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恐怖を感じないわけではない——危険な趣味に惹かれる理由と、法律の内側にある代替案

恐怖を感じないわけではない——危険な趣味に惹かれる理由と、法律の内側にある代替案

一部の人が危険なほど強い刺激を求めるのはなぜか。感覚追求、エッジワーク、恐怖の神経科学という三つの角度から惹かれる理由を掘り下げ、その欲求を法律や安全の範囲内で満たす具体的な選択肢を考える。

TOMOAKI··趣味

屋上の縁を歩く。制限速度の倍以上でカーブに進入する。許可のない建物の非常階段を上って、街を見下ろす。そういう行為に惹かれる人が一定数いることは、統計を見るまでもなく経験的にわかる。もっと言えば、危険だと知りながらそこに近づいていく人を見て、多くの人は「理解できない」と切り捨てるか、「刺激中毒なのだろう」という雑な診断を下すかのどちらかで済ませてしまう。だが、その両方とも、実は問いの立て方自体が粗すぎる。不思議なのは、危険な行為に惹かれる人が一定数いるという事実そのものではない。危険だと本人もわかっている行為に、なぜわざわざ近づくのか、という問いの立て方そのものが、実はあまり正確ではないという点にある。

心理学者マービン・ズッカーマンは1970年代、新奇で強く複雑な刺激そのものに快感を感じやすい人がいることを「感覚追求」という概念で説明した。この特性は単一の性格ではなく、スリルと冒険の追求、経験の追求、脱抑制、退屈への耐性の低さという四つの下位次元に分かれる。刺激を求める人は、必ずしも「無謀」とひとくくりにできる一枚岩の性格をしているわけではない。ある人は新しい料理や見知らぬ土地に惹かれ、別の人は法を犯すことそのものに脱抑制的な快感を覚える。前者と後者は同じ尺度の高得点者でも、まったく違う生活を送っている。

脳の中の話は、思われているほど単純ではない

感覚追求の生物学的基盤として真っ先に名前が挙がるのはドーパミンだが、ここで一つ、意外な反転がある。デンマークとカナダの研究チームがPET画像を用いて調べたところ、線条体のドーパミン受容体の密度は、感覚追求の得点が平均的な人でもっとも高く、得点が極端に高い人にも低い人にも少ない、逆U字型の分布を示した。単純に「刺激を求める人ほどドーパミンの反応性が高い」という直線的な図式ではなく、むしろ受容体密度が低いほど、同じ量のドーパミンに対する神経系の「ゲイン」——反応の増幅率——が強くなるという逆の関係が示唆されている。刺激を求める人の脳が過剰に興奮しやすいのではなく、平時の反応が鈍いぶん、強い刺激でようやく釣り合いが取れる、という読み方もできる。ズッカーマンの理論が提唱されてから半世紀近く経った今も、この生物学的基盤の解像度は粗いままだ。遺伝率の高さは双生児研究で繰り返し確認されているが、「なぜ高いのか」という問いに対する答えは、まだ仮説の域を出ていない。

ここでもう一つ留保が要る。この手の脳科学は、しばしば「危険な趣味に走る人は脳の配線が違うから仕方ない」という宿命論として消費されがちだ。だが逆U字の関係が正しいなら、この特性は固定された二値の分類ではなく、連続体の中のどこに位置するかという程度の問題にすぎない。生まれつきの脳の反応性を変えることはできなくても、その反応性をどんな行為に向けるかは、依然として開かれた選択として残る。

ここで、統計としてよく引かれる話にも触れておきたい。心理学者ジェームズ・バーンズらが1999年に発表した、危険行動に関する150本の研究を横断したメタ分析によれば、喫煙のように性差がほとんど見られない領域もある一方で、身体的な技能を伴う危険行動や知的な冒険については、男性のほうが危険を取る方向に偏るという傾向が16領域中14領域で確認されたという。ただしこの分析は同時に、年齢層が上がるにつれて性差の大きさそのものが変化すること、そして時代を追うごとに差が縮小しつつあることも報告している。つまり「男性のほうが危険な趣味に走りやすい」という通説めいた話は、固定された生物学的宿命として語られがちだが、実際には時代や年齢によって伸び縮みする、かなり可塑的な傾向にすぎない。

危険そのものより、境界線を歩くことが目的かもしれない

社会学者スティーブン・ライングは1990年、スカイダイバーへの参与観察をもとに「エッジワーク」という概念を提唱した。彼が見出したのは、危険な行為に惹かれる人が求めているのは単なるアドレナリンの放出ではなく、生と死、正気と狂気、合法と違法といった境界線そのものを、自分の技能と判断力で綱渡りすることへの満足感だという指摘だった。恐怖を消し去ることが目的なのではなく、恐怖の存在を認めたうえで、それを自分でコントロールできる感覚に変換する作業に価値が置かれている。ライングとその後の研究者たちが登攀者への聞き取りで繰り返し確認しているのは、危険そのものよりも、不確実な状況の中で自分の裁量と責任において選択を下すという行為そのものへの満足感だ。

この視点に立つと、破壊や違法建築物への侵入に惹かれる衝動の正体も、少し違って見えてくる。壊すこと自体が目的なら、ハンマーで何かを叩き壊せば済む話だ。実際に人を惹きつけているのは、たいてい「誰も足を踏み入れていない場所に到達する」「立ち入り禁止の境界を自分の判断で越える」という、境界侵犯の感覚のほうだ。都市探検を研究した地理学者ブラッドリー・ギャレットは、廃墟や高層ビルの非常階段に潜り込む若者たちの文化を長期の参与観察で記録し、自らも共同で起訴される経験をしている。彼が描き出したのは、単なる肝試しではなく、都市という管理された空間の裏側を「読む」技術を競い合う、独自の技能体系を持つサブカルチャーの姿だった。

エッジワークという概念は、スカイダイビングのような趣味の領域だけにとどまらない。ライングの提唱以降の社会学研究では、この構造が違法薬物の使用や危険な性行動、さらには消防士や救急隊員のような高リスク職業にまで応用され、境界線を自分の裁量で扱うこと自体への満足という共通の構造が見出されてきた。これは裏を返せば、危険な趣味への衝動を、犯罪性向のような特殊な逸脱としてではなく、もっと普遍的な人間の傾向の一変種として見る視点でもある。

心理学者チクセントミハイの「フロー」という補助線

ミハイ・チクセントミハイが1970年代に岩壁登攀者への聞き取りから練り上げた「フロー」という概念も、この文脈でしばしば引用される。挑戦の難易度と本人の技能水準がちょうど釣り合ったとき、人は時間の感覚を失うほどの没入状態に入る、という理論だ。これ自体は目新しい発見ではなくなって久しい。ただ見落とされがちなのは、フローが単なる快感ではなく、技能の向上と表裏一体の状態だという点にある。危険な行為に依存的にのめり込む人と、技能を磨きながら健全にその行為と付き合い続ける人の違いは、しばしばこの「挑戦と技能の釣り合い」を意識的に調整できているかどうかにある。技能が伴わないまま難易度だけを上げ続ければ、それは遅かれ早かれ事故になる。逆に言えば、危険な趣味の多くは、実は「技能を磨く場」を欲しているのであって、危険度そのものを吊り上げたいわけではない、という読み替えが成り立つ。

恐怖がないことと、勇気があることは同じではない

フリークライマーのアレックス・オノルドが命綱なしで大岩壁を登り続けられる理由を探るうえで、神経科学者ジェーン・ジョセフが行った脳スキャンの報告がある。ジョセフはもともと高感覚追求者の脳を調べる自身の研究を続けており、オノルドはその一環として被験者に選ばれた人物にすぎない。たまたま『Free Solo』の制作クルーが撮影に同行していたため、その様子がのちにドキュメンタリー映画の一部として収められた——という順序であり、テレビや映画の企画として脳スキャンそのものが組まれたわけではない。査読付き論文として発表されたわけではない点は差し引いて見る必要があるが、報告によれば、恐怖や興奮を喚起する画像を見せたとき、同年代の別のクライマーの扁桃体ははっきり反応した一方で、オノルド自身の扁桃体はほとんど反応を示さなかったという。本人はインタビューで、恐怖を感じないわけではなく、練習と経験を重ねることで恐怖への反応を意図的に鈍らせてきたと語っている。

ここに、もう一つの反転がある。「危険な趣味に惹かれる人は恐怖を感じない特別な人間だ」という通俗的なイメージは、実際にはかなり少数の極端な事例だけを一般化したものにすぎない。精神分析医オットー・フェニケルは1939年の論文で「対抗恐怖的態度」という概念を提示し、危険な状況を避けるのではなく自ら進んで求める人の多くは、恐怖が存在しないのではなく、恐怖を能動的に統御することそのものに安心を見出しているのだと論じた。恐怖の不在ではなく、恐怖の飼いならしが目的だとすれば、危険な趣味への欲求は、克服したい何かへの反応として理解したほうが実態に近い。何を克服したいと感じているかは人によって違い、そこにこそ個々の事情が現れる。ある人にとっては、自分の意志では止められない事態——死そのもの、あるいは老いや病のような不可抗力——への漠然とした不安を、少なくとも自分で危険の引き金を引くという形に作り替えることで、統御可能なものへと変換しているのかもしれない。別の人にとっては、日常があまりに安全に管理されすぎていることへの、いくぶん子供じみた反発なのかもしれない。どちらであれ、対象そのものは危険である必要はなく、恐怖を自分の手で始めて自分の手で終えられるという構造さえ保たれれば、代替可能なはずだ。

安全にしても、人はなぜ危険を取り戻すのか

ここで数字の話を一度挟んでおきたい。BASEジャンプの危険度を定量的に調べた数少ない研究の一つに、ノルウェーのクジェラーグ山塊で1995年から2005年までの11年間に行われた20,850回のジャンプを追跡した論文がある。この期間に9件の死亡事故(2,317回に1回)、82件の非致死的事故(254回に1回)が記録された。統計として見れば、これは自動車の運転や一般的なレジャースポーツとは桁が違う致死率であり、「合法な範囲でどこまで再現できるか」を考える際の一つの基準線になる。スイスのラウターブルンネン渓谷で2007年から2016年にかけて行われたBASEジャンプの追跡調査では、致命的な事故のうち61パーセントがウイングスーツを用いたジャンプに集中していたという報告もあり、同じBASEジャンプという括りの中でも、装備と手法によってリスクの分布は大きく偏っている。一方、米国パラシュート協会(USPA)加盟のドロップゾーンで免許制度のもとに行われるスカイダイビングの致死率は、2024年の統計で10万回あたり0.23件、388万回のジャンプに対して死亡事故は9件という、統計を取り始めて以来もっとも低い水準だったと報告されている。同じ「空から飛ぶ」行為でも、無許可の建造物からのBASEジャンプと、免許制度の中で行うスカイダイビングとの間には、致死率にしておよそ二桁の開きがある。自由落下の感覚そのものを求めているなら、この二桁の差を無視する理由はどこにもない。

視点を変えると、意外な事実が見えてくる。心理学者ジェラルド・ワイルドが1982年に提唱した「リスク・ホメオスタシス理論」によれば、人は環境がどれだけ安全になっても、自分の中にある「許容できるリスクの基準値」を一定に保とうとする傾向がある。シートベルトやエアバッグ、アンチロックブレーキが普及するにつれて車の運転自体は安全になったはずなのに、その分だけ人はスピードを出したり車間距離を詰めたりして、事故率をもとの水準近くまで押し戻してしまう、という報告がその根拠になっている。この理論の全体像には異論も多く、単純な因果として証明されたわけではなく、事故率がどこまで一定水準に戻るかという規模の見積もりについても研究者間で意見が割れているが、「リスクを取ろうとする欲求そのものは、環境側の安全対策だけでは吸収しきれない」という部分については、比較的広く支持されている。つまり、危険な趣味への欲求を単に「安全対策の不足」の問題として片づけるのは、そもそも見立てが違う可能性がある。求められているのは安全な環境そのものではなく、自分でリスクの水準を選び取れる余地なのかもしれない。安全対策を積み増すこと自体を否定する話ではない。もっとも、対策を積んだあとに残る余白へ、人がどうリスクを持ち込み直すかという部分まで見ておかないことには、対策は的を外し続けるだろう。

その衝動は、永久に固定された性格ではないかもしれない

ここで角度を変えてみたい。心理学者ローレンス・スタインバーグが提示した「デュアルシステムモデル」によれば、報酬への感受性を担う脳の系(腹側線条体や腹内側前頭前皮質を中心とする回路)は思春期にかけて急激に活発化する一方、衝動を制御する系(外側前頭前皮質などを中心とする回路)の成熟はそれよりゆっくり進む。報酬を求める力が先に強くなり、それを制御する力があとから追いついてくるという、発達のタイミングのずれそのものが、10代半ばをピークとするリスクテイキング行動の急増を説明する、という枠組みだ。この理論が示唆するのは、危険な趣味への強い欲求は、必ずしも一生続く固定的な性格特性ではなく、脳の発達段階に強く紐づいた、ある程度時限的な現象でもありうるということだ。10代の頃に危険な行為へ強く惹かれた記憶を持つ人が、30代になって同じ強度の衝動を感じなくなっているとしても、それは意志が弱くなったのでも丸くなったのでもなく、単に発達の時期が過ぎただけかもしれない。

境界線の代わりに、技能の壁を置く

ここまでの整理を踏まえると、違法な範囲まで踏み込んでしまう趣味の多くは、危険という要素を単体で求めているわけではないという像が浮かぶ。求められているのは、境界線を自分の判断で越える感覚、技能と挑戦度が釣り合ったときの没入、恐怖を自分の手で飼いならす手応え、そしてリスクの水準を自分で選び取れる裁量だ。これらは、実は合法な枠組みの中でもかなりの部分を再現できる。破壊への衝動なら、物理演算エンジンを使った車両破壊のシミュレーターや、3Dプリンタで「衝撃で分解し、また組み直せる」構造を自作するという方向でも、壊すことと作ることを同じ作業の中に同居させられる。支配への衝動——自分の身一つで環境を完全に制御下に置きたいという欲求——であれば、むしろ制御変数の多い競技のほうが満たしやすい場合すらある。何を代理として求めているのかによって、置き換え先はかなり違ってくる。

屋上や非常階段への不法侵入に惹かれる感覚は、via ferrata(鎖やワイヤーが固定された岩場ルート)や、専門施設でのロープアクセス技術の習得に置き換えられる。ロープアクセス技術は本来、高層建築物の外壁補修や送電鉄塔の点検といった実務のために体系化されてきた技能であり、危険な高所作業を安全に行うための手順そのものが一つの専門分野として確立している。管理された環境である分、境界侵犯の背徳感は薄れるが、その代わりに技能の階梯が明確になり、上達という形で挑戦の難易度を自分で調整できる。都市探検という文化圏の中にも、廃墟の所有者から許可を取ったうえで記録・撮影を行う、いわゆる「合法廃墟」を対象にした活動があり、日本国内にもそうした場を扱う写真家やコミュニティが存在する。境界を越える快感そのものはやや削がれるが、技能——構図を読む目、建物の構造を読み解く知識——を磨く余地はむしろ広がる。

違法な公道でのスピード競争に惹かれる感覚については、日本国内の状況の変化がそれ自体、一つの実例になっている。警察庁の統計によれば、暴走族のグループ数はピーク時の2002年の1,313グループから2018年には146グループへ、構成員数もピーク時の1980年代前半の4万人超から2018年には6千人台まで減少した。この減少は取り締まりの強化だけでなく、サーキットでの走行会やタイムアタックイベントという、技能を競う場が合法な形で整備されていったことと無関係ではない。速さそのものではなく、車両を限界まで操る技能を試したいのだとすれば、公道よりも専用コースのほうが、実は競技として奥が深い。周回ごとのタイム差はコンマ数秒単位で可視化され、危険を減らしながらも技能の伸びしろはむしろ広い。

激流でのカヤックに惹かれる衝動も同様に理解できる。管理されたスラロームコースで練習を積みながら、水の流れを読み、数秒先の水面の動きを予測する技術を磨いていく過程は、実際に取り組んでみると危険な現場でぶっつけ本番に臨むより、むしろ知的な作業としての奥行きが深い。流体力学の理屈を頭で理解することと、実際の水面でその通りに体が反応することの間には大きな溝があり、その溝を埋める作業自体がフロー体験の源泉になる。

屋外での無許可のドローン飛行に強く惹かれる感覚にも、似たような読み替えが利く。日本の航空法は人口集中地区の上空や空港周辺での飛行を厳しく制限しており、無許可の飛行に対する罰則も軽くはない。ただし、機体重量が100グラム未満であれば同法上の「無人航空機」の規制対象から外れるため、屋内や私有地でごく小型の機体を飛ばすことは早い段階から始められる。そこから先、国が認定する技能証明の取得へと進む道筋も用意されており、FPVゴーグルを使ったレース専用の周回コースで、障害物の間をミリ単位の操作で縫うように飛ばす競技文化も国内に根づいている。禁じられた場所を飛ばす背徳感は失われるが、機体を思い通りに操る技能そのものを競う場としては、むしろ専用コースのほうが密度が高い。

身体そのものを高所にさらす感覚に惹かれるなら、スカイダイビングにも段階を踏んだ道筋がある。多くの団体では、まず経験者と体をハーネスでつないで飛ぶタンデム降下から始まり、次に複数の指導員が付き添うAFF(加速自由落下)課程を経て、単独でのジャンプへと進んでいく。この過程では、体の姿勢一つで落下速度や回転がどう変わるかを、段階を追って体に叩き込んでいくことになる。違法な建造物からのBASEジャンプが、一度の失敗が即座に致命的な結果へつながる一発勝負であるのに対し、この道筋は小さな失敗を糧にしながら技能を積み上げていく余地を最初から組み込んでいる点が根本的に違う。同じ「重力に身をゆだねる」感覚を求めているとしても、そこに至るまでの過程の設計が違えば、リスクの意味そのものが変わってくる。

欲求を否定せず、向け先を選ぶ

強い刺激を求める性質そのものは、矯正すべき欠陥ではない。ズッカーマンの逆U字の知見が示すように、それは神経系の反応性という、良し悪しでは測れない個体差の話だ。ズッカーマン自身が1994年の著作でまとめたところによれば、心理学者ポール・コスタとロバート・マクレーの調査では、感覚追求の尺度得点とパーソナリティ特性の「開放性」との間に中程度の相関(r=.45程度)が見られたという。感覚を求める傾向と、新しい発想や未知の物事に開かれた態度は、まったくの別物ではなく、地続きのところにある可能性がある。だとすれば、危険な趣味への衝動は「危険を求める欠陥」ではなく「新しさを求める資質」の一つの表出であり、向け先を変えれば別の形で活きる資質だという見方もできる。問題になるのは、その欲求をどこに向けるかという一点に尽きる。境界線を越えたい、恐怖を統御したい、技能の限界に挑みたいという欲求の正体さえ見極められれば、法律や自分の身体を犠牲にせずに満たす道は、たいてい見つかる。危険を完全に取り除いた趣味というものは、おそらく存在しない。どんなに管理されたコースにも、どんなに免許制度が整った競技にも、事故はゼロにはならない。とはいえ、危険の総量を自分で調整できる余地を持った趣味と、その余地がまるごと運や瞬間の判断力にゆだねられている趣味との間には、決定的な違いがある。前者では、事故が起きたとき、少なくとも自分がどの選択をどう誤ったのかを振り返ることができる。後者では、そもそも振り返る材料自体が最初から欠けている。危険を求める性質を持って生まれてしまったことは、選べない。だが、その性質にどんな筋道を用意してやるかは、最後まで自分の手の中に残っている。

出典

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警察庁交通局「暴走族の実態と取締り状況について」各年版統計。