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肩書きの喪失は、脳では痛みとして処理される——50代、「役職」が外れたあとに残るもの
役職定年や早期退職で肩書きが外れる50代。自分が何者かは、属している集団の中での位置づけによって決まっていたのだとしたら、その位置が外れたとき、人の中では何が起きているのか。社会的アイデンティティ理論と、地位とストレスをめぐる研究を手がかりに考える。
名刺から一行が消えた日
名刺交換の場で、多くの人は名前より先に肩書きを名乗る。「営業部長の◯◯です」という言い回しは、自己紹介というより所属証明に近い。この一行が名刺から消えるのが、役職定年であり、早期退職であり、あるいは組織再編で椅子そのものがなくなることだ。50代の多くがどこかの時点でこの一行を失う。仕事の内容そのものはさほど変わらないこともある。部下がいなくなり、会議に呼ばれる回数が減り、決裁の欄に自分の印がなくなる——変化は書類の上では小さいのに、鏡に映る自分に対する感覚は、驚くほど大きく揺れる人がいる。
この揺れをどう説明するか。「役割を失ったのだ」という説明はよく聞くし、たしかに正しい。だが役割という言葉は、テニスをする人が引退する場合にも、親という役割が子の自立で軽くなる場合にも同じように使われる、かなり広い言葉だ。役職定年で起きていることは、それよりもう少し狭く、もう少し社内政治的な出来事でもある。奪われるのは「働くこと」ではなく、「社内という一つの小さな社会の中で、自分がどの集団に属する人間として扱われるか」という位置づけそのものだからだ。この記事では、その位置づけの喪失という一点に絞って考えてみたい。
自己評価は、集団の中の自分の位置でできている
心理学者タジフェルとターナーが1970年代末に提唱した社会的アイデンティティ理論は、人の自己概念の一部が、自分がどの社会集団に属しているかという事実と、その集団がどれだけ価値あるものとして周囲から評価されているかによって形作られる、と説明する。人は単に「自分はどういう性格か」という個人的な物差しだけで自分を測っているのではない。「自分はどの集団の一員か」「その集団は他の集団と比べてどう位置づけられているか」という、いわば所属による物差しも同時に使っている。この理論がもともと説明しようとしたのは、なぜ人は些細な基準で分けられた集団に対してさえ贔屓意識を持ってしまうのか、という実験室的な現象だった。だが、その射程は会社組織にもそのまま伸びる。
会社における「管理職」という区分は、単なる職務分担の都合ではない。給与テーブルが違い、呼ばれ方が違い、会議室の座る位置が違う。つまり社内という小さな社会の中で、目に見える形で線を引かれた集団区分になっている。管理職であるという事実そのものが、その人の自己評価の一部を静かに支えていたのだとすれば、役職定年はその区分から外へ押し出されることを意味する。仕事の中身が保たれていても、社内の中でどのカテゴリーの人間として扱われるかという座標そのものが動く。書類上は小さな異動に見えて、本人の内側では所属集団の切り替えという、もっと大きな出来事として経験されてもおかしくない。
ただし、この理論を会社組織にそのまま輸入することには、一つ留保が要る。タジフェルとターナーがもともと確かめたのは、くじ引きで無作為に分けられただけの、利害も歴史も持たない集団に対してすら、人が贔屓意識を持ってしまうという、いわば理論の最小構成の実験だった。数十年勤めた会社の中の役職という、給与・人間関係・自尊心が幾重にも絡んだ現実の集団区分は、その最小構成よりはるかに濃密だ。理論が実験室で示した効果が、これほど濃密な現実の場面でどこまで同じ強さで働くのかは、厳密には別の検証を要する話であって、理論の名前を借りて起きていることのすべてを説明できるわけではない。それでも、線引きの些細さだけであれだけの効果が出るのであれば、給与も肩書きも人間関係も懸かった線引きが、それ以下の効果しか持たないと考える理由もまた見当たらない。
戻れない、変わらない、それでも正当とは思えない
社会的アイデンティティ理論がもう一段面白いのは、地位を失った人間がどう反応するかについても、いくつかの型を示している点だ。理論の整理によれば、反応の分かれ道は三つの条件で決まる。ひとつは、低い側の集団から高い側の集団へ個人として移動する余地がどれだけ開かれているか(透過性)。もうひとつは、その地位の差が今後も変わらないものとして見えるか、それとも近く変わりうるものとして見えるか(安定性)。最後のひとつは、その地位の差が正当な基準にもとづくものだと感じられるか、それとも不当なものだと感じられるか(正当性)。境界が開いていれば、人は個人として元の集団に戻ろうとする。境界が閉じていて、しかも差が不当かつ不安定だと感じられれば、人は集団として異議を唱えようとする。境界が閉じていて、差がある程度正当かつ安定していると感じられる場合には、直接的な異議申し立てではなく、比較の基準そのものを引っ越すという、もう一つの道を選びやすくなる。
役職定年という制度を、この三つの条件に照らして眺めると、少し据わりの悪い組み合わせになっていることに気づく。まず個人として元の役職に戻る道は、多くの場合、実質的に閉じている。次に、この差はまず変わらない——役職定年で外れた役職に、同じ会社の中で舞い戻る例は稀だ。最後の正当性についてだけは、判断が割れる。年齢という一律の基準で線を引く制度は、能力や実績とは無関係に運用される点で「不当だ」と感じられる余地を残しながら、同時に「全員が同じ年齢で同じように外れる」という平等さゆえに、「これは自分だけへの仕打ちではない」という意味では正当だとも感じられる、奇妙な二重性を持っている。透過性が閉じ、安定性が高く、正当性の評価だけが揺れている——この組み合わせのもとでは、集団としての異議申し立てより、比較の基準そのものを移す方向に多くの人が流れやすいことになる。実際、日本企業の役職定年の多くが労使双方の大きな異議もなく静かに運用され続けているのは、単に諦めが浸透しているからというより、この三条件の組み合わせが、そもそも異議申し立てという反応を選びにくくしている、という側面もあるのかもしれない。
心理学者エルメルスらが1993年に発表した研究は、この正当性という条件が、実際に人の適応戦略を左右することを確かめている。集団間の地位の差が正当だと感じられている場合には、人は所属集団を批判したり離れたりするのではなく、その集団の中でなお自分の価値を保てる比較の軸を探そうとする傾向が強く出た。逆に不当だと感じられている場合には、所属そのものへの不満や離脱の意欲が強く出た。この知見を役職定年に当てはめると、「制度だから仕方ない」という受け止め方は、単なる諦めの言葉ではなく、比較の軸を移すという適応行動の入り口として機能している可能性が見えてくる。ただし、ここには見落とされやすい代償もある。「全員が平等に経験する制度上の出来事」として片づけてしまうと、その喪失は個人の物語として言語化される機会を失いやすい。誰にでも起きることだから語るまでもない、という扱いは、実際にはその人固有の重さを持つ経験を、統計的な一事例へと縮小してしまう。平等であることは、必ずしも軽いことを意味しない。
肩書きの喪失は、なぜ比喩以上の痛みなのか
ここで、この喪失感を「気の持ちよう」の問題として片づけたくなる誘惑にも触れておきたい。心理学者アイゼンバーガーらが2003年にサイエンス誌に発表したfMRI研究は、コンピューター上のボール投げゲームでわざと仲間外れにされた被験者の脳を撮影し、社会的な拒絶を経験しているときに、身体的な痛みの不快感に関わる領域として知られる前帯状皮質背側部が活性化することを確認した。この領域の活動は、本人が申告する社会的なつらさの強さと相関していたという。社会的な拒絶や排除は、脳の処理としては、身体を切ったり打ったりする痛みと近い回路を使っている可能性がある。肩書きが外れて感じる「痛い」という言い回しは、単なる比喩の誇張ではなく、神経レベルでも根拠のある表現なのかもしれない。だとすれば、「たかが肩書きだろう」という周囲の軽い扱いは、当人の体験している実感と、案外大きくずれていることになる。
頂点にいることも、同じくらい高くついていた
地位を失うことが痛みに近い経験なのだとしたら、地位を保ち続けることは無条件に楽なことなのか。動物行動学の分野には、この問いに意外な角度から光を当てる研究がある。神経内科学者サポルスキーが1990年に発表したケニアの野生ヒヒの長期観察研究は、序列の低いオスほど血中コルチゾール——ストレスホルモンの代表格——の濃度が慢性的に高いことを確認した。ここまでは予想通りだ。だが同じ研究は、序列争いで安定が崩れた時期には、上位のオスたちのコルチゾール濃度も、下位のオスと同じくらいまで跳ね上がることを合わせて示している。地位を脅かされている状態そのものが、地位の高低にかかわらずストレスを生む、という話になる。
さらに踏み込んだ知見もある。生態学者ゲスキエールらが2011年にサイエンス誌に発表した複数のヒヒの群れを対象にした研究は、頂点に立つアルファ雄のコルチゾール濃度が、序列最下層の個体と同じくらいの水準にまで高いことを確認した。理由として挙げられているのは、その地位を維持するために必要な頻繁な威嚇や闘争そのものが、身体に負荷をかけ続けているという点だ。実は最も濃度が低かったのは、アルファのすぐ下に位置する準トップの個体だったという。頂点であり続けることには、地位を守るための絶え間ない緊張という、見えにくいコストが張り付いている。
サポルスキーの1990年の研究は、同じ序列であってもコルチゾール濃度に個体差が大きいことも合わせて報告しており、その差を説明する要因として、周囲との毛づくろいのような親密な関係を保っているか、劣勢が決まった喧嘩を早々に見切れるか、脅威をあらかじめ察知できるか、といった行動上の特徴を挙げている。序列という数字だけでは、その個体が実際にどれだけのストレスを抱えているかは決まらない。序列の内側で、周囲とどう関わり、劣勢をどう受け入れているかという振る舞いの質のほうが、実は効いていた。これを人間の側に置き換えれば、役職を外れたという事実そのものより、外れたあとに周囲とどう関わり続けるかという振る舞いのほうが、その人の抱えるストレスの実際の大きさを左右する、という話になる。
これをそのまま人間の会社組織に当てはめるのは、いくらか乱暴だとしても、示唆として受け取る価値はある。役職を外れることは、社内での位置づけを失うという意味で痛みを伴う出来事だが、それと同時に、その位置を守り続けるために必要だった緊張——部下からの評価に神経を使い、上からの評価に神経を使い、いつ誰に追い抜かれるかという警戒を保ち続ける負荷——からの解放でもある。地位を失うことの痛みと、地位を守り続けることのコストは、別々の帳簿につけられがちだが、実際には同じ帳簿の両側に並ぶ数字なのかもしれない。役職を外れた直後の消耗感の陰で、それまで気づかないほど日常化していた緊張が静かに抜けていくという経験をしている人も、案外少なくないはずだ。
キャリアに賭けていた度合いが、痛みの大きさを決める
ここまでは地位の喪失そのものが持つ性質の話だった。だが同じ喪失でも、受け止め方には明確な個人差がある。心理学者マッキー=ライアンらが2005年に発表した失業と心理的健康に関する大規模なメタ分析は、100を超える変数を五つの領域に整理したうえで、そのうちの「仕事中心性」——自分の自己像の中で仕事がどれだけ大きな割合を占めているか——が、失業による心理的な落ち込みの大きさを左右する要因のひとつであることを確認している。仕事に自分の大半を賭けてきた人ほど、それを失ったときの落差が大きい。当たり前のようでいて、これが統計的に裏づけられているという事実には、それなりの重みがある。
マッキー=ライアンらの整理では、仕事中心性のほかにも、経済的な余裕の有無、失業という出来事をどう解釈するか、実際にどう対処しているか、それまでの経歴や年齢といった要因が並べて検討されている。役職定年や早期退職の場合、雇用と収入の大部分は残ることが多いため、経済的な余裕という緩衝材はまだ効いている場合が多い。だとすれば、この移行がもたらす痛みの大きさを左右する主な変数は、経済的な条件よりも、仕事中心性という一点に、より重く寄っている可能性がある。給与の額面だけを見て「大きな影響はないはずだ」と周囲が判断しがちなのは、この構造を見落としているからかもしれない。
失業そのものの心理的な影響の大きさについては、心理学者パウルとモーザーが2009年に発表したメタ分析が具体的な数字を示している。237の横断研究と87の縦断研究を統合したこの分析では、失業者と就業者を比べたときの心理的な不調の差は、統計的な効果量として0.51、心理的な問題を抱える割合は失業者で34パーセント、就業者で16パーセントだったという。役職定年や早期退職は完全な失業とは違うし、給与も雇用も多くの場合続いている。だから、この数字をそのまま当てはめることはできない。だが、仕事という領域が自己像に占める割合が大きい人ほど、そこでの位置づけの変化が心の健康に響きやすいという構造そのものは、程度の差はあれ役職の喪失にも同じ形で当てはまるはずだ。若い頃から仕事の成果と肩書きの上昇でしか自分を測る訓練をしてこなかった人ほど、役職定年の衝撃を大きく受け止めることになる、というのは、想像に頼らずとも、隣接する研究群からかなりの確からしさで導ける話だ。
ここで留保をひとつ挟んでおきたい。仕事中心性が高い人ほど衝撃が大きいという関係は、相関として確認されているものであって、仕事中心性そのものが悪いという結論には直結しない。仕事に多くを賭けてきた時期があったからこそ得られたものも当然あり、それは役職を外れた後になっても消えてなくなるわけではない。問題は仕事に賭けてきたことそのものではなく、自己評価の物差しが一本しかないまま、その一本が外部の都合で動かされる瞬間を迎えてしまうことのほうにある。
比較の軸を、こっそり移す
社会的アイデンティティ理論に戻ると、透過性が閉じ、安定性が高く、正当性の評価が割れている状況で人が採りやすいと説明されているのが、比較の基準そのものを移すという方向だった。実際にこれがどんな形を取りうるか、いくつか具体的に置き換えてみる。ひとつは比較する次元を変えることだ。「役職の高さ」という一次元で周囲と自分を測るのをやめ、「特定の業務にどれだけ精通しているか」「若手からどれだけ頼られているか」という、役職とは別の次元に軸足を移す。もうひとつは比較する相手を変えることだ。まだ現役の管理職ではなく、同じように役職を外れた同年代の集団を、自分を測る基準にする。もうひとつは時間軸を変えることだ。今の自分を今の他人と比べるのではなく、十年前の自分と今の自分を比べる。どれも社内での序列という一次元の物差しから、本人が制御しやすい別の物差しへと乗り換える動きである。
この乗り換えを、単なる負け惜しみだと切り捨てるのは簡単だが、それでは説明のつかない部分が残る。エルメルスらの研究が示した通り、地位の差がある程度正当だと受け止められている場面では、この乗り換えは実際に心理的な安定に寄与する適応行動として観察されている。負け惜しみと適応的な意味の再構成は、外から見るとよく似ているが、本人の内側では別の出来事だ。見分ける手がかりがあるとすれば、それは「役職などどうでもよかった」と過去を塗り替えてしまうか、それとも「役職があったことの意味は認めたうえで、今はそれとは別の物差しで自分を測っている」と両方を保持できるかの違いにある。前者は現実の否認に近く、後者のほうが理論の言う社会的創造性に近い。
もうひとつ付け加えておきたいのは、この乗り換えには前提として、あらかじめ複数の物差しを持っておく必要があるという点だ。役職という一本の物差ししか用意してこなかった人が、外れた瞬間に急ごしらえで別の物差しを探し始めても、間に合わないことが多い。乗り換え先の物差し——専門性、人望、家庭での役割、社外での関わり——は、役職が外れる前から並行して育てておいて初めて、いざというときに機能する。役職定年の衝撃が大きい人と小さい人の違いは、性格の強さの差というより、その時点でどれだけの物差しをすでに持っていたかという、準備の差である場合が多いのではないか。
この乗り換えの難易度を、さらに上げる条件がひとつある。役職を外れたあとも、席替えや部署異動を挟まず、以前と同じ職場に居続ける場合だ。かつての部下が上司になり、かつて自分が座っていた席に別の人間が座る様子を、日々目にしながら過ごすことになる。転職や部署異動のように、集団の境界をまたいで完全に外に出るのであれば、比較の相手はもう視界に入らない。だが同じ場所に居続ける場合、比較の対象は消えてくれず、むしろ毎日更新され続ける。理論の言う「比較の軸を移す」という適応が、頭の中では成立していても、目の前の光景が絶えずその軸を役職という古い物差しに引き戻してくる。役職定年の後も同じ職場での再雇用が一般的な日本の会社員にとって、この条件は無視できない重さを持っている。
机の位置が変わった日に、変わらなかったものを数える
役職が外れるという出来事は、社内という小さな社会の中での位置づけが動くという意味で、思っている以上に根深い心理的な出来事だ。それは単なる肩書きの問題でも、気の持ちようの問題でもない。集団の中の位置によって自己評価の一部が支えられているのだとすれば、その位置が動いたときに心が揺れるのは、弱さの証拠ではなく、そういう仕組みで人の自己評価ができているという、ただの事実の表れにすぎない。
同時に、この記事で見てきたいくつかの知見は、この揺れをそのまま放置しておく必要もないと示唆している。頂点であり続けることにも見えないコストが張り付いていたという知見は、地位を失った直後の消耗感の中に、実は気づかれにくい解放も混じっていることを教えてくれる。比較の軸を移すという行動が、単なる負け惜しみではなく研究に裏づけられた適応の一形態でありうるという知見は、役職の外にある物差しを探すことに、後ろめたさを感じる必要がないことを教えてくれる。そして仕事中心性という考え方は、衝撃の大きさが本人の弱さではなく、それまでにどれだけの物差しを並行して育ててきたかという準備の差によって説明できることを教えてくれる。
名刺から一行が消えたあとに残るのは、空白ではなく、それまで一本の物差しの陰に隠れていた、いくつかの別の物差しの存在だ。それに気づくのが役職を外れた後になってしまうのか、それとも外れる前から少しずつ用意しておけるのかで、この移行がどれだけ痛みを伴うかは、かなりの部分まで変わってくるように思う。
もっとも、これは「複数の物差しさえ持っていれば痛みが消える」という話ではない。ヒヒの序列研究が示していたのは、周囲との関係を保っている個体ほどコルチゾール濃度が低い傾向があるということであって、ストレスがゼロになるということではなかった。社会的アイデンティティ理論が説明する比較の軸の移し替えも、痛みを別の形に変える手立てであって、痛みそのものをなかったことにする手品ではない。役職が外れるという出来事を、経験しなくて済むように何かを準備することはできない。できるのは、その痛みが訪れたときに、それを受け止める場所を一つに絞らずにおくことくらいだ。地味な話に聞こえるかもしれないが、地位というものの正体が、突き詰めれば集団の中での位置づけという、ごく即物的な座標にすぎないのだとすれば、備えの方法もまた、精神論より先に、この即物的な座標をどれだけ複線化しておけるかという、いくぶん事務的な問題に帰着するのだろう。
出典
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