原則は成り立つ。田舎の条件が変えているのは栽培面積という規模の話であって、栽培という行為の本質的な性格ではない。規模の違いを暮らし方の違いであるかのように語ると、実際には連続的な差でしかないものに、断絶があるかのような印象を与えてしまう。
薪割りについても、無心になれるという感覚自体を疑う理由はない。反復運動が集中を生むことは広く知られている。ただしそれを田舎特有の効能として語る必要はなく、反復作業一般に見られる性質だと考えるほうが正確だろう。薪という燃料源が必要になる暖房事情そのものが、都市部のインフラ整備の水準との差から生じている以上、薪割りという行為の発生条件自体が「豊かさ」ではなく「代替手段の乏しさ」に近い。作業から得られる達成感を否定する理由はまったくないが、その達成感の出どころを、暖房インフラの薄さという味気ない事実にまで遡って眺めておくことは、意味のない自己満足で終わらせないための最低限の距離の取り方だと思う。
星や鳥を眺めることについて
星空観察や野鳥観察のような、自然を眺めるだけの活動については、もう少し慎重な言い方が必要になる。ここまで参照してきた研究群は、いずれも人間関係の密度や時間の配分についてのものであり、星や鳥を眺める体験の質そのものについて語れる材料ではない。街灯が少ない環境で星がよく見えるというのは物理的に自明な話であって、それ以上のことをこの体験に語らせようとすると、途端に情緒的な誇張になる。田舎で自然を眺めることが心地よいかどうかは個人差の大きい問題であり、それを普遍的な効能として語るのは、このサイトが距離を置く態度そのものだ。
むしろここで注目すべきなのは、この種の活動が持つ、関係を要求しないという性格のほうだろう。庭に餌台を置いて鳥の種類を覚えるという行為は、誰の許可も要らず、誰かに借りを作ることもなく、離脱のコストもゼロに近い。ここまで見てきた地域活動の多くが結束型の関係という高いコストを伴っていたのに対し、この種の一人で完結する観察は、関係の密度から独立した、田舎という立地条件だけを利用する数少ない趣味だと言える。田舎の趣味を語るときに見落とされがちなのは、この二種類——関係を前提にする活動と、関係から自由な活動——が、まったく異なる性質のものとして同じ「田舎の趣味」という言葉の中に押し込められている点だ。両者を分けずに語ると、片方の負担を片方の気楽さで相殺してしまったかのような、実態にない収支が生まれる。
時間ではなく、選択肢の形が変わる
結局のところ、田舎で「時間ができる」という感覚は、間違ってはいない。通勤時間の統計はその一部を裏付けている。だがその時間が向かう先は、都会で消費に使っていた時間の単純な延長ではなく、関係の維持という、別の性質を持つ活動であることが多い。それは自由になった時間というより、使い道の選択肢の形そのものが変わったということに近い。都会では時間をお金に換えてサービスを買う選択肢が豊富にある一方、田舎ではその選択肢が乏しい代わりに、関係の中に時間を差し出す選択肢の比重が上がる。どちらが優れているという話ではなく、選べる手段の種類が違うだけだ。
「丁寧な暮らし」という言葉がこの実態を覆い隠してしまうのは、それが選択の結果であるかのように響くからだろう。だが、ここまで見てきた研究から私が読み取ったのは、多くの場合、それが選択ではなく環境が強いる配分に近い、ということだ。手を動かす趣味に価値がないと言いたいのではない。ただ、その価値の出どころを、静けさや丁寧さという情緒的な言葉ではなく、通勤時間の分布や社会関係資本の性質という、検証可能な要因まで分解して考えたほうが、結局は自分の暮らし方を選ぶ材料になる。
これは田舎に住むことを勧める話でも、都会に留まることを勧める話でもない。どちらの土地にも、時間の配分の仕方と関係の結び方について、それぞれ異なる制約と異なる自由がある。都会の趣味がサービスを買う形をしているのは、選択肢の多さという自由と引き換えに、個々の関係の密度を犠牲にしているからであり、田舎の趣味が手を動かす形をしているのは、関係の密度という資源と引き換えに、離脱の自由を犠牲にしているからだ。どちらが得かを決める基準は、統計の中には存在しない。存在するのは、自分がどちらの犠牲をより軽く感じるかという、個人差の大きい好みだけだ。田舎の趣味を美しい物語として消費するのではなく、この取引の構造として理解しておくことのほうが、少なくとも自分の選択には誠実だと思う。
出典
- Robert D. Putnam, Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community, Simon & Schuster, 2000.(該当箇所は原書で未確認。Christian Science Monitor のインタビュー記事(2000年7月19日)などの紹介による二次情報。紹介によって「地域活動」「社会的つながり」と表現が揺れる)
- 総務省統計局『令和3年社会生活基本調査』47都道府県ランキング(通勤・通学時間)
- Louise Foley, Dorothea Dumuid, Andrew J. Atkin, Katrien Wijndaele, David Ogilvie, Timothy Olds, "Cross-sectional and longitudinal associations between active commuting and patterns of movement behaviour during discretionary time: A compositional data analysis," PLOS ONE, 14(8), e0216650, 2019.
- Kazushige Ide, Taishi Tsuji, Satoru Kanamori, Seungwon Jeong, Yuiko Nagamine, Katsunori Kondo, "Social Participation and Functional Decline: A Comparative Study of Rural and Urban Older People, Using Japan Gerontological Evaluation Study Longitudinal Data," International Journal of Environmental Research and Public Health, 17(2), 617, 2020.
- Sandra L. Hofferth, John Iceland, "Social Capital in Rural and Urban Communities," Rural Sociology, 63(4), 574–598, 1998.(抄録で確認)
- 佐々木宏樹「主観的幸福度アプローチによる都市と農村の比較分析」農林水産政策研究所『新たな価値プロジェクト研究資料』第1号、2016年
- Filippo Tassinari, Lukas Kleine-Rueschkamp, Paolo Veneri (OECD), Life Satisfaction along the Urban-Rural Continuum, OECD Regional Development Papers No. 44, 2023.(抄録で確認)
- Junya Kumagai, Sunbin Yoo, Shunsuke Managi, "Impacts of Urban-rural Migration on Domain-specific Satisfaction," RIETI Discussion Paper, 25-E-013, 2025.
- 総務省地域力創造グループ過疎対策室『「田園回帰」に関する調査研究報告書』2018年(研究会の議論の記録として引用)
