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非効率という贅沢——アナログの摩擦が思考を取り戻す

非効率という贅沢——アナログの摩擦が思考を取り戻す

デジタルの世界には手応えがない。万年筆、レコード、フィルムカメラ、土いじり——あえて不便さを選ぶことで何が変わるのか、注意回復理論や身体性認知の話を借りながら考えてみる。

TOMOAKI··趣味

朝、目覚まし代わりのスマートフォンに触れてから、夜、眠る直前にタイムラインをスワイプし終えるまで、指先が触れているのはほとんどガラスだけだ。スワイプすれば情報が流れ込み、タップすれば欲しいものがだいたい手に入る。この摩擦のなさは、一見すると理想的な環境に見える。

ただ、ずっとこの状態でいると、どこか地に足がついていない感覚が残る。心理学者のステファン・カプランらが提唱した「注意回復理論」では、通知への反応やメールの処理のような「直接的注意」を使い続けると、脳のその部分が消耗するとされている。逆に、揺れる木漏れ日や焚き火の炎のように、意志を必要とせず自然に意識が向くものに触れると、その消耗が緩むという。アナログな作業に妙な落ち着きを感じるのは、たぶんこのあたりに理由がある。

万年筆で書くと、何が変わるか

デジタルの文字入力は記号の配置に近い。誰が打っても同じ字形が出て、間違えれば一瞬で消せる。この修正のしやすさは便利だが、書いたものの重みも同時に軽くしている気がする。

万年筆で紙に書くと、ペン先が繊維に引っかかる感触や、インクが定着するまでのわずかなラグがある。この「抵抗」があるぶん、書く速度は落ちるが、その分だけ一文字ごとに立ち止まる時間が生まれる。近年の認知科学では、思考は脳内だけで完結するのではなく、手の動きのような身体的なプロセスと結びついているという報告もある(ノルウェー科学技術大学の研究など)。本当に「深く理解できる」かどうかまでは自分では検証しようがないが、少なくとも急いで書き飛ばせないという制約が、内容を選ぶ手間を増やしているのは体感として確かだ。

万年筆のペン先は、使い続けるうちに自分の筆記角度に合わせてわずかに削れていく。革のカバーも手の脂を吸って色が変わる。デジタルの道具が「買った瞬間が一番新しい」のに対し、こちらは時間とともに自分に馴染んでいく。この違いを気に入っている。

レコードを聴くという遠回り

ストリーミングで何億曲でも即座に呼び出せるのは、音楽の聴き方としては合理的だ。ただ、その合理性と引き換えに、曲を選ぶという行為自体が空気のように軽くなった気もする。

レコードは、ジャケットから盤を取り出し、埃を払い、針を落とすまでに何工程かかかる。この手間のおかげで、聴き始める前に「これから聴く」という意識の切り替えが自然に起きる。A面をスキップせずに聴き通すと、曲順や曲間の静けさまで含めて、作った人が意図した時間の流れにこちらが合わせることになる。1.5倍速で消費するのとは、たぶん別の体験だ。

フィルムカメラの「待つ時間」

デジタル写真は撮った瞬間に確認でき、気に入らなければ消せる。この気軽さのぶん、一枚に込める集中力は分散しやすい。

フィルムカメラには、現像が上がるまで結果が見えないという不便さがある。24枚か36枚という限られた枚数の中でシャッターを切ることは、記録というより、その瞬間をどう残すか選ぶ行為に近くなる。現像を待つ数日から数週間のあいだに、撮った時の記憶のほうが先に熟成していくのも面白い。仕上がった写真にピンぼけや光漏れが混じっていても、それをエラーとして捨てるのではなく、その時にしか起きなかった偶然として眺められるのは、フィルムならではだと思う。

土や木に触れる時間

液晶画面から流れ込む情報は視覚と論理の負荷が大きい。土をいじったり、木を削ったりする作業は、その負荷を体のほうに逃がしてくれる感覚がある。

土に含まれる特定の微生物(マイコバクテリウム・バッカエ)への曝露とセロトニンの働きを結びつける報告もあるが、これはまだ動物実験の段階が中心で、人間への効果が実証されたとまでは言えない。効果の証明としてではなく、手を汚す作業には別の種類の落ち着きがある、という程度に受け止めている。

木を鉋で削る作業も同様で、木目や刃の入り方といった、こちらの意志だけではどうにもならない物理的な条件と向き合うことになる。思い通りにいかない分だけ、うまくいったときの手応えがはっきりしている。

デジタルを手放すという話ではない

ここまで書いたことは、デジタルをやめようという話ではない。検索や連絡、スケジュール管理のような作業は、効率的であるほうがありがたい。摩擦をわざわざ持ち込みたいのは、むしろ、じっくり考えたいことや、自分と向き合う時間の方だ。

タイムパフォーマンスを追いかけて浮いたはずの時間に、また別の情報を詰め込んで、結局忙しさの質が変わっていないと感じることがある。豊かさは、効率化で生まれた隙間そのものより、自分で選んで付き合っている不便さの中にある気がしている。万年筆やレコード、フィルムカメラは、その不便さを試すための、いくつかの入り口にすぎない。