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価格差はそのままなのに、選ぶ客が3倍に変わる——「無料」で実際に何を払っているのか
「お金を使わない趣味」という括りを支えているのは倹約の美徳ではなく、ゼロ価格効果や市場規範をめぐる研究が示す、もっと具体的な錯覚と付け替えかもしれない。
「お金を使わない趣味」という言葉には、居心地の悪さがある。読書、散歩、ノートに書きなぐること――どれも財布は痛まない。だが「無料である」という一点をもって、それを何か美徳のように語る書き方には、事後的な言い訳めいたものが混じっている気がする。趣味の価値を、支出額の逆数で測っているようなものだ。
ここで立ち止まって問い直したいのは、倹約の美徳の是非ではない。もっと手前の、素朴な疑問のほうだ。「無料」だと言うとき、私たちは本当に何も払っていないのか。それとも、払ってはいるのに、それを支払いだと認識できていないだけなのか。この二つは似ているようでまったく違う。前者なら「無料の趣味」は文字通り得な選択だが、後者なら、それは単に請求書が届かない支払い方をしているにすぎない。行動経済学と社会心理学の研究を辿ると、答えは後者に近いように見えてくる。無料という言葉のもとに、少なくとも四つの異なる支払いが隠れている。
なぜゼロという数字だけが、特別な重力を持つのか
まず疑うべきは「無料」という言葉が指している経済的な実態そのものだ。人はゼロ円という価格を、単に「安い」の延長線上にあるものとして処理しているわけではない。マサチューセッツ工科大学のクリスティナ・シャンパニエ、トロント大学のニーナ・マザー、そしてデューク大学のダン・アリエリーが2007年に『マーケティング・サイエンス』誌に発表した研究は、この直感を実際の売店で検証している。
実験の舞台はMITの学生センターに設けた菓子売り場だった。安価なハーシーズのキスチョコと、高級なリンツのトリュフを並べ、価格帯を変えながら398人の客の選択を記録した。一方の条件では、ハーシーズが1セント、リンツが15セントという、どちらも正の値段がついている。もう一方の条件では、両方の価格を同じ幅だけ引き下げ、ハーシーズが0セント、リンツが14セントになる。値差そのものは14セントのまま、まったく動いていない。ところが選ぶ客の顔ぶれは劇的に変わった。1セントと15セントの条件では、ハーシーズを選んだ客は14パーセント、リンツを選んだ客は36パーセントだった。価格をそろって1セント引き下げ、ハーシーズが無料になった条件では、ハーシーズを選んだ客が42パーセントまで跳ね上がり、リンツを選んだ客は19パーセントまで落ち込んだ。何も買わない客の割合も、50パーセントから39パーセントへと減っている。
ここで起きていることは、単純な需要曲線の傾きでは説明がつかない。値差が一定のまま保たれているのだから、標準的な費用便益の計算に従うなら、選択の分布はほとんど変わらないはずだ。実際に大きく動いたのは、価格がまさにゼロに触れた瞬間だけだった。同じ研究チームは、被験者に想像上の選択をさせる仮説的な調査だけでなく、実際に現金でやり取りするカフェテリアでの追試も行っている。客が普段の会計に上乗せする形でチョコレートを買う条件で、ハーシーズが1セント・リンツが14セントのときはハーシーズを選ぶ客が8パーセントにとどまったのに対し、ハーシーズが無料・リンツが13セントになると、その割合は31パーセントまで上がった。仮定の話でも、実際に財布から金を出す場面でも、同じ跳躍が起きている。
研究チームはこの現象を「ゼロ価格効果」と名づけ、なぜこれが起きるのかについてもいくつかの説明を検討している。単に無料の品への需要が計算上増えるだけなら、対価と便益の比率で選ぶという、もう少し単純な法則でも説明がつきそうなものだが、実験結果はその可能性も除外している。最終的に研究チームが最も有力だとしたのは、損得の計算そのものというより、ゼロという数字に触れたときに生じる感情的な反応――「お得だ」という漠然とした好ましさの高まり――が、費用便益の計算を上書きしてしまうという説明だった。人は「無料」を目にしたとき、費用が下がったと感じるだけでなく、対象そのものの価値が上がったかのように感じてしまう。損得の天秤が傾くのではなく、天秤の目盛りの読み方自体が変わるということだ。
その錯覚は、菓子売り場の外でも起きる
この実験はチョコレートの話であって、趣味の話ではない。だが、ここで確認された心理の仕組みそのものは、対象がチョコレートか趣味かを選ばない。「無料の趣味」という言葉を口にするとき、私たちは冷静にコストゼロだと計算しているのではなく、対象の価値そのものを底上げして感じている可能性が高い。図書館の本、近所の散歩道、家にある道具――これらを「お金がかからないから続けやすい」と語るとき、実際に効いているのは費用の低さの正確な認識ではなく、ゼロという数字が持つ、この特別な重力のほうかもしれない。無料体験や無料相談といった案内文句が世に絶えないのも、同じ重力を見込んだ設計だと考えれば筋が通る。体験の中身そのものより、値札にゼロが刻まれているという事実のほうが、判断を先に動かしてしまう。
厄介なのは、この重力は良い方にも悪い方にも働くという点だ。無料であるという理由だけで対象を過大評価してしまうなら、逆に、少しでも値段がついた途端、対象への評価は不釣り合いに落ち込む。シャンパニエらの実験でも、ハーシーズの値段をわずか1セント上げただけで、選ぶ客の割合は42パーセントから14パーセントへと三分の一以下に落ちている。無料の趣味に慣れた人が、有料の教室や道具に対してやけに及び腰になるのだとしたら、それは単に金銭感覚が渋いからではなく、ゼロという数字が持つ引力圏から抜け出しにくくなっているだけかもしれない。「無料でできることがこんなにあるのに、なぜわざわざ金を払うのか」という問いの立て方自体、値札のゼロに引きずられた後付けの理屈である可能性を、一度は疑ってよい。
無料の趣味は、無料の市場で決済されているとは限らない
「お金がかからない」という言葉が覆い隠しているものが、もう一つある。ここまでは無料という価格ラベルが引き起こす錯覚の話だったが、そもそも「無料」に見える活動の多くは、金銭とは別の通貨で決済されている。図書館の本を借りるのも、友人から道具を借りて何かを始めるのも、実家に置きっぱなしの釣り竿を引っ張り出すのも、地域のサークルに顔を出すのも、財布からは何も出ていかない。しかし、それらは本当に無償で成立しているわけではない。
カリフォルニア大学バークレー校のジェームズ・ヘイマンとマサチューセッツ工科大学のダン・アリエリーが2004年に『サイコロジカル・サイエンス』誌に発表した研究は、人間の交換関係を「金銭市場」と「社会的市場」という二つの様式に分けて考える枠組みを提示している。金銭市場では、支払う額が多いほど人は多くの労力を差し出す、いわゆる互恵の論理が働く。一方、社会的市場では、報酬の有無や多寡にかかわらず、人は高い水準の善意や協力を差し出しやすい。友人の引っ越しを無償で手伝うのと、時給で雇われて手伝うのとでは、同じ労力を提供していても、動いている論理がまったく違うということだ。
この研究でとりわけ興味深いのは、二つの市場が混ざり合った瞬間に何が起きるかを検証した実験だ。614人の学生を対象に、ソファの運搬を手伝ってほしいと頼まれた場面を想定させ、報酬なし、少額の現金、多めの現金、そして現金の代わりに菓子を渡す条件を比較した。結果、少額の現金を提示された条件は、報酬なしの条件よりも、手伝う意思がむしろ低いという逆転現象が確認された。統計的にも意味のある差だった。無償で頼めば善意の論理で動いてくれる相手に、わずかな金銭を差し出した途端、相手は損得勘定の論理に切り替わり、その額が労力に見合わないと判断してしまう。ゼロ円は、少額の対価よりも高い協力を引き出すことがある。同じ実験では、現金の代わりに菓子を渡す条件は、社会的市場の側にとどまり続け、支払う菓子の量を増やしても協力の水準はほとんど変わらなかった。金銭という尺度が持ち込まれるかどうかが、市場の性質そのものを切り替える境界線になっている。
もっとも、この枠組みにも留保はつく。ヘイマンとアリエリーの実験は、あくまで一回限りの短い依頼を対象にしたものであり、長期にわたって繰り返される関係――たとえば長年通っている無料の勉強会や、何年も貸し借りを重ねている道具のやり取り――にそのまま当てはめられるかどうかは、この実験だけでは確かめられていない。継続的な関係では、貸し借りの記録が双方の記憶の中で緩やかに均されていき、どちらがどれだけ借りているかという意識そのものが薄れていく可能性もある。それでも、金銭が介在した瞬間に関係の性質が切り替わるという核の部分は、単発の依頼であれ継続的な関係であれ、簡単には消えない前提として残ると考えたほうがよい。
これを「無料の趣味」という文脈に置き直すと、見えてくる構図がある。図書館という無料の仕組みは、司書の労働という金銭市場の裏づけの上に成り立っているが、利用者が個人的に受け取る恩恵の部分――知りたいことを丁寧に聞き取り、資料を探してもらうという体験――は、社会的市場の側で動いている。友人から道具を借りるのも同じで、そこで交換されているのは金銭ではなく、信頼と、いつか返すべき好意の記憶である。金銭という尺度では計上されないというだけで、これらは決して無償ではない。社会的市場の通貨は、金銭市場の通貨より返済の期日があいまいで、しかも踏み倒すと関係そのものが傷むという意味で、扱いを誤ればずっと高くつく通貨でもある。借りた道具を壊して返す、頼んだ相手の厚意に甘えすぎる――そうした失敗が金銭の弁済で簡単には片づかないのは、そもそも金銭の外側で決済されている取引だったからだ。
労力で払うと、勘定書はもっと見えにくくなる
金銭の代わりに、自分の時間や手間を投じて何かを作る、あるいは自分で調べて覚えるという形の「無料の趣味」もある。この場合、支払っているのは金でも他人の善意でもなく、自分自身の労力だ。そしてこの労力による支払いには、もう一つ見落とされがちな作用がある。支払った本人の評価そのものを歪めるという作用だ。
ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ノートン、当時UCサンディエゴ・ラディ経営大学院にいたダニエル・モション、そしてダン・アリエリーが2012年に『ジャーナル・オブ・コンシューマー・サイコロジー』誌に発表した研究は、これを「イケア効果」と名づけている。実験では、参加者に組み立て式の収納ボックスを渡し、一方には自分で組み立てさせ、もう一方には完成品をそのまま渡した。その後、それぞれにいくらなら買うかを尋ねたところ、自分で組み立てた参加者の入札額は平均78セント、完成品を渡された参加者は48セントにとどまった。同じ製品に対して、組み立てただけで6割以上高い値段をつけたことになる。折り紙を使った別の実験では、自分で折った参加者は自分の作品に平均23セントの値をつけた。この数字だけを見れば、素人の手作業にしては高い自己評価だと言えるかもしれない。ところが、その作品を見せられた第三者がつけた値段はわずか5セント程度にとどまり、同じ第三者が熟練者の折った作品につけた27セント――こちらは折った本人の自己評価と統計的な有意差がない水準――にはるかに及ばなかった(いずれもt値2.91以上、p値0.01未満で有意差あり)。つまりこの実験が示していたのは、本人が自分の不格好な作品を実際以上に高く見積もっていたという事実であって、その過大評価は他人とはまったく共有されていない、本人だけの錯覚だったということだ。
この効果が成立する条件も分かっている。研究チームは、組み立てを途中で放棄させたり、完成させた後にわざと壊させたりする条件も設けたが、そうした場合には評価の底上げは起きなかった。労力そのものではなく、労力が完成という結果に結びついたときに初めて、この錯覚は働く。つまり「無料の趣味」を自分の手間で成立させたとき、その満足感の何割かは、対象そのものの価値ではなく、投じた労力が無事に実を結んだという達成感から来ている。手作りの道具や自己流の練習を「お金をかけていないのに満足度が高い」と語るとき、実際には金銭のかわりに労力という通貨で対価を払っており、しかもその通貨で払った分だけ、自分の評価がかさ上げされているという構造になる。無料だから満足しているのではなく、労力を払ったから、払った分だけ好きになるように自分の感じ方が調整されているという順序のほうが、実態に近いのかもしれない。この順序を取り違えると、「これだけ苦労したのだから、きっと良いものに違いない」という、根拠の怪しい確信を積み上げていくことにもなりかねない。
始めるときより、やめるときのほうがわかりにくい
金銭の支払いには、区切りがある。会員登録をすれば解約という手続きが、月謝を払えば退会という手続きが、それぞれ用意されている。ところが社会的市場の側で決済されている「無料の趣味」には、そもそも解約のボタンが存在しない。友人から借りている釣り道具をいつまでも返さない、地域のサークルに顔を出さなくなったのに誰にも何も言わない、無料で教えてもらった相手への感謝をいつの間にか怠る――こうした場面で気まずさが残るのは、性格の問題ではなく、決済の区切りがそもそも設計されていない市場で取引をしているからだと考えたほうが筋が通る。ヘイマンとアリエリーの枠組みに従えば、金銭市場の取引は支払いをもって関係が精算されるのに対し、社会的市場の取引には、そうした明確な精算の瞬間がない。だからこそ、無料で始めた趣味をやめるときのほうが、有料の教室をやめるときより、かえって気まずさや後ろめたさを引きずりやすいということが起こる。金を払っていない分、後腐れなく去れるはずなのに、実際にはその逆の現象が起きやすいのだ。
「無料」を設計する側がいるという事実
ここまでは、無料に見える活動の裏側で何が起きているかという話だった。もう一段別の角度から見ておきたいのは、この錯覚を偶然の産物としてではなく、意図的な設計として利用している商業の存在である。無料版のアプリやサービスに一部の機能だけを無料で開放し、上位機能を有料にする、いわゆるフリーミアムという価格設計がその代表例だ。この設計が利用者の心理に効くのは、シャンパニエらが確認したのと同じ、ゼロという価格が持つ特別な引力を利用しているからにほかならない。OpenView PartnersなどSaaS業界のベンチマーク調査でたびたび報告される値によれば、フリーミアムから有料への転換率はおおむね2から6パーセント程度にとどまり、無料の入り口を用意すること自体が、利用者の心理的な抵抗を下げる目的で設計されていることが公然と語られている。
この事実が示しているのは、私たちが日常的に「無料の趣味」として消費しているSNSや無料アプリの多くが、たまたま費用ゼロで提供されているのではなく、ゼロ価格効果という具体的な人間の傾向を前提に組み立てられているということだ。読書や散歩を無料の趣味として選ぶときの「無料」と、無料アプリを開くときの「無料」は、同じ言葉を使っていても、片方は自然発生的なコストの低さであり、もう片方は誰かがその心理効果を見込んで用意した入り口だという点で、性質がまったく異なる。後者において「無料だからやっている」という感覚は、多くの場合、自分の判断というより、設計側が見込んだ通りの反応をなぞっているにすぎない。ここで支払っているのは金でも労力でもなく、可処分時間と注意そのものであり、その対価はサービスを提供する側の収益という形で、利用者の目の届かない場所で確かに計上されている。
この構図が厄介なのは、無料版と有料版を並べて比較検討させるという、一見すると親切な設計そのものが、実はシャンパニエらの実験条件をそのまま再現しているという点にある。無料の基本機能と、いくらかの対価を求める上位機能を並べて見せられたとき、利用者の頭の中では、まさにハーシーズとリンツを前にした被験者と同じ判断が動いている。上位機能の中身がどれほど優れていても、無料という選択肢が視界に入っている限り、その優劣は正確には比較されない。無料の選択肢は、比較の対象になるというより、比較そのものを歪める重りとして働く。趣味の入り口として無料アプリを選ぶこと自体は自然な行動だが、「無料だから続けている」のか「無料という重りに判断を引っ張られ続けている」のかは、そう頻繁には区別されない。
タダより高いものについて、ことわざが言い当てていたこと
「タダより高いものはない」ということわざは、しばしば詐欺や押し売りへの警戒として引用される。だが、ここまで見てきた研究群を踏まえると、このことわざはもっと素直な、字義通りの意味でも成り立っている。無料という言葉が指し示している支払いの不在は、金銭という一つの通貨に限った話であって、時間、労力、他人の善意、そして自分自身の判断力への信頼という、金銭よりも計上しにくい通貨での支払いまでは免除していない。むしろ、金銭という分かりやすい通貨での取引が消えるぶん、これら見えにくい通貨での取引が前景に出てくると言ったほうが正確かもしれない。
だからといって、無料の趣味を選ぶこと自体が損だという話にはならない。損得を云々する以前に、そもそも支出の形が違うだけであって、優劣の問題ではない。金銭という通貨を持ち合わせていない人にとって、労力や善意という通貨で趣味を成立させる道が開かれていること自体は、むしろ選択肢の幅を広げる話でもある。図書館で本を借りることも、道具を持っている友人を頼ることも、自分の手で何かを組み立てることも、それぞれに固有の満足のかたちがある。ここで疑いたいのは、それらの活動を選ぶ理由として「お金がかからないから」という一点だけを掲げる語り口のほうだ。この語り口は、実際に働いている複数の心理的な機序――ゼロという数字が呼び起こす過大評価、社会的市場が発行する目に見えない請求書、労力が生む自己評価の底上げ、そして商業側が仕込んだ心理設計――を、すべて一つの「無料」という言葉の陰に押し込めてしまう。値札がないことと、代償がないことは、まったく別の話である。四つの支払いは互いに独立しているわけでもない。無料の教室で労力をかけて何かを覚え、その過程で講師や仲間の善意に助けられ、しかもその教室自体がゼロ価格効果を見込んで集客の入り口として設計されている、というように、一つの活動の中に複数の通貨が同時に流れていることも珍しくない。
会計の帳簿に、記載されない項目のまま
「無料の趣味」という言葉が便利すぎるのは、支払いが発生していないという安心感を、実際の支払いの有無とは無関係に与えてくれるからだ。財布からお金が出ていかない限り、私たちはそれを支出として記録しない。だが、ここまで見てきたように、支出は形を変えて確かに発生している。ゼロ価格効果が対象の価値を底上げし、社会的市場の善意がいつか返済を求め、投じた労力が自分の目を曇らせ、設計された無料の入り口が判断そのものを誘導する。
これらはどれも、家計簿には決して載らない項目だ。
「無料だから気軽に始められる」という感覚そのものを否定する必要はない。気軽さは気軽さで、始めるための力にはなる。ただ、その気軽さの正体が、本当に対価の不在なのか、それとも見えない対価を見えなくしているだけの言葉の魔法なのか、その区別だけは自分の手元に残しておきたい。会計の帳簿に載らない支払いは、載らないというだけで、なかったことにはならない。
この区別をつける作業は、几帳面な家計簿をつけることとは違う。時間の使い道を分単位で記録したり、友人に借りた恩義を数値化したりする必要はどこにもない。むしろそうした厳密な計上を始めた瞬間、今度はその計算そのものが新しい負担になる。必要なのは記録というより、「無料」という言葉が出てきたときに、一拍だけ立ち止まって、今、目の前にある選択が本当に対価ゼロなのか、それとも別の通貨で払っているだけなのかを、ぼんやりとでも見分けておく習慣のほうかもしれない。見分けたところで選択が変わるとは限らない。それでも、何に対して満足しているのかを取り違えたまま続けるよりは、いくらか見通しのよい場所に立てる。
出典
- Shampanier, K., Mazar, N., & Ariely, D. (2007). Zero as a Special Price: The True Value of Free Products. Marketing Science, 26(6), 742–757.
- Heyman, J., & Ariely, D. (2004). Effort for Payment: A Tale of Two Markets. Psychological Science, 15(11), 787–793.
- Norton, M. I., Mochon, D., & Ariely, D. (2012). The IKEA Effect: When Labor Leads to Love. Journal of Consumer Psychology, 22(3), 453–460.
