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「エシカルな趣味」は、買うことから始まっている

「エシカルな趣味」は、買うことから始まっている

環境に配慮した消費が、なぜか配慮そのものを目減りさせることがある。モラル・ライセンシングとグリーンウォッシュの心理学から、「エシカルな趣味」というジャンルの成り立ちを問い直す。

TOMOAKI··趣味

「エシカルな趣味」というリストを見るたびに、微妙な居心地の悪さを感じる。観葉植物、コンポスト、蜜蝋ラップ、ダーニング、プロギング。並べてみると、たしかにどれも地球に優しそうではある。ただ、そのほとんどが「何かを新しく買う」ことから始まっている点が、ずっと引っかかっていた。蜜蝋ラップも、コンポスト容器も、まず購入する。プラスチックの使用を減らすための道具を、新しく生産して手に入れるところから始めるという構造自体は、珍しいものではないのだろう。それでも、この矛盾を単なる皮肉として片づける前に、もう少し丁寧に立ち止まってみたい。問題は矛盾の存在そのものではなく、その矛盾が消費者の頭の中でどう処理されているか、という方にある気がするからだ。

リストの中に、買わずに済むものがほとんどない

この種のリストが批判にさらされるとき、たいてい矛先は「本当にエコなのか」という効果の検証に向かう。生産にかかる資源、輸送の距離、廃棄の段階まで含めた総量で見たとき、その道具は本当に元が取れているのか、という問いだ。これはこれで大事な問いだが、今回はいったん脇に置く。かわりに聞きたいのは、なぜ「エシカルな趣味」というジャンルそのものが、これほど自然に「新しい物を買う」という行為と結びついてしまうのか、という手前の問題だ。買うことは、環境負荷の原因であると同時に、環境への配慮を示す証拠としても機能している。この二重性が、たぶん話をややこしくしている。

試しに、その道具を実際に何回使えば「元が取れる」のか、という角度から数字を追ってみる。答えはたぶん、直感よりだいぶ大きい。

布のかばんは、何回使えば元が取れるのか

デンマーク環境保護庁(Miljøstyrelsen)が2018年にまとめたライフサイクルアセスメントの報告書は、スーパーで配られるレジ袋を基準に、代替となる各種の買い物袋を比較している。対象になったのは、使い捨てのポリエチレン袋を一度だけ使い、その後ごみ袋として再利用してから焼却する、という基準シナリオだ。この基準に環境負荷を追いつかせるために、綿でできた布のトートバッグは、およそ7100回使う必要があるという。オーガニックコットン製に至っては、およそ2万回。毎日欠かさず使い続けたとして54年かかる計算になる。栽培段階での水と土地の消費、そしてオーガニック栽培特有の低収量が、通常の綿以上に重くのしかかるためだ。

この数字には異論もある。デンマーク環境保護庁自身、その後の報道の過熱ぶりには困惑を示しているし、比較の前提――使い捨て袋を一度だけごみ袋として再利用し、その後焼却する、という条件設定――が現実の使われ方をどこまで代表しているかについては、批判も出ている。それでも、これほど大きく報道され、これほど多くの反論を招いたという事実自体が、逆に興味深い。トートバッグの回数がもし70回や700回だったなら、ここまで話題にならなかっただろう。7100回、2万回という桁が、直感とあまりにかけ離れていたからこそ拡散した。つまりこの数字は、正確さそのものよりも先に、私たちの直感がどれほど当てにならないかを露呈させる役目を果たしてしまった。

ここで確認しておきたいのは、この数字が「布のかばんは無意味だ」と主張しているわけではないという点だ。何回も繰り返し使えば、環境負荷は当然ペイする。問題は、そのかばんを買った瞬間に生まれる感覚――もう配慮すべきことは済んだ、という感覚――と、実際にペイするまでの距離が、あまりに開いていることの方にある。棚の奥で一度か二度しか使われないまま埋もれている布のかばんは、恐らく世界中に大量にある。そしてそのかばんを買った人の多くは、買った時点ですでに「エコな選択をした」という満足を受け取り終えている。

「グリーン」を名乗るものの九割五分

その満足の中身をもう少し疑ってみたい。そもそも、店頭に並ぶ「環境に優しい」という表示を、消費者はどこまで正確に見極められているのか。環境マーケティングを専門とするコンサルティング会社テラチョイスが2010年にまとめた報告書「The Sins of Greenwashing」は、北米で販売されていた家庭用品5300点あまりを調べ、そのうち実に95パーセントが、同社の定める「グリーンウォッシュの七つの罪」のうち少なくとも一つに該当していたと報告している。ラベルの根拠がどこにも示されていない、無関係な項目を強調している、本当は二つの悪のうちましな方でしかない――そうした表示のゆがみが、調査対象のほぼ全域に見つかったことになる。この報告は業界団体によるものであって、査読を経た学術研究ではない。それでも、5300点という規模と、その後の学術研究がこの調査結果を繰り返し引用してきた経緯を踏まえると、無視できる数字ではない。

この結果は、消費者の判断力が足りないという話ではない。環境性能の多くは、専門的な検証設備がなければ確かめようのない「信頼属性」と呼ばれる種類の情報だ。パッケージのどこにも産地の情報がない生地、根拠となる測定方法が書かれていない「生分解性」の表示、第三者機関の名を借りているように見えて実際には自社基準にすぎない認証マーク。こうした情報の非対称は、買う側がいくら注意深くても埋まらない。だとすれば、店頭で「これはエコな商品だ」と判断する行為そのものが、最初からかなり頼りない足場の上に立っていることになる。買う瞬間の確信と、その確信を裏づける根拠の強さが、釣り合っていない。

同じ報告書が挙げる「七つの罪」の内訳を見ると、その頼りなさの中身がもう少し具体的に見えてくる。ある製品は、生産工程のどこか一段階だけを取り上げて「再生素材使用」を謳いながら、他の段階での環境負荷にはいっさい触れない――「隠れたトレードオフ」と呼ばれる罪だ。別の製品は、「ナチュラル」「地球にやさしい」といった、何の基準も伴わない言葉を貼るだけで済ませている――「あいまいさ」の罪。中には、実在しない認証機関のロゴをそれらしく模しただけの表示さえあったという――「まがいものの証明」の罪。これらはどれも、消費者が悪意を持って騙されようとしたわけではなく、パッケージの表面だけを見て判断するという、ごく普通の買い物の手続きそのものが、そもそも見抜けるように設計されていない情報にさらされている、ということを示している。

意図と行動のあいだにあるもの

ここでもう一段、話を消費者の内側に寄せてみる。仮に表示が正確で、根拠もはっきりしていたとしても、人はその情報どおりに買い物をするとは限らない。オーストラリアの研究者カリントン、ネビル、ホイットウェルが2010年に発表した調査は、みずから「倫理的な消費者」だと自認する13人を対象に、9か月にわたって日々の購買行動を追跡している。対象者たちは、フェアトレードやオーガニック、環境配慮といった基準を、口頭ではっきりと重視すると答えていた人々だ。それでも実際の買い物の場面になると、価格、習慣、計画のなさ、その場の状況といった要因が積み重なって、意図した通りの選択にたどり着かないことが繰り返し観察されたという。倫理的でありたいという意図の強さと、実際にそれを実行する頻度のあいだには、この研究に限らず、繰り返し確認されてきた隔たりがある。

この隔たりを、意志の弱さの問題として片づけるのは簡単だが、たぶん的を外している。むしろ興味深いのは、意図そのものは本人にとって嘘でも誇張でもなく、心から抱かれているという点だ。倫理的でありたいという願いは実在する。それでも実行の段階になると、別の力学――習慣の慣性や、その場の利便性――がしばしば優先されてしまう。カリントンらはこの隔たりを生む要因として、倫理的な基準を他の優先事項よりどれだけ上位に置けるか、買い物の計画をあらかじめ立てて習慣化できているか、価格や手間の面でどこまで妥協や犠牲を受け入れられるか、そして日々の買い物そのものがどういう様式――衝動的か計画的か――でおこなわれているか、という四つの要因を挙げている。どれも意志の強さという一点には還元できない、もっと構造的な条件だ。つまり「エシカルでありたい」という自己像と、実際の行動履歴は、同じ人間の中で別々の帳簿として管理されている可能性がある。前者の帳簿にどれだけ立派な残高があっても、後者の帳簿にはほとんど反映されない。

買うという行為が、免罪符になるとき

この「別々の帳簿」という比喩を、もう少し文字通りに検証した研究がある。心理学者のマザーとチョンが2010年に発表した実験は、参加者を二つの条件に分けた。片方には環境に配慮した商品の並ぶオンラインストアを、もう片方には通常の商品の並ぶストアを見せ、実際に商品を選ばせる。その後、まったく別の課題として、他人への分配や、自己申告制のテストで成績をごまかせる状況を用意し、参加者の行動を観察した。結果は直感に反していた。環境配慮商品を「見ただけ」の参加者は、通常商品を見た参加者より他人に気前よく振る舞った。ところが、環境配慮商品を実際に「買った」参加者は、通常商品を買った参加者に比べて気前よさが下がり、ごまかしや、本来の取り分を超えてお金に手を伸ばす行動が増えたという。

目にするだけなら人を少し寛大にする対象が、実際に購入するとその逆に働く――この非対称こそが、この研究の核にある発見だ。研究者たちはこれを、モラル・ライセンシングと呼ばれる心理現象の一例として説明している。何か道徳的に見える行為を一度おこなうと、人は自分の中の「良い人間である」という証明を先に済ませたと感じ、その直後にやや踏み外した行動を取っても構わないと、無意識のうちに自分を許してしまう。良い行いが、次の行いへの免罪符として使われてしまうということだ。ここで免罪符の役目を果たしているのは、環境に配慮した商品そのものではなく、「それを選んで対価を払った」という行為の記憶らしい。見るだけでは免罪符は発行されず、財布を開いた瞬間に発行される。

なぜこんな帳尻合わせが起きるのか、という機序についても、先行する理論がある。心理学者のサッチデーヴァ、イリエフ、メディンが2009年に発表した研究は、「自己概念の維持」という枠組みを提案している。人はふだん、自分をおおむね道徳的な人間だと信じて生活しているが、その信念には多少の余白がある。何か明確に良いことをすると、その余白が一時的に膨らみ、多少の逸脱をしても「自分はまだ十分に良い人間だ」という自己像を脅かさずに済むようになる。逆に、悪いことをした後には、その埋め合わせとして次の善行に手が伸びやすくなる。実験では、参加者に自分について肯定的な言葉を使った文章を書かせただけで、その後の寄付額が、否定的な言葉を使った参加者のおよそ五分の一にまで落ち込んだという。同じ研究チームは三つ目の実験で、この効果が環境に関わる協力行動にも及ぶことを確認している。良い自己像は、それ自体が使い減りする資源のように振る舞う――この考え方に立てば、環境配慮商品を買うという行為が免罪符として機能するのも、さほど不思議ではなくなる。

見せることが、動機を強めることがある

免罪符という比喩をもう少し押し広げてみたい。免罪符というものは、たいてい誰かに見せて初めて効力を発揮する。誰にも見られない場所でこっそり善行を積んでも、免罪符としての機能はいくらか目減りする。だとすれば、「エシカルな趣味」がこれほど購入という儀式と結びつきやすい理由の一部は、その趣味が人目にさらされやすい性質を持っている、という点にもあるのではないか。

心理学者のグリシェヴィシウス、タイバー、ファン・デン・バーグが2010年に発表した一連の実験は、この推測にかなり近いところまで踏み込んでいる。研究チームは参加者の中に「地位を求める動機」をあらかじめ喚起したうえで、環境に配慮した製品と、より高価で贅沢な非エコ製品のどちらを選ぶかを比較した。結果、地位への欲求が刺激された参加者は、贅沢な製品よりも環境配慮型の製品を選びやすくなったという。ここまでなら、地位を求める気持ちが環境意識を高めた、という美談で終わってもよさそうなものだが、この研究の眼目はその先にある。この効果がはっきり現れたのは、買い物が他人の目にさらされる公開の場面に限られ、誰にも見られない私的な場面ではほとんど消えた。さらに、環境配慮型の製品の値段が通常品より高い場合にこそ効果が強まり、安い場合には効果が弱まったという。値段が高く、しかも人に見られている――この二つがそろって初めて、地位を求める動機は環境配慮型の製品へと向かう。

この結果を意地悪く言い換えれば、地位を求める心理が本当に反応しているのは、環境そのものではなく、「値の張るものを、見える形で選べる自分」の方だということになる。研究者たちはこの現象を、贅沢な浪費を見せびらかす旧来の「顕示的消費」になぞらえて、「顕示的節約」と呼んでいる。並べてみると、趣味という営みは、この二条件――値段の高さと公開性――をかなり自然に満たしてしまう場でもある。蜜蝋ラップはキッチンの見える場所に置かれ、来客の目に触れる。庭先のコンポスト容器は、道を歩く隣人の視界に入る。ダーニングを施した靴下も、写真に撮られてSNSに上げられれば、たちまち公開情報になる。趣味が「見せる」ことをほとんど前提にした営みである以上、それに関わる購入は、地位を求める動機を刺激しやすい条件を、最初からかなりの精度で満たしていることになる。

その効果は、追試するとかなり縮む

ここで話を終えると、「エコな買い物は人を悪くする」という、これはこれでキャッチーな結論に着地してしまう。だが、この結論に飛びつく前に、もう一往復だけ検算しておきたい。モラル・ライセンシングという現象自体は、その後、環境配慮に限らずさまざまな道徳的文脈で数多くの追試がおこなわれてきた。心理学者のブランケン、ファン・デ・フェン、ゼーレンベルグが2015年にまとめたメタ分析は、91件の研究、参加者総数7397人分のデータを統合し、モラル・ライセンシング効果の全体的な大きさを、コーエンのdでおよそ0.31と算出している。統計的にはっきり検出できる効果ではあるものの、規模としては控えめの部類に入る。しかもこの分析は、査読を通って公表された研究の方が、公表されなかった未発表研究よりも効果を大きく報告する傾向――いわゆる出版バイアス――があることも同時に指摘している。効果自体は存在するが、思われているほど大きくも安定してもいない、というのが妥当な要約になる。

さらに、マザーとチョンの実験そのものを狙い撃ちした追試もある。心理学者のアーバン、バーニーク、ブラウン・コフロヴァーが2019年に発表した研究は、環境配慮商品の購入がその後の不正直な行動を増やすかどうかを、三通りの異なる方法で、合計1274人という大規模な参加者を対象に検証した。結果は、いずれの追試でも、購入後に不正直さが増えるという効果は確認できなかったという。もとの実験が示した「買うことが免罪符になる」という図式そのものが、少なくとも不正直さという指標に関しては、思うほど頑丈ではなかった可能性が高い。

効果が揺らいでも、物語だけは残る

ここまでで、話は一周してかなり慎重な着地点に来ている。モラル・ライセンシングという現象は確かに存在するが、効果としては小さめで、環境配慮の文脈に限って言えば追試に失敗した例もある。だとすれば、冒頭の「エシカルな趣味」というリストへの居心地の悪さは、心理学的には根拠薄弱な思い過ごしだった、ということになるのだろうか。ここで、もう一段だけ視点をずらしてみたい。問題は、研究室で測定された効果量の大小ではなく、私たちが日常の中で「買う」という行為に何を期待しているか、という物語の水準にある気がする。

「エシカルな趣味」という言葉自体が、ある種の宣伝文句として機能している。趣味というものに「エシカル」という形容詞を貼り付けた瞬間、その趣味に参加すること自体が、道徳的な達成として意味づけられる。観葉植物を育てることも、コンポストを始めることも、それ自体は生活の一部でしかなかったはずのものが、「エシカルな趣味」という枠に入れられることで、暗黙のうちに自分を良い人間として証明する行為に格上げされる。そしてその格上げの入り口には、たいてい何かを新しく買うという儀式が置かれている。実験室で測定される「ごまかしの増加」という効果が仮に小さく、再現性も怪しいのだとしても、「これで一つ善行を済ませた」という感覚そのものは、消費者の頭の中で確かに発生しているだろう。効果量がゼロに近づいても、その物語を信じて行動する人の数はさほど変わらない、ということは十分にありうる。研究が難しくしているのは、その物語が実際の行動をどこまで動かすかという、まさにそこの部分だ。

グリーンウォッシュの話とも、ここでつながってくる。95パーセントの商品に何らかのゆがみがあるという状況は、消費者が正確な情報を得られていないという問題であると同時に、「買えば善行になる」という物語を、企業の側が積極的に供給し続けているという問題でもある。買う側の意図と、売る側の宣伝文句と、心理学が測ろうとしている実際の効果――この三者は、必ずしも同じ強さで結びついていない。意図は本物でも実行が伴わないというカリントンらの発見、実行しても効果は小さいというブランケンらの発見、そもそも効果自体が消えることもあるというアーバンらの発見。これらを並べると、「エシカルな消費」という営みが、実際の環境負荷の削減という一点においては、思われているよりもずっと頼りない土台の上に立っていることが見えてくる。

買わないことを、また買っている

ここまで数字を並べてきて、では何も買わなければいいのか、という単純な結論に流れそうになる自分にも気づく。だが、これもまた別の免罪符になりうる、という可能性は残しておきたい。「私は何も買わない」という選択それ自体を、一種の道徳的な達成として内心で採点し始めた瞬間、それは形を変えただけの同じ現象になる。免罪符の発行元が、店の商品棚から自分の意志の強さへ移っただけだ。買うことをやめれば免罪符から自由になれる、というのもまた、ずいぶん都合のいい物語ではないかと思う。

結局のところ、この一連の研究が教えてくれるのは、行動の正しさを判定する基準ではない。買ったか買わなかったか、エシカルかそうでないかという二分法そのものが、あまり役に立たないという事実の方だ。トートバッグを7100回使うかどうかは、買った瞬間には決まらない。その後、実際にどれだけ使い続けるかという、地味で退屈な継続の中でしか決まらない。免罪符を発行するのも、それを換金し続けるのも、結局は買った後の自分の手に委ねられている。だとすれば、「エシカルな趣味」というジャンルに向けるべき視線は、何を選んで買ったかではなく、買った後の自分がどこまで律儀にそれを使い倒すか、という一点に絞られてくるのかもしれない。それは趣味というより、もう少し地味な、生活習慣に近い何かなのだろう。

棚の奥に一度も使われないまま置かれている布のかばんがあるとすれば、それはエシカルな消費が失敗した証拠というより、買った時点ですでに免罪符が発行され尽くしていたことの証拠なのかもしれない。かばん自体には何の罪もない。罪があるとすれば、それを買った瞬間に「もう十分やった」と感じてしまう、こちらの頭の中の会計処理の方にある。

この記事を書きながら、自分の部屋を一度見回してみた。布のトートバッグは三枚あり、そのうち日常的に使っているのは一枚だけだった。残りの二枚は、どこかのイベントでもらったものと、環境配慮を謳う店で衝動的に買ったものだ。後者を買ったときの記憶を辿ってみると、そこにあったのは切実な必要性ではなく、レジ横に積まれたそのかばんを見て「これは持っておいた方がいい気がする」と感じた、ごく淡い感覚だった。今回調べた数字と理屈を知ったうえで振り返ると、あの感覚こそが、免罪符が発行される瞬間そのものだったのだろうと思う。だからといって、そのかばんを今さら罪悪感とともに処分するつもりもない。ただ、次に同じような感覚に出くわしたときには、その感覚の出どころを、もう少し疑ってみるくらいのことはできそうだ。

出典

  • Miljøstyrelsen (Danish Environmental Protection Agency) (2018). "Life Cycle Assessment of grocery carrier bags." Environmental Project No. 1985.
  • TerraChoice Environmental Marketing Inc. (2010). "The Sins of Greenwashing: Home and Family Edition."
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