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趣味のリストを55個に増やしても、たぶん何も解決しない

趣味のリストを55個に増やしても、たぶん何も解決しない

趣味が見つからない人に趣味リストを増やして渡すことは、本当に助けになるのか。選択肢を増やせば選びやすくなる、という前提を疑う。ジャムの実験、最大化者という気質、そして「いつでもやめられる」ことの意外な副作用について。

TOMOAKI··趣味

「趣味がない」と自覚したとき、たいていの人がまず検索するのはリストである。50個、100個、時には200個を超える候補が並んだページを開き、上から順に目を通していく。そして大抵の場合、最後まで読み終えたあとに残るのは、新しい趣味への期待ではなく、なぜかさっきより少し疲れた感覚だけだ。この現象には見覚えがある人が多いはずで、それならリストの数を減らせばいいのか、増やせばいいのか、という話になりがちだが、実はどちらの答えも的を外している可能性がある。

選択肢が多いこと自体が問題なのか、それとも選び方のほうに問題があるのか。この問いには、心理学がすでに四半世紀以上かけて答えを出そうとしてきた蓄積がある。ただしその蓄積は、通俗的に流布している「選択肢は少ないほうがいい」という結論よりも、はるかに込み入っている。

そもそも、なぜ趣味のリストという形式はこれほど際限なく増殖するのか、という点も一度立ち止まって考えてよい。検索エンジンに向かって「趣味 見つからない」と打ち込んだ人に対して差し出す答えとして、リストほど作りやすく、読まれやすい形式は他にない。項目数を競うことにコンテンツとしての価値が生まれてしまう構造がある以上、55個のリストの次に80個のリストが、80個の次に120個のリストが現れるのは、読者の意思決定を助けるためというより、検索結果で目立つための力学によるところが大きい。この記事自体も、web上に置かれたテキストの一つにすぎないという点では同じ土俵に立っている。だからこそ、リストという形式そのものの効き目を疑ってみる価値がある。

ジャムの実験が示したもの、示さなかったもの

選択肢過多という発想の出発点としてもっとも頻繁に引用されるのは、心理学者アイエンガーとレッパーが2000年に発表した、高級食料品店でのジャムの実験である。カリフォルニア州メンロパークの高級スーパーに試食コーナーを設け、ある時間帯には24種類、別の時間帯には6種類のジャムを並べた。通りかかった客がどちらの陳列に足を止めるか、そして試食したあとに実際に購入するかを記録している。

結果はよく知られている通りだが、数字を正確に見ておく価値はある。足を止める客の割合は24種類の陳列のほうが多かった——通りかかった客のうち60%が立ち止まったのに対し、6種類の陳列では40%だった。ところが購入に至った割合は逆転する。足を止めた客のうち、6種類の陳列で実際に購入したのは約30%(104人中31人)だったのに対し、24種類の陳列で購入したのはわずか3%(145人中4人)だった。人を引き寄せる力と、実際に決断させる力は、まったく別のものだということになる。

興味深いのは、実際に試食した数には条件間でほとんど差がなかった点である。24種類の陳列でも、客が実際に味見したジャムは平均1.5種類、6種類の陳列でも平均1.38種類で、統計的な差はない。つまり選択肢が増えたからといって、人はより多くの選択肢を実際に吟味するわけではない。にもかかわらず購入率は大きく変わった。これは、選択肢が「実際に処理された情報量」ではなく、「これから処理しなければならないという予感」だけで人の行動を変えてしまうことを示唆している。

同じ論文の二つ目の実験も見ておく価値がある。スタンフォード大学の心理学の授業で、全員が見ることになっていた映画『十二人の怒れる男』についての小論文を、ボーナス点として書く機会が学生に与えられた。あるクラスには6個のお題、別のクラスには30個のお題が示された。提出率は限定的なお題を渡されたクラスのほうが高く、しかも提出された小論文の質も高かった。ジャムという嗜好品だけでなく、大学の授業の加点課題(出来は成績に響かないと伝えられていた)でも、選択肢の多さがモチベーションと成果の両方を下げうることを、この論文は示していた。論文にはもう一つ、チョコレートを選ばせる研究もあり、30種類から選んだ人は、6種類から選んだ人より、選んだものへの満足度が低かった。

この実験はその後「選択のパラドックス」という言葉とともに広く流通し、選択肢は少ないほうが売れる、という単純化された教訓として消費されてきた。ここでリストの数を減らせばいいという話にすぐ飛びつきたくなるが、それは半分しか正しくない。この論文が実際に検証していたのは購買行動と学業課題であって、趣味探しのような、正解のない長期的な決断ではない。ジャムを選ぶ数分間の意思決定と、何年も続けるかもしれない活動を選ぶ意思決定を、同じ現象で説明しきれると考えるのは急ぎすぎている。

効果量はほぼゼロだった、という不都合な報告

そしてこの「選択肢過多」という考え方自体、その後の検証でかなり揺らいでいる。2010年、シャイベヘネらの研究チームが、選択肢過多を扱った過去の実験——公表されたものと未公表のものを合わせて50件、63の実験条件——をまとめてメタ分析にかけた。対象者数は5000人を超える規模だった。ジャムの実験の10年後に、この現象がどれだけ頑健に再現されているのかを、まとめて検証しようという試みである。

結果、選択肢の数が増えることによる悪影響の平均的な効果量は、ほぼゼロだった。ジャムの実験一つを根拠に「選択肢は少ないほうがいい」と信じていた人にとっては、拍子抜けするような結論だろう。だが、この論文は「選択肢過多など存在しない」と断定したわけではなく、平均値という数字が、その裏にある大きなばらつきを覆い隠してしまう危うさにも注意を促している。個々の実験を見ると、選択肢過多がはっきり確認されたものもあれば、逆に選択肢が多いほうが満足度が高くなったものもある。もっとも、そうした目立つ結果は一部で、大半の実験はゼロの近くに集まっていた。著者らの結論は、選択肢過多は頑健な現象ではない、というものだ。ジャムの実験は、いつでも再現される法則というより、ときどきはっきり現れる現象の、目立つ一例だったと捉えるほうがメタ分析の結果に近い。

少数とはいえ、結果がここまで揺れること自体が、実は重要な情報である。もし選択肢過多がジャムの実験のような単純な現象なら、選択肢の数を横軸に、満足度を縦軸にとったグラフはきれいな右肩下がりの直線に近づくはずだ。ところが現実のデータは、ある実験では右肩下がり、別の実験では右肩上がり、また別の実験では平坦、というふうにばらつく。著者らによれば、ばらつきの大半は、どちらの向きにも大きな効果を報告した少数の研究から来ていた。上下6件ずつ計12件を除くと、平均はほぼゼロのまま、ばらつきも小さくなる。どんな条件がそろえば選択肢過多が確実に起きるのかは、特定できなかったという。それでも、少数とはいえ強い効果が出た実験がある以上、選ぶ人の側か、選ぶ状況の側の何かが効いている可能性は残る。次に問うべきは、選択肢の数ではなく、その何かの正体である。

この結果を知ってしまうと、「選択肢を絞れば趣味は見つかる」という処方箋は根拠を失う。問題は選択肢の数という一変数では説明できない。ではリストの外側にある何が、選びやすさを左右しているのか。

選び方の癖という、リストには載らない変数

ここで手がかりになるのが、選択肢の数ではなく、選ぶ人間の側の性質に注目した研究である。心理学者シュワルツらは2002年、「最大化者」と「満足化者」という意思決定スタイルの違いを提示した。最大化者とは、可能な選択肢をできるだけ多く比較検討し、その中から客観的に最良のものを選ぼうとする人を指す。対して満足化者は、自分の基準を満たす選択肢が見つかった時点で探索を打ち切る。

シュワルツらが13項目からなる「最大化尺度」を用いて調べたところ、最大化の傾向が強い人ほど、幸福感・楽観性・自尊心・生活満足度との相関が負に出て、逆に抑うつ・完全主義・後悔との相関は正に出た。同じ論文の学部生約400人への質問紙では、最大化の傾向が強い人ほど、自分を他人と比べる頻度が高いと答え、最近の買い物についても満足度が低いと答えていた。より多くの選択肢を比較し、より多くの時間と労力をかけて選んでいるはずの最大化者のほうが、選んだ結果に満足していないというこの逆転は、時間をかけて比較すればするほど良い結果に近づく、という素朴な想定に疑問を投げかける。

趣味探しの文脈に置き換えると、この違いは非常に具体的な意味を持つ。55個のリストを前にして「この中に本当に自分に最適な一つがあるはずだ」と考えている人と、「悪くなさそうなものが見つかったら試してみよう」と考えている人とでは、同じリストを読んでいても得ている体験がまったく違う。前者にとってリストは比較対象の集合であり、後者にとっては単なる候補の集合にすぎない。前者はリストを読み終えたあとも、まだリストに載っていないどこかに、もっと自分に合う趣味があるのではないかという疑いを拭えない。

つまりリストの数を増やしても減らしても、最大化的に選ぼうとする姿勢そのものが変わらなければ、疲労の質は変わらない。むしろ選択肢を増やすことは、最大化者にとっては比較の母数を増やすだけの行為であり、満足化者にとっては単に読む時間が延びるだけの行為である。どちらにとっても、リストを充実させることは解決策になっていない。

比較の基準そのものが、すでに最大化されている

もう一つ見落とされがちな点がある。最大化的な姿勢というと、複数の選択肢を比較検討する場面だけの話だと思われがちだが、実はその手前、「趣味」という言葉そのものに対して、すでに最大化的な基準が適用されていることが多い。道具を一式揃え、休日のほとんどを費やし、いずれは人に語れるくらい詳しくなる——そこまでの水準に達して初めて「趣味」と呼んでよい、という暗黙の合格ラインを、リストを開く前から自分の中に設定してしまっている。

この暗黙の合格ラインがある限り、リストのどの項目を選んでも同じ問題にぶつかる。候補を吟味しているつもりが、実際には「これは自分にとって語るに足る趣味になりうるか」という、最大化者的な問いを毎回繰り返しているだけだからだ。満足化者的な構えというのは、選択肢の数を絞ることではなく、この合格ラインそのものを下げることに近い。昨日より少しだけ気持ちが動いた、というだけの基準で「今のところはこれでいい」と判断できるなら、55個のリストのうち最初の数個を眺めた時点で探索は終わってよいはずである。終わらないのは、リストが長いからではなく、合格ラインが高いままだからだ。

選んだあとに、心の中で何が起きているか

ここまでの話は、選ぶ「前」の話だった。だが趣味探しが厄介なのは、選んだ「後」にも別の力学が働くからだ。ここで参照したいのが、ギルバートとエバートが2002年に行った、写真の実験である。

研究者が開いた小さな写真講座で、学生が自分で撮って引き伸ばした2枚の写真のうち、1枚を持ち帰らせ、もう1枚は手放させる。学生は2つの条件に分けられた。一方には「この選択は最終的なもので、あとから変更はできない」と伝え、もう一方には「4日以内であれば、もう一枚のプリントと交換できる」と伝えた。研究チームの関心は、あとから選び直せるという可能性が、選んだ写真への愛着にどう影響するかだった。

結果は直感に反していた。あとから交換できると伝えられた学生のほうが、選んだ写真への満足度が低かったのである。分析に残ったのは二十数人という小さな実験である。同じ講座で同じように写真を選んだ別の学生たちに、数日後の好みを予測させると、交換できるかどうかで好みは変わらないと見積もっていた。実際に起きたことは、その見積もりと食い違っていた。著者らは別の研究で、絵のポスターを選ぶ実験の手続きを別の学生たちに説明し、交換できる版とできない版のどちらに参加したいかも尋ねている。3分の2近く(66.3%)が、交換できるほうを選んだ。

この結果から読み取れるのは、決定そのものよりも、決定を「確定させる」ことに固有の働きがあるという点だ。著者らの解釈はこうだ。後戻りできない選択をすると、選んだものの良い面を見つけて満足を作り出す心の働きが動きだす。彼らが心理的な免疫系と呼ぶものだ。撤回できると分かっていると、それが動きにくい。その働きそのものを測ったわけではなく、結果からの推論である。この働きは自己正当化のようにも聞こえるが、満足感を生成するための、心の防衛的な作業に近い。

もう一つ付け加えておくと、ある学生たちは交換できることの影響を見積もれず、別の学生たちの多くは交換できるほうを選びたがった。「選択肢を残しておいたほうが安心だし満足できるはずだ」という直感は、この選び方と同じ向きにある可能性がある。

これを趣味探しに当てはめると、厄介な仮説が浮かび上がる。多くの人は趣味を「気軽に始めて、合わなければすぐやめればいい」ものだと考えている。そしてその気軽さこそが、趣味を始めるハードルを下げる良いことだと信じられている。しかしギルバートとエバートの実験に従うなら、「いつでもやめられる」という前提そのものが、その活動を好きになるために必要な心の作業を先延ばしにしてしまう可能性がある。撤回可能性は始めるハードルを下げると同時に、好きになるハードルを上げているのかもしれない。しかも厄介なのは、その前提を実際に行使する——つまり本当にやめてしまう——必要すらないという点だ。いつでもやめられるという可能性がただそこにあるだけで、心の防衛作業は始まりにくいのかもしれない。

情報量の問題ではない、という補助線

ここまでの流れを、単に「情報が多すぎて処理しきれない」という認知的な限界の話だと理解したくなるかもしれない。だが実験心理学の古典的な法則を一つ横に置くと、その理解は少し怪しくなる。1952年にヒックが示した、選択肢の数と反応時間の関係——通称ヒックの法則——によれば、選択にかかる時間は選択肢の数そのものではなく、その対数(情報量としてのビット数)に比例して増える。選択肢が2倍になっても、判断にかかる時間は2倍になるのではなく、一定の増分が加わるだけである。この法則はもともと、被験者にランダムに点灯するランプへ対応するボタンを押させるという単純な反応実験から導かれたものだと紹介されていて、趣味選びのような複雑で個人的な決断にそのまま当てはめられるわけではない。それでも、選択肢の数と処理時間の関係が直線的ではなく対数的だという知見は、示唆に富む。

この法則が正しいとすれば、55個のリストが6個のリストよりも9倍ほど疲れるはずだ、という直感はそもそも誇張されている。純粋な情報処理の負荷という意味では、リストの長さが引き起こす疲労はそれほど大きくない。だとすれば、リストを読んだあとに感じるあの疲労感の正体は、処理しきれない情報量ではなく、先に見てきたような、比較への動機づけ(最大化的な姿勢)や、選んだ後の心の作業が始まりにくいこと(撤回可能性)のほうに由来しているのかもしれない。ボトルネックは計算資源ではなく、評価の構え方にある。

リストという道具の、限界の輪郭

ここまでを重ねると、最初の問い——リストを増やすことは助けになるのか——への答えは、単純な是非では書けないことがわかる。選択肢過多は頑健な現象とは言えない。一部の実験でははっきり現れるが、平均するとほとんど検出できず、どんな条件で起きるのかもまだ分かっていない。ジャムの実験のような劇的な結果は、あらゆる選択の場面で再現されるわけではない。数字を増減させること自体には、それほど大きな力がない。

試しに、同じ55個のリストを二人の人間が読む場面を想像してみる。一人は上から順に、それぞれの項目について「自分に向いているか」「続けられそうか」「時間に見合うか」と採点しながら読み進める。もう一人は流し読みしながら、少しでも心が動いた項目に印をつけ、途中で読むのをやめて印をつけた一つを試しに始めてみる。同じ55項目、同じ文字数のリストを前にしていながら、二人が経験している認知的な作業はまったく別物だ。前者にとってリストは55回の評価作業であり、後者にとっては数回の「これは面白そうか」という直感の確認にすぎない。リストという道具そのものは、この違いに対して中立である。

力を持っているのはむしろ、リストを読んでいる本人が、それを比較のための道具として使っているか、それとも単なる候補の入り口として使っているか、という構えの違いであり、さらにその先で、選んだものをどれくらい「確定したもの」として扱うか、という態度の違いである。最大化者的な構えでリストに向き合えば、55個であろうと6個であろうと消耗は変わらない。そして何かを選んだあとも「合わなかったらいつでも次を試せる」という前提を強く持ち続ける限り、好きになるために必要な心の作業は始まりにくい。

興味深いのは、この二つの力学——選ぶ前の最大化的な構えと、選んだ後の撤回可能性への意識——が、互いに補強し合う関係にあることだ。合格ラインを高く設定している人ほど、選んだ後もその選択が本当に最良だったのか疑い続けやすく、疑い続けているからこそ、いつでも撤回できる状態を手放しにくい。逆に言えば、どちらか一方だけを変えても効果は限定的かもしれない。基準を下げても、選んだ後にずっと撤回可能性を意識していれば心の防衛作業は始まりにくいだろうし、いったん決めたことにしても、決め方そのものが最大化的であれば、その決定はいつまでも仮のものとして扱われ続ける。

もっとも、この整理を「だからこう振る舞えばよい」という新しい処方箋に仕立て直すのは、ここまで見てきた研究の扱い方としては誠実ではない。シュワルツらの研究も、ギルバートとエバートの研究も、それぞれ特定の条件下で観測された傾向であって、万人に同じ強さで当てはまる法則ではない。選択肢過多のメタ分析が教えてくれた最大の教訓は、むしろこの手の心理現象を一般化しすぎることへの警戒そのものだったはずだ。

リストの外側に残る問い

55個のリストを前にして感じていた疲労は、リストの長さそのものが原因ではなかったのかもしれない。原因があるとすれば、それはリストを読みながら無意識に採点表を作っていた自分の姿勢、まだリストに載っていないどこかに正解があるはずだという合格ラインの高さ、そして何かを選んだあとも「これはまだ仮の選択だ」と思い続けてしまう習慣、この三つが絡み合ったところにある。だとすれば必要なのは、もっと良いリストを探すことでも、もっと少ないリストに絞ることでもない。目の前の候補を比較の材料として眺めるのをやめ、いったん選んだものについては、しばらくのあいだ後戻りの可能性を自分から見ないようにしてみること——それくらい地味な話に帰着する。

もちろん、これも一つの仮説にすぎない。人によっては撤回可能性がまったく満足度を左右しないかもしれないし、リストを比較材料として使うことに何の苦痛も感じない人もいるだろう。シャイベヘネらのメタ分析が突きつけていたのは、まさにこの手の一般化への警戒だった。ここで語ってきた最大化者の話も、写真の実験の話も、特定の集団・特定の状況で観測された傾向であって、誰にでも同じ強さで当てはまる保証はない。

それでも、次に趣味のリストを開く機会があるなら、そこで考えるべきなのは「これで何個目のリストか」でも「今度こそ自分に合うものが見つかるか」でもない。「自分はいま、この中から最良の一つを探そうとしているのか、それとも試しに何かを始めようとしているだけなのか」、そして「もし何かを選んだとして、その選択をどれくらいの期間、疑わずに置いておけるか」——この二つの問いのほうだ。どちらもリストの中には、決して書かれていない。

出典

  • Iyengar, Lepper (2000). When Choice Is Demotivating: Can One Desire Too Much of a Good Thing? Journal of Personality and Social Psychology, 79(6), 995–1006.
  • Scheibehenne, Greifeneder, Todd (2010). Can There Ever Be Too Many Options? A Meta-Analytic Review of Choice Overload. Journal of Consumer Research, 37(3), 409–425.
  • Schwartz, Ward, Monterosso, Lyubomirsky, White, Lehman (2002). Maximizing Versus Satisficing: Happiness Is a Matter of Choice. Journal of Personality and Social Psychology, 83(5), 1178–1197.
  • Gilbert, Ebert (2002). Decisions and Revisions: The Affective Forecasting of Changeable Outcomes. Journal of Personality and Social Psychology, 82(4), 503–514.
  • Hick (1952). On the Rate of Gain of Information. Quarterly Journal of Experimental Psychology, 4(1), 11–26.(原典は未取得。二次情報で照合)
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