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「贅沢な不便さ」と言いたくなるときに疑っておきたいこと
フィルムカメラのダイヤルを回す手応えを「贅沢な不便さ」と呼ぶ言説を、不便益の研究、効果ヒューリスティック、そして「切断できることは特権である」という指摘から検証する。
豆を挽く音、フィルムを巻き上げる抵抗、万年筆のペン先が紙に沈む感触。こうしたものを指して「あえての不便さ」「知的な摩擦」と呼ぶ言い方を、ここ数年よく見かけるようになった。ボタン一つで済むはずの作業に、わざわざ手間を戻す。それを贅沢だと言い切ってしまう前に、一度立ち止まっておきたい。贅沢だと言いたくなる気持ちの中に、どこまでが実際に確かめられていることで、どこからが雰囲気の話なのか、線を引いておきたいからだ。
この種の言説は、たいてい同じ型を踏む。まず不便さを美化する言葉を置き、次にそれを裏付けるかのように研究や理論の名前を添える。「不便益」という工学用語、「脳へのスパイク」という神経科学風の説明、「マインドフルネス」という心理学の借用語。どれも元をたどれば実在する研究にたどり着く。だからこそ厄介でもある。出どころが本物であることと、その言葉が今使われている文脈で正しく機能していることは、まったく別の話だからだ。
厄介さはもう一段深いところにもある。仮に個々の研究がすべて正確に引用されていたとしても、それらを寄せ集めて「不便さは贅沢だ」という一枚の結論に縫い合わせる作業自体が、もとの研究のどれもやっていないことだからだ。設計論としての不便益、認知バイアスとしての努力ヒューリスティック、地位の記号としての忙しさ、これらは互いに独立した文脈で確かめられた別々の現象であって、束ねて一つの美学に仕立て上げた瞬間に、どの研究も保証していない範囲まで話が伸びてしまう。ここでは一つずつ、伸びた分をもとの寸法に戻す作業をしておきたい。
「不便益」という言葉が指しているもの
不便さから得られる益を体系的に扱おうとした研究に、京都で長年続けられてきた「不便益」という概念がある。よく引かれる例が、通るたびに道の表示がかすれていき、三度通ると消えてしまうカーナビや、目盛りが素数しかない「素数ものさし」だ。紹介によれば、前者を使って街を歩いた人は道沿いの風景をよく覚えていたといい、後者は目盛りを自分で計算する過程そのものが認知的な関与を生む。不便であることが副産物として学習や達成感、自分だけの工夫の余地を生む——というのが不便益という考え方の骨子である。
ここで押さえておきたいのは、不便益が工学のシステム設計論として出発した点だ。素数ものさしは、素数という制約が思考を促すように緻密に設計されている。目盛りが飛び飛びになる場所を自分で補って計算する、という一手間が発生するように、あらかじめ計算されているわけだ。もっとも、提唱者の一人である川上浩司は2012年の総論で、設計された装置だけでなく、マニュアル車や機械式の鍵のような古い方式の道具も例に挙げている。だから、生産終了から数十年が経ったカメラに不便益という語を当てはめること自体が、的外れだとは言えない。ただし同じ総論は、なんでも不便にすれば益が得られるわけではない、とも念を押している。古いというだけで益があるのではなく、どんな益がどんな手間から出てくるのかを言葉にできるかどうかが問われる。
もう一つ、この枠組みには「不便益」だと認める定義がある。不便益の研究グループは、その手間をかけることによってのみ得られる嬉しさや楽しさといった主観的な益、あるいは技能向上のような客観的な益を、不便益と定義している(京都大学附属図書館の講演案内による)。この定義に照らすと、フィルムを巻き上げる手間から得ているものが何なのか、こちらで一度立ち止まって考え直す必要が出てくる。写真が撮れるという結果自体は、便利なデジタルカメラでも得られる益だからだ。不便さがあって初めて得られる、もう一段別の益を名指しできなければ、この定義の中でさえ「不便益」とは呼べないことになる。
手間をかけたものを高く評価してしまう理由
とはいえ、手間のかかったものほど高く評価してしまう傾向自体は、心理学の中で古くから確認されてきた現象でもある。追試論文などの紹介によれば、クルーガーらが2004年に報告した一連の実験では、参加者にまったく同じ詩、同じ絵画、同じ甲冑の画像を見せながら、それぞれ異なる制作時間を伝えた。すると参加者は、より長い時間をかけて作られたと聞かされた作品のほうを、品質や好ましさの評価で高く採点した。実物はまったく同一であるにもかかわらず、である。研究者たちはこの傾向を「努力ヒューリスティック」(effort heuristic)と名づけた。ここで重要なのは、この現象が研究の中で称賛の対象としてではなく、手間の情報から品質を推し量る近道として扱われている点だ。三つ目の実験では、同じ甲冑でも画像が粗く品質を見極めにくいときほど、この近道への依存が強まったと紹介されている。つまり努力ヒューリスティックは、審美眼の鋭さの証ではなく、審美眼が心もとないときに人が寄りかかってしまう補助輪に近い。自称専門家の参加者も、そうでない参加者と同じように影響を受けたと伝えられているので、補助輪を外せる人はそう多くないのかもしれない。2023年の事前登録された追試では、絵画の実験は再現し、詩の実験は調査の場や評価の項目によって再現したりしなかったりした。一本の論文だけで寸法を決められる話ではない、ということだ。
中古のアナログ機材を評価する場面は、この補助輪がもっとも働きやすい条件がそろっている。実際の光学性能や機構の精度は、専門知識があっても判定しづらい。だからこそ「手作業で調整された」「一台ずつ職人が組んだ」という制作過程の情報が、品質評価にそのまま流れ込みやすくなる。努力ヒューリスティックの実験が示しているのは、こうした情報が実際の品質と無関係に評価を押し上げてしまう、という点だった。手間の情報に触れて何かを高く感じたとき、それが対象そのものの価値を正しく反映しているのか、それとも品質を判定できないことの穴埋めをしているだけなのか、区別する手立ては実のところあまりない。
もう一つ、よく引かれるのがノートンらが2012年に報告した「イケア効果」だ。組み立て家具や折り紙、レゴのセットを自分の手で完成させた参加者は、既製品や他人の完成品よりもそれを高く評価し、その傾向は、自分をDIY好きだと思っている人にも、そうでない人にも同じように現れた。多くの紹介記事はここで話を止めてしまうが、原論文にはもう一段落先がある。効果が現れるのは、作業が最後まで完了し、その完成が手元に残っている場合に限られる、という条件だ。完成させたあとに自分で分解した条件や、最後の二工程の手前で止めさせた条件では、愛着の上乗せは消えるか、弱まった。ここから読み取れるのは、手間は完了に至ったときにだけ値打ちに変わる、ということだ。完成品を渡されただけの条件でも上乗せは出なかった。完成品を持っているだけでは、評価は上がらない。摩擦の最中にある時間そのものだけでは足りず、区切りをまたいだという感覚が加わって初めて、値札が貼り替わるらしい。レンズを磨く、時計のリューズを巻くといった作業が続けやすいのだとしたら、それは摩擦が贅沢だからというより、作業に明確な始まりと終わりがあり、達成のサインを毎回受け取れるからだと考えたほうが、少なくともこの実験結果とは整合する。
付け加えると、イケア効果の実験では、参加者は自分の作った不格好な作品を、専門家の作った完成品とほぼ同等に評価しただけでなく、他人も自分と同じように高く評価するはずだと見込んでいたことも報告されている。自分の愛着を、いつの間にか普遍的な価値だと思い込んでしまう、というもう一段の飛躍だ。手をかけたものを大切に思う気持ち自体は自然なことだが、その気持ちを「これは特別なものだ」という対外的な主張にまで広げてしまう時点で、話は個人の満足から、価値の押し付けへと一歩踏み出している。摩擦を贅沢だと語る言説の多くも、この一歩を無自覚に踏んでいるように見える。
「脳へのスパイク」という説明が抱える弱さ
触覚を伴う体験がデジタルの操作より記憶に残りやすい、という主張には、もう少し具体的な検証の歴史がある。よく引かれるのが、ミュラーとオッペンハイマーが2014年に発表した、手書きノートはノートパソコンでの入力より学習効果が高いとする研究だ。この論文は2020年までに千回を超えて引用され(Google Scholar)、教室でノートパソコンを認めるかどうかの議論でも、たびたび持ち出されてきた。手書き優位という物語は、それほど強い説得力を持って広まった。
ところがアーリーらの研究チームが2021年に行った直接的な追試では、逐語的に書き写す量が手書き群のほうが少ないという原論文の傾向自体は再現されたものの、肝心の「概念的な理解を問う設問での成績」については手書きの優位は支持されなかった。似た設計の研究を束ねた探索的なメタ分析(概念設問を分けた分析は七本)でも、手書きの側に有利な差は見つからなかったと報告されている。千回を超えて引用された論文の、最も引用されがちな結論部分は、少なくとも直後の小テストに関しては、追試で裏づけを失ったことになる。ノートを見直してから受ける試験については、まだ決着していない。
この経緯は、ヴィンテージカメラのダイヤルの手応えや万年筆の書き味を「脳への強いスパイク」と説明する近年の言説と、構造がよく似ている。直感に強く訴える主張ほど、最初の一本の論文が広まった後、追試の段階でトーンダウンする例は珍しくない。触覚を伴う体験が印象に残るという体感自体を否定する必要はない。ただ、それを神経科学風の言葉で権威づけようとする行為には、もとになった研究がたどった道筋を踏まえると、慎重であるべき理由がある。
もう一点付け加えておくと、ミュラーとオッペンハイマーの原論文は、あくまで録画された講演を見ながら取るノートという、極めて限定された場面を対象にした実験だった。参加者は学生で、比較対象は講演の逐語的な書き起こしになりがちなノートパソコン入力だった。この特殊な条件で見つかった差が、講演を聞く場面でも受験勉強でもない、趣味として道具を操作する場面にまで一般化できるかどうかは、そもそも原論文の範囲外の話である。追試で結論が弱まった事実に加えて、話の射程そのものが、引用されるときにいつの間にか広がっている。
摩擦そのものが、地位を示す記号になっている
ここまでは、不便さがもたらす効果そのものへの疑いだった。ここでもう一つ、別の角度を挟んでおきたい。摩擦を選べるということ自体が、何を意味しているかという角度だ。
ベレッツァらが2017年に報告した研究は、忙しさや余暇のなさそのものが、現代ではある種の地位の記号として機能していることを示している。かつては暇であることが富の証だったのに対し、いまは予定が詰まっていることが、能力の高さや労働市場での需要の高さを示すシグナルとして受け取られる——という逆転が起きているという指摘だ。研究チームは、この逆転が北米では明確に見られる一方、イタリアの回答者では向きが逆で、働かずに余暇を過ごす人のほうが、長く働く人よりも地位が高く見られたとも報告している。地位の示し方が文化によって違うという点も含めて、この逆転は普遍法則というより、特定の労働観と結びついた現象らしい。研究チームが挙げている理由も端的だ。忙しい人間は、有能で意欲があり、労働市場で引く手あまたに見える。忙しさそのものが望ましいのではなく、忙しさが人材としての稀少性を代弁している、という構造である。
この見方は、不便さの受け止め方にも当てはめてみることができる。フィルムを現像に出す手間、レコードをひっくり返す手間は、それをこなすだけの時間の余裕があるほど、「あえての選択」として成り立ちやすい。便利な手段が目の前にあるのに、あえてそれを使わない——という構図そのものが、選択の自由の誇示として読まれうる。忙しさが地位の記号になったのと同じ理屈で、不便さもまた、選べる立場にいることの記号になり得る。静かに趣味を語っているつもりの言葉が、実は誇示の一種であるという可能性は、皮肉というより単なる構造の指摘として、頭の片隅に置いておいたほうがいい。
ここで一つ区別しておきたいのは、稀少性を代弁する記号としての不便さと、実際の作業そのものとは、別物だということだ。忙しさの研究が示しているのは、忙しいと「語ること」や「見せること」が地位のシグナルになる、という点であって、実際に忙しく働くこと自体を否定しているわけではない。同様に、不便な趣味を持っていると人に語ること、SNSにフィルムカメラの写真を並べて手間を仄めかすことと、実際に部屋でひとりレンズを磨いていることは、別の行為として切り分けられる。前者が誇示の機能を帯びやすいからといって、後者まで自動的に見栄の産物になるわけではない。ただし、両者が言葉の上では簡単に混ざってしまう、という点には注意が要る。
不便さを選べることと、選ばされることの違い
この構造をより直接に扱った研究もある。グエンとハーギタイが2023年に発表した、デジタル接続からの自発的な離脱に関する調査だ。コロナ禍のさなかに1,551人の米国成人に尋ねたこの調査では、若く、教育水準が高く、日頃のインターネット利用が頻繁な人ほど、自発的にオフラインの時間を作る傾向が強いことが確認されている。ここには少し意外な捻れがある。オフラインの時間を選び取っているのは、デジタル環境から取り残された人たちだけでなく、デジタル環境をもっとも使いこなしている側にも多いという点だ。「デジタル疲れした情報弱者が、素朴な生活に回帰する」といった、よくある想像図とは、少なくとも半分は逆の結果になっている。
一方で、ネット接続に不安を抱えている人々も、自分から利用を控える傾向が強かった。著者らは、その中には選んだのではなく、そうせざるを得なかった人も含まれている可能性を挙げているが、動機そのものは測っていない。同じ「オフラインの時間」という結果だけを見ても、それが自発的な選択なのか、環境に押し付けられた制約なのかで、意味はまったく違いうる。切断が一種の贅沢品になりつつあるという見方は先行研究にあり、この論文もそれを紹介している。ただし著者ら自身の結論は、切断は恵まれた立場からも、不利な立場からも生じうる、というものだ。所得そのものは、切断の実践と関連していなかった。だからこの調査だけで、不便さを選べるのは恵まれた人だけだとは言えない。それでも、不便さやオフラインを称える言説の多くが、選ぶための前提条件——時間、便利さをいつでも呼び戻せる保証——を語らないまま流通しがちなことは、覚えておいてよい。
この前提条件は、道具そのものの値段の話とは少し違う位相にある。中古カメラや万年筆は、探せば決して手が届かない価格帯ではない。問題はむしろ、フィルムの現像に出す時間、店に立ち寄る時間、うまく撮れなかったときにもう一本使い直す時間といった、金額に換算しづらい余白の側にある。この余白は、シフトが不規則な仕事や、常時対応が求められる働き方のもとでは、真っ先に削られる部類のものだ。不便さを楽しむ話が「誰にでも開かれた選択」であるかのように語られるとき、実際には多くの場合、こうした時間の余白がすでに確保されていることが前提になっている。
誇示ではなく、静かな作業として続いているとしたら
ここまでの指摘を積み重ねると、収集や手入れの時間そのものが、ヒューリスティックと誇示のかたまりに過ぎないように聞こえるかもしれない。ただ、それは言い過ぎだろう。努力ヒューリスティックが問題になるのは、手間の情報から品質を「判定」しようとする場面であって、単に自分の手を動かして時間を過ごす場面ではない。イケア効果が問題になるのは、自分の愛着を他人にも共有されるべき普遍的価値だと押し付ける場面であって、自室で静かに満足している分には、誰にも損はない。忙しさや不便さの誇示が問題になるのは、それを他人に「見せる」場面であって、見せびらかす相手のいない、誰も見ていない手入れの時間には、そもそもその機能自体が働きようがない。
つまり、批判の矛先はいつも同じところを向いている。対象そのものへの静かな没頭ではなく、それを語るときに借りてくる大げさな語彙と、それを他人に見せるときに紛れ込む誇示の成分だ。レンズを磨く手が止まらないという事実と、それを「贅沢な不便さ」と呼んで発信する行為とは、同じ動作から始まっていても、途中で完全に別のものになっている。
それでも残るものは何か
ここまで並べた研究は、いずれも「不便さそのものに固有の価値がある」という主張には慎重だ。努力ヒューリスティックは、品質そのものではなく手間の情報から品質を推し量る近道として紹介されており、イケア効果は完了という条件つきでしか働かず、手書きの優位は、少なくとも直後の小テストについては追試で支持されず、オフラインを選ぶ人の顔ぶれを調べた調査も、恵まれた人だけの贅沢という単純な図には収まらなかった。並べてみると、「摩擦は贅沢だ」という言い切りは、少なくとも現時点で確認できるエビデンスからは支持しにくい。むしろ、摩擦を美化する語り自体が、忙しさの誇示と同じ働きをしている場合もあるのではないか、と疑ってみる余地がある。誰かに向けて発信された瞬間、それは体験の記録というより、体験を素材にした自己呈示に近づく。
ここまで来ると、冒頭で挙げた「豆を挽く音、フィルムを巻き上げる抵抗、万年筆の書き味」という三つの例も、一括りにはできないことが分かる。豆を挽く行為には工夫の余地がほとんどなく、努力ヒューリスティックが働きやすい価格帯の道具でもある。万年筆の書き味は、追試で揺らいだ研究の主張と地続きの話題だ。フィルムの現像に出す手間は、時間の余白という前提の話に直結する。同じ「不便な趣味」という括りで語られていても、疑うべきポイントはそれぞれ違う。
ただし、これらの研究のどれも、手入れの時間そのものが無意味だと言っているわけではない。レンズの曇りを拭く、鉱石を分類し直すという作業のあいだ、他のことを考えずに済むという実感は、贅沢な不便さという壮大な物語がなくても、単に「区切りのある小さな作業に集中している時間だった」という、もっと控えめな説明で足りるように見える。古びた色合いや傷を愛でる感覚も、時間が経ったものを時間が経ったまま受け入れているだけの話であって、大仰な美学の言葉を当てる必要はない。
不便さを贅沢と呼ぶ前に確かめておきたいのは、二つのことだ。ひとつは、自分が本当に楽しんでいるものが、摩擦そのものなのか、それとも手間を最後までやり切ったという地味な感覚なのか。もうひとつは、その選択ができること自体が、誰にでも開かれた選択なのか、それとも便利さをすでに十分に使い倒した人だけに残された余白なのか。この二つを分けて考えるだけで、収集棚の前で感じている満足感の輪郭は、もう少しはっきりする。どちらの問いも、答えが出た瞬間に趣味をやめる理由にはならない。答えが出たところで変わるのは、その趣味に添える形容詞だけである。
言葉を差し替えてみると分かること
「摩擦」や「不便益」という言葉を一旦脇に置いて、代わりに「区切りのある作業」「完了の感覚」「時間の余裕」という、いくらか地味な言葉に差し替えてみるとどうなるか。おそらく多くの場合、体験の質そのものは何も変わらない。変わるのはその体験に貼るラベルだけだ。ラベルが地味になった分だけ、それを人に語るときの高揚感は減るかもしれない。もう「脳へのスパイク」でも「不便益」でもなく、「時間に余裕があったから、区切りのある作業を最後までやり切れた」というだけの話になる。
それは物足りない結論に聞こえるかもしれない。だが、正確さと高揚感は、たいてい反比例の関係にある。研究の名前を持ち出して自分の趣味を権威づける必要も、逆にそれを恥じて隠す必要もない。ただ、道具を手にしている時間について語るときの言葉の選び方一つで、それが静かな習慣なのか、誰かに向けた誇示なのかは、意外なほどはっきり分かれる。
贅沢という言葉を手放しても、レンズを磨く時間の心地よさそのものは、たぶんどこにも行かない。手放して困るのは、その心地よさを人に語るときの、少しだけ格好のいい語彙のほうだけである。
出典
- 川上浩司 (2012)「不便の益を活用するシステムデザイン」『計測と制御』51(8), 699-703.(全文で確認)
- 京都大学附属図書館 (2015)「素数ものさしを生み出した『不便益』とは?」Lecture series 第6回 講演案内(講演者 平岡敏洋、4月21日。不便益の定義の出典).
- 庄司将晃 (2019)「道草の楽しさ、忘れてませんか?『不便だからこそいいことがある』を学問にした京大教授の話」Business Insider Japan, 4月12日.(二次情報。かすれるナビの実験)
- Kruger, Wirtz, Van Boven, Altermatt (2004). "The Effort Heuristic." Journal of Experimental Social Psychology, 40(1), 91-98.(原典は未取得。実験の細部は追試論文などの紹介による二次情報)
- Ziano, Yeung, Lee, Shi, Feldman (2023). "'The Effort Heuristic' Revisited: Mixed Results for Replications of Kruger et al. (2004)'s Experiments 1 and 2." Collabra: Psychology, 9(1), 87489.(事前登録の追試。抄録で確認)
- Norton, Mochon, Ariely (2012). "The IKEA Effect: When Labor Leads to Love." Journal of Consumer Psychology, 22(3), 453-460.(ワーキングペーパー版の全文と掲載誌版の抄録で確認)
- Mueller, Oppenheimer (2014). "The Pen Is Mightier Than the Keyboard: Advantages of Longhand Over Laptop Note Taking." Psychological Science, 25(6), 1159-1168.(2018年に訂正報告あり)
- Urry et al. (2021). "Don't Ditch the Laptop Just Yet: A Direct Replication of Mueller and Oppenheimer's (2014) Study 1 Plus Mini Meta-Analyses Across Similar Studies." Psychological Science, 32(3), 326-339.(プレプリント全文と抄録で確認)
- Bellezza, Paharia, Keinan (2017). "Conspicuous Consumption of Time: When Busyness and Lack of Leisure Time Become a Status Symbol." Journal of Consumer Research, 44(1), 118-138.(全文で確認。イタリアとの比較は研究3)
- Nguyen, Hargittai (2023). "Digital Inequality in Disconnection Practices: Voluntary Nonuse During COVID-19." Journal of Communication, 73(5), 494-510.(全文で確認)
