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趣味とは何か——「鏡」という言い方を、実験の細部で疑う

趣味とは何か——「鏡」という言い方を、実験の細部で疑う

趣味には承認欲求や嫉妬が映る、とはよく言われる。だが同じ賞状でも、予告された子どもだけが絵を描かなくなり、不意にもらった子どもは変わらなかった。趣味を「鏡」にたとえる言い方がどこまで通用するのか、実験の細部から確かめてみる。

TOMOAKI··趣味

1. 趣味とは「キラキラしたもの」だけではない

私たちは幼い頃から、「趣味を持ちなさい」と言われて育つ。趣味は人生を豊かにし、心を癒やし、自分を成長させてくれる――そんな「光」の部分ばかりが強調されてきた。

しかし、現実はどうだろうか。SNSを開けば、高価なキャンプギアを並べる人、洗練された食事の写真を「趣味の記録」として上げ続ける人、そしてそれを見て焦燥感や嫉妬を覚える自分がいる。

「趣味を楽しんでいるはずなのに、どこか疲れている」「他人と比べて、自分の趣味がちっぽけに思えてしまう」。もしそんな違和感を抱いたことがあるなら、それは趣味の別の側面に触れているということかもしれない。趣味とは、単なる気晴らしではなく、私たちの欲望や弱さ、目を背けたくなるような部分までもが映り込む、人間らしさの鏡でもある。

この記事では、その「鏡」という言い方を、一度疑ってみる。鏡は映すだけで、何が映っているのかを教えてはくれない。趣味に承認欲求や嫉妬が映る、という話は、直感的にはすぐに頷ける。頷けてしまうぶん、どこまでが確かめられた話で、どこからが気の利いた言い回しなのかを、分けておきたくなった。


2. 趣味と仕事の境界線――なぜ私たちは「見栄」のために没頭するのか

「仕事は義務、趣味は自由」という単純化

よく言われる「仕事はお金を稼ぐための義務、趣味は自分を解放するための自由な時間」という二分法。だが実際には、両者にそこまで明確な線引きがあるとは思えない。

仕事であれ趣味であれ、人を動かす動機の少なくない部分に「自己実現」や「承認欲求」があるのは、おそらく珍しいことではないだろう。仕事でプロジェクトを成功させ、周囲から認められたい。その欲求は、趣味の分野でスキルを習得し、SNSで反応を得たいという欲求と、根っこの部分でかなり重なっている気がする。

この二分法の「趣味は気楽なもの」という側には、社会学者のロバート・ステビンズが早くから留保をつけていた。1982年の論文で彼が提唱した「真剣な余暇(serious leisure)」は、後年の著書の定義では、アマチュアや趣味人、ボランティアの活動のうち、そこにキャリアを見いだせるほど体系的に打ち込まれるものを指す。特徴の一つに、粘り強さがある。困難にぶつかっても続ける、という性質だ。つまり、趣味が苦しくなる時期は、この考え方では、最初から想定の内側にある。

では、報酬が入ると、趣味は仕事に変わってしまうのか。この問いには、半世紀前の古典的な実験がある。

スタンフォード大学の付属幼稚園で、マーカーで絵を描くのが好きな3歳から5歳ほどの子どもたちを、三つの組に分けた。一つの組には、賞状がもらえると先に伝えて描かせた。もう一つの組には何も言わずに描かせた。残る一つの組には、描き終わったあとで、不意に同じ賞状を渡した。一、二週間後、教室の自由時間にマーカーが置かれたとき、子どもたちがそれで遊んだ時間の割合は、賞状を予告された組で8.6パーセント、何も受け取らなかった組で16.7パーセント、不意に賞状をもらった組で18.1パーセントだった。最終的に解析に残ったのは51人である。

効いたのは、賞状そのものではなく、予告だった。同じ賞状を同じようにもらっても、不意打ちだった子どもは、何ももらわなかった子どもと変わらない。もらうために描いた子どもだけが、他の二組の半分ほどにとどまった。描いた絵の質まで、五点満点の評定で2.18と、他の二組(何も受け取らなかった組が2.69、不意にもらった組が2.85)より低かった。

賞状を予告された子どもがその後の自由時間にマーカーで遊んだ割合は8.6パーセントで、何も受け取らなかった子ども(16.7パーセント)や、不意に賞状をもらった子ども(18.1パーセント)の約半分だった、という横棒グラフ。

好きで毎週やっていた皿洗いに、ある日から時給がつく。やることは何も変わらないのに、翌月から少しだけ重くなる。そういう感触に近いのかもしれない。

皿洗いは、たとえにすぎない。この実験で配られたのは、お金ではなく賞状で、お金や仕事そのものについては、何も測っていない。

この話は、「報酬は意欲を殺す」という標語になって広まる途中で、だいぶ荒くなった。1999年にデシらが128件の実験をまとめたメタ分析では、もともと面白い課題に限って、自由時間の行動で見ると、報酬全体の効果量は-0.24で、低下はするものの、大きくはなかった。自己申告の「面白さ」では差が見つからず(0.04)、予告なしの物の報酬でも、影響は見つからなかった(0.01)。予告された物の報酬に限ると、-0.36と、もう少し大きい。ほめ言葉はむしろ関心を高めた(0.33。ただし子どもに限ると有意ではない)。反対の立場のキャメロンとピアースは、同じ分野の別のメタ分析で、否定的な効果は限られると結論づけた。デシらは、両者の違いを、退屈な課題や対照群のない研究を混ぜて扱ったかどうかといった、分析の方法の違いに求めている。争点は「あるかないか」から、「どの報酬が、どんな課題に、どれだけ」へと移っている。

仕事と趣味を分けるものがあるとすれば、報酬の有無というより、報酬が「予告された見返り」として活動の中に入り込んでいるかどうか、なのだろう。

SNSが暴いた「趣味という名のステージ」

かつて趣味は、自室や人知れぬ場所で楽しむ極めて個人的なものだった。しかし、デジタル時代の到来によって、趣味は「他者に見せるためのパフォーマンス」の側面を帯びるようになった。

  • 「私って素敵でしょ?」という無言の叫び: 丁寧に盛り付けられた朝食、プロ顔負けの機材で撮られた写真。それらは純粋な感動の記録であると同時に、「これを楽しめる余裕とセンスがある自分」を演出するための小道具にもなり得る。
  • 承認の麻薬: 投稿に対する反応が少ないと、せっかくの趣味の時間が「無駄」だったかのように感じてしまう。もしそんな感覚があるのなら、その趣味はすでに、他人の評価にある程度支配されているのかもしれない。

これは仕事における「出世」や「評価」と似た構造だ。趣味であれ仕事であれ、私たちは他者の目を意識しながら、自分を飾り立てようとする瞬間がある。

ところで、この舞台の客席には、実際にどれだけの人が座っているのだろう。

2000年に報告された実験で、コーネル大学の学生に、歌手バリー・マニロウの顔がプリントされたTシャツを着せた。学生の多くが着たがらない柄だと、事前に確かめてある。そのまま、すでに数人が座っている部屋に入ってもらい、出てきた学生に「何人が、このTシャツの人物を言い当てただろう」と推定してもらった。平均は46パーセント。実際に言い当てた人は、23パーセントだった。

好感の持てる柄(ボブ・マーリーなど)に替えても、推定は48パーセントで、実際は8パーセントだった。最初の実験では、ビデオで同じ場面を見た第三者は、本人より低く見積もっている。他人の観察力を買いかぶっているのではなく、自分が着ているときにだけ、視線の数が膨らむ。しかも、膨らみ方は時間で変わる。別の大学での実験では、Tシャツを着てすぐに部屋へ入った学生の推定は51パーセント、15分ほど慣れる時間を置いてから入った学生は37パーセントだった。Tシャツは同じである。

Tシャツを着た本人が推定した「人物を言い当てた人の割合」と、実際の割合を比べた横棒グラフ。多くの学生が着たがらない柄では推定46パーセントに対して実際は23パーセント、好感の持てる柄では推定48パーセントに対して実際は8パーセント。

念のため断っておくと、この実験が測ったのは実験室でのTシャツの記憶であって、SNSの投稿ではない。当てはめるのは、私の推測にすぎない。着る側の人数も15人前後と小さく、独立した研究者による直接の再現は、私は見つけられなかった。それでも、自分の「見られている」という感覚を、少し割り引いて聞いておく理由にはなる。

SNSの側から測った研究もある。ペンシルベニア大学の学生143人を二つの群に分け、一方に、FacebookとInstagramとSnapchatの使用を、アプリごとに1日10分までに制限してもらった。3週間後、孤独感は制限した群のほうが低かった。抑うつが大きく下がったのは、もともと抑うつの得点が高かった学生で、制限した群では23点が14.5点になっている。同じように高かった学生でも、制限しなかった群は、22.8点から22.83点で、ほとんど動かない。もともと低かった学生は、制限した群で5.1点が4.1点と、統計の上では下がったが、動いたのは1点にすぎない。さらに、制限しなかった群でも、取り残される不安(FOMO)と不安は下がった。自分の使用時間を記録し続けたこと自体で下がった可能性を、著者自身が挙げている。1か月後の追跡は、データが残ったのが21パーセントにとどまり、著者は解析を見送っている。

これは趣味ではなく、SNSの使用量の研究である。しかも、測られたのは承認欲求ではなく、孤独感や気分だった。「承認の麻薬」という言葉は気が利いているが、この実験は、その中身までは測っていない。確かに言えるのは、制限した群で孤独感が低く、もともと沈んでいた人の落ち込みが下がった、という範囲までだ。後者は小さくない幅だった。自分で書いた言い回しに、自分で水をかけておく。


3. 現実逃避としての趣味、そして現実逃避としての仕事

私たちは、何から逃げるために「何かに没頭」するのだろうか。

「ここではないどこか」を求めて

「趣味は現実逃避の手段だ」と言うと、ネガティブな印象を持たれるかもしれない。だが現実逃避には、精神の均衡を保つための防衛としての側面もあるように思う。

仕事のプレッシャー、家庭内の冷え切った空気、あるいは「自分は何者でもない」という空虚感。そうした重苦しい現実から、趣味という別世界に逃げ込むことで、かろうじて自分をつなぎ止めている――そういう瞬間は誰にでもあるだろう。

仕事もまた、巧妙な逃げ場になる

一方で、仕事に没頭することもまた、ひとつの「現実逃避」になり得る。「忙しくて家に帰れない」という言葉の裏に、家族との対話を避ける意図が隠れていることもあるのではないか。個人的な悩みや孤独から目を逸らすために、予定を仕事で埋め尽くす、というのは、決して珍しい話ではない。

趣味も仕事も、「自分がいるべきではない場所からの避難先」という機能を、いくらか共有しているのかもしれない。

ここまで書いて、この節の主張が、検証の側に立つと分が悪い面を持つことに気づく。

社会学者のアーリー・ホックシールドは、1997年の『タイム・バインド』で、これとよく似たことを論じた。ある大企業を三度の夏にわたって観察した研究で、取材記事や後続の研究者の紹介によれば、家庭が締め切りと段取りの場になり、評価され、人間関係も扱いやすい職場のほうが「家」のようになっている、という主張だった。とはいえ、これは一つの会社を中心にした質的な研究だった。その後、労働時間という面では、全国規模のデータで調べられることになる。

ブラウンとブースは、1987〜88年の全国調査(NSFH)から、米国の、子どものいる共働きの既婚者を分析した。ワーキングペーパー版では2,318人で、実際の労働時間は週に平均で約41時間、希望する労働時間は週に約31時間だった(雑誌に載った版の抄録では対象が1,533人とされており、この数値が雑誌版でも同じかは確認できていない)。対象者全体の平均では、希望は実際より10時間ほど少なかったことになる。家庭への不満が長時間労働を増やす、という関連は、ほとんど見つからなかった。一方で、仕事への満足は家庭への満足より、わずかだが統計的には有意に高く、この点はホックシールドの主張に沿う結果だと、ワーキングペーパー版は書いている。

体の側からの測り方もある。平日に働く122人に、1日6回、携帯端末の呼び出しで気分と主観的なストレスを答えてもらい、同時に唾液のコルチゾールを測った研究で、ブラウンとブースが調べた労働時間や満足度とは別に、ストレスの指標で同じ仮説を確かめている。コルチゾールは、職場にいるときのほうが、自宅にいるときより低かった。ところが本人の申告では、勤務日のほうが非勤務日よりストレスが高い。体の指標と本人の感覚が、別々のことを言っている。著者ら自身は、職場のコルチゾールの低さを仮説に沿う結果としつつ、仕事と家庭を両立すること自体が日々の主観的なストレスを高めるのではないか、とも読んでいる。二つのうちどちらかが誤り、という話ではなさそうだ。

ワーカホリズムのほうは、ノルウェーの新聞サイトで回答を募った、約1万6千人の就業者の横断調査で、ADHD、強迫、不安、抑うつの症状と関連していた。ただし、効果は多くが小さい。仕事が、不安や抑うつからの「逃避」として働いている可能性は、著者らが解釈として提案している段階で、調査が測ったものではない。因果が逆向きの可能性も、著者ら自身が認めている。

だから私は、「忙しくて家に帰れない」の裏に回避があるのではないか、という最初の見立てを、そのまま維持するのはやめておく。そうでない人も、おそらく多い。家庭に不満な人ほど長く働く、あるいは長く働きたがる、という形の逃避は、労働時間のデータからはほとんど見つからない。ただ、仕事への満足が家庭への満足より高いこと、職場のほうがコルチゾールが低いこと(ただし、その差は家に子どもがいない人で大きく、著者らはこの点を仮説に沿わない結果としている)からすると、避難先という見方が全否定されたわけでもない。逃避と呼ぶには、本人の自覚という、調査では測りにくいものが要る。趣味についても、同じことが言える。


4. 趣味が教えてくれる「自分の醜さ」との対峙

趣味を深く突き詰めていくと、遅かれ早かれ「自分の醜さ」という壁にぶつかることがある。

嫉妬という名の毒

同じ趣味を持つ仲間が自分より早く上達したり、注目を集めたりしたとき、心からお祝いできるだろうか。「あの人はお金をかけているだけだ」「自分のほうがセンスはあるのに」――そんな考えが頭をよぎったとき、自分の中にある小ささを突きつけられる。趣味は純粋に楽しいはずなのに、いつの間にか他者との比較に執着していることがある。

「毒」という比喩は、少なくとも一部の嫉妬には、当てはまらないらしい。

オランダの研究者ファン・デ・フェンらは、嫉妬を二種類に分けた。相手を引き下ろしたくなる悪意のある嫉妬と、自分を引き上げたくなる善い嫉妬である。2011年の論文では、86人を、善い嫉妬、賞賛、悪意のある嫉妬、何もなしの四つの組に無作為に分け、それぞれの感情を思い出してもらってから、遠隔連想課題(三つの単語から共通する言葉を当てる、18問)を解かせた。正答数の平均は、善い嫉妬の組が11.4問、賞賛の組が9.8問、何もなしの統制組が9.3問、悪意のある嫉妬の組が8.5問だった。賞賛は気持ちのいい感情なのに、成績は統制組と変わらなかった。

別の実験(34人)では、先に「人は変われる」という文章を読ませると、優秀な同級生の記事を読んだあと、次の学期の勉強時間を平均で7.06時間増やす予定だった。「人は変われない」という文章を先に読んだ組は、0.41時間である。後者では、善い嫉妬が弱く、賞賛のほうが高い傾向にあった。追いつけると思えるときにだけ、嫉妬は燃料になる、という読み方ができる。

実験の参加者は、確認できる限り学生で、人数は17人から96人と少なく、課題は短い連想ゲームや、勉強時間の予定の質問だった。独立した直接の再現は、報告を確認できていない。仲間の上達に胸がざわつくとき、それを毒と決めつけるのか、燃料になりうると見るのか。それは少なくとも、追いつけるという感触に左右されるらしい。その程度に受け取っておく。

虚栄心と自己嫌悪

最新の道具を買い揃え、知識をひけらかし、初心者を見下してしまう瞬間。それもまた、趣味が映し出す一面だ。ただ、その醜さに気づいたとき、必要以上に自分を責めなくてもいいと思う。

趣味とは、自分を知るための、比較的安全な実験場なのかもしれない。

社会的な地位や責任が伴う仕事の場で同じ醜さを露呈すれば、ダメージは大きいかもしれない。しかし趣味の世界であれば、自分のエゴや嫉妬心とじっくり向き合い、それを人間らしさの一部として消化する余地がある。

「自分にはこんなにも承認欲求があったのか」「他人を見下すことでしか自信を保てなかったのか」。そう自覚すること自体は、決して心地よい経験ではないが、趣味が与えてくれる数少ない収穫のひとつではあると思う。


5. 自己実現という名のエゴと、どう付き合うか

そう自覚すること。

「趣味を通じて自己実現する」という言葉は、美しく響く。しかし、その実態が「自己正当化」に近いことも少なくない。

自分のこだわりを他人に押し付け、「これこそが正しい趣味のあり方だ」と主張する。自分の活動を「社会貢献」や「自己成長」という言葉でコーティングする。そういう瞬間は、誰にでも心当たりがあるのではないか。

ただ、そのエゴのようなものを完全に消し去ることが、はたして望ましいのかどうかは分からない。ただ純粋に、自分のために、自分のこだわりを突き詰めること自体は、そこまで否定されるべきことでもない気がする。自分の内側にあるドロドロした欲望や抑えきれないエゴを認め、それを否定せずに抱えて生きていく――その構えを持てたとき、趣味は他人の評価に振り回されにくくなる。

この「抱えて生きていく」を、別の角度から測ろうとした研究がある。カナダの心理学者ヴァレランドらは、熱中の質を二つに分けた。調和的情熱は、自分で選んでその活動をしている感覚で、生活の他の部分とも折り合っている。強迫的情熱は、内側からの圧力で、やめにくいまま続けてしまう感覚だ。2003年の論文は、四つの研究、900人を超える参加者で、この二つを測る尺度をつくった。

同じ論文には、少し生々しい研究が含まれている。自転車に乗る人59人に、8月に尺度へ答えてもらい、半年後の2月に連絡すると、真冬にまだ走っていたのは30パーセント、17人だった。走り続けていた人は、8月の時点で強迫的情熱が高く、調和的情熱には差がなかった。「好きだから続く」だけでなく、「やめにくいから続く」人もいる、と読める。ただし、17人の話である。もう一つは、カジノの常連と、自分から入場禁止を申し出た人との比較である。調和的情熱の高さは両者で変わらず、差が出たのは強迫的情熱だけだった。入場禁止を申し出た人は、やめる前の気持ちを思い出して答えている。

ただ、この分類を「強迫は悪、調和は善」と読むのは早い。2015年のメタ分析(94研究、1,308の効果量)では、強迫的情熱も、ポジティブな感情とは、小さな正の相関を持っていた。調和的情熱より小さい。ただ、調和的情熱の分を除くと、その相関はほぼゼロになる。活力などとの関連は、はっきりしなかった。同じ論文は、自らの限界も挙げている。効果量1,308のうち1,282は横断データで、因果までは言えない。研究の46パーセントは、この概念の提唱者のグループによるものだ。エビデンスを疑うこの記事の姿勢は、情熱についての研究自体にも向けておくべきだろう。

もう一つ断っておくと、これは承認欲求や見栄を直接測った研究ではない。二分法が説明するのは、活動が自分の同一性に取り込まれていく仕組みであって、「他人に見せたい」という動機そのものではない。エゴを抱えたまま続けることの難しさを、少し構造化して見せてくれる、という程度の使い方にとどめる。


6. 趣味は「人間のいい面」をも照らし出す

ここまで少し辛辣に「影」の部分を書いてきたが、もちろん趣味は光をも放つ。むしろ、影を認めたからこそ、その光は多少なりとも純粋に見えてくる。

1. 損得勘定を超えた「純粋な情熱」

仕事ではどうしても「報酬」や「効率」を考えてしまう。しかし趣味には、それが薄い。何時間もかけて模型を組み立てる、一銭の得にもならないのに何万文字もの小説を書く。誰に頼まれたわけでもないのに、ただ「好きだから」という理由だけでエネルギーを注ぐ姿には、子供のような生命力が宿っている。

前の方で見た実験を思い出すと、「報酬が薄い」ことは、趣味の欠点というより、機能なのかもしれない。見返りが予告されていないことが、その活動を、見返りを得るための手段にしないでいる。

2. 言葉を超えた「共有の喜び」

嫉妬やマウントを超えた先で、同じ熱量を持つ仲間と出会うとき、案外貴重な繋がりが生まれることがある。自分の好きなものを、同じように好きだと言ってくれる人がいる。自分のこだわりを、細部まで理解してくれる人がいる。それだけで、孤独感がいくらか和らぐことがある。

3. 自己成長という名の「忍耐と達成」

趣味は、時として努力を要求する。楽器の練習、スポーツのトレーニング、技術の習得。自分の至らなさに向き合いながらも、昨日より少しだけ前に進めた感覚。その小さな積み重ねは、社会的な評価とは無関係に、自尊心の根っこを育ててくれる。

ステビンズが特徴の一つに挙げた粘り強さは、ここで報われる側にまわる。苦しい瞬間まで含めて、その活動の一部なのだ。

余暇が仕事にどう戻ってくるかを、日ごとに追った研究もある。ドイツの公共部門で働く147人に、5日間、毎朝「昨日の余暇のおかげで、回復した、リラックスした、気分が良い」と感じるかを、終業時に仕事への打ち込み(活力・熱意・没頭を合わせたもの)を答えてもらった。回復感の81パーセントは、人による違いではなく、日による揺れだった。前夜の余暇で回復できたと感じた日は、その日の仕事への打ち込みが高い。逆に、前日の仕事への打ち込みと、自発的な行動の二つの指標(自発性、学ぶ姿勢)をまとめて入れても、翌朝の回復感の説明は有意には良くならなかった。測られたのは余暇全般で、趣味に限った話ではない。それでも、回復感は、その人による違いよりも、日ごとの揺れの側にあるらしい。

趣味は健康にいいのか

趣味は健康にいい、という話も、よく見かける。プレスマンらの研究(1,399人、四つの調査の合算)は、そのたびに引かれる。ただ、測られていたのは趣味ではなかった。「一人で静かに過ごす」「くつろぐ」「誰かと食事をする」「旅行」など、10項目の余暇の頻度の合計で、趣味はその一項目にすぎない。

気分との関連は強く、活力などのポジティブな感情と正の、ネガティブな感情と負の関連があった。血圧やウエストにも、小さな関連が見られた。ところが、年齢や性別に加えて、教育と収入まで調整すると、BMIと拡張期血圧との関連は有意でなくなった。ストレスの多い出来事があったときの緩衝効果も、気分では見られたものの、生理指標では見られなかった。横断研究なので、健康だから余暇を楽しめる、という逆向きの説明も排除できない。

長期の追跡もある。50歳以上のイングランドの6,710人を、最長で14年近く追った研究だ。美術館や劇場、コンサートに行く頻度で分けると、追跡のあいだに亡くなった人は、全く行かない人で47.5パーセント、数か月に一度以上行く人で18.6パーセントだった。この差には、年齢など、人の違いも混ざっている。年齢に加えて、社会経済、健康、行動、社会的な要因まで調整しても、頻繁に行く人の死亡のハザード比は0.69で、死亡のリスクは約3割低いままだった。もっとも、測られたのは鑑賞型の芸術活動で、趣味一般ではない。観察研究である点も変わらない。

趣味は健康にいい、という言い方は、どの研究を指しているのかを確かめるたびに、少しずつ細くなる。細くなっても、消えるわけではない。


結び:趣味と仕事、その本質にある人間臭さ

趣味とは、単なるレジャーではない。仕事とは、単なる労働でもない。

どちらも、自分がこの世界でどう生きるかを、いくらか表現してしまう手段なのだと思う。時には見栄を張り、時には嫉妬に振り回され、時には現実から逃げ出す。そんな不完全で人間臭い部分が、趣味や仕事というフィルターを通して見えてくる。

「鏡」という言い方は、ここまで調べてみても、悪くないと思う。ただ、鏡には映る範囲がある。報酬が予告されたかどうか、追いつけると感じられるかどうか、やめにくいのかどうか。映っているのは、感情の名前というより、その手前の細部だった。そして、鏡の前に立っているときの自分は、見られているより多く、自分を見ているのかもしれない。

その醜さも含めて自分の一部として抱えられるかどうかは、簡単に答えの出る問いではない。ただ、完璧である必要はどこにもないし、欲張りなままでも構わないのだと思う。自分の醜さを、人間らしさの一部として、多少なりとも受け入れられたら、それで十分な気がしている。


出典

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