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肩書きを失う痛みと、頂点に居続けるコスト

肩書きを失う痛みと、頂点に居続けるコスト

役職定年や早期退職で肩書きが外れる50代。自分が何者かは、属している集団の中での位置づけによって決まっていたのだとしたら、その位置が外れたとき、人の中では何が起きているのか。社会的アイデンティティ理論と、地位とストレスをめぐる研究を手がかりに考える。

TOMOAKI··趣味

名刺から一行が消えた日

名刺交換の場で、多くの人は名前より先に肩書きを名乗る。「営業部長の◯◯です」という言い回しは、自己紹介というより所属証明に近い。この一行が名刺から消えるのが、役職定年であり、早期退職であり、あるいは組織再編で椅子そのものがなくなることだ。50代になると、この一行を失う人が出てくる。仕事の内容そのものはさほど変わらないこともある。部下がいなくなり、会議に呼ばれる回数が減り、決裁の欄に自分の印がなくなる——変化は書類の上では小さいのに、鏡に映る自分に対する感覚は、驚くほど大きく揺れる人がいる。

この揺れをどう説明するか。「役割を失ったのだ」という説明はよく聞くし、たしかに正しい。だが役割という言葉は、テニスをする人が引退する場合にも、親という役割が子の自立で軽くなる場合にも同じように使われる、かなり広い言葉だ。役職定年で起きていることは、それよりもう少し狭く、もう少し社内政治的な出来事でもある。奪われるのは「働くこと」ではなく、「社内という一つの小さな社会の中で、自分がどの集団に属する人間として扱われるか」という位置づけそのものだからだ。この記事では、その位置づけの喪失という一点に絞って考えてみたい。

自己評価は、集団の中の自分の位置でできている

心理学者タジフェルとターナーが1970年代に練り上げ、1979年にまとめた社会的アイデンティティ理論は、人の自己概念の一部が、自分がどの社会集団に属しているかという事実と、その集団がどれだけ価値あるものとして周囲から評価されているかによって形作られる、と説明する。人は単に「自分はどういう性格か」という個人的な物差しだけで自分を測っているのではない。「自分はどの集団の一員か」「その集団は他の集団と比べてどう位置づけられているか」という、いわば所属による物差しも同時に使っている。この理論の出発点にあったのは、タジフェルらの最小条件集団の実験で見つかった、なぜ人は些細な基準で分けられた集団に対してさえ贔屓意識を持ってしまうのか、という実験室的な現象だった。だが、その射程は会社組織にもそのまま伸びる。

会社における「管理職」という区分は、単なる職務分担の都合ではない。給与テーブルが違い、呼ばれ方が違い、会議室の座る位置が違う。つまり社内という小さな社会の中で、目に見える形で線を引かれた集団区分になっている。管理職であるという事実そのものが、その人の自己評価の一部を静かに支えていたのだとすれば、役職定年はその区分から外へ押し出されることを意味する。仕事の中身が保たれていても、社内の中でどのカテゴリーの人間として扱われるかという座標そのものが動く。書類上は小さな異動に見えて、本人の内側では所属集団の切り替えという、もっと大きな出来事として経験されてもおかしくない。

ただし、この理論を会社組織にそのまま輸入することには、一つ留保が要る。タジフェルらが最初に確かめたのは、被験者には些細な基準で分けたと告げられただけの、利害も歴史も持たない集団に対してすら、人が贔屓意識を持ってしまうという、いわば理論の最小構成の実験だった。数十年勤めた会社の中の役職という、給与・人間関係・自尊心が幾重にも絡んだ現実の集団区分は、その最小構成よりはるかに濃密だ。理論が実験室で示した効果が、これほど濃密な現実の場面でどこまで同じ強さで働くのかは、厳密には別の検証を要する話であって、理論の名前を借りて起きていることのすべてを説明できるわけではない。それでも、線引きの些細さだけであれだけの効果が出るのであれば、給与も肩書きも人間関係も懸かった線引きが、それ以下の効果しか持たないと考える理由は見当たらないが、これはあくまで推測である。

戻れない、変わらない、正当かどうかは割れる

社会的アイデンティティ理論がもう一段面白いのは、地位を失った人間がどう反応するかについても、いくつかの型を示している点だ。理論の整理によれば、反応の分かれ道は主に三つの条件で決まる、とされる。ひとつは、低い側の集団から高い側の集団へ個人として移動する余地がどれだけ開かれているか(透過性)。もうひとつは、その地位の差が今後も変わらないものとして見えるか、それとも近く変わりうるものとして見えるか(安定性)。最後のひとつは、その地位の差が正当な基準にもとづくものだと感じられるか、それとも不当なものだと感じられるか(正当性)。境界が開いていれば、人は個人として上の集団へ移ろうとする。境界が閉じていて、しかも差が不当かつ不安定だと感じられれば、人は集団として異議を唱えようとする。境界が閉じていて、集団としての地位の差を変えにくいと感じられる場合には、直接的な異議申し立てではなく、比較の基準そのものを引っ越すという、もう一つの道(社会的創造性)を選びやすくなる、と整理される。ただしこの対応は後年の整理で、理論そのものはこの点にいくらか曖昧さを残している。

役職定年という制度を、この三つの条件に照らして眺めると、少し据わりの悪い組み合わせになっていることに気づく。まず個人として元の役職に戻る道は、多くの場合、閉じているように見える(この点を直接示す資料は見つけられていない)。次に、管理職とそれ以外という区分そのものが、近く変わるとは感じにくいだろう。最後の正当性についてだけは、判断が割れる。年齢という一律の基準で線を引く制度は、能力や実績とは無関係に運用される点で「不当だ」と感じられる余地を残しながら、同時に「全員が同じ年齢で同じように外れる」という平等さゆえに、「これは自分だけへの仕打ちではない」という意味では正当だとも感じられる、奇妙な二重性を持っている。透過性が閉じ、安定性が高く、正当性の評価だけが揺れている——この組み合わせのもとでは、集団としての異議申し立てより、比較の基準そのものを移す方向に多くの人が流れやすいのではないか、というのが筆者の読みだ。理論は、正当性の評価が割れている場合について、はっきりした予測を持っていない。役職定年の制度に大きな異議が出にくい理由があるとすれば、この三条件の組み合わせもその一つかもしれないが、異議の有無を示す資料は見つけられていない。

心理学者エルメルスらが1993年に発表した研究は、この三つの条件を実験で組み合わせて、人の反応がどう変わるかを調べている。低い地位の集団に割り当てられた参加者について、その地位が正当だと伝えられるか、不当だと伝えられるかを変えたところ、上の集団へ移ろうとする行動も、集団として地位を上げようとする行動も、主に境界の開きやすさと状況の安定性で決まり、正当性では決まらなかった。正当性が影響したのは、地位の受け入れやすさや怒り、集団への同一視だった。集団ごと不当に扱われた条件では、同一視はむしろ強まった。比較の基準を変えたいかという問いは、正当だと伝えられた条件でいちばん高かったが、これは1問の質問で測ったもので、その後の心の安定までは追っていない。また、ここでの「正当」は、実際に成績が劣っていた場合を指す。年齢で一律に線を引く制度が「正当」と受け止められるかは、この研究から言えることではない。「制度だから仕方ない」という受け止め方が、比較の軸を移す適応行動の入り口になっているかどうかは、筆者の想像にとどまる。この受け止め方には、見落とされやすい代償もある。「全員が平等に経験する制度上の出来事」として片づけてしまうと、その喪失は個人の物語として言語化される機会を失いやすい。誰にでも起きることだから語るまでもない、という扱いは、実際にはその人固有の重さを持つ経験を、統計的な一事例へと縮小してしまう。平等であることは、必ずしも軽いことを意味しない。

肩書きの喪失は、比喩以上の痛みなのか

ここで、この喪失感を「気の持ちよう」の問題として片づけたくなる誘惑にも触れておきたい。心理学者アイゼンバーガーらが2003年にサイエンス誌に発表したfMRI研究は、コンピューター上のボール投げゲームでわざと仲間外れにされた被験者の脳を撮影し、社会的な拒絶を経験しているときに、身体的な痛みの不快感に関わる領域として知られる前帯状皮質背側部が活性化することを確認した。この領域の活動は、本人が申告する社会的なつらさの強さと相関していたという。著者らは、社会的な拒絶が身体的な痛みと近い回路で処理されている可能性を示唆した。ただし、同じ領域は痛み以外の場面でも活動するため、活動の重なりから痛みと同じ処理だと言い切ることはできない。後続の研究では、活動のパターンを比べると痛みと社会的な拒絶は区別できた、という報告もある(Woo ら 2014)。ボール投げゲームで仲間外れにされることと、役職定年で肩書きを失うことは、規模も意味合いも大きく違う。肩書きが外れて感じる「痛い」という言い回しを神経科学が裏づけたとまでは言えない。それでも、「たかが肩書きだろう」という周囲の軽い扱いが、当人の体験している実感と大きくずれている可能性は残る。

頂点にいることも、同じくらい高くついていた

地位を失うことが痛みに近い経験なのだとしたら、地位を保ち続けることは無条件に楽なことなのか。動物行動学の分野には、この問いに意外な角度から光を当てる研究がある。神経内分泌学者サポルスキーが1990年に発表した、ケニアの野生ヒヒを調べた研究は、序列が安定している時期には、序列の低いオスほど血中コルチゾール——ストレスホルモンの代表格——の濃度が高いことを確認した。ここまでは予想通りだ。サポルスキーの別の研究(1983年、1992年)では、序列争いで安定が崩れた時期に、上位の有利が失われるという結果が報告されている。ただし、不安定な時期に上位の有利が失われるという結果は、次に見る後続の研究では再現されなかった(不安定な時期にはどの順位でも値がやや高く、順位による差の形は変わらなかった)。

さらに踏み込んだ知見もある。生態学者ゲスキエールらが2011年にサイエンス誌に発表した、ケニアのアンボセリの5つの群れで9年間、オス125頭を調べた研究は、頂点に立つアルファ雄のグルココルチコイド(ストレスに関わるホルモン)が、9〜14位の個体と同じくらいの水準で、2〜8位の個体より高いことを確認した。アルファはベータより小競り合いが17%多く、メスに付き添って守る時間が29%長かった。著者らは、この高さを、心理的なものというより、おそらく主に体力面のコストだと見ている。この研究は、序列が不安定な時期に上位だけが特に不利になるという仮説も検証したが、支持されなかった。アルファとベータの差も、安定した時期と不安定な時期で変わらなかった。頂点であり続けることには、地位を守るための見えにくいコストが張り付いているらしい。

サポルスキーとレイらの研究(1989年、1990年、1992年)は、上位のオスのあいだでもコルチゾール濃度に個体差が大きいことを報告しており、その差と関連する行動上の特徴として、毛づくろいなどの親和的な関係をもつか、勝ち負けを見分けて負けたら第三者に攻撃を向け替えるか、本当に脅威となる動きを見分けて自分から仕掛けるか、といった点を挙げている。序列という数字だけでは、その個体が実際にどれだけのストレスを抱えているかは決まらない。この観察は相関であり、振る舞いが原因だと示したわけではない。これを人間の側に置き換えるなら、役職を外れたという事実そのものより、外れたあとに周囲とどう関わり続けるかのほうが、その人の抱えるストレスの実際の大きさと関わっているのかもしれない、という程度の読みになる。

これをそのまま人間の会社組織に当てはめるのは、いくらか乱暴だとしても、示唆として受け取る価値はある。役職を外れることは、社内での位置づけを失うという意味で痛みを伴う出来事だが、それと同時に、その位置を守り続けるために必要だった緊張——部下からの評価に神経を使い、上からの評価に神経を使い、いつ誰に追い抜かれるかという警戒を保ち続ける負荷——からの解放でもありうる。ヒヒの場合のコストは主に体力面とされており、人間の心理的な緊張に置き換えるのは筆者の類推だ。地位を失うことの痛みと、地位を守り続けることのコストは、別々の帳簿につけられがちだが、実際には同じ帳簿の両側に並ぶ数字なのかもしれない。役職を外れた直後の消耗感の陰で、それまで気づかないほど日常化していた緊張が静かに抜けていくという経験をしている人もいるだろう。

キャリアに賭けていた度合いと、痛みの大きさ

ここまでは地位の喪失そのものが持つ性質の話だった。だが同じ喪失でも、受け止め方には明確な個人差がある。心理学者マッキー=ライアンらが2005年に発表した失業と心理的健康に関するメタ分析は、104の研究(437の効果量)を整理し、失業中の人の心の健康と関連する要因を五つの領域に分けた。そのうちの「仕事中心性」——自分の自己像の中で仕事がどれだけ大きな割合を占めているか——は、失業中の人の中で、心の健康が低いことと関連していた要因のひとつだ。仕事に自分の大半を賭けてきた人ほど、それを失ったときの落差が大きい、という見方と整合する。ただしこれは失業中の人どうしの相関で、因果までは示していない。

マッキー=ライアンらの整理では、仕事中心性のほかにも、経済的な余裕の有無、失業という出来事をどう解釈するか、実際にどう対処しているか、それまでの経歴や年齢といった要因が並べて検討されている。役職定年の場合、雇用は続き、収入が下がる企業が多いものの、元の75〜99%程度にとどまる例が多いとされる(人事院の2007年の調査)。経済的な余裕という緩衝材は、一定程度は効いている場合が多いだろう。早期退職は退職なので、事情が異なる。だとすれば、この移行がもたらす痛みの大きさを左右する変数として、仕事中心性の比重は相対的に高くなるのかもしれない。給与の額面だけを見て「大きな影響はないはずだ」と周囲が判断しがちなのは、この構造を見落としているからかもしれない。ただし失業研究では、経済的な苦しさのほうが仕事中心性より強く心の健康と関連していた(補正後の相関で−0.45と−0.34、共著者の総説による二次情報)。額面だけで判断できない面と、額面も無視できない面の両方がある。

失業そのものの心理的な影響の大きさについては、心理学者パウルとモーザーが2009年に発表したメタ分析が具体的な数字を示している。237の横断研究と87の縦断研究を統合したこの分析では、失業者と就業者を比べたときの心理的な不調の差は、効果量d=0.51(標準化した平均値の差)、心理的な問題を抱える割合は失業者で34パーセント、就業者で16パーセントだったという。役職定年は完全な失業とは違い、給与も雇用も多くの場合続いている。だから、この数字をそのまま当てはめることはできない。同じ分析では、ホワイトカラーはブルーカラーより影響が小さいという調整効果も報告されている。仕事という領域が自己像に占める割合が大きい人ほど、そこでの位置づけの変化が心の健康に響きやすい、という構造が役職の喪失にも当てはまるかどうかは、失業研究からの類推にとどまる。若い頃から仕事の成果と肩書きの上昇でしか自分を測る訓練をしてこなかった人ほど、役職定年の衝撃を大きく受け止めるのかもしれない、という程度の話だ。

ここで留保をひとつ挟んでおきたい。仕事中心性が高い人ほど衝撃が大きいという関係は、相関として確認されているものであって、仕事中心性そのものが悪いという結論には直結しない。仕事に多くを賭けてきた時期があったからこそ得られたものも当然あり、それは役職を外れた後になっても消えてなくなるわけではない。問題は仕事に賭けてきたことそのものではなく、自己評価の物差しが一本しかないまま、その一本が外部の都合で動かされる瞬間を迎えてしまうことのほうにある。

比較の軸を、こっそり移す

社会的アイデンティティ理論に戻ると、透過性が閉じ、安定性が高く、正当性の評価が割れている状況で人が採りやすいと筆者が読んだのが、比較の基準そのものを移すという方向だった。実際にこれがどんな形を取りうるか、いくつか具体的に置き換えてみる。ひとつは比較する次元を変えることだ。「役職の高さ」という一次元で周囲と自分を測るのをやめ、「特定の業務にどれだけ精通しているか」「若手からどれだけ頼られているか」という、役職とは別の次元に軸足を移す。もうひとつは比較する相手を変えることだ。まだ現役の管理職ではなく、同じように役職を外れた同年代の集団を、自分を測る基準にする。もうひとつは時間軸を変えることだ。今の自分を今の他人と比べるのではなく、十年前の自分と今の自分を比べる。どれも社内での序列という一次元の物差しから、本人が制御しやすい別の物差しへと乗り換える動きである。このうち比較する次元と相手を変えるものは、理論が社会的創造性と呼ぶ型に近い。十年前の自分と比べるのは、理論の外にある筆者の例だ。

この乗り換えを、単なる負け惜しみだと切り捨てるのは簡単だが、それでは説明のつかない部分が残るかもしれない。エルメルスらの研究では、地位の差が正当だと伝えられた条件で、別の基準で比べてほしいという回答がいちばん高かったが、それが心の安定に寄与するかまでは調べられていない。負け惜しみと適応的な意味の再構成は、外から見るとよく似ているが、本人の内側では別の出来事だ。見分ける手がかりがあるとすれば、それは「役職などどうでもよかった」と過去を塗り替えてしまうか、それとも「役職があったことの意味は認めたうえで、今はそれとは別の物差しで自分を測っている」と両方を保持できるかの違いにある。前者は現実の否認に近く、後者のほうが理論の言う社会的創造性に近い。

もうひとつ付け加えておきたいのは、この乗り換えには前提として、あらかじめ複数の物差しを持っておく必要があるという点だ。役職という一本の物差ししか用意してこなかった人が、外れた瞬間に急ごしらえで別の物差しを探し始めても、間に合わないことが多い。乗り換え先の物差し——専門性、人望、家庭での役割、社外での関わり——は、役職が外れる前から並行して育てておいて初めて、いざというときに機能する。役職定年の衝撃が大きい人と小さい人の違いは、性格の強さの差というより、その時点でどれだけの物差しをすでに持っていたかという、準備の差である場合が多いのではないか。

この乗り換えの難易度を、さらに上げる条件がひとつある。役職を外れたあとも、席替えや部署異動を挟まず、以前と同じ職場に居続ける場合だ。かつての部下が上司になり、かつて自分が座っていた席に別の人間が座る様子を、日々目にしながら過ごすことになる。転職や部署異動のように、集団の境界をまたいで完全に外に出るのであれば、比較の相手はもう視界に入らない。だが同じ場所に居続ける場合、比較の対象は消えてくれず、むしろ毎日更新され続ける。理論の言う「比較の軸を移す」という適応が、頭の中では成立していても、目の前の光景が絶えずその軸を役職という古い物差しに引き戻してくる。役職定年制のある大企業(資本金5億円以上・1000人以上、106社)の9割ほどが、役職定年後も定年まで在勤させると答えている(中央労働委員会、2007年、複数回答)。同じ職場に残るかどうかは会社によって違うが、この条件は無視できない重さを持っているかもしれない。

机の位置が変わった日に、変わらなかったものを数える

役職が外れるという出来事は、社内という小さな社会の中での位置づけが動くという意味で、思っている以上に根深い心理的な出来事だ。それは単なる肩書きの問題でも、気の持ちようの問題でもない。集団の中の位置によって自己評価の一部が支えられているのだとすれば、その位置が動いたときに心が揺れるのは、弱さの証拠ではなく、そういう仕組みで人の自己評価ができているという、ただの事実の表れにすぎない。

同時に、この記事で見てきた研究や観察は、いくつかの読み方を示している。頂点であり続けることにも見えないコストが張り付いていたという知見は、地位を失った直後の消耗感の中に、気づかれにくい解放も混じっているかもしれないことを示唆するにとどまる。比較の軸を移すという行動は、理論の上では集団が取りうる反応の一つとして整理されているが、それが個人の心の安定に寄与するかを確かめた研究は、ここでは見つけられていない。そして仕事中心性という考え方は、衝撃の大きさが本人の弱さではなく、それまでにどれだけの物差しを並行して育ててきたかによっても違うのではないか、という筆者の読みを支えるにとどまる。

名刺から一行が消えたあとに残るのは、空白ではなく、それまで一本の物差しの陰に隠れていた、いくつかの別の物差しの存在だ。それに気づくのが役職を外れた後になってしまうのか、それとも外れる前から少しずつ用意しておけるのかで、この移行がどれだけ痛みを伴うかは、かなりの部分まで変わってくるように思う。

もっとも、これは「複数の物差しさえ持っていれば痛みが消える」という話ではない。ヒヒの序列研究が示していたのは、上位のオスのあいだでは、毛づくろいなどの親和的な関係をもつ個体ほどコルチゾール濃度が低い傾向があるということであって、ストレスがゼロになるということではなかった。社会的アイデンティティ理論が説明する比較の軸の移し替えも、痛みを別の形に変える手立てになりうるとしても、痛みそのものをなかったことにする手品ではない。役職が外れるという出来事を、経験しなくて済むように何かを準備することはできない。できることがあるとすれば、その痛みが訪れたときに、それを受け止める場所を一つに絞らずにおくことくらいだろう。地味な話に聞こえるかもしれないが、地位というものの正体が、突き詰めれば集団の中での位置づけという、ごく即物的な座標にすぎないのだとすれば、備えの方法もまた、精神論より先に、この即物的な座標をどれだけ複線化しておけるかという、いくぶん事務的な問題に帰着するのだろう。

出典

  • Tajfel, H., & Turner, J. C. (1979). "An Integrative Theory of Intergroup Conflict." In W. G. Austin & S. Worchel (Eds.), The Social Psychology of Intergroup Relations (pp. 33-47). Brooks/Cole.(本文で確認)
  • Ellemers, N., Wilke, H., & Van Knippenberg, A. (1993). "Effects of the Legitimacy of Low Group or Individual Status on Individual and Collective Status-Enhancement Strategies." Journal of Personality and Social Psychology, 64(5), 766-778.(著者サイトの本文で確認)
  • Tajfel, H., Billig, M. G., Bundy, R. P., & Flament, C. (1971). "Social Categorization and Intergroup Behaviour." European Journal of Social Psychology, 1(2), 149-178.(書誌のみ確認。最小条件集団の最初の実験)
  • Eisenberger, N. I., Lieberman, M. D., & Williams, K. D. (2003). "Does Rejection Hurt? An fMRI Study of Social Exclusion." Science, 302(5643), 290-292.(抄録で確認。本文は有料で未入手)
  • Woo, C.-W., Koban, L., Kross, E., Lindquist, M. A., Banich, M. T., Ruzic, L., Andrews-Hanna, J. R., & Wager, T. D. (2014). "Separate Neural Representations for Physical Pain and Social Rejection." Nature Communications, 5, 5380.(抄録で確認)
  • Sapolsky, R. M. (1990). "Adrenocortical Function, Social Rank, and Personality among Wild Baboons." Biological Psychiatry, 28(10), 862-878.(出版社ページに入れず、本文と抄録は未確認。関連論文の抄録とゲスキエールらの先行研究の紹介で照合)
  • Sapolsky, R. M., & Ray, J. C. (1989). "Styles of Dominance and Their Endocrine Correlates among Wild Olive Baboons (Papio anubis)." American Journal of Primatology, 18(1), 1-13.(抄録で確認)
  • Ray, J. C., & Sapolsky, R. M. (1992). "Styles of Male Social Behavior and Their Endocrine Correlates among High-Ranking Wild Baboons." American Journal of Primatology, 28(4), 231-250.(抄録で確認)
  • Sapolsky, R. M. (1983). "Endocrine Aspects of Social Instability in the Olive Baboon (Papio anubis)." American Journal of Primatology, 5(4), 365-379.(書誌のみ確認)
  • Sapolsky, R. M. (1992). "Cortisol Concentrations and the Social Significance of Rank Instability among Wild Baboons." Psychoneuroendocrinology, 17(6), 701-709.(抄録で確認)
  • Gesquiere, L. R., Learn, N. H., Simao, M. C. M., Onyango, P. O., Alberts, S. C., & Altmann, J. (2011). "Life at the Top: Rank and Stress in Wild Male Baboons." Science, 333(6040), 357-360.(本文で確認)
  • McKee-Ryan, F., Song, Z., Wanberg, C. R., & Kinicki, A. J. (2005). "Psychological and Physical Well-Being During Unemployment: A Meta-Analytic Study." Journal of Applied Psychology, 90(1), 53-76.(抄録と共著者の総説で確認。本文は未入手で、相関の数値は総説による二次情報)
  • Wanberg, C. R. (2012). "The Individual Experience of Unemployment." Annual Review of Psychology, 63, 369-396.(McKee-Ryan ら 2005 の数値を確かめた二次情報)
  • Paul, K. I., & Moser, K. (2009). "Unemployment Impairs Mental Health: Meta-Analyses." Journal of Vocational Behavior, 74(3), 264-282.(抄録で確認。本文は未入手)
  • 人事院「民間企業の勤務条件制度等調査」(2007年)および中央労働委員会「賃金事情等総合調査」(2007年)。役職定年後の年収水準と、定年までの在勤の割合の出どころ(公表資料の表で確認)
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