目次▼
下手の横好きについて
評価やスコアに囲まれた日常の中で、あえて下手な自分をさらけ出す趣味には何が起きているのか。ユングのシャドウ、フロー理論、神経可塑性の話を借りながら考えてみる。
朝、スマートウォッチが出す睡眠スコアに一喜一憂し、日中は仕事の評価指標に追われ、夜はSNSの反応で自分の価値を測ってしまう。気づけば一日の大半を、何らかのスコアに囲まれて過ごしている。この環境では、最短距離で正解にたどり着くことが美徳とされ、失敗や遠回りはコストとして扱われがちだ。
専門家として「何でも知っている自分」を演じ続けるのは、想像以上に疲れる。人前で失敗が許されない緊張感がずっと続くと、純粋に何かを面白がる感覚が少しずつ削られていく気がする。趣味の中でだけは、誰に見せるためでもなく、下手な自分をそのまま出してみてもいいのではないか。
切り捨てた自分を回収する
心理学者のユングは、社会に適応するために作り上げた表向きの顔(ペルソナ)の裏に、抑圧されて切り捨てられた自己の側面があるとして、それを「影(シャドウ)」と呼んだ。「仕事ができる」「失敗しない」自分を作り上げるほど、「不器用」「間違える」自分は心の奥に押し込められていく。趣味の中であえて下手なことに挑戦し、その不器用さを直視するのは、押し込めていたその部分を少しだけ迎えに行く行為なのかもしれない。
心理学者のミハイ・チクセントミハイが「フロー理論」で言う「自己充足的な活動」——活動そのものが目的で報酬になっている状態——は、他者からの評価という外部の報酬に慣れきった感覚には案外新鮮に感じられる。下手だからこそ、一歩進んだときの喜びが素直に嬉しい、という初期衝動を思い出す機会は、意外と少ない。
不器用さが脳にとって新しい理由
慣れた作業をこなしているとき、脳は省エネモードで動いているという。逆に、慣れない楽器に指が思うように動かなかったり、覚えたてのプログラミング言語のエラーに頭を抱えたりしているときは、新しい神経回路がさかんに結びつこうとしているとされる。何も知らない初心者の状態は、あらゆる刺激に対して開かれていて、この状態での脳の変化しやすさは、加齢による硬直化を押し戻す方向に働くという報告もある。
100回失敗した末に、思い通りの音が出た瞬間や、エラーが消えて動いた瞬間の快さは、最初から何の苦労もなくこなせてしまう「予測通りの成功」では得にくい。失敗を欠陥としてではなく、うまくいかない方法を一つ見つけただけのデータとして扱う姿勢は、実験を繰り返す研究者のやり方に近い。
完成を目指さない遊び方
楽器を演奏するとき、弦を弾く指先の感触や、息が続かずに音が揺れる感覚は、完璧に調律された音源にはない生々しさがある。完成させることより、今この瞬間に音が鳴っていることのほうに意識を向けてみると、下手さはあまり気にならなくなる。
絵を描くときも、意図せず混ざった色やはみ出した線を失敗と見なすかどうかは、結局「正解」をどう設定するかの問題でしかない。偶然できた形を、新しい表現の始まりとして眺め直すことはできる。
自分でウェブサイトやCMSの環境をいじっていて、アップデート後に画面が真っ白になることもある。ログを読み、コードを一行ずつ確認し、仮説を立てては直す。その過程は面倒だが、自分の手で問題を解いていく感覚は、外部に丸投げしていては得られないものだ。
役に立たないことの価値
「その趣味、何の役に立つの」と聞かれて、「特に何の役にも立たないが、面白いからやっている」とそのまま答えられることには、それなりの意味があると思う。アマチュアの語源はラテン語で「愛する人」だという。プロフェッショナルは成果に責任を負うが、アマチュアは対象を愛することにだけ責任を負っていればいい。下手なままでも、途中でやめても、その対象に驚いたり戸惑ったりした体験自体が、趣味としてはすでに十分に成立している。
趣味の世界で何度失敗しても平気でいられる感覚は、仕事や他の場面での失敗に対する耐性にも、少しは効いている気がする。誰にも脅かされない自己信頼のようなものが、そこから育つのかもしれない。
