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趣味を年代や性別で仕分けることについて
「20代に人気」「女性に多い」という趣味ランキングの仕分けは、統計的にどこまで正しいのか。性差研究とコホート効果の知見から、年代・性別で趣味を語る作法そのものを検討する。
お金のかからない趣味を紹介する記事を読んでいると、たいてい年代別か性別別の仕分けに行き着く。10代はセンスを磨くもの、20代は将来に投資できるもの、30代は自分を休ませるもの、女性に人気なのはこれ、男性に多いのはこれ。読みやすくはある。だが自分がどの枠に当てはまるかを考え始めると、途端に居心地が悪くなる人も多いはずだ。この居心地の悪さを、単なる好みの問題として片づける前に、そもそも年代や性別で趣味の傾向を語ることに、どれだけの統計的な裏づけがあるのかを見ておきたい。
この種の記事はたいてい、根拠を明示しない。「20代女性に人気」という一行の背後にどんな調査があるのか、サンプルサイズは何人で、どの選択肢とどの選択肢を比べているのかは、ほとんど書かれない。おそらく多くの場合、根拠らしい根拠など最初から存在せず、SNSのハッシュタグの出現頻度や、通販サイトの購買データの一部を切り取って「傾向」と呼んでいるにすぎない。だとすれば、これは統計の話というより、統計を装った読み物のジャンルの話だということになる。だがここでは意地悪くその粗さだけを指摘して終わりにするのではなく、もう一歩踏み込んでみたい。年代や性別で人の興味・関心を分類するという発想そのものは、学術的な性差研究や発達心理学の領域で、実際に何十年もかけて検証されてきたテーマでもあるからだ。人間の心理特性のうち、どれだけが年齢や性別といった人口統計的な属性で説明でき、どれだけが説明できないのかは、心理統計学が長年かけて答えを積み上げてきた問いでもある。その蓄積に照らしたとき、巷のランキングはどこまで正しく、どこから外れているのか。
性差は本当にゼロなのか
結論を急ぐと、「性差なんて存在しない」という主張は言い過ぎになる。心理学者のJanet Hydeは2005年、性差に関する46本のメタ分析を横断的に検討し、調べられた効果量のうちおよそ8割が「trivial」ないし「small」の範囲——具体的には効果量dが0.35未満——に収まることを示した。これは「性差はほぼ存在しない」という主張の根拠としてよく引用される、いわゆる「性差類似性仮説」の土台になった研究である。効果量dというのは、二つの集団の平均値の差を、集団内のばらつきの大きさで割った指標だと考えればよい。d=0.2なら小さい差、d=0.5なら中程度、d=0.8を超えると大きい差とされる。Hydeの整理によれば、心理学が測定してきた性差の大半は、この物差しで見ると0.2にも満たない。ところが同じ研究群の中には、例外的に大きな差が見つかる領域も残っている。
その代表が興味・関心の対象である。Su、Rounds、Armstrongが2009年に発表したメタ分析は、47種類の職業興味検査、のべ50万人以上のデータを統合し、「モノ」への関心と「ヒト」への関心という軸で男女差を測定した。結果は効果量d=0.93という、心理学の性差研究としては際立って大きな数値だった。エンジニアリング分野への関心に限れば効果量は1.11に達し、これは身長の男女差(おおむねd=1.5から2.0程度とされる)に迫る規模である。一方で科学や数学への関心の差は0.3台にとどまり、「モノ対ヒト」という軸のような大きな差は、実は趣味・関心の領域全体に均等に広がっているわけではない。つまり、性差研究全体を見渡せば「たいていの差は些細」という総括は正しいが、趣味や興味の領域の中でも一部の軸に限ると、その「たいてい」から外れる大きな差が実在する。年代・性別ランキングを頭ごなしに疑似科学だと切り捨てるのは、この一点においてはやや不誠実である。
差が大きいほど社会は関係ないという直感の誤り
ここで直感的に予想されるのは、「モノとヒト」のような大きな性差は生物学的な土台が強く、社会的な平等が進むほど薄れていくはずだ、という筋書きだろう。ジェンダー平等が進んだ社会ほど、性別による役割の押しつけが減り、趣味や進路の選択も均されていく——そう考えるのが自然だ。年代・性別ランキングも、暗黙のうちにこの前提に乗っている。「今の若い世代は性別にとらわれない」という語り口は、平等が進めば分類の意味は薄れるはずだという直感の裏返しである。ところが実際のデータは、この予想を裏切る形で動いている。
Costa、Terracciano、McCraeが2001年に26か国・2万3千人余りを対象に行った調査では、性差はどの文化でも一貫して観察されたが、その大きさが最も際立っていたのは、伝統的な性役割が薄いはずのヨーロッパや北米の社会だった。伝統的な性役割が色濃く残る文化圏の方が、むしろ男女差は小さかった。この結果は当時、社会的役割理論——性差は社会的な役割の押しつけによって生まれるのだから、押しつけが弱まれば差も縮む、という立場——の予測とは正反対だったため、論文の副題にも「robust and surprising findings(頑健で意外な発見)」という言葉が使われている。26か国という調査規模の大きさも手伝って、この結果は一時の偶然では片づけられない頑健さを持つものとして受け止められた。Schmittらが2008年に55か国を対象に追試した研究でも同じ構図が確認された。性役割の平等度が高い国ほど、ビッグファイブ性格特性における男女差が大きく、具体的には平等度の高いフランスやオランダで差が最大となり、平等度が低いボツワナやインドのような社会の方が差は小さかった。研究者たちはこれを「ジェンダー平等パラドックス」と呼んでいる。経済的な不安や生存の制約が少ない環境ほど、人はそれぞれの傾向を制約なく表現できるようになる、という解釈がまず提示された。
パラドックスというパラドックス自体への疑い
ただし、この「解放されるほど差が際立つ」という説明を鵜呑みにするのも早計だ。Stoet と Geary が2018年に発表した、STEM(科学・技術・工学・数学)分野の進路選択における同種のパラドックス——ジェンダー平等度の高い国ほど、大学でSTEM分野を選ぶ女性の割合がかえって低いという主張——は、2015年のPISA(国際学習到達度調査、37の先進国と39の発展途上国、15歳の生徒およそ50万人が対象)のデータをもとにしており、発表直後から大きな論争を呼んだ。追試を試みた研究チームは、使われた国別のジェンダー平等指標の選び方や、STEM分野の定義の恣意性を指摘し、原著論文は訂正(corrigendum)を公表する事態になっている。一つの相関関係から「解放されるほど個性が表に出る」という因果的な物語を組み立てることが、実際にはかなり危うい橋渡しだったということである。
さらに2020年、Breda、Jouini、Napp、Thébaultの4人がPNASに発表した研究は、64か国・30万人分の15歳の生徒データを分析し、「平等な社会だから個性が解放される」という説明そのものに対案を突きつけた。彼らが示したのは、「数学は男性向きの科目だ」というステレオタイプが、経済発展した平等な国ほど、むしろ根強く内面化されている、という逆説だった。進路選択の男女差は、抑圧からの解放の結果ではなく、形を変えたステレオタイプが媒介している可能性がある——つまり同じ現象に、正反対の説明が両方とも学術誌に載っている状態が今も続いている。どちらの説明が最終的に正しいとしても、少なくとも言えるのは、「平等な社会だから性差がはっきり出る、それは自然なことだ」という一本道の解釈は、専門家のあいだでもまるで決着していないということだ。年代・性別ランキングが前提にしている「傾向」は、こうした未決着の論争の上澄みを、断定口調ですくい取ったものにすぎないことが多い。専門家同士が国際的な学術誌の上で決着をつけられずにいる問いに、雑誌記事やまとめサイトが一文で白黒をつけられるはずがない、というのは、考えてみれば当たり前のことでもある。
年代についても同じ問題が起きている
性別だけでなく、年代についても構造はよく似ている。いや、むしろ性別より始末が悪いかもしれない。「10代に人気」「40代に多い」という言い方は、年齢そのものの効果(加齢によって人が変わること)と、生まれた時代の効果(コホート効果、その世代が育った環境の違い)と、調査したその時期特有の流行(時代効果)という、独立した三つの要因を無自覚に混同していることが多いからだ。ある調査時点で10代がしていることと40代がしていることを比較しても、それが「10代というライフステージ特有の傾向」なのか、「今の10代が育った時代環境の産物」なのか、単に「その年に流行っていたもの」なのかは、一回きりの横断調査からは原理的に区別できない。
この混同を避けるための方法論を体系化したのが、心理学者K. Warner Schaieである。1956年に始まったシアトル縦断研究は、単純な横断調査(ある一時点で複数世代を比較する)でも単純な縦断調査(同じ世代だけを追いかける)でもなく、複数の世代を数年おきに繰り返し測定する「コホート系列法」という設計を採用した。年齢・コホート・調査時点という三つの要因は、単純な調査デザインでは常にどれか二つが絡み合ってしまうが、複数世代を時間差で重ねて測ることで、初めて三者を切り分けられる。開始から半世紀以上、20歳から97歳までの参加者を対象に7年おきの追跡を重ねてきたこの研究が明らかにしたのは、横断的に見えている「年代差」の少なくとも一部は、加齢そのものの結果ではなく、単にその世代が育った時代が違うだけだった、という事実である。今の20代が好む趣味は、20代というライフステージの本質ではなく、今この時代に20代であることの反映にすぎないかもしれない。10年後にはまったく違う趣味が「20代の定番」として語られていても、その記事の書き手にとっては何の矛盾もないだろう。書き手は毎回、その時点でのコホートを観察して記事を書いているだけであって、20代という年齢区分そのものの不変の性質を発見しているわけではないからだ。年代ランキングが暗黙のうちに主張している「20代とはこういうものだ」という本質論は、この方法論的な検証にはまず耐えられない。
加齢そのものの効果がないわけではない
とはいえ、加齢によって人がまったく変わらないと言いたいわけでもない。Roberts、Walton、Viechtbauerが2006年に92の縦断研究、合計すると数万人規模のデータを統合したメタ分析では、社会的支配性(外向性の一側面、率直さや主導権を握る傾向)・誠実性・情緒安定性が20代から40代にかけて着実に上昇し、一方で社交性の高さ(外向性のもう一つの側面)や開放性は青年期にいったん上がったあと老年期にかけて下がる、という具体的なパターンが確認されている。中年期・老年期には、測定された性格特性の75%で統計的に有意な変化が見られた。つまり「年齢を重ねると人は変わる」という直感自体は、間違ってはいない。就職や結婚、子育てといった人生の出来事が性格に影響することも、同じ論文で示唆されている。
ただしこの研究が同時に示しているのは、変化の中身がかなり地味で限定的だということでもある。「20代は挑戦、30代は安定志向」といった趣味ランキングのお決まりの図式ほど、劇的でも一様でもない。誠実性や情緒安定性がじわじわ上がるという話と、「30代になったら休息を求める趣味に切り替わる」という断定のあいだには、かなりの飛躍がある。しかも同じ論文は、この変化パターンに関して男女差はごくわずかだったとも報告している——年代の話をするときに、あえて性別まで掛け合わせる理由は、この観点からするとむしろ薄い。加齢の効果は確かに存在するが、それは「30代の女性はこれを好む」という掛け合わせを正当化するほど強くも精密でもない、ということになる。
実際の行動データが示していること
好みや性格の話から離れて、実際の行動記録に目を移しても、話は単純にならない。総務省統計局が1976年から5年おきに実施している社会生活基本調査は、年齢階級・男女別に趣味・娯楽の種類ごとの行動者率(過去1年間に実際にその活動をした人の割合)や平均行動日数を、就業の有無まで細かく分けて公表している。ここには確かに年代・性別による差がはっきり表れる。だがこの数字は「好み」をそのまま映した鏡ではない。同じ調査は就業状態別の集計も別立てで用意しているくらいで、そこには通勤時間、育児や介護にかけている時間、体力といった構造的な制約が丸ごと混ざり込んでいる。ある年代の女性がある趣味をしていないという数字は、その趣味に興味がないことの証拠ではなく、単にその時間帯に別の無償労働を担っている人が多いことの反映かもしれない。仮に家事・育児の分担が均等な社会で同じ調査をやり直したら、行動者率の年代・性別差はかなり違う形になるはずだ。行動データは、好みと制約を切り分けないまま「傾向」として提示されがちである。
属性が説明する分量はどれくらいか
ここまでの研究を並べて見えてくるのは、年代や性別と趣味のあいだに何の関係もないという話ではなく、関係はあるが、それが個人を言い当てる力はかなり弱い、という中間的な結論である。Su たちが見つけた効果量d=0.93は、性差研究としては例外的に大きい部類に入るが、それでも二つの分布は大きく重なり合っている。効果量と重なりの関係を示す目安として、心理統計ではしばしば「重複係数(overlap coefficient)」という考え方が使われる。おおまかな計算では、d=0.93というのは、無作為に選んだ一組の男女を比べたとき、男性の方が「モノ」への関心が強く出る確率がおよそ7割程度にとどまる、という重なり方に相当する。裏を返せば、3割前後のペアでは女性の方が「モノ」への関心が強い。これは性差研究における最大級の効果量についての話であって、まして趣味全般のような、多くがd=0.2から0.4程度の効果量しか示さない領域では、属性から目の前の一人の好みを予測する力はさらに乏しくなる。
年代や性別で趣味を仕分ける記事が量産される理由は、この統計的な弱さとは別のところにある。書く側にとって、属性は最も入手しやすく、最も説明しやすい変数だからだ。年齢と性別は自己申告のアンケートで一発で取得でき、読者に「自分はどの枠か」を即座に問いかけられる。見出しにできるし、SNSでも「わかる」「わからない」と反応しやすい。一方で、その人が何にお金をかけずに時間を使いたいかを実際に規定しているのは、幼少期にどんな環境で何に触れたか、今どんな生活リズムで暮らしているか、どんな性格特性の組み合わせを持っているか、周囲にどんな人がいるか、といった、記事一本では到底拾いきれない要因の集積である。属性による仕分けが便利なのは、書く側にとって整理しやすいからであって、読む側の実態を正確に映しているからではない。
平均への回帰という別の落とし穴
年代・性別ランキングにはもう一つ、見過ごされがちな統計的な癖がある。ある年に「20代に人気」と報じられた趣味が、数年後の調査では順位を落としていたとき、記事はそれを「世代の好みが変わった」と説明したがる。だが、極端に高い数値を記録した集団や項目が、次の測定では平均に近づいて見える現象——統計学でいう平均回帰——は、好みの変化がなくても、測定誤差や一時的なブームの反動だけで十分に起こり得る。ある年の調査でたまたま上位に来た趣味は、母集団全体の実力よりも高く出ている可能性が最初から織り込まれている。翌年それが下がったとしても、それは「飽きられた」からとは限らず、単に元の水準に戻っただけかもしれない。ランキングという形式は、この種の一時的な変動を、あたかも意味のある世代交代であるかのように語る誘惑と常に隣り合わせにある。
推薦アルゴリズムも同じ土俵に立っている
この問題は雑誌記事に限った話でもない。動画配信サービスや通販サイトのレコメンド機能も、初期段階ではしばしば年齢・性別といった属性を手がかりに提案を組み立てている。新規登録者にはまだ行動履歴がなく、頼れる材料が属性くらいしかないからだ。だがサービス側が本当に精度を上げたいと考えるなら、属性による初期分類はすぐに個人の行動履歴による推定へと置き換えられていく。属性は、行動履歴という本命のデータが手に入るまでの、いわば繋ぎでしかない。属性ベースの推薦がいつまでも幅を利かせるのは、それが最も正確だからではなく、データが乏しい段階での次善の策だからにすぎない。年代・性別ランキングの記事は、いわばこの「次善の策」の段階に、恒久的に居座り続けているようなものである。読者の行動履歴も性格特性も生活環境も分からないまま、分かる変数だけで押し切っている。
仕分けの外側にあるもの
お金をかけない趣味に共通しているものを探すなら、年代でも性別でもなく、手元にすでにあるものをどう使うかという工夫の方が近い。図書館の本、近所の道、余った布の端切れ、使っていない時間帯。どれも新しく買い足す必要がなく、視点を変えるだけで趣味になる。再生野菜を育てる、端切れで小物を作る、独学で語学をかじる、思いついたことをノートに書き出す。こうした行為に共通するのは年齢でも性別でもなく、手持ちのものを少し違う目で見直しているという一点だけだ。10代向け、40代向けと分けて説明しなくても、これらはそのまま誰にでも当てはまるし、逆に「30代の定番」として名指しされた趣味を30代の全員が窮屈に感じても、それもまた不思議なことではない。属性による説明を外したところで趣味の紹介が成り立たなくなるのだとしたら、その説明はそもそも紹介の本質的な部分を担っていなかった、ということでもある。
属性による仕分けが完全に無意味だと言いたいわけではない。母集団を大づかみに眺めるときには、d=0.93のような大きな差も、加齢に伴う地味な性格変化も、実在する統計的な事実として扱ってよい。研究者が国や世代を比較するときには、こうした平均の差は意味のある手がかりになる。ただしそれは、目の前の一人がどちらの分布のどこに属するかを教えてくれる情報ではない。集団についての正しい記述を、そのまま個人への当てはめに横滑りさせた瞬間に、統計は占いに近づいていく。ランキングの枠に自分を合わせにいくよりも、今の自分が実際に何に手を伸ばしたくなるかを確かめる方が、地味ではあるが統計的にも理にかなっている。属性は集団の傾向を語るための道具であって、個人への指示書ではない。それだけの、しかし見過ごされがちな話である。
もう一つ付け加えるなら、こうした属性ベースの語りが繰り返されることの副作用は、個々の記事が不正確であること自体よりも、読み手の側の想像力を先回りして狭めてしまう点にあるのかもしれない。「30代女性に人気」という見出しを繰り返し目にしているうちに、読者は無意識のうちに、自分がまだ試していない選択肢を「自分向けではない」と早々に除外するようになる。d=0.93のような、統計的には確かに大きい部類の性差でさえ、集団のおよそ3割では逆転しているという事実は、見出しの断定調の前ではほとんど存在しないことにされてしまう。属性による分類が害を持つとすれば、その害は統計的な誤りそのものよりも、この種の早すぎる自己限定を読者に促すという、もっと静かな部分に宿っている。
出典
- Hyde, J. S. (2005). The Gender Similarities Hypothesis. American Psychologist, 60(6), 581-592.
- Su, R., Rounds, J., & Armstrong, P. I. (2009). Men and Things, Women and People: A Meta-Analysis of Sex Differences in Interests. Psychological Bulletin, 135(6), 859-884.
- Costa, P. T., Terracciano, A., & McCrae, R. R. (2001). Gender Differences in Personality Traits Across Cultures: Robust and Surprising Findings. Journal of Personality and Social Psychology, 81(2), 322-331.
- Schmitt, D. P., Realo, A., Voracek, M., & Allik, J. (2008). Why Can't a Man Be More Like a Woman? Sex Differences in Big Five Personality Traits Across 55 Cultures. Journal of Personality and Social Psychology, 94(1), 168-182.
- Stoet, G., & Geary, D. C. (2018). The Gender-Equality Paradox in Science, Technology, Engineering, and Mathematics Education. Psychological Science, 29(4), 581-593.
- Breda, T., Jouini, E., Napp, C., & Thébault, G. (2020). Gender Stereotypes Can Explain the Gender-Equality Paradox. Proceedings of the National Academy of Sciences, 117(49), 31063-31069.
- Roberts, B. W., Walton, K. E., & Viechtbauer, W. (2006). Patterns of Mean-Level Change in Personality Traits Across the Life Course: A Meta-Analysis of Longitudinal Studies. Psychological Bulletin, 132(1), 1-25.
- Schaie, K. W. シアトル縦断研究(1956年開始)におけるコホート系列法(cohort-sequential design)。
- 総務省統計局「社会生活基本調査」(1976年開始、5年ごとに実施)。
