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ヒューマンウォッチングは当たるのか、数秒の印象と嘘の47%
ヒューマンウォッチング(人間観察)とは何か、辞書での扱いから始めて、数秒の印象が当たる範囲、嘘の見抜きが47%にとどまる研究、見られる側の変化と倫理までを、研究に照らして考える。
カフェの窓際や電車の中で、見知らぬ誰かの仕草をぼんやり眺める人は多い。スマートフォンの画面を消費し続ける代わりに、目の前にいる生身の人間の反応を見ているだけなのだが、これはこれで飽きない時間になるのだろう。たとえば、忙しそうに歩いていた人が急に立ち止まって空を見上げる。店員に小さく会釈してから会計を済ませる。そうした断片には、何の結論もないのに見入ってしまう力がある。誰かの人生の一部始終を知っているわけでもないのに、ほんの数秒の切れ端だけで、勝手にその人の一日や性格を想像し始めてしまう。
ただ、これを「人間観察」という趣味として語ろうとすると、途端に怪しい話になりやすい。相手の靴の様子や視線の動きから、その人の性格や人生観まで読み取れる、という語り口はよく見かけるし、読んでいて面白くはあるのだが、実際にどこまで正しいのかは自分では確かめようがない。想像したことを、さも読み取った事実であるかのように扱ってしまえば、それはもう観察ではなく決めつけだろう。だが厄介なのは、その境界線が実際にはどこにあるのか、心理学の側からもそれほどはっきりした答えが返ってこないという点だ。調べてみると、「見た目や仕草から他人を判断する」という行為そのものは、思っていたより真面目に研究されてきたテーマだった。そして出てきた答えは、単純な「当たる」でも「外れる」でもなかった。
あらかじめ断っておくと、この趣味を心理学の名のもとに正当化したいわけではない。むしろ、正当化できるかどうかを確かめる作業そのものが目的だった。人間観察について書かれたものの多くは、「観察力を磨けば人を見る目が養われる」という方向に議論を進めがちだが、そこで語られる「観察力」の中身が、実際の研究で測られている的中率と同じものを指しているのかどうかは、案外検証されないまま素通りされている。両者が同じものなのか、似て非なるものなのかを見極めるところから始めたい。
ヒューマンウォッチングは、人間観察と同じことなのか
先に、検索で来た人の問いに答えておく。「ヒューマンウォッチング」と「人間ウォッチング」と「人間観察」を、使い分ける定義は、私が当たった辞書や資料には見当たらなかった。この記事では、同じ行為として扱う。街や電車で見知らぬ人の振る舞いを眺め、そこから人柄や事情を思い描く、あの遊びのことだ。
辞書で確かめられるのは、後半の「ウオッチング」までになる。デジタル大辞泉は「観察すること。見張ること」と説明し、用例に「バードウオッチング」と並べて「マンウオッチング」を挙げている。精選版日本国語大辞典も、ある対象に注目して行動や様子を見守ることとして、用例に「マンウォッチング」を置く。どちらもコトバンクに載る項目で確かめた。「ヒューマンウォッチング」「人間ウォッチング」そのものは、同じ場所で引いても見出しになかった。「マンウォッチング」を書名に掲げた本には、動物学者デズモンド・モリスの『Manwatching: A Field Guide to Human Behaviour』がある。ただ、日本語の語がそこから来たと言える資料は、見つけていない。
辞書の語釈は、見るところまでで、読み取るところまでは言っていない。ところが、この遊びが面白いのは、見たものから人柄や事情を読むところにある。この記事が確かめるのは、その「読む」の部分が、どれくらい当たるかだ。
数字をふたつ、先に出しておく。ひとつめは、見知らぬ人の印象の当たり方。Ambady と Rosenthal が1993年に発表した研究では、大学院生のティーチング・フェロー13人の授業を、音声なしの10秒のクリップ3本(計30秒)にして、面識のない学生に評定させた。「自信がありそうか」の評定は学期末の学生評価と0.82、「楽観的か」は0.84で相関した。強い数字だが、13人は、評価の幅が広くなるように選ばれた人たちだった。クリップをさらに削った結果は、次の節に書いた。当たるときは当たる。ただし、何が当たっているのかは、13人からは言い切れない。
ふたつめは、嘘だ。Bond と DePaulo が2006年にまとめた206件の文献(判定者は24,483人)で、人が嘘を嘘と見抜けた割合は47パーセント、本当を本当と判断できた割合は61パーセントだった。嘘と本当を合わせた正答率は54パーセントで、偶然は上回る。嘘だけを見ると50パーセントを下回る。その理由は、後の節で触れる。
見る側が読めることと、読めないこと。その線が、どのあたりに引かれているのか。この先は、そこを順に見ていく。
何秒で、どこまで言い当てられるのか
心理学者のアンバディとローゼンタールが1993年に発表した研究は、この趣味を擁護する側からよく引き合いに出される。大学院生のティーチング・フェロー13人の授業風景から10秒間のクリップを音声なしで切り出し、面識のない学生に見せて、その教員の「有能さ」や「熱意」といった項目を評定させた。比較の対象は、学期末に実際にその教員の授業を受けた学生たちがつけた評価である。結果として、10秒のクリップ3本(計30秒)から受けた印象は、学期末に学生がつけた評価とかなり強く一致した。「自信がありそうか」という項目では相関係数が0.82、「楽観的に見えるか」では0.84に達している。さらに研究チームは、長いクリップから無作為に切り出して、5秒、2秒のクリップを3本ずつ(2秒なら計6秒)作った。総合評価の相関は、大学院生のティーチング・フェローでは30秒で0.76、2秒で0.71。高校教員13人は基準が校長の評価で、2秒では0.31にとどまり、有意ではなかった。クリップの長さによる差そのものは有意でなく、各13人の研究なので、落ちたとも落ちなかったとも言い切れない。見知らぬ相手を数秒見ただけの印象が、少なくとも大学院生のティーチング・フェローでは、一学期授業を受けた学生の評価とかなりの部分で重なる。これが「シンスライシング(薄切り観察)」と呼ばれる現象の代表例である。しかも研究チームは、この結果が単に見た目の魅力に引っ張られているだけではないかという疑いにも一応の手当てをしている。別の判定者に静止画1枚だけを見せて魅力度を評定させ、統計的にその影響を除いてもなお、有意な相関は残ったという。
同じ研究チームは2002年に、もう少し実際的な場面でも同様の検証を行っている。57人の外科医と患者114人との会話を録音し、そこから10秒間の音声を2本ずつ切り出した上で、単語が聞き取れなくなるまで周波数を加工し、話の内容ではなく声の調子だけが伝わるようにした。この加工済みの音声を聞かせて、声が「支配的」と評定された外科医ほど、過去に2回以上の請求を受けた側に入りやすかった(「支配的」の評定が1段階上がるごとに、オッズがおよそ2.7倍)。「気づかいや不安」が声に乏しいことも、境界線上で同じ向きに関連していた。話している内容を除いてもなお、声の調子だけで差が出た。会話の中身ではなく、声のトーンという表面的な手がかりだけから、訴訟歴と関連する差が見えてしまったことになる。
ここまでなら、人間観察という趣味には確かな裏付けがあるという話で終わりそうになる。だがこの結果を単純に一般化してよいかというと、そうでもない。この種の研究をまとめた1992年のメタ分析では、38の結果を通した効果量は0.39程度で、観察時間を30秒未満から5分まで変えても精度に有意な差は出なかったと報告されている。0.39という数字は、偶然とははっきり区別できる相関ではあるが、完全に読めると言うには遠い。
読み取りやすい性質と、読み取れない性質
しかも、この的中率は判断する特性によって大きく揺れる。研究者ファンダーが提唱した「現実的正確性モデル」という枠組みでは、正確な判断が成立するには「良い判断者」「良い対象」「良い特性」「良い情報」という四つの条件がそろう必要があるとされる。要するに、判断される側がその特性を実際に行動に表していて、その手がかりが観察者の前に現れていて、観察者がそれを見逃さず、しかも正しく解釈できて初めて、判断は当たる。観察者の判断精度を特性ごとにまとめたコネリーとオーンズによる2010年のメタ分析では、外向性と誠実性(几帳面さ)は全体として精度が高く、協調性と情緒安定性は、面識の浅い観察者のもとではほとんど的中しないという傾向が出ている。ただし初対面の相手について目立って当たるのは外向性くらいで、几帳面さの的中も高くはない。外向的かどうかは、仕草や身なりに現れやすく、他人にも見抜かれやすい。一方で、その人がどれだけ人に優しいか、どれだけ心を開いているかは、初対面の観察からはほとんど読み取れない。情緒の安定は表に出にくく、人当たりのよさは見る側の好みに判断が引っ張られやすい、と論文は説明している。
これはよく考えると皮肉な結果だ。人間観察という趣味が本当に見たがっているのは、たいてい読み取れない側、つまり誰かの人柄や内面の性質のほうである。レジで会計を待つ人のカゴの中身からその人の一日を想像するとき、頭の中で組み立てているのは「この人は優しそうだ」「この人は人当たりがよさそうだ」といった、まさに研究上もっとも読み取りにくいとされる部類の判断だ。観察の対象として得意な分野と、観察者が本当に知りたい分野は、ずれている。しかも、見知らぬ相手と顔を合わせる回数が増えたからといって、精度が大きく上がるとは限らない。コネリーとオーンズのメタ分析では、精度が大きく上がるのは家族や友人のように親しくなってからで、とくに情緒安定性のような表に出にくい特性で伸びが大きかった。長く同じ場にいれば相手が見えてくる、という感覚は、回数と親しさを取り違えているのかもしれない。
人間観察の定番の遊びの一つに、見知らぬ二人連れを見て「あれは初デートだろうか、それとも長い付き合いなのか」と推測するというものがある。この種の判断についても、実は検証されている。2022年に発表された研究では、第三者の観察者に、実際のスピードデートの映像の一部を見せて、当人同士が互いに関心を持っているかどうかを当てさせている。結果は三つの実験を通じて一貫していて、観察者の的中率はおおむね偶然と変わらない水準にとどまった。映像の長さを変えても、会話の始まりと途中のどちらの場面を見せても、精度は上がらなかったという。唯一、映っている人が実際に相手に関心を持っていた場合には、三つの実験を通じて当たりやすかった(実験2では56パーセント対44パーセント)。ただし、関心がない映像では44パーセントと偶然を下回っていて、観察者がそもそも「関心あり」と答えがちだったせいかもしれない、と著者ら自身が断っている。誰かの表情や有能さを言い当てる力と、二人の間に流れている感情を読み取る力は、同じ「人を見る目」という言葉でくくられていても、どうやら別物らしい。カフェでカップルらしき二人を見つけて勝手に物語を組み立てるとき、その物語の的中率は、こちらが思っているよりずっと低い。教員の有能さや外科医の訴訟歴という、本人が意識せず滲ませている表面的な特徴を読み取る力と、二人の関係という、当人たちですら言葉にしにくい何かを読み取る力とでは、求められている情報の種類そのものが違うのかもしれない。
嘘は本当に顔に出るのか
人間観察の楽しみの一部は、「この人は何かを隠しているのではないか」という勘繰りにもある。目が泳いでいる、口元だけ笑っている、そうした一瞬の表情の乱れから相手の本心を見抜けるという話は、心理学者エクマンの「微表情」研究以来、広く流布してきた。だがこの分野を大規模に検証した研究の結論は、かなり素っ気ない。ボンドとデポーロが2006年に発表したメタ分析は、206件の文献、24483人の判定者のデータを統合したもので、人が他人の発言を「嘘」か「本当」か判定した正答率は平均54パーセントだったと報告している。統計的には偶然の50パーセントを有意に上回ってはいるものの、体感できるほどの差ではない。しかも嘘を嘘だと見抜けた割合は47パーセントにとどまり、本当のことを本当だと見抜けた割合の61パーセントより低かった。人は総じて、相手の言うことを信じる方向に偏っている。
微表情そのものについても、実際に観察された頻度はごくわずかだという報告がある。ポーターとテン・ブリンケが2008年に行った研究では、微表情が現れたのは撮影した表情全体のわずか2パーセントで、しかも被験者の22パーセントにしか見られなかった。のちの別の研究(テン・ブリンケとポーター、2012年)では、行方不明の家族の帰りを公に訴えた人たちの映像で、微表情は本当の訴えにも嘘の訴えにもほぼ同じくらいまれにしか現れなかった、という紹介がある。ヴレイ、グランハーグ、ポーターが2010年にまとめたレビューでは、感情の動きだけから嘘という行為そのものを推測すること自体に無理があるという指摘も出ている。緊張や動揺は嘘をついている者だけでなく、疑われることを恐れる正直な者にも同じように表れうるからだ。感情が顔に出ることと、その感情の裏に嘘があることは、別の話なのである。それでも微表情にもとづく訓練プログラムは、空港の保安検査など実際の現場に導入された例があり、米国会計検査院は2013年の報告で、その有効性に疑問を呈している。実験室でも、訓練ツール(METT)は嘘の見抜きを改善しなかったという報告がある。理論そのものへの疑いが、現場での運用にまで先回りされないまま広まってしまう、という経路は、専門家の間の話に限らない。人間観察の中でも「嘘を見抜く」という響きは特別に魅力的だが、その魅力に見合うだけの根拠は、今のところ用意されていない。
見られている側は、そのままではいない
もう一つ見落としやすい要素がある。観察されている当人が、観察されていることに気づいた瞬間、その人はもう「観察前」の状態ではなくなるという問題だ。これは「観察者効果」あるいは「反応性」と呼ばれる現象で、しばしば「ホーソン効果」という名前でも語られる。1920年代にアメリカの工場で行われた照明実験にちなむ呼び名だが、実はこの元祖にあたる研究そのものについては、後年の再検証でかなり疑問符がついている。経済学者のレヴィットとリストが2011年に当時の記録をあらためて掘り起こしたところ、通説として語られてきた劇的なデータの型は記録には見当たらず、より目立たない形で、ホーソン効果らしきものが見られた程度だったという。観察されるだけで人の行動ががらりと変わる、という話は、教科書的な逸話としては広まりすぎている面がある。
ただし、観察されることで行動が変わるという現象そのものが幻だったわけではない。医療現場での手指衛生を対象にした2018年の研究では、公然と観察されている場合の遵守率がおよそ78パーセントだったのに対し、隠れて観察した場合には55パーセントにとどまったと報告されている。差は23ポイントにのぼる。しかもこの差は一律ではなく、看護師では30ポイント、医師では11ポイントと職種によって開きがあり、外来のような場では41ポイント、集中治療室では11ポイントと、現場によっても大きく違っていた。見られているかどうかで人の振る舞いがどれだけ変わるかは、一律の法則というより、状況ごとに大きさの違う効果として存在している。
この二つの研究を並べると、人間観察という趣味の足元が少し揺らいで見えてくる。カフェで見知らぬ誰かを観察するとき、その相手はこちらの視線に気づいていないことがほとんどだろうから、行動が変わる余地は小さいはずだ。だがもし相手が「見られている」と感じた瞬間、そこで見えているものはもう素の姿ではなく、見られていることを踏まえた振る舞いに変わっている。人間観察が対象にしているのは、常に「観察されていないときの、その人そのもの」とは限らない。見ている自分の存在自体が、見ている対象を多少なりとも作り変えてしまっている可能性がある。それを踏まえると、観察から得られる手応えのようなものは、対象の素顔を捉えた確信というより、対象と観察者のあいだで生まれた、その場限りの相互作用の産物に近いのかもしれない。そう考えると、電車で誰かをちらちら見たとき、相手がふと姿勢を正したり、鞄を持ち直したりしたとして、それも単なる偶然ではなく、こちらの視線に対する反応だった可能性がある。観察者は透明な存在のつもりでいても、たいていはそうなれていない。
公共の場に、なお残っている境界線
もう一つ考えたいのは、そもそも見知らぬ人を眺めるという行為そのものの是非である。人間観察と監視の違いは、対象をコントロールしようとしているかどうかだ、という整理をよく見かける。それはそうなのだろうが、実際には、この境界はさほど明確ではない。ワシントン大学のフリードマンらは、公共の広場に設置したハイビジョンカメラの映像を別室のオフィスでリアルタイムに映し出すという設備を対象に、二つの調査を行っている。一つは広場を通りかかった750人への調査、もう一つはオフィス側で映像を見る立場の人と、広場で見られる立場の人の双方、合わせて120人への聞き取りである。その報告によれば、多くの参加者は公共の場であっても、なお一定のプライバシーが守られるべきだと考えていた。判断の根拠になっていたのは、身体的な害の有無だけでなく、心理的な負担や、本人の同意の有無といった観点だったという。女性のほうが男性より、この種の監視に懸念を示す割合が高かったという結果も出ている。つまり「公共の場だから見られて当然」という単純な理屈は、当の人々の感覚とは食い違っている。カメラという機械を介した観察と、人間の目による観察とでは条件が違うという反論もあり得るが、見られている側が意識するかどうかという一点に絞れば、両者はそれほど遠くない。
哲学の側からこの問題を整理した論者もいる。監視倫理を扱ったマックニッシュの整理では、街中の監視カメラのように不特定多数を無差別に映す仕組みは、帰結主義的な理屈とかなり相性がよいとされる。見られている人の大半は何も悪いことをしていないが、その中に紛れているごく少数の不正を見つけ出せるという利益が、全員を見るコストを正当化してしまう、という理屈である。この理屈自体は筋が通っていて、正面から崩すのは意外に難しい。だが人間観察という趣味には、そもそもこの帰結主義的な言い訳すら成り立たない。誰かを眺めることで不正が見つかるわけでも、事故が防げるわけでもなく、得をするのは観察者の好奇心だけだからだ。監視カメラよりも弱い立場でありながら、監視カメラと同じ非対称さを抱えているという点で、人間観察は倫理的にかえって分が悪いのかもしれない。
この結果は、こちらが何もせず、ただ眺めているだけであっても居心地の悪さと無縁ではいられないことを示している。カメラを設置しているわけでも、記録を取っているわけでもない。それでも、見る側と見られる側のあいだには、見る側だけが情報を得て見られる側は気づかないという非対称な関係が生まれている。この非対称さ自体を完全になくすことは、たぶんできない。見る側が視線を意識的に自制したところで、見られる側がそれを知る術はなく、非対称さの存在そのものが消えるわけではないからだ。それでも、対象を実在の個人としてではなく、自分の頭の中の物語の素材として消費してしまわないよう気をつけることはできる。見かけた誰かを主人公に短い空想を広げるのは楽しいが、それはあくまで自分の中の空想であって、観察した「事実」ではないという線引きを、忘れないでおきたいと思う。的中率が低いという統計的な事実は、この線引きを裏づける材料でもある。当たっていないかもしれない推測を、当たっているかのように扱う権利は、誰にもない。統計的な裏付けの薄さと、倫理的な遠慮深さは、この趣味においては同じ一つの態度として同居しうる。
自分だけは見透かせているという感覚
ここまで並べた数字を見せられても、それでも「自分の観察眼は別だ」という感覚はなかなか消えない。これも実はよく調べられている。心理学者プロニンらが2001年に発表した一連の研究では、人は総じて「自分は他人を、その他人が自分を理解している以上によく理解している」と感じる傾向があることが示されている。理由として挙げられているのは、他人については表に出た行動や言葉から判断すれば十分だと考えるのに対し、自分自身については、行動の奥にある思考や感情までを含めて初めて本当に理解したことになると考える、という非対称な基準の置き方だった。つまり、他人を判断するときの自分は採点基準を甘くし、自分を判断する他人に対しては基準を厳しくする。この非対称さは特定の性格の人だけに起きる例外ではなく、複数の実験にわたって繰り返し確認されている、かなり一般的な傾向だとされる。この構造がある限り、いくら「他人の性格を言い当てる精度は高くない」という結果を並べられても、自分の目で見た今回の判断だけは例外だと思い込む余地は、いくらでも残ってしまう。人間観察という趣味を続けていて手応えを感じるとき、その手応えの出所は、実際の的中率よりも、この錯覚の側にある可能性が高い。
眺めることが鍛えているのは、たぶん逆向きの何かだ
ここまで見てきた研究をまとめると、人間観察という趣味は、思ったよりは根拠があり、思ったよりは頼りない。見知らぬ相手の性格を数秒で言い当てる力は、確かに統計的には存在する。だがそれは外向性のような、表面に出やすい特性に限られていて、優しさや情緒の安定、あるいは二人の間の感情の機微といった、こちらが本当に知りたがっている性質にはほとんど届かない。しかも観察している間、相手は完全に「素のまま」でいるとは限らず、見られているという事実そのものが行動を変える余地を残している。そのうえ、対象が公共の場にいるからといって、見る側の視線が無条件に許されているわけでもない。
だとすると、この趣味が実際に鍛えているのは、他人を正確に読み解く能力というより、むしろ自分がどれだけ勝手な物語を他人に投影しがちか、という自己観察の力の方なのだろう。誰かの仕草から性格を推測するとき、その推測の大半は当たりにくい協調性や情緒の安定についての当てずっぽうであり、しかもその推測は、見られている相手をわずかに変えてしまった後の姿にもとづいている。それでもなお目を離せないのは、当たる当たらないという勝負とは別のところで、この行為が成立しているからかもしれない。
電車の中で誰かを観察している人もまた、車両のどこかで誰かに観察されている側かもしれない、ということにも、思い当たる。観察する人がこしらえた物語の主人公にされている誰かがいるように、観察する人自身もまた別の誰かの頭の中で、根拠の乏しい役柄を割り振られている。観察する側とされる側という関係は、一つの車両の中で絶えず入れ替わっていて、どちらか一方に固定されているわけではない。そう考えると、人間観察という行為には最初から見返りを期待するような一方向の構造はなく、たまたまその瞬間、見る側に回っているというだけの、対称な現象なのかもしれない。
人間観察の醍醐味は、他人の内面を見抜くことにあるのではなく、見抜けなさそのものを何度も確認する作業にあるのかもしれない。眺めるたびに手に入るのは答えではなく、次に眺めるときの慎重さの方だ。
出典
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