集めたものを、ゴミに見せないための余白
棚に詰め込んだコレクションが、なぜか雑多に見えてくる。飾り方を変えてみて気づいた、余白の役割について。
集めたものを棚に並べていくと、ある時点から「ときめき」が「雑多さ」に変わる瞬間がある。最初は一つひとつ大事に選んだはずなのに、増えるにつれて、家族には単なる不用品の山に見えているらしいと気づいたことがあった。
試しに、棚を埋めるのをやめてみた。持っているものを全部並べるのではなく、三割ほどは何も置かない状態にしてみる。すると、残りのものの見え方が変わった。余白は「何もない場所」ではなく、隣にあるものを際立たせるための場所として働くらしい。詰め込むほど豊かに見えるわけではないというのは、当たり前のようでいて、実際にやってみるまで実感できなかった。
高さを揃えて整列させるより、高いもの・中くらいのもの・低いものを不揃いな三角に配置したときの方が、目が一点に留まらず自然に動く感じがした。理由はよくわからないが、視線が滑らかに移動する配置と、機械的に並んだ配置とでは、同じものを見ているはずなのに印象がずいぶん違う。
照明も試行錯誤した。部屋の主照明だけで全体を均一に照らすと、陰影が消えて平面的に見える。小さなクリップライトを一つ足して、あえて光の届かない部分を残しただけで、同じものが急に立体的に見えた。これも理屈というより、やってみて初めて気づいたことだ。
質感の対比も効いた気がする。滑らかなガラスの瓶の下に、ざらついた石や麻の布を敷くと、それぞれの手触りの違いが際立つ。逆に、似た質感のものを似た質感の背景に置くと、境界が溶けて存在感が薄れる。壁紙の前に直接置くより、一枚トレイを敷くだけで、そこだけ別の場所のように見えるのも不思議だった。
結局のところ、全部を常に飾っておく必要はないのだと思う。今いちばん気に入っているものだけを少し出して、残りはしまっておく。季節が変わるたびに入れ替えると、しまっていたものと再会する瞬間にも、また少し嬉しさがある。集めることの終着点が「所有」なのか「鑑賞」なのか、まだ自分でもはっきりしないが、少なくとも余白を作ってからの方が、自分のコレクションを見る時間は静かに楽しいものになった。
