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道具のいらない暇つぶしで、脳は何をしているのか
道具のいらない暇つぶしを、たいていの人は気まずく感じる。その気まずさの正体を、白昼夢と退屈をめぐる研究から辿ってみる。答えは「何もしなくていい」でも「何かで埋めろ」でもなく、もう少し込み入っている。
電車を待つ数分、風呂の湯が溜まるまでの時間、会議が始まる前の空白。こういう隙間に何も持っていないと、たいていの人は落ち着かない気分になる。スマホを忘れた日の外出がやけに長く感じられるのは、時間の長さが変わったからではなく、その時間を埋める道具がないからだ。財布や鍵の忘れ物より、スマホの忘れ物のほうが一日じゅう気になり続けるという人は多いはずで、これはこの装置が「暇な時間を埋める役目」をどれだけ一手に引き受けているかの裏返しでもある。道具のいらない暇つぶしという言い方をすると、たいてい「工夫でどう埋めるか」という話に流れていく。何を並べるか、どんな遊びを思いつくか、というリストの発想である。だがここで一度、埋める前提そのものを疑ってみたい。手元に何もない数分間、脳は本当に空っぽになっているのだろうか。
結論から言うと、なっていない。むしろ手が空いた瞬間から、脳はかなり忙しく動き出す。問題は、その動き出し方が思っているほど気持ちのいいものではないという点にある。
何もない部屋で、人はどうなるか
刺激をとことん減らすと何が起きるかを、極端な形で確かめた実験が1950年代にある。心理学者ベクストン、ヘロン、スコットがマギル大学で行った感覚遮断実験では、学生を防音室のベッドに寝かせ、視界をぼかす半透明のゴーグルをかけさせ、手には触覚を鈍らせる筒状の手袋、耳には単調な送風音を流し続けた。景色も手触りも会話もない状態で、学生たちにはただ横になっていてもらう。当初は数日間の実験として計画されていたが、多くの学生が一日か二日で音を上げた。空間や時間の感覚が崩れ、幻覚を見る者が続出し、簡単な暗算すら怪しくなり、実験者の言うことを普段より鵜呑みにしやすくなる傾向まで見られたという。
これはもちろん、電車を待つ数分とは比べものにならない極端な状況設定だ。だが極端だからこそ見えてくるものがある。人の脳は、外からの入力が完全に絶たれた状態を平然と受け流せるようにはできていない。入力が乏しくなると、脳は勝手に何かを補い始める——実在しない像を見せ、根拠の薄い考えに飛びつきやすくする形で。道具のいらない暇つぶしという、ごく穏やかな「入力の少なさ」もまた、この傾向のごく薄められた一端だと考えると、手持ち無沙汰の落ち着かなさが、単なる甘えではないことが見えてくる。何もしていないはずなのに苦しいのは、脳が「何もない」をそのまま受け入れる設計になっていないからだ。
さまよう心は、実は機嫌が悪い
感覚遮断ほど極端な状況でなくとも、手が空けば人の意識は自動的にどこかへ向かう。これは意志の力とは関係のない、いわば既定の動作に近い。心理学者キリングスワースとギルバートが2010年に『サイエンス』誌で発表した研究は、この既定の動作の実態を日常生活の中で大規模に測定したものだ。iPhoneアプリを使って2,250人の被験者から25万件のデータを集め、ランダムなタイミングで「いま何をしているか」「いま何を考えているか」「いま幸せか」を尋ねた。結果、人は覚醒時間の46.9%を、目の前でやっていること以外の何かを考えて過ごしていることがわかった。ほぼ半分である。性行為を除くほぼすべての活動のカテゴリで、最低でも3割は心がどこかに漂っていた。仕事中であれ、通勤中であれ、テレビを見ている最中であれ、大差はなかったという。
問題はここからだ。この調査では、心がさまよっている瞬間ほど、その人の気分は落ち込んでいた。しかも統計的な前後関係を細かく調べると、気分が落ち込んだから心がさまよったのではなく、心がさまよったことが先に来て、その後で気分が落ち込むという順序のほうが支持された。何を考えているかとは関係なく、心がどこかへ漂っているという事実そのものが、不幸せの予測因子として機能していたことになる。つまり「手が空いたので好きに考え事をする」という、道具のいらない暇つぶしの代表格そのものが、幸福感の面ではあまり分の良い過ごし方ではないという、やや据わりの悪い結論になる。空想は無料で持ち運べる娯楽だが、無料だからといって割に合うとは限らない。
ただし、さまよう先による
この結論をそのまま受け取ると、「余計なことを考えるな、目の前に集中しろ」という説教で終わってしまう。だが2013年、フランクリンらの研究チームが同じ種類の経験サンプリング調査をもう一段丁寧に切り分けたところ、話はもう少し込み入っていることがわかった。心がさまよう瞬間を、当人がその内容をどれだけ興味深いと感じたかで分類し直すと、退屈な内容に漂っているときは確かに気分が沈む一方、強く興味を引く内容に漂っているときは、目の前の作業に集中しているときよりもむしろ気分が上向いていた。心がどこかに行っていること自体は、幸不幸を決める本質ではなかったということになる。
つまり悪いのは「心が漂うこと」自体ではなく、「漂った先が退屈だったとき」のほうらしい。キリングスワースとギルバートの調査では、この「行き先の質」までは区別されていなかった。だから彼らのデータは、平均すればさまよいが不幸せと結びつくという事実を正しくとらえていながら、そこに混ざっていたはずの「面白い行き先に漂着した幸福な瞬間」を見えなくしていたことになる。これは道具のいらない暇つぶしを考えるうえで無視できない分かれ目だ。同じ「ぼんやりする」という行為でも、漂着する先が自分にとって面白い題材かどうかで、体験の中身がまるで違ってくる。道具がない状態は、放っておくと退屈な題材、あるいは不安な題材に漂着しやすい状態でもある——だからこそ、多くの人がその空白をスマホで埋めたがる。空想そのものが悪いのではなく、空想の質を自分で選べていないことのほうが問題に近い。
白昼夢にも種類がある
この「質」の違いに、半世紀以上前から取り組んできた研究者がいる。心理学者シンガーは1966年の著書で、白昼夢という現象をはじめて実験的な研究対象として扱い、被験者に自分の内的な思考を報告させる方法論を確立した。彼はその内容を大きく三つの型に分類している。空想的で前向きな筋書きを楽しむ「積極的建設的白昼夢」、罪悪感や不安に満ちた筋書きを反芻する「罪悪感を伴う不快な白昼夢」、そして考え事にも目の前の作業にも意識を集中できない「注意制御の乏しい白昼夢」である。同じ「ぼんやりしている」という外見の下に、まったく異なる三つの内的体験が隠れているというのが、シンガーの一貫した主張だった。この分類を測るための質問紙(イマジナル・プロセス・インベントリー)も、シンガー自身の手で作られている。
心理学者マクミランらが2013年にシンガーの約60年にわたる研究歴を振り返った論文でも、積極的建設的白昼夢が計画立案や問題解決、創造的な発想と結びつく一方、罪悪感を伴う白昼夢は不安や抑うつと結びつきやすいことが確認されている。道具を持たずに空想に浸るという行為は、それ自体では善でも悪でもなく、どの型の白昼夢に入り込むかによって効能がまるで反転してしまう営みだということになる。「何も考えない」という助言も「好きに考えろ」という助言も、この分岐を無視している点で、どちらも半分しか正しくない。しかも厄介なのは、自分がいまどの型に入り込んでいるかを、当人が漂っている最中には自覚しにくいという点だ。前向きな空想のつもりが、いつのまにか同じ心配事を繰り返し反芻する回路にすり替わっていることは珍しくない。
空想の練習は、子どもの遊びから始まっている
シンガーの仕事は白昼夢だけにとどまらない。1973年の著書では、幼児がおもちゃも筋書きも与えられずに、椅子を船に見立てたり、いない相手に話しかけたりする「ごっこ遊び」を長期的に観察している。これも道具を持たない娯楽の原型のひとつと言っていい。心理学者バークらが2006年にまとめたレビューでは、この種の見立て遊びが、衝動を抑える力や、感情を自分で立て直す力、他人の立場を想像する力といった、いわゆる自己制御の発達と結びついていることが示されている。積み木やゲーム機のような外部の道具に頼らず、自分の頭の中だけで筋書きを立ち上げる経験を重ねた子どもほど、この手の自己制御が育ちやすいという見立てである。
大人になってから道具のいらない暇つぶしに気まずさを覚えるのは、あるいはこの種の練習を、いつの間にか外部の道具に譲り渡してきたことの裏返しなのかもしれない。子どもの頃には誰もが持っていた「何もない場所に筋書きを立ち上げる」技術は、使わなければ錆びる類のものだろう。動画や配信、ゲームのような既製の筋書きを与えられ続ける時間が長くなるほど、自分で筋書きを立ち上げる出番は相対的に減っていく。道具そのものが悪いというより、道具に慣れきった結果として、道具なしでは手も足も出ないという状態に少しずつ寄っていく、という話に近い。
退屈は空白ではなく、詰まりである
ここでもう一つ、見過ごされがちな前提を疑いたい。退屈というのは「何も起きていない状態」だと思われがちだが、心理学者イーストウッドらが2012年に発表した理論はこれを退ける。彼らは退屈を、満足のいく形で何かに注意を向けたいのに、それができない状態だと定義した。退屈は真空ではなく、むしろ注意という配管のどこかが詰まっている状態に近い。周囲に刺激がないから退屈なのではなく、自分の注意をうまく差し向ける先を見つけられないから退屈なのだという捉え方である。刺激が豊富な環境にいても退屈することがあるのはこのためで、逆に感覚遮断室のような刺激ゼロの環境でなくても、注意の向け先さえ見つかれば退屈は成立しなくなる。
この定義に立つと、道具のいらない暇つぶしが抱える難しさの輪郭がはっきりする。道具は、注意の向け先をあらかじめ用意してくれる装置でもある。ゲームにはルールがあり、本には筋書きがある。パズルには解くべき問いがある。道具を手放すということは、注意の向け先を自分で見つける作業を、外部に委託せず自分でやるということに等しい。手ぶらの時間が苦しく感じられやすいのは、根性が足りないからではなく、注意を差し向ける仕事を普段は道具に肩代わりさせているからだ、と言い換えることもできる。裏を返せば、道具のいらない暇つぶしというのは、道具が肩代わりしてくれていた仕事を、自分の注意にもう一度やらせてみる練習でもある。
退屈に強い人、弱い人
この「注意を差し向ける力」には、はっきりとした個人差がある。心理学者ファーマーとサンドバーグが1986年に開発した退屈傾向尺度(ボアダム・プロネネス・スケール)は、退屈を感じやすいかどうかを測る28項目の自己報告式質問紙で、以後の退屈研究で最も広く使われてきた測定法になった。この尺度の得点が高い人ほど、抑うつ、絶望感、孤独感と強く結びつき、生活満足度や自律性とは逆に結びつくことが確認されている。退屈に強いか弱いかは、単なる気の持ちようではなく、ある程度まで安定した個人特性として測定できるものらしい。
興味深いのは、この尺度が測っているのが「刺激の少なさへの耐性」というより、「自分で注意の向け先を作り出す力の弱さ」に近いという点だ。因子分析を行うと、この尺度はおおむね「無気力」と「注意の散漫さ」という二つの軸に分かれることが繰り返し確認されている。日本語版を作成した研究でも、この尺度の得点は日々の退屈さの自己評価や集中力の低さと関連し、注意にまつわる別の傾向とも相関することが報告されている。退屈しやすい人は、刺激がないことそのものより、刺激がない中で自分の注意をまとめられないことに苦しんでいる可能性が高い。道具のいらない暇つぶしが得意な人と苦手な人がいるのは、この一点に由来するのかもしれない。道具というのは、この個人差を覆い隠してくれる便利な補助輪でもある。
それでも、退屈は仕事をしている
ここまでの話は退屈にあまり良い印象を与えないが、話はここでもう一度反転する。心理学者マンとカドマンが2014年に行った実験では、参加者80人を二群に分け、一方には電話帳から電話番号を書き写すという意図的に退屈な作業を15分間させ、もう一方には何もさせずに待たせたうえで、両者に発泡スチロールのコップの使い道をできるだけ多く考えるという創造性の課題を課した。結果、退屈な作業をこなした群のほうが、有意に多くの使い道を思いついている(統計的な検定でもはっきりとした差が出ている水準だった)。参加者を90人に増やし、退屈のさせ方を「書く」課題と「読む」課題に分けた続く実験でも、退屈を経由した群のほうがアイデアの数だけでなく質の面でも優れているという結果が出た。
退屈という不快な状態そのものは、イーストウッドの言うとおり注意の詰まりであり、当人にとっては望ましい体験ではない。ところがその詰まりを迂回するために意識が勝手に別の回路を探し始め、その回路の先で思いがけない組み合わせが見つかることがある。この実験で鍵になっているのは、退屈な作業の最中に参加者の意識がどれだけ自由に空想へ漂っていたかという点で、退屈がそのまま創造性を生むというより、退屈が引き金になって空想が始まり、その空想が創造性の材料を運んでくるという、二段階の仕組みが想定されている。心理学者クリストフらが2016年にまとめた枠組みでは、心がさまよう現象と、夜見る夢と、創造的な発想の飛躍とが、外部からの制約が弱い思考という同じ家族に属するものとして位置づけられている。目的や規則によって強く方向づけられた思考ではなく、次に何を考えるかがあらかじめ決まっていない思考の状態こそが、この一群に共通する条件だという。道具を使った娯楽の多くは、ルールや目的によってこの制約を意図的にかけている。道具を手放すというのは、その制約を外すということでもある。
道具が持ち込んでいるのは、娯楽ではなく制約だった
ここまで来ると、道具のある趣味と道具のいらない暇つぶしの違いが、当初想定していたのとは別の場所にあることが見えてくる。違いは「刺激の量」ではなく「制約の強さ」だ。将棋盤もギターも編み物も、それぞれ独自のルールと手順を持ち込むことで、意識をその枠の中に留める。枠があるからこそ集中しやすく、退屈にもなりにくい。逆に道具のいらない暇つぶしは、その枠を最初から持たない。だから注意が漂いやすく、漂った先が退屈な題材であれば不快になり、興味深い題材であれば予想外に心地よくなり、思いがけない発想にたどり着くこともある——という、幅の広いばらつきを最初から抱え込んでいる。
この幅の広さこそが、道具のいらない暇つぶしを一律に「良い」とも「悪い」とも言い切れなくしている理由だろう。ジムに通うか散歩に出るかという選択とは違い、これは活動の種類を選ぶ話というより、制約のない時間に自分の注意がどちらへ流れやすい人間なのかを知る話に近い。同じ人でも、疲れている日と余裕のある日とでは、この漂着先はおそらく違ってくる。だとすれば「道具のいらない暇つぶしが向いているかどうか」という問いの立て方自体が、そもそも少し粗すぎるのかもしれない。向いているかどうかは日によって変わる、というのが実態に近いだろう。
手ぶらの時間に、実際には何を考えているのか
では制約が外れた意識は、具体的に何を考え始めるのか。ランダムに漂っているように見えて、その行き先には一定の偏りがあることが分かっている。心理学者セリグマンらが2013年に提示した見立てによれば、人の心が自由に動けるとき、それは過去の記憶を再生するというより、未来の可能性をあれこれ試算する方向に向かいやすい。明日の予定を先回りして組み立てたり、まだ起きていない会話を頭の中で予行演習したり、あり得たかもしれない選択肢を検討したりする。この「先取りして試算する」働きはプロスペクション(prospection)と呼ばれる。彼らはこの働きを、無意識的に処理される暗黙のプロセスから、意図的に考え抜く熟慮、当てもなくさまよう空想、他者と共有される社会的な想像まで、いくつかの層に分けて整理している。空想というのは、この層のうちのひとつにすぎないということになる。
道具のいらない暇つぶしの最中に起きているのは、何もしていないことではなく、たいていこの先取り試算である。窓の外を眺めながら考えているのは、たった今見えている景色そのものというより、まだ起きていない何かの段取りであることのほうが多い。道具を持たない時間が落ち着かなく感じられるのは、そこで何も起きていないからではなく、この先取り試算がしばしば不安の方向へ寄りやすいからだ、と考えるほうが実態に近いのかもしれない。逆に言えば、この試算がうまく前向きな方向に向かっているときの空想は、暇つぶしというより、ちょっとした準備運動に近いものになる。同じ「先を考える」という働きが、不安の予行演習にもなれば、計画の下書きにもなる。分かれ目は、試算そのものの有無ではなく、試算がどちらの方角を向いているかにある。
空白をどう埋めるかより先に、確かめておきたいこと
道具のいらない暇つぶしを一覧で並べる記事は世の中にたくさんある。雲を眺める、一筆書きをする、目を閉じて音だけを聞く——挙げられる項目そのものに、間違いがあるわけではない。だがここまで見てきた研究を踏まえると、そうした一覧が見落としているものがはっきりしてくる。手が空いた瞬間に何をするかを決める前に、実は一段手前に確かめるべきことがある。いま自分の意識がどちらへ漂いやすい状態にあるのか、という点だ。仕事の失敗を反芻している最中の空白と、楽しみにしている予定を思い浮かべている最中の空白とでは、同じ「何もしていない数分間」でも中身はまったく別物になる。前者であれば、道具に頼らずその場に留まり続けることはおそらく回復にならない。むしろ罪悪感を伴う白昼夢のほうへ引きずり込まれるだけかもしれない。後者であれば、その空白はすでに十分に機能している。
感覚遮断室に閉じ込められた学生が数日ともたずに幻覚を見始めたように、人の脳は「入力ゼロ」を穏やかに享受できるようにはできていない。だからといって、常に何かの道具で埋め続けなければならないという結論に飛びつくのも早計だろう。むしろ厄介なのは、脳が空白を勝手に埋めてしまうという事実そのものであり、その埋め方の質までは、意志の力だけでは選びきれないという点にある。積極的建設的白昼夢に入り込むか、罪悪感を伴う反芻に入り込むかは、多くの場合その日の疲労や不安の残量によって、こちらの意図とは関係なく決まってしまう。
道具を持たない時間の価値を決めているのは、時間の長さでも、姿勢でも、場所でもなく、そこで意識がどの題材に漂着するかという、ごく個人的な変数だった。これは工夫や根性でどうにかなる話というより、自分の注意がふだんどちらに寄りやすいかを、退屈な数分間を通じて観察してみる話に近い。道具を持たずに過ごす数分は、暇をつぶすための時間というより、自分の注意の癖をのぞき見るための、ささやかな窓なのかもしれない。窓の外に何が見えるかは、天気まかせであって、こちらが選べるものではない。それでも、窓を開けてみること自体には、開けてみるだけの理由がある。
道具のいらない暇つぶしを勧める文章の多くは、道具がないことを不便さの克服のように扱う。だが今回たどってきた研究の並びを振り返ると、話は逆かもしれない。道具は便利さと引き換えに、注意を差し向ける仕事も、筋書きを立ち上げる仕事も、こちらの代わりに済ませてしまう。道具のいらない時間だけが、その仕事を自分の頭にそのまま返してくる。返ってきた結果が心地よいか、それとも重たいかは、その日の頭の中の状態次第で変わる、いささか気まぐれな話ではある。それでも、その気まぐれさごと引き受けてみる時間が、生活のどこかにあってもいいのだろう。
出典
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