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道具のいらない暇つぶしは、制約ひとつで変わる
道具のいらない暇つぶしを、たいていの人は気まずく感じる。その気まずさの正体を、白昼夢と退屈をめぐる研究から辿ってみる。答えは「何もしなくていい」でも「何かで埋めろ」でもなく、もう少し込み入っている。
電車を待つ数分、風呂の湯が溜まるまでの時間、会議が始まる前の空白。こういう隙間に何も持っていないと、たいていの人は落ち着かない気分になる。スマホを忘れた日の外出がやけに長く感じられるのは、時間の長さが変わったからではなく、その時間を埋める道具がないからだ。財布や鍵の忘れ物より、スマホの忘れ物のほうが一日じゅう気になり続けるという人は多いはずで、これはこの装置が「暇な時間を埋める役目」をどれだけ一手に引き受けているかの裏返しでもある。道具のいらない暇つぶしという言い方をすると、たいてい「工夫でどう埋めるか」という話に流れていく。何を並べるか、どんな遊びを思いつくか、というリストの発想である。だがここで一度、埋める前提そのものを疑ってみたい。手元に何もない数分間、脳は本当に空っぽになっているのだろうか。
結論から言うと、なっていない。むしろ手が空いた瞬間から、脳はかなり忙しく動き出す。問題は、その動き出し方が思っているほど気持ちのいいものではないという点にある。
何もない部屋で、人はどうなるか
刺激をとことん減らすと何が起きるかを、極端な形で確かめた実験が1950年代にある。後の紹介によれば、心理学者ベクストン、ヘロン、スコットがマギル大学で行った感覚遮断実験では、学生を防音室のベッドに寝かせ、視界をぼかす半透明のゴーグルをかけさせ、手には触覚を鈍らせる筒状の手袋、耳には単調な送風音を流し続けた。景色も手触りも会話もない状態で、学生たちにはただ横になっていてもらう。学生はできるだけ長く留まるよう求められたが、多くは2、3日で音を上げた。空間や時間の感覚が崩れ、幻覚を見る者が続出し、簡単な暗算すら怪しくなったという。聞かされた主張を信じやすくなったとも紹介されているが、その出どころまでは確かめられていない。
これはもちろん、電車を待つ数分とは比べものにならない極端な状況設定だ。だが極端だからこそ見えてくるものがある。人の脳は、外からの刺激が単調になり、ほとんど変化しなくなった状態を、平然と受け流せるようには、どうもできていないように見える。論文の題が「感覚環境の変化を減らすことの効果」であるとおり、この実験がねらっていたのは、入力の量だけでなくその変化を減らすことだった。変化が乏しくなると、脳は落ち着いてはいられないらしい——像がやけに鮮やかになり、考えがまとまらなくなる、という形で。道具のいらない暇つぶしという、ごく穏やかな「変化の少なさ」もまた、この傾向のごく薄められた一端だと考えると、手持ち無沙汰の落ち着かなさが、単なる甘えではないことが見えてくる。何もしていないはずなのに苦しいのは、脳が変化のない状態をそのまま受け入れる設計になっていないから、とひとまずは言える。もっとも、この種の症状がどこまで刺激の変化の乏しさのせいなのかは、はっきりしない。オーンとシャイベは1964年、明るく外の物音も聞こえる部屋に、学生を4時間入れるだけの実験を行った。そのうち、入る前の検査の部屋で緊急用の薬と器具の盆を目にし、非常ボタンも示されて「何かが起きるかもしれない」と思わされた学生は、そう思わされなかった学生に比べて、いくつかの検査で感覚遮断に似た結果を示した。症状の一部は、実験の物々しさが生んでいた可能性がある。
さまよう心は、機嫌が悪い
感覚遮断ほど極端な状況でなくとも、手が空けば人の意識は自動的にどこかへ向かう。これは意志の力とは関係のない、いわば既定の動作に近い。心理学者キリングスワースとギルバートが2010年に『サイエンス』誌で発表した研究は、この既定の動作の実態を日常生活の中で大規模に測定したものだ。iPhoneアプリを使って集めた約5000人・25万件近いデータのうち、2,250人分を分析した。ランダムなタイミングで「いま何をしているか」「いま何を考えているか」「いま幸せか」を尋ねている。結果、人は覚醒時間の46.9%を、目の前でやっていること以外の何かを考えて過ごしていることがわかった。ほぼ半分である。性行為を除くすべての活動のカテゴリで、最低でも3割は心がどこかに漂っていた。仕事中であれ、通勤中であれ、テレビを見ている最中であれ、何をしているかは、心がさまようかどうかにあまり影響していなかったという。
問題はここからだ。この調査では、心がさまよっている瞬間ほど、その人の気分は落ち込んでいた。しかも、気分が落ち込むと心がさまよいやすくなることは以前から知られていたが、統計的な前後関係を調べると、この調査ではおおむね、心がさまよったことのほうが先に来ていた。さまよいは不機嫌の結果であるだけでなく、原因でもあるらしい。ただ、それを示したのは時間差の分析で、実験ではない。内訳を見ると、快い題材に漂っているときの気分は目の前に集中しているときと変わらず、気分が沈んでいたのは中立的な題材や不快な題材に漂っていたときだった。それでも平均すれば、「手が空いたので好きに考え事をする」という、道具のいらない暇つぶしの代表格そのものが、幸福感の面ではあまり分の良い過ごし方ではないという、やや据わりの悪い結論になる。空想は無料で持ち運べる娯楽だが、無料だからといって割に合うとは限らない。
ただし、さまよう先による
この結論をそのまま受け取ると、「余計なことを考えるな、目の前に集中しろ」という説教で終わってしまう。だが2013年、フランクリンらの研究チームが同じ種類の経験サンプリング調査をもう一段丁寧に切り分けたところ、話はもう少し込み入っていることがわかった。心がさまよう瞬間を、当人がその内容をどれだけ興味深いと感じたかで分類し直すと、退屈な内容に漂っているときは確かに気分が沈む一方、興味を引く内容に漂っているときは、目の前の作業に集中しているときよりもむしろ気分が上向いていた。全体としてはこの調査でも、さまよっているときのほうが気分は低かった。ただ、行き先しだいでそれが逆転する場面がある、ということになる(大学構内の張り紙で募った105人の調査で、差そのものは小さく、因果の向きも決まっていない)。
つまり悪いのは「心が漂うこと」自体ではなく、「漂った先が退屈だったとき」のほうらしい。キリングスワースとギルバートは行き先の快・不快までは尋ねていたが、行き先が「面白いかどうか」は尋ねていなかった。快い題材では差がなかったという彼らの結果に、興味深さという軸を足したのがフランクリンらの調査にあたる。行き先の違いは、道具のいらない暇つぶしを考えるうえで無視できない分かれ目だ。同じ「ぼんやりする」という行為でも、漂着する先が自分にとって面白い題材かどうかで、体験の中身がまるで違ってくる。道具がない状態では、漂着先を選ぶ手がかりがない。退屈な題材や不安な題材に流れれば気分は沈む——だからこそ、多くの人がその空白をスマホで埋めたがるのかもしれない。空想そのものが悪いのではなく、空想の質を自分で選べていないことのほうが問題に近い。
白昼夢にも種類がある
この「質」の違いに、半世紀以上前から取り組んできた研究者がいる。心理学者シンガーは1966年の著書で、白昼夢という現象を実験的な研究の対象として扱う道を開いた。被験者に内的な思考を報告させる方法は、その後アントラバスとの共同研究で整えられていく。そうして作られた質問紙(イマジナル・プロセス・インベントリー)の回答を因子分析すると、白昼夢の傾向は大きく三つの型に分かれたという。空想的で前向きな筋書きを楽しむ「積極的建設的白昼夢」、罪悪感や不安に満ちた筋書きに繰り返し戻ってくる「罪悪感を伴う不快な白昼夢」、そして考え事にも目の前の作業にも意識を集中できない「注意制御の乏しい白昼夢」である。同じ「ぼんやりしている」という外見の下に、まったく異なる三つの内的体験が隠れているというのが、シンガーの一貫した主張だった。
心理学者マクミランらが2013年にシンガーの約60年にわたる研究歴を振り返った論文は、この三類型の由来を整理したうえで、積極的建設的白昼夢が計画立案や問題解決、創造的な発想と結びつく一方、罪悪感を伴う白昼夢は神経症傾向(不安や気分の落ち込みを感じやすい気質)と結びついていたことを紹介している。道具を持たずに空想に浸るという行為は、それ自体では善でも悪でもなく、どの型の白昼夢に入り込むかによって効能がまるで反転してしまう営みだということになる。「何も考えない」という助言も「好きに考えろ」という助言も、この分岐を無視している点で、どちらも半分しか正しくない。しかも厄介なのは、自分がいまどの型に入り込んでいるかを、当人が漂っている最中には自覚しにくいという点だ。前向きな空想のつもりが、いつのまにか同じ心配事を繰り返し反芻する回路にすり替わっていることもある。
空想の練習は、子どもの遊びから始まっている
シンガーの仕事は白昼夢だけにとどまらない。1973年の著書では、幼児の「ごっこ遊び」——何かを別の何かに見立て、そこにない筋書きを演じる遊び——を実験的に調べている。筋書きを道具に頼らない娯楽の原型のひとつと見てもいい。心理学者バークらが2006年にまとめたレビューでは、この種の見立て遊びが、衝動を抑える力や、感情を自分で立て直す力といった、いわゆる自己制御の発達と結びついていることが論じられている。身近な物を別の物に見立て、仲間と役を分けて筋書きを立ち上げる経験が、この手の自己制御を育てる、という捉え方である。
ここからは研究ではなく私の連想になるが、大人になってから道具のいらない暇つぶしに気まずさを覚えるのは、あるいはこの種の練習を、いつの間にか外部の道具に譲り渡してきたことの裏返しなのかもしれない。子どもの頃に多くの人が持っていた「何もない場所に筋書きを立ち上げる」技術は、使わなければ錆びる類のものだろう。動画や配信、ゲームのような既製の筋書きを与えられ続ける時間が長くなるほど、自分で筋書きを立ち上げる出番は相対的に減っていく。道具そのものが悪いというより、道具に慣れきった結果として、道具なしでは手も足も出ないという状態に少しずつ寄っていく、という話に近い。
退屈は空白ではなく、詰まりである
ここでもう一つ、見過ごされがちな前提を疑いたい。退屈というのは「何も起きていない状態」だと思われがちだが、心理学者イーストウッドらが2012年に発表した理論はこれを退ける。彼らは退屈を、満足のいく形で何かに注意を向けたいのに、それができない状態だと定義した。退屈は真空ではなく、むしろ注意という配管のどこかが詰まっている状態に近い。周囲に刺激がないから退屈なのではなく、自分の注意をうまく差し向ける先を見つけられないから退屈なのだという捉え方である。当人がその原因を周りのつまらなさのせいにすることも、定義の一部に入っている。刺激が豊富な環境にいても退屈することがあるのはこのためで、逆に、感覚遮断室のように刺激の変化が乏しい環境でも、注意の向け先さえ見つかれば退屈は成立しにくくなる、ということになる。
この定義に立つと、道具のいらない暇つぶしが抱える難しさの輪郭がはっきりする。道具は、注意の向け先をあらかじめ用意してくれる装置でもある。ゲームにはルールがあり、本には筋書きがある。パズルには解くべき問いがある。道具を手放すということは、注意の向け先を自分で見つける作業を、外部に委託せず自分でやるということに等しい。手ぶらの時間が苦しく感じられやすいのは、根性が足りないからではなく、注意を差し向ける仕事を普段は道具に肩代わりさせているからだ、と言い換えることもできる。裏を返せば、道具のいらない暇つぶしというのは、道具が肩代わりしてくれていた仕事を、自分の注意にもう一度やらせてみる練習でもある。
退屈に強い人、弱い人
この「注意を差し向ける力」には、はっきりとした個人差がある。心理学者ファーマーとサンドバーグが1986年に開発した退屈傾向尺度(ボアダム・プロネネス・スケール)は、退屈を感じやすいかどうかを測る28項目の自己報告式質問紙で、以後の退屈研究で最も広く使われてきた測定法になった。この尺度の得点が高い人ほど、抑うつ、絶望感、孤独感と結びつき、生活満足度や自律性とは逆に結びつくことが確認されている。退屈に強いか弱いかは、単なる気の持ちようではなく、ある程度まで安定した個人特性として測定できるものらしい。
興味深いのは、この尺度が測っているのが「刺激の少なさへの耐性」というより、「自分で注意の向け先を作り出す力の弱さ」に近いのではないか、という点だ。小学1〜3年生の子を持つ父母に答えてもらって日本語版を作成した研究では、この尺度の得点は日々の退屈さの自己評価や集中力の低さと関連し、注意にまつわる別の傾向とも相関することが報告されている。退屈しやすい人は、刺激がないことそのものより、刺激がない中で自分の注意をまとめられないことに苦しんでいるのではないか。道具のいらない暇つぶしが得意な人と苦手な人がいるのは、この一点に由来するのかもしれない。道具というのは、この個人差を覆い隠してくれる便利な補助輪でもある。
それでも、退屈は仕事をしている
ここまでの話は退屈にあまり良い印象を与えないが、話はここでもう一度反転する。心理学者マンとカドマンが2014年に行った実験では、参加者80人を二群に分け、一方には電話帳から電話番号を書き写すという意図的に退屈な作業を15分間させ、もう一方にはその作業をさせずに、両者に発泡スチロールのコップの使い道をできるだけ多く考えるという創造性の課題を課した。結果、退屈な作業をこなした群のほうが、有意に多くの使い道を思いついている(統計的な検定でもはっきりとした差が出ている水準だった)。最初の実験に参加していない別の90人で、退屈のさせ方を「書く」課題と「読む」課題に分けた続く実験でも、退屈を経由した群のほうがアイデアの数だけでなく質の面でも優れているという結果が出た。ただし最初の実験では、思いついた使い道の数は増えたものの、その質に差はなかった。どちらの実験でも、退屈群は、退屈だったと答え、作業中に空想したと答えた人だけを残してから課題に進めている。教会で募った便宜的な標本での、選り分けを含む実験である。
退屈という不快な状態そのものは、イーストウッドの言うとおり注意の詰まりであり、当人にとっては望ましい体験ではない。ところがその詰まりを迂回するために意識が勝手に別の回路を探し始め、その回路の先で思いがけない組み合わせが見つかることがある。マンとカドマンが鍵と見ていたのは、退屈な作業の最中の空想だった。退屈がそのまま創造性を生むというより、退屈が引き金になって空想が始まり、その空想が創造性の材料を運んでくるという、二段階の仕組みが想定されている。ただし、空想したかどうかは尋ねただけで、その程度は測っていない。空想を妨げにくいはずの読む課題のほうが効くという著者らの予想も、一部の課題でしか確かめられていない。心理学者クリストフらが2016年にまとめた枠組みでは、心がさまよう現象と、夜見る夢と、創造的な発想の飛躍とが、制約の弱い思考という同じ家族に属するものとして位置づけられている。ここで言う制約は二種類ある。自分で意図して課す制約と、強い感情や目立つ刺激が、意志とは関係なく注意を一か所に縛りつける制約だ。そのどちらも強くなく、次に何を考えるかがあらかじめ決まっていない思考の状態こそが、この一群に共通する条件だという。道具を使った娯楽の多くは、ルールや目的によって前者の制約を意図的にかけている。道具を手放すというのは、その制約を外すということでもある。
道具が持ち込んでいるのは、娯楽ではなく制約だった
ここまで来ると、道具のある趣味と道具のいらない暇つぶしの違いが、当初想定していたのとは別の場所にあることが見えてくる。違いは「刺激の量」ではなく「制約の強さ」だ。将棋盤もギターも編み物も、それぞれ独自のルールと手順を持ち込むことで、意識をその枠の中に留める。枠があるからこそ集中しやすく、退屈にもなりにくい。逆に道具のいらない暇つぶしは、その枠を最初から持たない。だから注意が漂いやすく、漂った先が退屈な題材であれば不快になり、興味深い題材であれば予想外に心地よくなり、思いがけない発想にたどり着くこともある——という、幅の広いばらつきを最初から抱え込んでいる。
この幅の広さこそが、道具のいらない暇つぶしを一律に「良い」とも「悪い」とも言い切れなくしている理由だろう。ジムに通うか散歩に出るかという選択とは違い、これは活動の種類を選ぶ話というより、意図して課す制約のない時間に自分の注意がどちらへ流れやすい人間なのかを知る話に近い。同じ人でも、疲れている日と余裕のある日とでは、この漂着先はおそらく違ってくる。だとすれば「道具のいらない暇つぶしが向いているかどうか」という問いの立て方自体が、そもそも少し粗すぎるのかもしれない。向いているかどうかは、日によって変わると考えるほうが自然だ。
手ぶらの時間に、実際には何を考えているのか
では道具の枠が外れた意識は、具体的に何を考え始めるのか。ランダムに漂っているように見えて、その行き先には一定の偏りがあると考える研究者がいる。心理学者セリグマンらが2013年に提示した見立てによれば、何もしていないときの心の中身の多くは、頭の中のシミュレーションで占められている。セリグマンらはそれを未来を見通す働きとして捉え、過去の想起さえ、未来を組み立てる材料として働いていると論じる。明日の予定を先回りして組み立てたり、まだ起きていない会話を頭の中で予行演習したり、あり得たかもしれない選択肢を検討したりする。この「先取りして試算する」働きはプロスペクション(prospection)と呼ばれる。同じ4人は2016年の著書『Homo Prospectus』で、この働きを、無意識的に処理される暗黙のプロセスから、意図的に考え抜く熟慮、当てもなくさまよう空想、他者と共有される社会的な想像まで、いくつかの層に分けて整理していると紹介されている。空想というのは、この層のうちのひとつにすぎないということになる。
道具のいらない暇つぶしの最中に起きているのは、何もしていないことではなく、この先取り試算であることが多いのだろう。窓の外を眺めながら考えているのは、たった今見えている景色そのものというより、まだ起きていない何かの段取りであることも少なくない。道具を持たない時間が落ち着かなく感じられるのは、そこで何も起きていないからではなく、この先取り試算がしばしば不安の方向へ寄りやすいからだ、と考えることもできる。逆に言えば、この試算がうまく前向きな方向に向かっているときの空想は、暇つぶしというより、ちょっとした準備運動に近いものになる。同じ「先を考える」という働きが、不安の予行演習にもなれば、計画の下書きにもなる。分かれ目は、試算そのものの有無ではなく、試算がどちらの方角を向いているかにある。
空白をどう埋めるかより先に、確かめておきたいこと
道具のいらない暇つぶしを一覧で並べる記事は世の中にたくさんある。雲を眺める、一筆書きをする、目を閉じて音だけを聞く——挙げられる項目そのものに、間違いがあるわけではない。だがここまで見てきた研究を踏まえると、そうした一覧が見落としているものがはっきりしてくる。手が空いた瞬間に何をするかを決める前に、その一段手前に確かめるべきことがある。いま自分の意識がどちらへ漂いやすい状態にあるのか、という点だ。仕事の失敗を反芻している最中の空白と、楽しみにしている予定を思い浮かべている最中の空白とでは、同じ「何もしていない数分間」でも中身はまったく別物になる。前者のとき、道具に頼らずその場に留まり続けることが休みになるのかどうかは、ここで引いた研究からは分からない。クリストフらの整理では、同じ考えをぐるぐる回る反芻は、制約の外れた思考ではなく、強い感情という自動的な制約に縛られた思考のほうに分類される。同じ枠組みでは、自由に動いていた思考が、そのまま強い自動的な制約へ移ることもあるとされる。道具が持ち込む意図的な制約を外したあとの空白にも同じことが起こりうる——というのは、ここでの私の当てはめである。少なくとも、同じ空白でも中身がまるで違うことだけは言える。
道具なしで過ごす数分の、四つの入り方
それでも、手ぶらの数分はやって来る。電車は遅れるし、湯はなかなか溜まらない。そのときの入り方を、ここまでの筋——道具が持ち込んでいたのは娯楽ではなく制約だった——に沿って並べ直すと、少なくとも四つに分かれる。どれが上というものではなく、上から順に試すための並びでもない。
一つめは、道具の代わりに、頭の中へ制約を持ち込むやり方だ。目に入った看板の文字でしりとりをつなぐ。窓の外の赤いものだけを数える。耳に入る音を、高い音と低い音に仕分けていく。どれも、何を考えるかに自分で枠をはめる遊びで、クリストフらの言う「意図して課す制約」を、将棋盤やパズルの代わりに自分の注意で用意するものにあたる。彼らが挙げる例では、退屈な講義に注意をとどめ、それかけた考えをそのたびに講義へ連れ戻す——それがこの種の制約の働きだという。もっとも、同じ論文は、心を占める感情的な気がかりからは、努力しても注意を引きはがせないことがある、とも書いている。ただ、枠があれば、同じ心配事のほうへ流れていく前に、どこかで引き戻しがかかるかもしれない。そう見込んでいるのは私で、ここで引いた研究のどれも、そこまでは確かめていない。
引き換えに、何かを手放すことにはならないか。退屈が創造性へつながる道筋として、マンとカドマンが想定していたのは、退屈な作業をしているうちに勝手に始まる空想だった。枠をきつくすれば、その空想が入り込む余地は狭くなる、と考えたくなる。クリストフらの整理でも、意図して課す制約が強まるほど、思考は自発的なものから、目的に向かう思考のほうへ寄っていく。ところが同じ並びの中で、創造的な思考は、心のさまよいよりも意図的な制約のやや強い側、目的に向かう思考の手前に置かれている。枠をはめることが、そのまま発想を遠ざけるとまでは言えない。単調な作業の最中にどれくらい空想が入り込むのかを、マンとカドマンの実験から読み取ることもできない。電話番号を書き写させたあと、創造性の課題へ進めたのは、作業中に空想したと答えた人だけだったからだ。著者ら自身は、書く作業はむしろ空想を妨げるかもしれないと見て、二つめの実験に、番号を読むだけの条件を足している。退屈と創造性のこの実験は、平日の夜に残る自由時間を数えた記事でも、一人で考えるだけの時間を調べたウィルソンらの実験と並べて取り上げた。
二つめは、何も決めずに漂わせるやり方である。制約をかけず、浮かんだものに付いていく。フランクリンらの調査でいえば、面白いと感じる題材に漂着したときの気分は、目の前に集中しているときよりむしろ上向いていた。マンとカドマンが想定した空想の効き目も、たぶんこちらの側にある。弱みは、行き先を選べないことだ。キリングスワースとギルバートの調査では、平均すれば心がさまよっている時間のほうが気分は低く、中立的な題材や不快な題材に流れたときに沈んでいた。クリストフらの枠組みでは、自由に動いていた思考が、そのまま強い感情に縛られた思考へ移ることもある。当たりを引くか外れを引くかを、こちらで決められない入り方だと言える。
三つめは、考える題を前もって決めておくやり方だ。週末の段取りでも、読みかけの小説の続きでも、題さえ決めておけば漂流は避けられそうで、枠のきつさも一つめほどにはならない。いいとこ取りに見える。この見込みに近いことを、実際に確かめた実験がある。ウィルソンらは2014年、大学生にひとりで座って考えるだけの時間を過ごしてもらう一連の実験の中で、一部の参加者には、始める前の数分を使って、何を考えるかを計画させた。ひとりで考える時間には、筋書きを書く役と、それを体験する役とを同時に務める難しさがあるのではないか、という見立てからである。指示の出し方を何通りか変えて試したものの、どれも楽しさを確かに上げはしなかった。九段階で答えた楽しさを実験をまたいで平均すると、計画させた群は4.97、させなかった群は4.94。どちらも尺度のほぼ真ん中で、統計的な差はなかった。題を決めておくことの良さは、少なくともこの実験では見えていない。電車を待つ数分にそのまま当てはまるかどうかは、また別の話になる。同じ論文の、もっとよく知られた電気ショックの実験と、それに寄せられた異論については、一人の時間を持て余すとき何が起きているのかを考えた記事に書いた。
四つめは、道具に戻るやり方である。これを負けのように扱う理由は、ここまでの話からは出てこない。将棋盤もパズルも小説も、ルールや筋書きという制約をまるごと持ち込んでくれる。注意の向け先を自分で探す手間が省け、退屈にもなりにくい。ポケベルで「夢中」の条件を数えた研究を読んだ記事では、仕事か余暇かを問わず、体験の質を大きく動かしていたのは、挑戦も技能もふだんより高い場面かどうかだった。その著者たちは、余暇の没頭が少ない理由の候補に、構造のない自由な時間には心のエネルギーをまとめにくいことを挙げている。推測として、ではあるが。
代償のほうは、前半で見たとおり、頭の仕事の一部を道具に預けることにある。それが長い目で何を減らすのかを測った研究は、ここで引いたものの中にはなく、前半で書いた「錆びる」という話も、私の連想の域を出ない。手近な道具がスマホなら、気になる人は多いだろう。画面の時間と幸福度の関連の大きさを測り直した記事で並べた研究は、規模も設計もまちまちだった。若者を大勢調べた大規模な調査では、集団全体で見れば、画面の時間で説明できる幸福度のばらつきはごく小さかった。Facebookをしばらく止めさせた実験では、小さいがゼロではない改善が出ている。数十人から数百人を追った小さな調査では、同じ使い方のあとに気分が良くなる人もいれば、悪くなる人もいた。空白をスマホで埋めることの是非は、平均の数字ひとつでは決まらない。
四つは、互いを打ち消し合うものではない。疲れた日には道具に戻り、余裕のある日には漂わせてみる、という使い分けもありうる。どれが合うかは、前の節で確かめておきたいと書いた、その日の頭の中の状態によって変わってくるのだろう。どの日にどれが合うのかまでは、研究の側からは決められない。
空白が、頭に返してくるもの
感覚遮断の実験の結果をどこまで割り引くにしても、人の脳が、変化のない入力をそのまま穏やかに受け取れるとは考えにくい。だからといって、常に何かの道具で埋め続けなければならないという結論に飛びつくのも早計だろう。むしろ厄介なのは、脳が空白を勝手に埋めてしまうという事実そのものであり、その埋め方の質までは、意志の力だけでは選びきれないという点にある。積極的建設的白昼夢に入り込むか、罪悪感を伴う白昼夢や反芻に入り込むかは、その日の疲労や不安の残量に左右されやすいのだろう。
道具を持たない時間の価値を決めているのは、時間の長さでも、姿勢でも、場所でもなく、そこで意識がどの題材に漂着するかという、ごく個人的な変数だった。これは工夫や根性でどうにかなる話というより、自分の注意がふだんどちらに寄りやすいかを、退屈な数分間を通じて観察してみる話に近い。道具を持たずに過ごす数分は、暇をつぶすための時間というより、自分の注意の癖をのぞき見るための、ささやかな窓なのかもしれない。窓の外に何が見えるかを、すべてこちらで選べるわけではない。それでも、窓を開けてみること自体には、開けてみるだけの理由がある。
道具のいらない暇つぶしを勧める文章の多くは、道具がないことを不便さの克服のように扱う。だが今回たどってきた研究の並びを振り返ると、話は逆かもしれない。道具は便利さと引き換えに、注意を差し向ける仕事も、筋書きを立ち上げる仕事も、こちらの代わりに済ませてしまう。道具のいらない時間だけが、その仕事を自分の頭にそのまま返してくる。返ってきた結果が心地よいか、それとも重たいかは、その日の頭の中の状態次第で変わる、いささか気まぐれな話ではある。それでも、その気まぐれさごと引き受けてみる時間が、生活のどこかにあってもいいのだろう。
出典
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- Singer, J. L., & Antrobus, J. S. Imaginal Processes Inventory.(質問紙。公刊年は確認できていない。McMillan ら(2013)による紹介で、原典は未確認)
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