目次▼
「面白い趣味」を探しても、たぶん見つからない理由
「面白い」は活動の性質ではなく、新奇性と理解可能性の釣り合いから生まれる反応にすぎない。だから外から探しても見つからず、続けるほど自分の手でその釣り合いを崩していく。心理学の複数の理論から、この構造を考える。
「面白い趣味」を探すという行為の奇妙さ
「面白い趣味」という言葉を、少し立ち止まって見てみたい。「料理」や「登山」のように活動のジャンルを指す言葉なら分かる。だがこの言葉が名指ししているのは、活動そのものではなく、その活動に対する自分の反応——面白いと感じるかどうか——の方だ。いわば「美味しい食べ物はどれか」と尋ねるのに近く、本来は食べてみてから分かることを、食べる前に知りたがっている。
この奇妙さは見過ごされやすい。「面白い趣味」で調べれば、案の定、活動名がずらりと並んだ記事が見つかる。だが、その一覧のどれを選んでも「面白いかどうか」という問いには答えていない。なぜなら「面白い」は活動の名前についているラベルではなく、活動と自分との間で起きる、もっと個人的な出来事だからだ。
面白さは活動の性質ではなく、反応の一種だ
この着想の土台には、20世紀半ばの心理学者ダニエル・バーラインが示した、新奇性や複雑さが引き起こす覚醒反応についての一連の研究がある。バーラインは、生き物が刺激に興味を示すかどうかは刺激そのものの強さではなく、目新しさや複雑さの度合いによって決まると考えた。この発想を人間の「面白い」という感情に絞って引き継いだのが、心理学者ポール・シルヴィアの「興味の評価理論」だ。この理論では、何かを面白いと感じるかどうかは、二つの評価が同時に成立するかどうかで決まるとされる。一つは新奇性・複雑性の評価——それが自分にとって目新しく、複雑さを持っているか。もう一つは対処可能性の評価——それを理解できる、あるいは対応できるという見込みが自分にあるか。どちらか一方が欠けると、面白さは成立しない。
目新しくても理解の糸口が全くなければ、それは面白さではなく戸惑いや不安になる。逆に理解しきっているものは、どれだけ複雑であっても、もはや目新しさを失っているので退屈になる。面白さは、この二つの評価がちょうど釣り合う、狭い範囲でだけ生じる反応だということになる。同じ将棋の局面を見せても、初心者には意味不明な駒の配置にしか見えず、プロには読み切れた退屈な局面にしか見えない、という状況が起こり得る。面白いと感じる人がいるとすれば、それはその局面の複雑さと自分の理解力がちょうど釣り合っている、ごく一部の人だけだ。
似た構図を持つ理論に、心理学者ミハイ・チクセントミハイの「フロー」がある。スキルと課題の難易度が釣り合ったときに深い没頭が生まれるという考え方は、この評価理論とほぼ同じ釣り合いを扱っている。ただし両者が指している場面は少し違う。フローが説明するのは、すでに始めた行動の最中に起きる没入の状態だ。一方でシルヴィアの理論が扱うのは、まだ始めてもいない対象に近づくかどうかを決める、その手前の一瞬の判定にあたる。「面白い趣味を探す」という行為で問題になっているのは、まさにこの、近づく気になるかどうかの一瞬の方だ。
続けるほど、その活動は「面白い」から外れていく
ここまでは、まだ始めていない対象に近づくかどうかの話だった。だが「面白い趣味」を探し続ける人の多くは、すでに何かを始めた経験がある人でもある。始めた後、その関心が続くかどうかは、また別の仕組みで動いている。
心理学者スザンヌ・ハイディとアン・レニンガーが示した「興味の4段階発達モデル」では、興味は次の4段階を経て育つとされる。まず外部の目新しさに引き寄せられて生まれる「状況的興味の喚起」、それが周囲の後押しなどで保たれる「状況的興味の維持」、自分から進んでその対象に戻りたくなる「個人的興味の芽生え」、そして自分の中に知識と価値が蓄積され、多少の退屈さにも揺らがなくなる「個人的興味の確立」だ。多くの「面白い趣味」探しがつまずくのは、最初の二段階——外部の目新しさに引かれている段階——で止まり、次の段階への移行が起きないまま新奇性が失われてしまうからだと考えられる。
新奇性が失われる仕組みそのものは、神経科学者リチャード・トンプソンらの馴化研究が説明している。繰り返し与えられる刺激への反応が弱まっていく「馴化」は、単純な感覚の反射から高次の認知にいたるまで広く見られる基本的な学習の仕組みで、これが働く限り、外部の目新しさだけに頼った興味はいずれ必ず摩耗する。これは怠けたから飽きたのではない。むしろ真剣に取り組んだ人ほど、対象への理解が早く進み、外部の目新しさに頼れなくなる時期も早く訪れる。
次々と趣味を変える人については、この枠組みだと二つの異なる原因が考えられる。一つは、繰り返しに慣れる速さそのものが人より早く、次の対象に移る周期を短く見積もっておくべき体質であること。もう一つは、対象そのものに個人的興味へ移行するための伸びしろが乏しく、誰がやっても状況的興味の段階で頭打ちになりやすいことだ。どちらも「意志が弱い」という説明とは別の見立てで、次に取るべき手立てもそれぞれ違ってくる。
外側から探しても見つからない理由
「面白い趣味」を人に聞いたり、ランキング記事を読んだりして探すという行為が構造的にうまくいかないのは、この釣り合いが極めて個人的なものだからだ。ある人にとって面白い活動は、その人が積み重ねてきた理解力と、たまたま釣り合っていたから面白かっただけであり、その人の理解力の来歴を共有していない他人にとっては、同じ活動が退屈すぎるか難しすぎるかのどちらかになる可能性が高い。
ランキング記事が並べているのは、誰かにとってかつて釣り合っていた活動の残骸であって、これから読む人との釣り合いを保証するものではない。「面白い趣味ランキング」が量産されては効果を感じられずに終わる理由は、企画の質の問題である以前に、この構造そのものにある。
探すべきは活動ではなく、伸びしろの有無だ
「面白い趣味」という問いの立て方自体を、少し変えてみる価値がある。「何が面白いか」ではなく、「その活動には、自分の理解力が上がった後も、まだ複雑さの余地が残っているか」を問うほうが、探し方として理にかなっている。
- 複雑さの階層が深い領域かどうか — 楽器、語学、将棋のような対象は、上達しても次の複雑さの層がまだ奥に控えている。トップ棋士が何十年も将棋を指し続けられるのは、複雑さが尽きないよう作られた構造の上で、その都度新しい難所に出会い続けているからではないか。逆に、覚えることが最初から限られている対象は、個人的興味へ移行するより先に複雑さの供給が尽きてしまい、外部の目新しさだけを頼りにした状況的興味の段階で頭打ちになりやすい。
- 自分が慣れる速さを把握しておく — 同じ活動でも、新奇性への反応が早く鈍る人と、なかなか鈍らない人がいる。前者は次の複雑さへ移る周期を短く見積もっておいたほうがいい。何度も趣味を変えてきた自覚がある人は、この体質と、選んできた対象の伸びしろの狭さと、両方を疑ってみる価値がある。
- 難易度を自分で操作できるかどうか — 決まった内容をこなすだけの活動より、自分で制約を追加したり課題の難度を上げたりできる活動のほうが、目新しさを自分で供給し続けられる分、個人的興味の段階に留まりやすい。
どれも「これが面白い活動だ」という答えを示すものではない。示しているのは、面白さが長続きしそうな構造の見分け方であって、活動の名前ではない。
結局、「面白い」は追いかけるものではなく、整えるものだ
「面白い趣味」を探すという行為そのものは、悪い発想ではない。ただ、探しているものの正体が、外側にある活動のリストではないという点には気づいておいた方がいい。近づく手前では、自分の理解力と対象の複雑さがちょうど釣り合う、動き続ける一点を探していることになるし、始めた後では、その一点にとどまり続けるのではなく、外部の目新しさに頼らずにいられる個人的な興味へと自分で移行できるかどうかが問われている。どちらも、他人のリストが答えてくれる問いではない。
何を選ぶべきかをここで示すつもりはない。ただ、次に「面白い趣味」を探す前に、今までの活動が「つまらなくなった」のではなく、外部の目新しさに頼る段階から、自分から戻りたくなる段階へまだ移れていないだけかもしれない、と一度疑ってみる価値はある。面白さは、外から見つけてくるものではなく、自分と対象の関係を保ち続けることで、その都度整えるものなのだと思う。
